11.『遥かなる大地へ』  (“Far And Away” 1992

 

 トム・クルーズとニコール・キッドマン主演。これだけで作品の魅力は保障されたようなもので、ロン・ハワード自らがこの作品を、「彼らにとってのハネムーン・プロジェクト」と語るように、1990年の12月24日に結婚したばかりの彼らにとって、翌年5月に撮影開始したこの作品は、それこそ主演の2人が舞い上がった状態で作られたものである。

 その意味で『遥かなる大地へ』は、後(2001年)に離婚の結果に終わったとはいえ、ハリウッドの頂点にたつ2人のスターの(気分的に)最良の時期をフィルムに収めたことでも、記念となるに十分な作品といえるだろう。

 もっとも、ロン・ハワードは「新婚企画」だのと冷やかすが、物語そのものの構想は、92年5月の全米公開時期より9年遡るという[]。アイディアの元は、1958年のことで、当時まだ4歳のハワードが子役としてヨーロッパに行ったときのこと。同時にこれは、彼にとって初めての飛行機だった。給油のため、アイルランドのシャノン空港に着陸したとき、整備士に「まるでこの国の人間のようだな。ここに住んだらどうだい?」と言われた経験に由来するという。

 ハワード家の祖先は、オランダ、ドイツ、イギリス、チェロキーなど、多くの土地に遡ることができるが、中にアイルランドの血も含まれる。さらに重要なことには、映画のクライマックスに描かれた、オクラホマのランド・ラッシュに実際に参加した者がおり、写真も残っているそうで、これがハワードを痛く刺激した。

 もうひとつは、1980年か81年に、たまたまアイルランドの伝統音楽のコンサートに行ったこと。その時に聴いた男女の悲恋を描いた歌が印象に残っており、それも物語のヒントになったとのことだ。

 すなわちアイルランド移民の悲恋と、ランド・ラッシュのスペクタクル。この2つの要素がひとつになった筋書きが、『遥かなる大地へ』である。

 

 原案はロン・ハワード自身によるが、脚本を担当したのは『ウィロー』のボブ・ドルマン。2人は『ウィロー』の製作の合間をみて、その時点では単に「アイリッシュ・ストーリー」と呼んでいた、『遥かなる大地へ』のシナリオを練っていたという。そして、『ウィロー』の製作が一段落するや否や、製作パートナーのブライアン・グレイザーを、実際にアイルランドまでひっぱって行って、この企画をアピールした。いかにハワードがこの作品にこだわっていたかを示す話だが、コスチューム物で、しかもロマンチックにすぎる内容から、グレイザーは着手にやや難色を示す。とはいえ、ハワードの説得が功を奏したか、『遥かなる大地へ』の製作は、ついにゴーサインが出る。

 ヒロインには、ニコール・キッドマンが当初からハワードの念頭にあったらしい。しかし、その時点で彼はキッドマンとクルーズが恋愛関係にあることを知らなかったという[]

 しかし、トム・クルーズがこの作品に名乗りをあげたことで、製作は急速に弾みがつく。あまり知られていないが、トム・クルーズの本名はトーマス・マスポース・クルーズ4世。曽祖父をアイルランド移民に持つ、アイルランド系アメリカ人である[]。クルーズにとっても、自分の出自と重ねたこの企画に関心を寄せたとしても不思議はない。

 また、どこまでそうした思惑があったのか、本人たち以外には推し量る術はないが、新婚のクルーズ夫妻としては、同じ作品の主演カップルであれば、生活がすれ違う心配もなく、行動を共にできるというメリットもあった。実際、クルーズは互いの多忙すぎる生活のすれ違いから、前妻ミミ・ロジャーズとの結婚も破局を迎えたとも噂される[]

 連日ゴシップ誌をにぎわす、ハリウッドで最もホットなカップルの共演という宣伝効果も十分考慮にいれたに違いなく、ともあれロン・ハワードが構想したアイルランド移民のロマンスは、これ以上望むべくもない、最高のキャストを手に入れたわけである。

 

物語は19世紀末のアイルランド。地主の横暴に苦しめられる農民たち。厳しい地代の取立ての混乱で、農夫ジョセフ(トム・クルーズ)の父は事故死する。その葬儀のさなかにも、地主の子分たちはあざ笑うかのようにジョセフの家に火を放ち、いやがらせは加速する一方となる。

