12.『ザ・ペーパー』  (“The Paper”  1994

 

ロン・ハワードがこれまでほとんど描いてこなかったもののひとつに、アフリカ系アメリカ人の存在がある。少なくとも現時点(『ダ・ヴィンチ・コード』)に至るまで、ある程度重要な役割で登場した、いわゆる黒人俳優は、わずかに『身代金』の敏腕捜査官を演じたデルロイ・リンドを数えるのみ。その他にはほとんどいなかったといっていい。

 このことは、これだけ群像劇を撮ってきたロン・ハワードにしてみたら、意外なことのように思える。もちろん『コクーン』で描かれた老人ホームに黒人がいないわけではないし、『バックドラフト』の消防隊員や、『ラブINニューヨーク』の娼婦たちの中でも皆無ではない。しかし、その印象はきわめて希薄だし、画面の表層に黒人をはじめとする、いわゆるマイノリティが登場することはほとんどなかった。その意味でロン・ハワードは、とことん白人の映画を撮り続けていることは間違いないと思う。

もちろん、『ガン・ホー』で日本人を描いたという例外はある。しかし、そこでの日本人の存在は、ある意味エイリアンと同じだった。日本人は異星からやってきたE.T.のようなもので、彼らとの融和を図る物語というのが、『ガン・ホー』のスタンスと言えるだろう。

すなわち、ハワード作品からは、「人種」の相違というものは一切隠蔽されている。急いでつけ加えておくが、これは非難ではない。それはあくまでも作家としての選択であり、その指摘以上の意思はないことは強調しておくけれど、ロン・ハワードの画面が、きわめて均質な白人空間のみを形成していることは事実である。

 スティーブン・スピルバーグもそうだった。『ジョーズ』(1975)から『未知との遭遇』(1977)、『E.T.(1982)といった、白人のサバービア(郊外)を描いてきた時期のスピルバーグの映像にも、マイノリティ民族が存在する余地はない。しかし、その状況を一変させたのが『カラーパープル』(1985)だった。いわゆる「娯楽映画」のヒットメーカーとして、80年代アメリカ映画の覇権をほぼ手中におさめていたスピルバーグが、突然ドラマ作家として、黒人俳優だけを使った人種映画を作り上げたのだ。

 以後、スピルバーグは『シンドラーのリスト』(1993)、『アミスタッド』(1997)、『ミュンヘン』(2005)など、非常に鋭い人種的テーマを扱い、そのフィルモグラフィに社会派的な刻印をも刻みつつある。その嚆矢となった『カラーパープル』は、『ジョーズ』での実質的ブレイクを起点[]とするならば、スピルバーグのちょうど10年目の作品だった。

 そのやり方にあてはめて、「監督」ロン・ハワードの映画界への事実上のブレイクが『スプラッシュ』とすれば、この『ザ・ペーパー』は、そのちょうど10年後の作品である。ここで何らかの形でハワードが変貌するか否かというのは、今後のキャリアを占うことでもあるはずだ。

 というのも、本稿ではこれまでロン・ハワードの作品を、フランク・キャプラやジョン・フォードなど、アメリカ映画の古典的な作家の直系となぞらえて論じ続けてきたが、それ以前に彼はルーカス/スピルバーグの影響圏から離れられぬ宿命の世代だからである。

 『スプラッシュ』や『コクーン』(ある意味『ガン・ホー』も)が、スピルバーグの、特に『E.T.』の重力圏で作られていることは既に触れてきた通りだし、『ウィロー』がルーカス傘下で製作されたことは、改めて確認するまでもない。

 これはしかし、ある程度映画史に意識的な、80年代はじめにデビューした映画作家なら避けられぬことであり、その代表的な3人をロン・ハワードを筆頭として、ロバート・ゼメキス、ジェームズ・キャメロンとし、これを仮に「84年の世代」[]と呼ぶことを提案したいが、それに関する詳細は稿を改めたいと思う。

 ともあれ、キャリア・メイキングの観点から見ると、『ザ・ペーパー』の位置づけはロン・ハワードにとって、決して小さくないはずなのだが、意外なことにむしろ規模を縮小して作品を提示してきた。その結果、『ザ・ペーパー』は、これまでのハワードの総復習ともいうべき作品となった。

