10.『バックドラフト』 (Backdraft1991

 

 とにかくロン・ハワードは、登場人物をずぶ濡れにさせずにいられない監督だ。『スプラッシュ』と『コクーン』はその最たる例だが、ハワード作品の主要人物は、いつでも水中に飛び込もうとする。

 そんなロン・ハワードが、水ではなくて、今度は火の中に飛び込む男たち、すなわち消防隊員の物語を作った。思えば、水中に飛び込むのと、炎の中に身を投げ出すのとは、まるで違うようでいて、しかしどこか似た行為のように思う。大きく息を吸い込んで、意を決して一気に飛び込むという意味では、水も火もどちらも同じではないか。それなら、『バックドラフト』では、炎の中に飛び込むことができるか否かということが、ロン・ハワード作品の主人公として不可欠な試練となるだろう。

飛び込むという点において共通しながらも、しかし相反するもの同士である水と火。だからというわけではないだろうが、『バックドラフト』は、ロン・ハワードのこれまでの作品から、ぐるりと方向転換したような物語である。これまでの柔和で温かみのある作風から一転、火災と闘う熱い男たちのドラマ。そして、消防士という職業を選んだ兄弟の、鋭い対立関係を描いた、硬派の作品となった。

 

映画は、暗い消防署の倉庫の中で、2人の少年が言い争いをしているところからスタートする。どうやら兄弟だ。彼らは消火服を身につけようとしているのだが、弟の方はそれを正しく着こなせていない。それでは大火傷を負うことになると、兄の方は弟をどやしつけている。のっけから口論が耐えず、兄の方は、悪気はないものの過剰なまでに弟に口添えし、弟は兄のそうしたところが煙たくてしかたがない。この後、最後まで繰り返される、こうした兄弟関係を一瞬のうちに見せてしまう、いつもながらの手際のよさだ。

そこに火災発生の出動合図。消防隊長は兄弟の父親である。映画はいよいよここから、重厚なリズムで開始する。響き始めるハンス・ジマーの、勇壮な行進曲風の音楽は、見事と言う他ない出来栄えで、観客の気分を一挙に巻き込み、物語への導入を助けてくれる。

兄弟の父親は、現場に連れて行こうと、弟の方を消防車に乗せる。兄はそれに不服だが、「前回はお前を連れて行ったのだから、今度は弟の番だ」というのが、父の説明である。走り出す消防車の中から喜色満面に、してやったりと兄に向けて舌を出す弟。兄はせいぜい楽しんでくるんだなと言わんばかりの笑顔で、弟に中指を立てる。すてきな流れである。

早朝とおぼしき光の中、高らかにサイレンを鳴らして、シカゴの町を消防車が行く。ちょうど『フレンチ・コネクション』(1971)の心臓破りのチェイスシーンで使われたとおぼしき、高架線下を通って行くという、ウィリアム・フリードキンへのかすかな目配せ。

やがて燃えるアパートメントが見えてくる。勇敢に出動していく消防士たち。地上から父の消火作業を見守る少年。上階から威厳たっぷりに彼にアイコンタクトを送る父。ここから先はもうロン・ハワードの面目躍如だ。少年の目線から消火活動を見上げるショットと、その少年を上から見下ろすショット。上からと下からの交互の切り返しが、絶妙のリズムを産んで、ロン・ハワードの「垂直のカメラ」を形成する。

けれど、ガツンと不吉な爆発音とともに、華麗な音楽が止み、にわかに状況が怪しくなる。このときカメラも少し揺らぐが、見下ろすショットと見上げるショットによるリズムは不変のまま。不安な表情で、落ち着きなく周囲を見回す少年。しかし、決定的な爆発が起こって、彼の足元には見間違えようのない、父親のヘルメットが転がり落ちてくる。父の死。呆然とそのヘルメットを抱えあげる少年。現場にいあわせたカメラマンがその様子を写真に収める。上昇していくカメラ・・・その時のヘルメットを抱えた少年の写真はライフ誌の表紙を飾り、少年は悲劇の主人公となる・・・。

以上、屈指のアヴァンタイトルだ。楽天的な勇猛さと男気、さらに生死が隣り合わせの消防士という職業のイメージづけ。そして急転直下、今後の兄弟関係を運命づける悲劇へと移り変わる転調の巧みさ。さまざまな要素が、まるで音楽のようにスムーズな流れで示されていく。このオープニングには、ロン・ハワードの魅惑のすべてがある。