ついに怒りが頂点に達したジョセフは復讐を決意する。はたして本当に実用の役に立つのか怪しい古ぼけたライフルを手にし、地主を射殺しようと地主宅に向かうが、はたして失敗。結局暴発のために負傷して、復讐相手の邸宅で介抱を受けるという間抜けきわまりない結果となる。そして、その地主の令嬢シャノン・クリスティを演じるのが、ニコール・キッドマンという訳である。

シャノンは堅苦しい地主の生活がイヤでたまらず、自らアメリカ好きの「モダンガール」と称し、家を出たがっている。クリスティ家の財産を管理するスティーブン(トーマス・ギブソン)と婚約させられそうになっているが、彼のお高くとまったスノッブぶりが何より嫌いである。

クリスティ家で快方されていたジョセフは、スティーブンこそ彼の家に火を放った、まさにその相手と見るや、直ちに襲いかかるがすぐに取り押さえられ、翌朝の決闘をするはめになる。

その夜、シャノンはジョセフの部屋に忍び込み、アメリカ行きの話をもちかける。自分は家出をして、アメリカに向かうつもりだ。というのも、アメリカでは早い者勝ちで、タダで土地をもらえるようになっている。ついては世慣れた人間の力が必要だから、自分の召使として一緒に来るように。さもなければ決闘で殺されるのがオチだろう、という理屈である。ジョセフはたわ言だととりあえず彼女を追い返してしまい、翌朝とうとう深い霧の中でスティーブンと決闘することになる。

ここまでの描写でシャノンの父クリスティ氏(ロバート・プロスキー)が、実は話のわかる好々爺で、スティーブンこそが、非人道的な悪人であることが説明されている。決闘の立会いにのぞむ際にも、クリスティ氏は何をやっても間が抜けているジョセフに対して同情的だが、この決闘を中断させ、彼の命を救うのは、唐突に馬車でやってくるシャノンである。

アメリカに向かうからバカなことはやめてすぐに乗れと、まるですべりこむようにフレームインするニコール・キッドマンの馬車。クルーズは一瞬ためらいこそすれ、そちらの方にこそ未来があると判断するや、疾走する馬車に追いすがり、それに飛び乗って深い霧の中に消えていく。まさに胸躍る瞬間で、ここからいよいよ2人の旅のはじまりである。

 

ロン・ハワードがこの映画で描こうとするカップルにイメージしたのは、フランク・キャプラの『或る夜の出来事』(1934)のクローデット・コルベールとクラーク・ゲイブルだそうである。

なるほど、基本的な物語の構成はよく似ている。ヒロインが金持ちの親の束縛をきらって、家出してしまうこと。そして、彼女と行動を共にする男は、『或る夜の出来事』のクラーク・ゲイブルが、しがない新聞コラムニストであるように、『遥かなる大地へ』のトム・クルーズが単なる農夫で、どちらも身分違いのロマンスを描いているということである。

鼻っ柱の強い女と、反感を感じながらもあれこれ彼女の世話を焼かずにいられない男。はじめは反りが合わない2人にとって、いつしか互いがかけがえのない存在となっていく、という大筋において、『遥かなる大地へ』は確かに『或る夜の出来事』のバリエーションだ。

けれど、キャプラを想起させるのはせいぜいそこまでで、ロン・ハワードが本気で『或る夜の出来事』をやるつもりであるならば、もっとそれらしい目配せはやはり必要だろう。

たとえば、アメリカにわたったジョセフとシャノンは、売春婦の巣窟となっている安宿で兄妹を偽って、同じ部屋で暮らすことになる。けれど、男女が一つ部屋で寝るということについてのセックスにまつわる、しかるべき葛藤でありドラマがない。

同じシチュエーションで、『或る夜の出来事』のコルベールとゲイブルなら、互いのベッドの間に張ったロープにシーツを吊るし、「こちらへは入ってこないように」とルールを作る。有名な「ジェリコの壁」のエピソードである。

『遥かなる大地へ』のクルーズとキッドマンには、そうしたエロチックなユーモアがない。どっちがベッドで寝るかといった程度のやりとりこそあるが、「ヘンな気は起こさないように」と釘をさすことさえもしていない。「ジェリコの壁」をズバリ再現すべきだとは言わないが、それを連想させる映画的な工夫はやはり必要だったのではないか。仮にもキャプラを口にするからには。