 

 新聞社“サン”の1日を描く『ザ・ペーパー』は、ハワードとしては既に完全に自分の個性として身に着けた感のある「群像劇」である。そうした作品の常として、これまでは旧知のローウェル・ガンツとババルー・マンデルを、脚本チームとして招いてきたのだが、今回はデビッド・コープが当たっている。

 このデビッド・コープをロン・ハワードと引き合わせたのは、またしてもスティーブン・スピルバーグだという。コープはすでに『ジュラシック・パーク』(1993)のシナリオを担当して、スピルバーグとの仕事で成功を収めている。これ以後の仕事として、『ミッション・インポッシブル』(1996 ブライアン・デ・パルマ)、『スパイダーマン』(2002 サム・ライミ)、『宇宙戦争』(2005 スティーブン・スピルバーグ)などを手がけており、これらの作品の充実ぶりを見るだけで、非常に達者なライターであることがわかる。

 そのコープは、本業がジャーナリストの実兄スティーブン・コープと共に、新聞社を舞台にした映画の脚本をハワードに提出した。

 ハワードは、もしも映画監督になれなかったら、ジャーナリストの道も真剣に考えていたと語り、高校時代は学生新聞に参加していて、元来非常に興味のあった分野だという。それに舞台は『スプラッシュ』以来のマンハッタン。ハワードにとっては自宅に近く、家族と過ごすのに十分な時間を持てることも好都合だったそうだ。そこで、『ザ・ペーパー』の製作をすぐに同意する。

 

 『ザ・ペーパー』は、2人組の黒人少年が深夜のハーレムを散歩していると、思いがけず白人死体を発見してしまうことからはじまる。2人組の黒人が、不意に殺人事件に巻き込まれてしまうこと、これは『ラブINニューヨーク』とほぼ同じ導入だ。『ザ・ペーパー』は、ハワードの「総復習」と先述したが、そのことはそうした点にも思いがけず表れている。

 死体現場に居合わせてしまった不運から、この2人の黒人少年は誤認逮捕される。さて、この逮捕を「逮捕」として報道するべきか、「その逮捕は疑問」として報道するかの、ジャーナリスティックな葛藤が、『ザ・ペーパー』を貫く物語の起動動機となる。

 この事件を導入として、マイケル・キートン演じる新聞記者ヘンリーの24時間がこの映画の物語である。24時間の間にとにかくありとあらゆるトラブルが主人公に降りかかり、それを必死に処理していく物語という点において、『ザ・ペーパー』は後にイマジン・エンターテインメントで製作する大ヒットテレビシリーズ『24』[]の構成を先取りしている。なお、マイケル・キートンは『ラブINニューヨーク』、『ガン・ホー』に続く、ハワード作品3度目の登場だ。

 朝が来る(ここから翌朝同時刻までが、この映画の物語である)。ヘンリーは仕事で今日も朝帰り。妻マーサ(マリサ・トメイ)が目覚めると、その隣で着替えもせずに眠っている。この朝のシーンで、ハワードはいつもながらの手際で、彼らの状況をあっという間に説明してしまう。

 すなわち、まもなく彼らの第一子が生まれるらしいこと。いっぱいに張り詰めたマーサの腹が(この腹の巨大さに驚かされる)、いかにもいつ出産してもおかしくないことを指し示す。そして、これほどまでに残業続きのヘンリーの仕事にマーサは不満である。そして、出産をきっかけに家族の時間を増やしてほしがっており、より安定した勤務形態の他紙への転職を期待しており、今日はその面接日であること。もちろん、冒頭の黒人少年による死体発見をめぐって、それどころではない超多忙な24時間になるのだが。

 先述した通り、ロン・ハワード作品には黒人が登場しない。したがって社会的なテーマには踏み込まないという点は、この作品でも同様である。逮捕された2人の黒人少年の処遇について、ハワードは必要以上のことを描写しない。彼らが有罪となるか無罪となるかについて、それを社会派的な観点から発展させることは決してない。すなわち、ロン・ハワードはたとえばシドニー・ルメットのような作家とは対極にある。