 

映画はここから一気に20年後に飛ぶ。父親の死を目撃した弟ブライアン(ウィリアム・ボールドウィン)は、そのショックがトラウマになったのか、職業の定まらぬ自堕落な生活を送っていたが、何を思ったか消防士としての道を決意する。

一方、兄のスティーブン(カート・ラッセル)は、頑固一徹ではあるが、気概と勇猛さで名を馳せる消防隊長として、チームの信頼を集めている。

父親の死というショックは直接的には現れないし、そのことが兄弟の間で直ちに口にのぼることはない。決してあからさまに不仲なわけではないが、それが2人の間に決定的な溝を生んでいることは、容易に見てとれる。ブライアンは兄とまともに目を合わせられず、いかにも居心地が悪そうだし、スティーブンの弟に対する言葉は、どこかとげがあり、軽口を叩くときでも、その目は少しも笑っていない。

すなわち、弟ブライアンは人生と正面切って向かい合おうとはせず、兄スティーブンは、父親から受け継いだ仕事に一途にのめりこむ。それが父の死に対する彼ら兄弟の対応だったという訳である。

なお、これはきわめて興味深いキャスティングだが、この映画の冒頭で消火活動中に事故死した兄弟の父親は、兄役のカート・ラッセル自身が一人二役で演じている。あえてこのことの解釈は慎むが、あまり触れられることのない事実なので、ここで強調しておきたい。

スティーブンは、消防士になった弟ブライアンを追い出すつもりか、あるいは守ろうという愛情からか、自分の隊に引き入れて彼をしごきぬく。

『バックドラフト』にあっては、前作『バックマン家の人々』で描かれたように、「人生はジェットコースター」なんかではない。いがみあってはまた仲直りといった、人間関係の浮き沈みに、人生の本質を求めようとするのでなく、どこまでも一直線の、変わらぬ対立関係が、彼らの人生であるのだ。

これまでの作品にも、直線的な対立関係くらいはあった。善悪の戦いである『ウィロー』はもちろん、日米労使関係を描いた『ガン・ホー』などその最たるものだろう。しかし、それらはどれもハリウッド的、予定調和的な対立であって、差し迫った心理ドラマが芽生える種類のものではなかった。あくまでも、それは舞台設定上のものであり、120分の上映時間とともに解消されるべき対立なのだ。

『バックドラフト』の兄弟の確執は、そんなシンプルなものでなく、父の死という取り返しのつかない事情が間に横たわっており、これを埋める術は原則的には存在しない。それによって失ったものが大きすぎるからだ。それは魔法の優劣や話し合いなんかでは解決しない類のものなのだ。兄スティーブンは、その一本気な性格から、妻ヘレン(レベッカ・デモーネイ)との離婚を余儀なくされているし、弟ブライアンは、若い年月を無駄にすごしてしまった。すべては取り戻せなくなっているのである。

もし、この対立関係に終止符が打たれるとしたら、それは一方が一方の存在を自分の中に取り込むことだろう。すなわち両方は存在できない。つまりドラマ上、一方は死ななければならないのである。安易な予定調和を許さぬ厳しさが作品全体を貫き、これはロン・ハワード作品のこれまでの仕事で、最もユーモアを排した作品となっている。

そして、これは強調してしすぎることのないポイントだが、『バックドラフト』はロン・ハワードが初めて、現実的な人の死を描いた、初めての作品である(戦を描いたファンタジー『ウィロー』は例外とする)。この作品では、火災による犠牲者を除き、実に3人もの重要な人物が死んでしまうのだ[]

その意味でも、『バックドラフト』はロン・ハワードの経歴の中で、一種の転回点のような位置を占めている。

だがしかし、これはロン・ハワードが自身で描いた過去を、否定しようという動きなのだろうか。もちろんそうではないはずだ。「人生がジェットコースター」であるように、描かれるべき物語も、そうあらねばならないはずだ。これは、ロン・ハワードが描こうと望む人間模様が、一つではないということの証左であり、その多様さが、正しいアメリカ映画の監督としてあるべき姿と言ってよいのではないか。そして、それでもなお一貫する何かを探り当てることが、鑑賞者として求められる要件だろう。