それがないのは、やはり演出上の「ぬかり」と言わざるを得ない。そもそも設定上、キットマン演じるシャノンは、とにかく性的好奇心満々の女性として描かれている。たとえば、最初にジョセフがクリスティ家に押し入ったものの、銃が暴発して逆に快方されることになったとき、気を失ったジョセフは全裸でベッドに寝かせられているが、そのとき彼の股間は洗面器で隠されている。こっそりそこに忍び込んだシャノンは、その洗面器をそっとどかせて、ジョセフの股間を眺めてため息ついたりするのである。

あるいは、その同じ部屋をついたてで仕切ったこちらと向こうで、2人がそれぞれ着替えをするシーンがあるが、ジョセフが服を脱ぐところを、シャノンはついたての隙間から覗き見をしたりするような、要するに男の裸が大好きな、好色な女性である。

そんな彼女が夜、男と一つ部屋で寝ることについて、ひとしきりトラブルのないはずがない。「ジェリコの壁」にあたるギャグのひとつもないせいで、こうしたシャノンの描写そのものが無意味にみえるし、話の緊張感を下げてしまってもいる。

概してロン・ハワードは性的なユーモアが不得手だ。『バックドラフト』でも同様で、消防車の上でウィリアム・ボールドウィンとジェニファー・ジェイソン・リーがセックスを始めたところ、その最中に出動指令が出て消防車ごと発進してしまう。現場に到着して消火のためホースを繰り出したら、それにブラジャーがからまっていたため、みつかってしまい、車上の2人が半裸で苦笑するというオチ。物語上ほとんど必然性のないギャグとして、これは残念ながらから回ったという他ない。

『バックマン家の人々』でも、ダイアン・ウィーストが家族全員に電動ペニスの所持がバレてしまうが、作品全体の「品」というものを考えた場合、やはり他の表現はなかったのだろうか、と思わないではない。ここではスティーブ・マーチンの達者な芸が救っているが、概して、ロン・ハワードのセクシャルなギャグは不器用で、キャプラの域には到底届いておらず、現在に至るまでそれは克服できていないように思う。

話が横に逸れたが、『遥かなる大地へ』の大枠の設定が『或る夜の出来事』を受け継ぎつつも、そのオマージュのあり方は中途半端に終わったことは否めない。しかしその一方で、ロン・ハワードがこの作品で参照し、召喚しようとした名前は、間違いなくジョン・フォードであるはずだ。実際、『遥かなる大地へ』はキャプラ、というよりもはるかに濃厚にフォードの記憶に満ちている。

 

淀川長治によると、サイレント期のジョン・フォードは、西部劇というよりは人情劇であって、当時は「ウェスタン」とは言わず、「西部人情劇」と呼んだという。すなわち、アクションの中にも、どこかロマンチックで哀しい恋の話が入っているとのことである[]

この解説に則するならば、広大な大地を舞台に、身分違いの男女の恋を背景に持つ『遥かなる大地へ』は、まさしく「西部人情劇」であることがわかる。もちろんアイルランド人の物語であるこの映画から、アイルランド気質を描いたジョン・フォードをイメージするのは、ある意味自然かもしれない。だがそれにしてもここは、ロン・ハワードがいかに正しく、サイレント期のフォードを継承し、把握しているかの事例として指摘しておきたい。

そして『遥かなる大地へ』といえば、その最大の見せ場はオクラホマの大平原に繰り広げられる、ランド・ラッシュのシーン。

ランド・ラッシュとは、アメリカ合衆国史の教科書には、ほとんど登場することのないエピソードだが、区画取りされた各エリアの土地を目指し、号砲と共に一斉にスタート。自分が望むエリアに一番乗りした者は、その土地をタダでもらえるという大統領令である。

先住民の土地を収奪し、タダで土地を与えることによって入植させ、その土地に対する既得権を主張するというのが狙いであるが、その政治的な善悪はさておき、大平原に無数の馬車がひしめきあい、それらが一斉に疾走するという、映画のスペクタクルとしてはもってこいの題材だ。