 社会的・政治的な問題を掘り下げる意思のないことを告白して、ハワード自身はこのように発言している。

 「私はまだ映画監督としての領分を広げていこうとは考えていない。ただし将来的には、もっと勇敢にならねばならないのかもしれない。[]

 その「将来」というのは、現在に至ってもまだ来ていない。むしろ後の『ダ・ヴィンチ・コード』の製作で、フィクションとノンフィクションの区別のつかぬ層から向けられた、程度の低い宗教論争に巻き込まれてしまう程度の話だ。それに、ネイティブ・アメリカンとの人種的なテーマに限りなく迫った『ミッシング』でも、描かれたテーマは最終的には父と娘との愛憎である。

 このようにハワードの興味はあくまでも、家族関係の機微にこそ向けられる。ヘンリーは、この黒人少年たちの「有罪」報道を差し止めるべく大奮闘するのだが、その動機はジャーナリストとしての正義感ではまったくなく、あくまでもスクープ記事をものにしたいという一念である。シナリオには、ヘンリーが誤認逮捕された少年たちの気持ちを慮っていることを示唆するセリフは皆無だし、それを示す演出もまったくない。

 セオリーだったら、明らかに誤認と思われる逮捕に対し、しかも被害者は白人で、それがあからさまに差別意識に基づいていることから、ヘンリーが義憤に駆られていく演出があるはずなのだ。

 わかりやすい例では、『シンドラーのリスト』でスピルバーグが演出した、「赤い服の少女」のような存在だろう。つまり、迫害からたった一人逃がれようとする赤い服[]のユダヤ人少女を目にして、社会意識に目覚めたシンドラーは、ユダヤ人救済を決意するのだった。

 しかし、ロン・ハワード的な映画の軽みにおいては、そうした重さは物語の進行を阻害するだけである。観客の感情を別方向に動かして、鈍重さに陥る罠をハワードの感覚は慎重に避けている。

 そのかわり、たとえばロン・ハワードが施す演出とはこうだ。すなわち、ショットガンを構えた警官隊が部屋に踏み込み、黒人少年たちを逮捕するシーンにおいて、何が起きたかわからぬ彼らの幼い妹が、恐怖におびえる顔が一瞬映し出される。ここに、社会の現状に対するハワードの「義憤」を表現しようとする意思がかすかに漂うものの、それは必要最小限のショットである。それは『遥かなる大地へ』のランド・ラッシュのシーンで、自分たちの土地が奪われようとするのを呆然とみつめるネイティブ・アメリカンたちの顔が、瞬間映されるのにも似ている。

 必要最小限の義憤。これもロン・ハワードタッチのひとつと言える。決して人種問題に無関心ではないことを示すかのような、ささやかなワンカット。わずかだけれど、印象には確実に残る。しかし全体の物語の中では点描にすぎない。

もうひとつ挙げておくと、逮捕された黒人少年たちが留置されるとき、他の囚人たちのあまりの不穏さに、「怖いよ」と慄然する場面もあるにはある。そのことによって、不当逮捕が彼らにどれだけのショックをもたらすかが描かれはするが、そこから先を追求しない。

これは、ハワードが観客に喚起する感情の種類を増やしすぎないための処置に他ならない。社会的告発は、ロン・ハワードのテーマではない。だったらはじめから何も見せないという選択もあるはずなのだが、しかし確実に映している。これは、決して見てみぬふりをしている訳ではないが、しかしそのことに深入りはしないという意思決定でもある。繰り返すがこれはロン・ハワードの選択だ。そして、その選択を見せることは映画作家としてのむしろ良心であるはずで、そのことを、『ザ・ペーパー』は念押ししている。

 なお、「逮捕」として報道すべきでないと主張するヘンリーに敵対する、もう一方の側は、グレン・クローズ演じるこれも野心満々の編集局長アリシアである。彼女の場合も、黒人に対する偏見があるわけでなく、さりとて誤認であることを積極的に肯定したいわけでもない。彼女は単に、記事の差し替えによって経費が余計にかかるのを防ぎたい一心なのだ。

 むしろ、社会的な正義感でヘンリー側についている様子なのは、ランディ・クエイド演じる飲んべえ記者マクドゥーガルで、決して大きな役どころではないが、ここぞというところに見せ場を持っている。