 

さて、そうすると次に、この作品にみなぎる厳しさの感覚はどこからくるのか。それを作りだすのに、ロン・ハワードはこれまで実践してきたセオリーを打ち砕くことからはじめる。すなわち前章などでも説明した、「親密な対話は向かい合って、しかし気まずい対話は同じ方向に並んでなされる」という法則を壊すのである。

前章で細かく述べた通り、『バックマン家の人々』では、人と人をどう向かい合わせるか、ということに、細心の演出を施して作られた作品だった。けれど、『バックドラフト』ではそんな必要はない。火花を散らす男と男の関係であるが故に、真っ向勝負、向かい合うだけでよいのである。

『バックドラフト』では、親密な対話は向かい合ってするどころの騒ぎではない。ここでの視線は一直線に刺し違えるのだ。だから、この作品での兄と弟は常に向かい合っている。たまにはしんみりとした会話をしようと、兄のスティーブンが弟ブライアンの隣に、並ぶように腰を下ろしたりもする。自分はついに猛火の中に飛び込むことができなかったが、スティーブンは果敢に体を投げ出し、見事に子供を救出した消火活動の直後のことだ。だが、直ちにそれも対立的な会話に変わり、「お前は結局、火の中に飛び込めない」と、向かい合わせの言い合いに変わっていく。大手柄の後だけに、スティーブンの機嫌は上々であるものの、一方、兄のヒロイックな救出活動に対して、ブライアンは敗北感に打ちのめされているためだ。

この映画を見る観客の多くは、この兄弟が心の奥底ではやはり愛し合っていて、ときには何か温かい絆のようなものを見せてくれるのではないかと、しばしば期待するかもしれない。エピソードのいくつかは、その期待にこたえようというそぶりを一瞬見せるが、しかしロン・ハワードの演出は直ちにそれを裏切ってまわり、決して通俗的な居心地のよさに安住させてはくれない。

その最たるものは、中盤で見せるスティーブンとブライアンが、消化ホースをかついで、消防署の屋上までの階段を駆け上がる競争のシーンだ。訓練を重ねてずいぶん頼もしくなったが、まだまだ弟には負けないぜとばかりに、2人は仲間たちの声援を受けて競争をはじめてしまう。ホースを担いだまま階段を駆け上がり、先に屋上まで昇りついた方が勝ちだ。階段を上がるという構造上、ロン・ハワードの「垂直のカメラ」がここぞと活躍する、ここはきわめて商業的で、ノリのいい場面となっている。

そして、僅差で兄に勝利したブライアンのにこやかな顔と、競争中にスティーブンが負った切り傷をいたわる言葉が、兄弟の束の間の和解を予感させるが、スティーブンの容赦ない一言がそれをすべてぶち壊す。当然ながら向かい合っての言い合いとなる。こうしたスポーツマンシップの滲むエピソードなら、普通そこには仲直りの兆しが芽生えるものなのだが、そうはさせないのが『バックドラフト』のストイックさである。

1991年作品ではあるが、まだまだ80年代映画の流れを受けていて、キャッチーな主題曲と共に、消防隊のトレーニング風景を短いカットを次々につないだ編集で、MTV風に見せる[]という、楽天的で爽やかなシーンの直後にこのエピソードを置いているだけに、なおさらこの対立は厳しい印象を残す。

ことは兄弟間だけではない。スティーブンと別れた妻ヘレンとの間でも同様である。スティーブンは、消火活動中に危険度の高い任務に同行させた結果、ブライアンの親友でもある部下のティム(ジェイソン・ゲドリック)に、瀕死の重傷を負わせてしまう。そのことの責任意識と、チームのメンバーからも信望を落とした結果、何か癒しのようなものを求めて、ヘレンと幼い息子の住む家にふらりと戻ってくる。

このとき、スティーブンとヘレンは、屋根の上で並び合って話をする。このとき彼らの間には、たしかに温かい感情が流れている。先に述べた、子供を救出した後のスティーブンとブライアンが並んで腰をおろし、少し不和が解消するかに見えるシーンがあるように、『バックドラフト』では、並んで腰をおろすときに親密な会話が行われる。これも、並んでの会話は気まずいものであったこれまでのセオリーとは逆である。