そして、ランド・ラッシュといえば、その最初期にして最高の成果がジョン・フォードのサイレント期の傑作『三悪人』(1926)のクライマックスをおいて他にない。

このランド・ラッシュは、オクラホマを舞台にした『遥かなる大地へ』に対し、ダコタでのものではあるが、フォードは大平原に無数の人馬を集めた大レースを、見事にフィルムに収めている。

画面を埋め尽くし、砂煙をあげて疾走する馬車や馬。勢いあまって脱輪し、倒壊する馬車。その多くは何人もの妻子や家財道具一切も載せている。自転車で走っている者も、馬がないので走っている者もある。

ただ、こうしたシーンは、予算を使ってしかるべきエキストラさえそろえ、編集をしくじらなければ、自ずと世紀の大シーンになるのだろうと思う。実際、『三悪人』のランド・ラッシュは、80年以上も前の製作にかかわらず、すっかり完成されたシーンである。

だから、フォードは劇映画の監督として、ただ無数の馬車を走らせるだけで観客の度肝を抜いて満足するようなことはしない。フォードの天才は、この大レースの真っ只中に映画史上でも屈指のアクションを用意するのである。

それは、家族連れの馬車から一人の赤ん坊が放り出されることにはじまる。赤ん坊の父母は、レースに夢中で子供が落ちたことに気がつかない。何もわからず、大平原のど真ん中に、ぽつんと座り込んでいる赤ん坊。その赤ん坊のところに、画面の向こうからは、何頭もの馬が激走してくる。あとわずかで、無数の馬の下敷きになると思われた、間一髪のその刹那、画面左から魔法のように大人の手が伸びてきて、赤ん坊を救出する。今の目で見ても驚異的なそのスタントに、当時の観客がいかにスリルを感じたか想像にかたくない。

なお、ランド・ラッシュを描いた作品としては、もう1本『シマロン』(1931ウェズリー・ラッグルズ)があげられる。(こちらは『遥かなる大地へ』と同じ、オクラホマでのランド・ラッシュである。主人公が単独で乗り込む、低木が並び小川の流れる土地の様子が、『遥かなる大地へ』にそっくりで、参照点としては『シマロン』[]との方が、より近いかもしれない)アカデミー作品賞も獲得したこの作品の冒頭に用意されたランド・ラッシュは、確かに壮大な見ものだが、『三悪人』と比べて、何かがより付け加わったとはいえないだろう。『シマロン』は1961年にアンソニー・マンによってリメイクされているが、これもまた同様である。

では、『遥かなる大地へ』のランド・ラッシュ。さすがにこちらは大掛かりである。『三悪人』や『シマロン』になくて、『遥かなる大地へ』にあるものは3つある。

ひとつめは空撮だ。『三悪人』にも高いところからとらえたショットは存在するが、これは高台にカメラを据えただけのもので、『遥かなる大地へ』では、ヘリコプターから撮った、上空からの移動撮影が可能になっている。ステディカムを含む9台のカメラを用意し、1台はヘリコプターからの撮影に使用する[]この作品での表現は、さすがに見せ方のバリエーションが群を抜く。

35ミリを70ミリにブローアップするタイプでなく、『ライアンの娘』(1970 デビッド・リーン)で使われて以来となる、本物の70ミリフィルム[]を使った大きな構図の画面もおおいに効果を高めている。

もうひとつはスローモーション。サム・ペキンパーを真っ先に連想する通り、決定的なアクシデントの瞬間に映画の時間を引き延ばすこと。これを、ロン・ハワードはためらわずに用い、馬車の転倒や破壊といった瞬間を効率よくおさえている。

そうはいっても、これら2つは単に技術と予算の問題だけのことである。最後のひとつ、これだけは、『三悪人』が『遥かなる大地へ』におよばないもので、それはやはりトム・クルーズとニコール・キッドマンという華やかなスターの存在である。見るべきスターが揺るぎなくそこにあり、光り輝いている。

無数の馬車が大暴走する中を、一頭の馬を駆ったトム・クルーズがごぼう抜きしていくシーンの魅惑はこたえようがない。何より素晴らしいのは、見事な青空の中(そう、このシーンでは、抜けるような青空を見ることができる)、ブルーのドレスに身を包んだニコール・キッドマンが、全力疾走する馬上から邪魔になった帽子を脱ぎ、後ろに放り投げる瞬間。このとき、キッドマンは確かにうっすらと笑顔を浮かべていて、レースを(そしておそらくは本番の演技を)間違いなく楽しんでいる。最高に胸締め付けられる瞬間だ。