 

 このように『ザ・ペーパー』は新聞社を舞台に、題材としては社会派的な素材を内包しつつも、枝葉をとりはらえば、ここでも『バックマン家の人々』に準ずる家族関係、ひいては父親であること(parenthood)をテーマとした物語である。

 ヘンリーはこれから父親になろうとする男で、少しでも家にいる時間を増やそうと、仕事は退屈かもしれないが、待遇・就業時間としてははるかに好条件の高級新聞社に移ろうとしている。

 しかし、転職に意欲満々であるように見せてはいるけれど、なんとか面接に行かずに済ますための口実を探している様子でもある。つまり父親になることを恐れているのだ。結局は、面接に行ったはいいが、転職先の上役を怒らせ、転職のチャンスをフイにする。そして、そのことを妻マーサに告白した後の、絶望に打ちひしがれるマーサの顔にこそドラマを生じさせている。ここは、前々年に『いとこのビニー』(1992 ジョナサン・リン)でアカデミー助演女優賞も得たマリサ・トメイの確かな演技力を発揮させようという、抜け目ない役の振り方だ。

 マーサは、もともとヘンリーの同僚でもあって、腕利きの記者なのだが、出産によって職場復帰できず、したがって自分のキャリアも消えてなくなるという不安を抱えてもいる。だからヘンリーの転職失敗で、いよいよその不安が現実になることが確実になったという思いは、彼女を打ちのめす。

 ロン・ハワードの評伝執筆者ビバリー・グレイは、このあたりのヘンリーの気持ちを的確に読み取って、このように説明している。

 「ある意味、ヘンリーの“サン”誌に対する忠誠心は、お高くとまった高級新聞社への反抗であるだろう。しかし、映画はヘンリーがより大きく複雑な世界に入ることを恐れているのだということを示している。それはちょうど、彼が父親になることの責任を恐れていることを証明してもいるのだ[]

 そして父親になることの責任を回避した結果、後悔の日々を送っている人物が、この映画にはもう一人いる。それは編集長のバーニー(ロバート・デュバル)で、彼は若いときに家庭を顧みずに女道楽にふけったため、今では美しく成長しキャリアも備えた娘に、完全に縁を切られている。なんとか関係を修復したいと望んではいるが、娘はそれをまったく受け入れない。そんな彼の様子が、もしかしたらあり得たかもしれない、ヘンリーの未来の姿として、巧みな重奏を奏でる見事な構成だ。

 ここは重要なポイントである。それは、個々のバラバラのエピソードを寄せ集めて作品を組み立て、「エピソード同士互いの説明になるように並べて一本の筋を作る[]」ロバート・アルトマン流の群像劇手法とは、また異なったアプローチなのだ。90年代以後のアルトマン作品、特に『ショート・カッツ』(1994)はその集大成ともいえるし、その弟子筋といえるポール・トーマス・アンダースンの『マグノリア』(1999)なども同様の構成をとり、最後にひとつのカタストロフによって、物語を収束させるような作劇を行うだろう。

一方、ロン・ハワードの群像劇では、主人公からすれば、もしかしたらそうなったかもしれない、もう一つの自分の姿を必ず対比させるようになっている。交互に無関係の人物エピソードを束ねていくわけではない。

たとえば『バックマン家の人々』においては、主人公のスティーブ・マーチンとその父親ジェイスン・ロバーツとの関係である。ここでマーチンは、自分がなってしまいかねないもう一人の自分の姿を、ロバーツに見出しており、そうはならぬよう悪戦苦闘を続けるのだ。あるいは、父親ジェイスン・ロバーツと人間失格な次男坊トム・ハルスの関係もそうだ。父ロバーツはもう一人の自分を、息子ハルスの中に発見せざるを得ず、彼に許しを与えることを余儀なくされるのだ。

もう一人の自分に対する潜在的な不安。これもまた、ロン・ハワードの演出術における、ひとつの核心だ。この点においてロン・ハワードは、他の誰とも似ていない、独自の群像劇の手法を見出しているといえる。