それは、『バックドラフト』の人間関係が、ことのはじめから対立状態にあるからだ。『コクーン』や『バックマン家の人々』とは、そもそもの前提が逆なのである。そこではもともと親和な関係が、一時的な緊張状態に入っているという違いがあった。つまり、横に並ぶということは目と目を合わせなくてもいい。だから気まずい会話もできた、という理屈である。

けれど、もともと対立状態にある関係が目と目を合わせなくてもよい、ということは、それは一時停戦だが、けれどどこか気恥ずかしい状態を装えるということだ。そして、その並び合ったポジションは、すぐ後に訪れる緊張状態、すなわち差し向かいの状況を、あらかじめ準備するものなのだ。

しかるにその夜、スティーブンとヘレンは、夫婦のよりを戻すのだが、翌朝キッチンでスティーブンと息子が、あたかも家族の空白期間がなかったかのように、温かく朝食の準備をしている様子を、起き出してきたヘレンが目にして、鋭い対立が走る。

息子と朝食の用意をするシーンは、朝の柔かい光の中の、とても美しい場面になっている。父親役のカート・ラッセルも、ここでは穏やかで魅力たっぷりの演技を見せ、ようやくロン・ハワード的な、しかし全編中わずかにここだけの、家族的な風景を提示している。また、ラッセルの息子も、父親との久々の朝食が楽しくてしかたがない風情が、まっすぐに伝わってくる。自分が成長したことを父に見せたい一心で、何でも自分でやろうとして失敗するという、何ともいい感じの演出を施している。

そんな団欒中のスティーブンを、しかしヘレンは険しい表情で呼び寄せ、息子を混乱させるような真似はしないでほしい、夫婦関係をやり直すわけではないのだから、勘違いしてほしくない、ということを厳しく告げる。向かい合わせの一対一。これに対して、スティーブンには一言もない。

スティーブンはおとなしく息子の前に立ち、急な仕事が入ったから行かねばならない、ということを告げる。ここで夫婦の対話はミドルで、父子の対話はロングでとらえることで、修復し得ない人間関係と、決定的な別離とをそれぞれ表現する。ここでもロン・ハワードのカメラ位置は的確であるが、それ以上に、この3人それぞれの心をかけめぐる、複雑な感情の移り変わりを、同じ朝の光の中で描ききるところにもまた、この場面の非凡さがある。そして、この映画の冒頭がそうであったように、父親との訣別は朝に訪れるということも指摘しておいていいだろう。

ここでは親としての顔、夫としての顔、兄としての顔をさまざまに使い分け、しかし妻の前で絶望的に無力な一匹の男であるカート・ラッセルの演技も見事だが、女性的な優しさの中にも、妥協と馴れ合いを許さぬ、妻ヘレンを演じるレベッカ・デモーネイの氷のような美貌ぶりも、また最高の効果を見せている。

感情が変わりやすい、複雑な性格の持ち主であるスティーブンを中心に、『バックドラフト』は、ひとつのシークエンスの中で登場人物の心理関係が、次から次へと移り変わっていく。そのこともまた、この映画の見ごたえを高めている。

 

『バックドラフト』の重要な登場人物としてはもう1人、ロバート・デ・ニーロ演じるリムゲイル捜査官がいる。彼は、火災原因をつきとめるプロで、最近連続して起こっている、バックドラフト[]を伴う火災が放火であるとにらんでいる。

そのリムゲイルの助手として、スティーブンとの関係に破れ、隊を離れたブライアンが配属される。実はこれには訳があり、市の予算削減のために消防署の人員ダウンを目指す悪徳議員(J・T・ウオルシュ)が、議員にとって不利な情報を嗅ぎつけかねない、リムゲイルの動きを見張らせようというのである。この議員の秘書が、ブライアンの恋人ジェニファー(ジェニファー・ジェイソン・リー)で、そのつてで彼に声がかかったというわけだ。

有能で情熱的な正義派だが、やや威圧的なリムゲイルは、性格的に兄のスティーブンと似たところがある。それを敏感に感じ取るブライアンは、必ずしも彼に心を預けきるわけではない。しかもリムゲイルは、兄や父のことを知り、さらに父の死の事件も記憶している人物なのだ。