躍動と一瞬の静止。見るべきものが確実に視界に入る画面のメリハリ。ロン・ハワードのこの演出術があるが故に、このシーンはただの一過性のスペクタクルでは終わらなくなっている。映画にはクライマックスというものがあるわけだが、2人の主人公の恋路の果てのランド・ラッシュという、これほど「クライマックス」という言葉にふさわしいお膳立てはない。

 

さて、物語がランド・ラッシュに向かう前へと話を戻す。シャノンとの身分違いの恋に破れたジョセフは、彼女から身を引くことを決意する。

シャノンを妹と偽って、2人で娼館に住むようになった後、腕っぷしの強さ(と、眠れぬ夜の欲望解消のため)から、酒場の賭けボクシングの無敵のホープとして、すっかり成り上がったジョセフは、拳闘の賞金稼ぎで日銭を稼ぐようになっていた。

 その強さを見込んだ町の立役者が、ジョセフに大金を賭けて強敵との試合をけしかけるのだが、その試合の最中にシャノンにちょっかいを出す。それに動揺し、スキのできたジョセフは、叩きのめされて試合に負ける。賭け金を不意にされたうえ、女も言うことをきかないとあっては、この街にいさせるわけにはいかない。ジョセフとシャノンは居場所を失い、雪の中を叩き出されてしまう。

 何日も凍えてさまよったあげくに忍び込んだ無人の屋敷で、二人は束の間の愛を確認しあうが、折しも戻ってきた家人に撃たれ、シャノンは重症を負う。傷ついた彼女を抱きかかえたジョセフは、アイルランドからはるばる彼女を探しに来た[]両親と、その許婚の屋敷に彼女を預け、自分は身をひいていくのである。

 シャノンと別れ、ランド・ラッシュでタダの土地を手に入れようという野心を失ったジョセフは、大陸横断鉄道敷設の作業者として働いている。

 なお大陸横断鉄道は、1869年には完成されている[10]。1892〜93年を舞台とするこの作品の頃は、大陸間はすでに鉄道で結ばれているから、おそらくジョセフが従事しているのは、この頃発展の一途をたどった鉄道網建設のひとつだろう。

 ここで、『遥かなる大地へ』のジョン・フォードへの記憶が『三悪人』にとどまらないことを見出す。この大陸横断鉄道建設を描いた作品として、真っ先に連想できるのは、やはりフォードのサイレント期を代表する超大作『アイアン・ホース』(1924)である。弱冠29歳のフォードが、一挙にその名を高めた重要作。翌々年の『三悪人』と合わせて、開拓期のアメリカ2部作といっていいだろう。

 『遥かなる大地へ』のジョセフ、トム・クルーズは鉄道敷設工事にいったんは携わるが、自分の本当の夢が土地であることに気づき、荷物をまとめて大平原に乗り出していく。目的はランド・ラッシュだ。ここで広大な大地へと向かっていく、トム・クルーズの姿の魅力は筆舌に尽くしがたく、画面いっぱいに広がる青空とともに、映画が精一杯に輝いている。

 そして何よりも、大陸横断鉄道をなめて、ランド・ラッシュへという主人公の軌跡が、『アイアン・ホース』から『三悪人』へという、結果的にかもしれないとはいえ、ジョン・フォードへの目配せとして、ロン・ハワードの言いようのない映画愛を感じさせられる。アメリカ映画の作家として、誇られるべきはやはりフォードなのだ。

また、もうひとつあげておくならば、ボクシングに精を出すジョセフという設定は、同じく元ボクサーを主人公とする、ジョン・フォードの『静かなる男』(1952)も連想させずにはおかない。ここで元ボクサーを演じたジョン・ウェインは、試合中の事故で対戦相手を死に至らせた後悔から、拳を封印しているが、そのへんの感覚はごくわずかながら、「ケンカはきらいだ」とつぶやくジョセフに継承されているともいえるだろう(もっとも、ジョセフはそう口で言っているだけで、ケンカっ早いことこの上ないのだが)。