では『ザ・ペーパー』ではどうかというと、それを示す最もわかりやすいシーンは、出産を楽しみにするマーサが、カフェで旧友スーザン(キャサリン・オハラ)と話をする場面だ。

このシーンでスーザンは、子どもがかわいいのは最初だけで、後は自分の時間はすべて子どもと夫にとられてしまう。元の仕事にはもう戻れずキャリアは閉ざされ、家庭にしばりつけられるだけだ、とワインをがぶ飲みしながら延々と訴える。この長ゼリフは、得体の知れないリアリティがあって、出番は少ないながらキャサリン・オハラの名演技が強烈な印象を残す。うんざりしつつも、不安にかられたマーサは、ヘンリーの職場に行ってこう言い放つ。「未来の自分を見たわ!」。これが、ロン・ハワードの配置する、「あり得たかもしれぬもう一人の自分」の提示である。

この関係性は、もちろんヘンリーとロバート・デュバル演じる編集長バーニーの間にも見られるだろう。すなわち家庭を顧みなかった結果、寂しい老後を送っているバーニーの姿に、もしかしたらそうなるかもしれない自分を、ヘンリーはイメージしているのだ。

またあるいは、女性とはいえグレン・クローズ演じる編集局長アリシアと、ヘンリーとの関係[]。結果的にこの映画の中では、対立する相手同士となっているわけだが、もし編集局長として昇進したのが、アリシアでなくヘンリーの方だったとしたら、記事をめぐって主張する内容は、本当に今と同じだっただろうか。案外、黒人少年逮捕に疑問を出すのは、ヘンリーではなくアリシアの方だったと考えられなくもないのではないか。

このように、ロン・ハワードの群像劇においては、その構成員の中にその人物の鏡面像とも言える相手を見出すことができ、そのことが映画に思いがけない深みを与えている。

 

 さて、激動の24時間を描いたこの物語は、やはり『バックマン家の人々』同様に、出産によって幕を閉じることになる。何があっても子どもの誕生はすべてをリセットさせるハッピーな事件だ。娘との和解を熱望するロバート・デュバル演じるバーニーも、ある種の精神的落着を迎えることになるが、ここでも赤ん坊が介在してのことだ。

 技法的にも、多くのシーンでは新聞社の編集室内という低い天井で、通路は狭く、雑然としたオフィスをキャメラはくまなく動き回ることになる。ステディカムを効果的に使うことにかけて、天才的なロン・ハワードは(撮影監督はジョン・シール)、ここでも流麗なカメラワークを設計して、見ていてほとんどカメラの動きを気にする余地もないほどに、ぴたりぴたりとキャラクターの動きを追っている。

 こうした、狭く混乱した空間となると、ブライアン・デ・パルマやマーチン・スコセッシのような監督は、それが義務であるかのように、延々と引き伸ばされる長回し撮影をやろうとするだろう。彼らなら、さしずめ主人公が社内に入ってきてから、同僚たちと調子よく挨拶を交わしながら、その間一つ二つのハプニングを処理しつつ、自分のデスクに着席するあたりまでを、ワンカットで撮ろうとするはずだ。けれど、そうした「ひっかかり」はロン・ハワードの演出としては本意ではない。きちんとカットは割り、動かすべきところは動かして(ただし、ドキュメンタリー風の手持ちカメラで、いたずらに画面を揺らしたりもしない)人物を見せていく。「撮影技法」というものに、観客の注意努力を求めるようなことはないわけだ。

そして、そうした特殊なことはしない代わりに、出てくる人物たちはとにかくせわしなく動かして、画面に活気を与えている。たとえば、ひっきりなしにコーラを飲んで、のどを潤す癖のあるヘンリーは、口ではまったく別の話をしながらも、常に自販機でコーラを買おうと、手はコインを探してポケットをまさぐっていたり、ある場合には自販機が故障していて、機械を相手に格闘していたりなど、忙しいことこのうえない。このあたりは、落ち着きのなさが魅力のマイケル・キートンの個性を存分に生かしている。