事件を記憶しているという意味ではもう1人。火災についての生き字引で、常習的な放火犯ロナルド(ドナルド・サザーランド)である。常習犯でありながら、プロファイリング捜査の重要な知恵袋にもなり得るという点で、同年に製作された『羊たちの沈黙』(1991)のハンニバル・レクター博士を連想させる。後のジョナサン・デミによる映画化で、アカデミー主演男優賞も獲得したアンソニー・ホプキンスのレクター博士像は、しゃべり方といい、紳士的な物腰といい、このドナルド・サザーランドの演技に酷似している。同時期の製作であるため、相互の影響関係はあり得ないが、これは不思議な映画の偶然である。

リムゲイルとロナルドの登場後すぐに、ロナルドの仮釈放を審議する場面があるが、彼の二枚舌ぶりと、その嘘を打ち砕いていくリムゲイルの対決は、サザーランドとデ・ニーロの名優同士の一騎打ちという感があり、最高に見ごたえのあるシーンとなっている。すべてにおいて対立関係を配置する『バックドラフト』は、ここでもある種の対立構造を描くわけだが、役者のレベルがワンランク上だけあって、きわめてスリリングな場面である。

この2人をキャスティングできたことで、この映画はひときわ重厚さと威厳を持つことに成功している。特にロバート・デ・ニーロの作り上げた、リムゲイルという頼りがいのあるキャラクターは、彼の多彩なキャリアの中で最も魅力的な役柄の一つではないだろうか。

 

役者の充実ぶりもさることながら、『バックドラフト』の主役が炎そのものであることに変わりはない。本物と特殊効果を巧みに組み合わせて作られたはずの炎は、時には素早く、時にはゆっくりと、まるで生き物のように動き、ほぼ完璧にコントロールされている。

上へ上へと燃え上がる炎をとらえるのに、ロン・ハワードの垂直のカメラは最高に相性がいい。その炎を鎮火させるために、何人もの隊員によって担がれた消化ホースから吹き上げられる水や、引火して垂直上に吹き飛ぶ燃料タンク、そこを駆け回る消化隊員。おそろしく複雑な画面設計と演出を施されているはずだが、火災シーンのスペクタクルがあまりにも迫力があり、出来栄えがいいために、かえってそのすごさが認識されず、損をしているロン・ハワードだ。画面に魅入らせられてしまうからだ。

そして、この作品が人間ドラマとして屈指なのは、ブライアンの最高の苦悩が、この火災アクションの真っ只中で描かれることだ。先にも記したが、「炎の中に飛び込むことができない自分」をはっきりと認識し、生まれながらの英雄である兄スティーブンに対する敗北を認めざるを得なくなった消火活動である。

その部屋の中には、取り残された子供がいる。しかし、その室内には既に炎がまわっており、いつ天井が崩れてこないとも限らないし、そもそも飛び込んだが最後、退路は完全にふさがれている。その火の中にスティーブンは、まったくためらわず飛び込んでいく。ここで、瞬時もためらわないカート・ラッセルのアクションがまたすごい。

ブライアンはしかしそれができず、兄の名を叫ぶばかりであり、絶望に満ちた彼の顔はアップでとらえられる。アップでとらえられた人物の顔は強い。行動の人であるスティーブンはロングで、感情の人であるブライアンは、多くの場合アップでその内面が表現される。ここからのシーンは、ブライアンを演じるウィリアム・ボールドウィンの俳優生命のかけどころである。

彼は半ば後にひけなくなって、自らも火の中に飛び込もうとするものの、それをあざ笑うかのように、彼の眼前に炎が吹き飛んでくる。飛び込めない。スティーブンの飛び込んだ部屋はほぼ全焼に近くなって、彼が完全に何かをあきらめたそこへ、ほとんど完璧なタイミングで、旧知の老隊員アドコックス(スコット・グレン)が救出の放水を部屋の中に注ぎ込む。それを呆然と見つめているブライアンの顔。ここで彼は思い知る。ブライアンは消化ホースを持ってくることも、救援を呼ぶこともできなかったのだ。その無力感がこの顔に痛いほど表れている。

