13.『アポロ13』  “Apollo 13 1995

 

 まちがいなくロン・ハワードはオスカーがほしかったはずだ。

40歳を迎えた。監督作品も10本を数え、映画作家としてさすがにもう元子役の余技とは言われるまい。低予算ものから、SFXを駆使した大作までをカバーし、興行的にも確かな実績を作ってきた。

 ロン・ハワードが、「そろそろ」と思ったとしても不思議はない。「アカデミー賞がほしい」[]。受賞するにはいい時期だ。そのために必要なのは、受賞にふさわしい風格ある企画だった。

 「オスカー向けの企画を追い求めているわけではない」[]といった発言も見られるが、師匠格のスティーブン・スピルバーグが前年の『シンドラーのリスト』(1993)でついに悲願のオスカーを独占したことが、ハワードにとって刺激になっていないはずはない。つまり、ハワードが欲したのは、テーマ性の高い作品だったのだと思う。親子兄弟間の個人的な葛藤を描いた家族ものや、無名の男女のラブロマンスにとどまらぬ、アメリカの歴史・精神に深く切り込んだ、誰がみても大作感に満ちた、もっと大きな物語だ。

 

 1970年4月。月面着陸を目的に打ち上げられたアポロ13号が、不慮の事故に遭遇。月着陸はもとより、地球への帰還そのものが絶望的になる。しかし、乗組員と地上管制センターとの不屈の勇気と知恵により、数々のトラブルをくぐり抜けて、奇跡の生還を果たす。このドラマチックな物語の映画化をハワードに持ち込んだのは、プロデューサーのブライアン・グレイザーだという。

 60年代に物心ついていたアメリカ人にとって、当時の一連のアポロ計画は老若男女を問わず、大きな関心があったはずで、事故発生後、月面着陸を断念したアポロ13号の乗員たちの状況を伝える連日の報道は、全米の注目を集めたとおぼしい。[]

 ハワード自身は、当時TV西部劇『ガンスモーク』のロケのため、ユタ砂漠にいた。16歳の事である。撮影スタッフはみな、トランジスタ・ラジオで、ことの推移を見守ったとハワードは回想している。

 おそらく、ロン・ハワードは「これだ!」と思ったのではないかと想像する。アポロ計画という、合衆国そのもののような物語。ただし、人類初の月面着陸を果たした、アームストロング船長の栄光に満ちたアポロ11号ではなく、そうした栄光の裏にある物語。「失敗を栄光に変えた」アポロ13号による、さらに波乱に満ちた乗組員たちのチームワーク。飛行士たちの帰還を一途に念じる家族たちの絆に、要求されるだろう華麗なSFX。しかも大人から子供まで、すべての客層をターゲットにできるエキサイティングなテーマでもある。どの要素をとってもハワード向きで、かつ重量級の作品になることは確実。ヒット性も抜群なこの企画をオスカーに向けての大チャンスだと判断しても、あながち間違いではないだろう。

 オスカーといえば、アポロ13号船長ジム・ラベル役に決まったトム・ハンクスは、アカデミー賞史上初、2年連続の主演男優賞を獲得[]。何よりこれは、『スプラッシュ』でスターダムに上ったハンクスによる、生まれ故郷(?)ロン・ハワード作品への「帰還」なのだ。風は十分に吹いている。

 大きな企画である。製作費は6500万ドルの超大作[]。この映画の撮影を実現するには、大規模なSFXが必要だし、何より宇宙遊泳シーンが必須のため、無重力状態をいかに表現するかがポイントだ。課題は大きい。

 当初、ハワードにはその撮影方法について、具体的なプランはなかったという。水中撮影を行うか、ワイアーを使って俳優を吊るか、といった漠然としたアイディアしかなかった。

 そんな時に頼りになるのは、ここでもやはり「あの人」だ。ハワードはスピルバーグとのミーティングをセットする。このときスピルバーグはNASAの協力を仰ぐことを提案したという。NASAが所有する、人工的に無重力状態を作り出せる訓練用設備を利用してはどうか、というものだった。それを受けて、ハワード以下、製作チームは何とNASAの協力をとりつけることに成功。撮影クルーと3人の俳優たち(加えて13号の乗組員役ではないのに、ゲイリー・シニーズも体験したという)は、実際の無重力状態での撮影が可能になった。