もちろん、合うようで合わない2人の男女が、じれったい紆余曲折のあげくに、ようやく結ばれるという物語の基本構造にも共通項が見出せるだろう。

それに、『静かなる男』がいかにもアメリカ的な「ほら話」(つまり、本気で自分に嫁入りしようとしないヒロイン、モーリン・オハラの首根っこをつかまえて、延々と何マイルもの道のりをジョン・ウェインがひきずって歩くという、あり得ないクライマックス)であることも共通項だ。『遥かなる大地へ』も、いったん死んだ者が生き返るという、荒唐無稽な「ほら話」の形をとっている。

そして、この「ほら」を語るためにロン・ハワードは、得意の「垂直のカメラ」を活用する。昇天しようとする魂。カメラは死んだ(はずの)者の体を上からとらえ、まるで魂が天にのぼっていくように、ふらふらと揺れ動きながら上昇していく。そのカメラのフレームが、死体(?)からはずれ、しばしためらった後、もう一度それはふらふらと、肉体の方にかえっていき、死んだと思われた肉体は再び目覚めるのである[11]

こうしたアイルランド民話的な、「ほら話」の観点も取り込み、『遥かなる大地へ』はジョン・フォード的なもの、フォードの中のアイルランド的なものを、抽出するのだ。

 

『遥かなる大地へ』は、このようにロン・ハワード作品の中でも、最も彼の愛するであろう映画の記憶に基づいて作られている。アメリカ映画、ひいてはアメリカの物語を作るからには、アメリカ映画の最良のものを導入するという、ロン・ハワードのまったく正しい映画観をここに見るように思う。

『バックマン家の人々』あたりから、さまざまなシーンでの「アメリカの物語」を語り始めたロン・ハワードは、『バックドラフト』を経て、いよいよアメリカ史の中の一断面を切り取った。それは移民と開拓。そして、移民としてアメリカ大陸にやって来た者たちが、ひとたび身分や階級をリセットしたところから、アメリカ人として始める恋である。

フランク・キャプラをきっかけに、ジョン・フォードへのオマージュ。最良のアメリカの物語を語るために、最良のアメリカ映画の監督を設定する。ロン・ハワードが真の「アメリカ映画の継承者」と見る由縁である。

そして、繰り返しになるが、現在において最高のアメリカ映画の大スターを、その主演に招くこと。『遥かなる大地へ』は、映画を、何よりアメリカ映画を愛する者にとって、抜きん出た魅力をもった作品として、ロン・ハワード作品の中でも、ひときわ素敵な一作のはずだ。

ただし、残念ながらこの作品は全米での興収は5890万ドル[12]と、トム・クルーズ主演作としても、ロン・ハワード監督作としても、決して興行に恵まれた作品とはならなかった。マーケティング的な分析は本稿の分ではないが、「批評に殺された」とロン・ハワードが語るとおり、本稿がこれまで記述してきた魅力が初公開当時の批評家(または観客)に理解されず、おそらくは新婚スターたちによる、予定調和的で大甘な安手のロマンスもの程度にしか解されなかったのだろうと思う。

もちろん、興行や公開当時の評価がどうあれ、『遥かなる大地へ』の映画としての出来ばえと魅力は屈指のものと信じるし、アメリカ大陸の広大さを存分に感じ、そこを生き生きと躍動する主人公たちの冒険と、ロマンスに満ちたおとぎ話として、その輝きは永遠に失われることはないだろう。

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[] 以下、作品の成立過程や情報は、特に断りのない限り、Gray前掲書P.156161Emery前掲書P.6867を参照した。

 

[] ここは資料によってやや食い違いがある。

PremiereUS版 1992 June掲載のChristpher ConnellyCloser Than Ever in Ron Howards Far And Away’”によると、『バックドラフト』の撮影現場に、トム・クルーズから直接ロン・ハワードに電話が入ったという。

「私(ハワード)は言った。「電話が入った」するとカート・ラッセルは、「そうかい。で、誰からだ」カートと私はとても馬が合った。一日中、順調に仕事をしていたんだ。「トム・クルーズだぞ。どうだ。」「ほおう、トム・クルーズか。よし、だったら全員10分休憩だ!」楽しかったよ。それで私はトムと話した。彼が言うには「このシナリオが気に入った! まるで奇跡だ!」と。それで私は「そんな言葉を聞けてふるえる思いだ」と言うと、彼は「ニコール・キッドマンという女優は知ってるかい?」と言う。そこでブライアン(グレイザー)に電話をした。「やったぞ。トムが気に入ってくれた。で、彼はニコール・キッドマンのことを口にしていたんだけど・・・」するとブライアンは「新聞を読めよ。彼らは夫婦だよ!」」