『スプラッシュ』で見られた、海の世界に帰ろうとする人魚のダリル・ハンナを追って、水中に飛び込もうとするトム・ハンクスの逡巡。ここで水に飛び込むか飛び込まないか。そこで飛び込むのが選ばれた者だ。それとよく似た構造が、今度は炎を相手に再現されているのである。

やがて、炎上する部屋から飛び出してくるスティーブン。腰には救出に成功した子供を抱えている。ここで、強調されているのがスティーブンのヒロイズムなんかではないところに、『バックドラフト』のすばらしさがある。その部分は、彼がためらわずに飛び込んだという、その行動の迷いのなさで、既に十分に表現済みなのだ。なるほど、彼が子供を抱いて部屋から飛び出してくる。スローモーションで描かれたその姿は、荘重な音楽を伴って、最高に感動的である。しかし、カメラはその勝利感をいつまでも追いかけはせず、直ちに興味を示すのは、飛び込めなかった弟ブライアンの方だ。

そこで(アップにされた)ブライアンの顔に表れているのは、兄が助かったという安堵感でもなんでもなく、ただひたすらに兄(と自分)に対する敗北感だけである。そんなブライアンの表情と、絶妙な心の動きようを、スローモーションとクローズアップを駆使して、とことん丁寧に見せる。火災アクションそのものが、同時に心理ドラマになっているという、見事なシークエンスだ。ここはロン・ハワード演出術の面目躍如である。

さらに、その心理ドラマとしての火災アクションのクライマックスは、ラストの大火災に待っている。手の施しようのない炎と爆発、画面に隙間なく配置された炎の中、重症を負って動けなくなった兄を残して、たった一人行動を起こさなければならなくなるブライアン。

消火するためには、持ち手を失い、水流の勢いで炎の中を暴れる消火ホースをつかまえなければならない。まるで大蛇のように鎌首をもたげ、水を噴出するホース。それとまるで決闘でもするかのように、相対するブライアン。

消火ホースとブライアン。本編最大の差し向かいの構図[]である。この対立を解消することで、物語はようやく終わりに向かうことができる。これが、『バックドラフト』全編を貫くテーマである。

この消火ホースをつかむために、火中に飛び込むこと。これに成功して初めてブライアンは兄とそして父の心性を我が物にすることができる。そのことは消火ホースとブライアンの一対一の等価の切り返しによって、描かれるだろう。

 

ラストは、すっかり一人前となったブライアンが、今日もまた消火活動に出動するシーンとなる。いまや、自分自身が若い後輩に消火服の着方を指導する立場でもある。映画の冒頭は早朝の光。そして、兄弟での最初の出動も早朝だったが、ここでは間もなく暮れようとする夕焼けの光の中、消防車は行く。

ロン・ハワードのカメラは走る消防車を俯瞰からとらえ、そのまま上昇していき、シカゴ市を一望のもとに見下ろす画で終わる。今日も命をかけて人命救助を行う隊員たちがいる。そうした活動の背景の、これは一つの人間ドラマといった余韻を残していく。

これはまさにアメリカ人の物語だ。ロン・ハワードは前作『バックマン家の人々』から、アメリカ人の生活風景をまるで記録映画のように残そうとし始めているように思える。離婚、母子家庭、早すぎる結婚、失業、子育てといった、いかにも平均的アメリカ人の中流家庭を、短編小説集のようにスケッチしたのが『バックマン家の人々』だった。

『バックドラフト』では、アメリカでも最もストイックで命のかかった職業と、その精神のありようを描く。そして、それはアメリカの男たちの物語でもある。ここにきて、ロン・ハワードはアメリカ人の生活と歴史の描写を、自らのライフワークとすることに狙いを定めたようだ。

そのことは、ランドレースという合衆国史上の土地取り合戦を、移民の視点から描いた次回作、『遥かなる大地へ』でさらにはっきりする。こうして、ロン・ハワードのフィルモグラフィ全体を見渡せば、それが自ずとアメリカ合衆国の人民史そのものになるはずだ。その意味で、真の「アメリカ映画」の監督とは、ロン・ハワードを指すはずである。

人によっては、『バックドラフト』ラストの葬列の場面は、そのやや過剰な愛国的演出が鼻につくこともあるかもしれない。けれど、それは命をかけた男たちに対する、アメリカ人の儀礼心の表象として、ぜひ撮られるべきシーンだったはずだ。