 また、同僚のある者は腰を痛めているため、大きめの座席を要求しているのだが、叶えられず、いつもうろうろとそれを探し回っていたりもする。

 その騒々しさの極みは、先述したように「未来の自分を見たわ!」と、焦燥にかられたマーサが、ヘンリーのオフィスを訪れ、騒々しくわめく中、同時進行で起こっている出来事をめぐって、あらゆる同僚たちが、ヘンリーに指示を求めて集結してくるシーンに見ることができる。個人の情報処理能力の完全飽和状態。そうした様子を、こまごまとしたカット割りと、膨大なセリフの量で表現する。

 そして、その混乱に終止符を打つのが、一発の銃声である。古新聞の束を積み上げ、そこにマクドゥーガルが拳銃を打ち込むのだ。そして一言。「マーサが亭主と話したがっているんだ!」。静まり返るオフィス。自体は一気に収拾されて、室内は現状に復する。

 そして、その拳銃はクライマックスでもう一度発射され、今度は逆に事態を混乱させることに一役かう。『ザ・ペーパー』では、俳優たちのこまごまとした演技の他、こうした小道具の使用の面白さも、存分に楽しむことができ、作品におおいに魅力を与えている。

 

 この作品は知名度の高いスターをそろえている割に、プロダクションの規模は小さい。舞台も限定しているので、コストもそれほどかかっていないはずだが、全米での興収も約3900万ドル[]と小ぶりな数字である。これまでビッグバジェットに基づく、イベントピクチャーを志向し続けてきたハワードとしては、小休止といった趣。日本国内でも、都内では単館ロードショーの形をとった初めてのロン・ハワード監督作品となった。

 とはいえ、もちろんのことクオリティが低いわけではない。これは、いよいよこの後の大企画にして、ロン・ハワード現在のところの最高傑作『アポロ13』を前にした助走ともいえる、愛すべき小品なのである。

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[] スピルバーグの劇場作品のデビューは『続・激突!/カージャック』(1973)。ただし、アメリカ国外では劇場公開された『激突!』(1972)を、実質的なデビュー作とするのが、一般的な見方である。

 

[] 80年代以後の映画界の、ある種の傾向を代表し、しかも何らかの形でスピルバーグ的なものとの相対において映画作りすることを宿命づけられた作家群を「84年の世代」と提案する。ロン・ハワード、ロバート・ゼメキス、ジェームズ・キャメロンが、それを代表し、それぞれの個性を花開かせた作品が、84年に製作されたことからの命名である。(『スプラッシュ』(ハワード)、『ロマンシング・ストーン/秘宝の谷』(ゼメキス)、『ターミネーター』(キャメロン))。

 これは、蓮實重彦が80年代に責任編集した「リュミエール」誌上などにおいて、クリント・イーストウッド、テオ・アンゲロプロス、ダニエル・シュミット、ヴィム・ヴェンダース、ビクトル・エリセらを『73年の世代』と呼んだ運動を参照している。

 

[] 『24』は、2001年からスタートし、2007年時点で第6シーズンまで製作されている、大ヒットTVシリーズ。キーファー・サザーランド演じる対テロ捜査官ジャック・バウアーが、次々に降りかかる難局をクリアし、テロを未然に回避する過酷な24時間を描くドラマである。1シーズン全24話。つまり、主人公の24時間が正確に放映時間と一致する。このアイディアが斬新で、非常に高い緊迫感を与えることに成功している。もちろん、TVドラマであるために、ほぼ15分間隔でCMが入るが、その分は時間もスキップするというこだわりぶり。

 

[] Gray 前掲書 P.167

 

[] 『シンドラーのリスト』はモノクロ作品だが、この「赤い服」だけはパートカラー処理が施され、モノクロの画面に少女の服の赤だけが浮き上がるという、伝説的な名シーンとなった。

 

[] Gray 前掲書 P.166

 

[] 『熱風』(スタジオジブリ 20072月)所収。ドナルド・リチー「映画のどこをどう読むかU」より。

 

[] Gray前掲書によると、当初の脚本では、編集局長を男性役として書かれていたという。ハワードがかねてから熱望していた、グレン・クローズの出演を得られたと見るや、直ちにこれを女性の役として書き直したとのことである。なお、本稿の作品成立における情報は、同書P.164167を参照している。

 

[] 数値的な出典はhttp://www.the-numbers.com/people/directors/ 参照。