 

[] ウェンズリー・クラークソン『誰も書かなかったトム・クルーズ』(矢崎由紀子・訳 集英社 1996)参照。

アイルランドからディロン・ヘンリー・マスポースがアメリカ(ケンタッキー州ルイビル)に渡ってきたのが1858年。その地で、伴侶メリー・クルーズを得るが、ディロンは間もなく病死する。その後、メリーは同じアイルランド出身のオマラと再婚。このオマラとメリーとの間に生まれた、トーマス・クルーズ・マポーザーが、後のトム・クルーズの曽祖父である。

その他、トム・クルーズの出自については、同書P.1623に詳しい。

 

[] クラークソン前掲書参照。なお、この本の原題は“Tom Cruise-Unauthorized”。非公式のスター本の常として、本書の信憑性は必ずしも高くないことは注意しておきたい。ただし、この本はクルーズに対して(アンオーソライズにしては珍しく)、概して好意的な書き方がされている。

 

[] 『三悪人』DVD(アイ・ヴィー・シー)映像特典。「淀川長治オリジナル解説映像」より。

 

[] このランド・ラッシュのシーンを撮るにあたって、ロン・ハワードが詳細に研究し、コンテを練る素材としたのは、『シマロン』(1931)の他、『ベン・ハー』(ウィリアム・ワイラー 1959)と『マッド・マックス2』(ジョージ・ミラー 1981)である。Gray前掲書P.159

 

[] 『遥かなる大地へ』劇場用パンフレット(1992)参照。なおこれによると、ランド・ラッシュのシーンは、1991528日にモンタナ州ビリングズで、エキストラ600人、馬400頭、馬車200台を配して行われたという。カメラは9台。1台はヘリコプター、数台が地面に埋め込まれ、他にステディカムが用意された。

 

[] 新しく開発されたパナビジョン70カメラとイーストマン・コダックの65ミリ・フィルムが使用されている。前掲の劇場用パンフレット参照。

 

[]  というより、結局クリスティ家の邸宅も、搾取され怒りに駆られた農夫たちに焼き討ちにあい、居場所を失って合衆国に渡ってきたのである。

 

[10] 猿谷要『物語 アメリカの歴史』(中公新書 1991)「カリフォルニアから約20万ドルもの大金を携えてワシントンの議会にやってきたコリス・ハンティントンは、鞄を空にしてカリフォルニアに帰った。しかし彼の手には、大陸横断鉄道建設の許可状が握られていたのだ。/こうして設立された会社が、政府からの莫大な交付金や沿線土地の下付けを背に鉄道建設の競争をしながら、とうとう1869年に大陸横断鉄道を完成させる。」(P.107

 

[11] 一度死んだ者が甦るというこの物語は、アメリカ版アイルランド民謡「フィネガンズ・ウェイク」を下敷きにしている。

結城英雄『ジョイスを読む』(集英社新書 2004)「「フィネガンズ・ウェイク」は「フィネガンの通夜/目覚め」の意で、梯子から落ちて死んだ煉瓦職人のフィネガンが、通夜の折、仲間にウィスキー(ゲール語で「生命の水」の意)をかけられ目覚める」(P148149)。

ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の題名は、この民謡を元にしている。

 

[12] データはhttp://www.the-numbers.com/people/directors/RHOWA.phpによる。

なお、『遥かなる大地へ』の興収は、ロン・ハワード作品としてはともかく、トム・クルーズ主演作品としては『トップ・ガン』(1986 トニー・スコット)でブレイク以後、『ハスラー2』(1986 マーティン・スコセッシ)と『アイズ・ワイド・シャット』(1999 スタンリー・キューブリック)の2本を除いて、最も低い数値となった(『マグノリア』(1999 ポール・トマス・アンダースン)は助演)。

裏を返すと、トム・クルーズは『遥かなる大地へ』以後は、本稿執筆時点での最新作『M:@:V』(2006 JJ・エイブラムス)に至るまで、アート作品である『アイズ・ワイド・シャット』を例外として、1億ドルを下回った作品は1本もない。まさに屈指のマネー・メイキング・スターである。