全米での興行そのものは、約7800万ドル[]とやや平凡な結果ではあるが、ロサンゼルスと大阪にあるテーマパーク、ユニバーサル・スタジオの名物アトラクションの一つ[]になるほど、大衆的な興味をひきつける要素[]があり、今やロン・ハワード作品の中でも、もっとも高い知名度を誇る作品の一つといえるだろう。実際、それにふさわしい充実しきった傑作である。

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[] 本編の結末を明かすことになるが、この3人の人物は、冒頭の兄弟の父親(カート・ラッセル)、兄スティーブン(カート・ラッセル)、父の同僚であり兄弟を見守る老消防隊員アドコックス(スコット・グレン)である。

 

[] MTVとはMusic Televisionのこと。1981年に放送を開始した音楽専門局。ヒット曲のプロモーションビデオを専門に流し、マイケル・ジャクソンやマドンナなど、歌唱だけでなく華麗なパフォーマンスも売り物とするアーティストのそれと共に、80年代半ばには隆盛をきわめる。非常に短いカット割や、めまぐるしく変わる背景がおおむねの特徴。マイケル・ジャクソンの“Thriller”はジョン・ランディス、“Bad”はマーティン・スコセッシなど、大物映画監督が担当した例もある。

 マイケル・ベイやデビッド・フィンチャーら、MTVから映画入りした監督も少なくない。

1980年代のある種の映画は、サウンドトラックとのタイアップによって、主題曲を効果的に流す、ドラマとは直接関係のないCM風の、MTV的なシーンを多く盛り込んでいた。代表的な作品は『トップガン』(トニー・スコット 1986)、『ダーティ・ダンシング』(エミール・アルドリーノ 1987)、『カクテル』(ロジャー・ドナルドソン 1988)など。『フラッシュダンス』(エイドリアン・ライン 1983)、『フットルース』(ハーバート・ロス 1984)などの「音楽映画」の大ヒットに端を発している。まだMTV誕生以前ではあるが、『サタデー・ナイト・フィーバー』(ジョン・バダム 1977)にその兆しが認められる。

 

[] 「ゆっくり燃え始め、部屋の空気は徐々になくなる。火は窒息しかけるが死にはしない。その時、誰かがドアを開け空気がどっと流れ込む」(リムゲイルのセリフより 字幕翻訳:戸田奈津子)

バックドラフトとは、流れ込んだ空気によって、沈静化していた火が息を吹き返し、一気に爆風と化す、きわめて危険な現象のことである。

 

[] 青山真治は、『地獄の警備員』(黒沢清 1991)を評価するにあたって、そのしかるべきシーンを、『八月の狂詩曲』(黒澤明 1991)と同位相に在る、と見る。

 そのうえで、「但し、その在り方は遥かに何気なく、だからこそ居心地が悪い。といっても、それは例えば『太陽の帝国』や『バックドラフト』に頑固にへばりついていた(中略)あの居心地の悪さである。単に物語を語るだけでなく、単に面白さを追求するだけでもない、映画が娯楽でも芸術でもなくなる瞬間のみ起こる絶句の感触だ。今、この居心地の悪さこそが貴重である。」青山真治『われ映画を発見せり』(青土社 P.128129)と、『バックドラフト』を引き合いに出している。そして、青山の「絶句」とは『バックドラフト』のこれら、差し向かいの瞬間に到来するのではないか。

 

[] データはhttp://www.the-numbers.com/people/directors/RHOWA.phpを参照。

 

[] ユニバーサル・スタジオのアトラクションの一つ『バックドラフト』では、映画同様の火災を目の前で体感できる。炎があがり、水が噴出して、その火力のすごさを身近に感じられる。ただ、筆者が体験した印象では、熱さというよりはどちらかというと、爆発炎上の際の激しい音の方が強烈だったように思う。

 なお、ツアー前のアトラクション紹介VTRでは、ロン・ハワード自身の他、スコット・グレンも登場して、行列を作る客の気分を盛り上げてくれる。

 

[] 19931999にかけて、フジテレビ系列で放映された人気TV番組『料理の鉄人』のBGMとして、『バックドラフト』の音楽が使用され、日本での認知を高める一因となった。