 訓練用飛行機KC-135で急速上昇し、その後そのまま放物線を描いて下降するのである。すると25秒間だけ、無重力状態を得ることができる。その間にロケット内シーンの撮影を行うのだ。クルーは実に612回、合計3時間54分もの飛行を体験したという。ただ、この装置はとにかく激しい乗り物酔いに悩まされるそうで、飛行前の食事も慎重さが必要らしく、おそろしく過酷な撮影だったようだ[]

 

 映画は、いよいよ月面に人類最初の第一歩を踏み出そうとする、アポロ11号のテレビ中継を見ようと、ジム・ラベル(トム・ハンクス)の屋敷に友人・仲間たちが集まったパーティの場面から始まる。

 パーティの参加者には、やがてアポロ13号のクルーになるであろう、フレッド・ヘイズ(ビル・パクストン)、ジャック・スワイガート(ケヴィン・ベーコン)、そして当初の乗組員となるはずだったケン・マッティングリー(ゲイリー・シニーズ)の姿もある。

 ここにいる者のほとんどには、妻がいて家族がいて恋人がいる、ということが強調されている。つまりは、帰りを待つ誰かが必ずいることを十分に示唆するのだ。その意味で、ささやかな場面のように見えるが、しかしこのプロローグはその後の物語を象徴する、いわば予告編のようでもある。

なお、こうして一つの屋敷にたくさんの人々が集う光景は、『バックマン家の人々』でもおおいに描かれた、いかにもロン・ハワード的なシーンといえるだろう。

 さて、このシーンにはもうひとつ重要なポイントがある。それは、このパーティにおいて、この家の主人であるジム・ラベルの姿だけがこの場にないということだ。どんな目的があったかは判然としないが、ラベルは車を走らせ、家への道を急いでいる。そして、みんなが談笑しているところに、やがて扉を開け、入ってきて言う、「ただいま」と。

 これはよく考えると奇妙である。家族・仲間たちが一堂に会している中に、どうしてその家の主人のラベル本人がいないのか。どうして、わざわざ家に向かって車を走らせていて、途中で帰ってくるような演出を施す必要があったのか。主役本人も皆の輪に混じって談笑していてもよいはずだ。というより、むしろそれが普通ではないか。すると何か理由があるのだろうか。

 もちろんある。いかにも見落としてしまいそうな細部だが、こうすることで、今後のラベルの運命を一発で象徴しているわけだ。すなわちこれは、ラベルが家族のもとへ「帰還する人」であることを、冒頭からいきなり説明づけようとしているのである。だからわざわざ外から帰ってきての「ただいま」なのだ。

 すなわち、アポロ13号の決死の帰還を描いたこの作品で、その指揮官であるラベルは、常に家族の待つもとに帰って来る者として印象づけられるべきということだ。

 こうして、いよいよ主人であるラベルもそろって、テレビ中継はアームストロング船長による、人類初の月面着陸の実況放送が始まろうとしている。テレビのまわりに一堂が顔をそろえる。

 ここで現役の宇宙飛行士たちはみんな、ラベルを含め、冗談交じりにだが、テレビ画面に向かって「失敗しろ!」とはやしたてている。つまりアームストロングが失敗すれば、まだ自分が人類初の月着陸者になる可能性があるということだ。ここで肝心なことは、いささかはしゃぎ気味の飛行士たちに対し、もう少し敬虔な面持ちの飛行士以外の者たちの顔である。彼らは人類初の偉業の成功に、より崇高な期待を抱いており、必ずしも飛行士たちのおふざけムードにはのっていない。つまりここではまだ、画面に映っている面々の気持ちは必ずしも一致していないのだ。

けれど、いよいよ月面に降りようとするアームストロング船長の姿がテレビ画面に映るにつれて、テレビの前に集まる面々の顔が真剣味を帯びてくる。ラベルを中心とした飛行士たちのおどけた気分は消え、人類最初の第一歩に真剣に見入っている。すなわち拡散して、不一致だったその場にいる者全員の気持ちが完全にひとつになる。その気持ちとはたったひとつ、「成功してほしい!」の一言につきる。

びくとも揺るぎなく、一つの希望に向けてたくさんの人々の願いが一点に凝縮される。人の心が一つになることのかけがえのなさ。だからこそ現実となる奇跡。『アポロ13』という作品の最上位テーマもまた、小さな形ではあるが、この冒頭シーンで早くも提示されているのである。

「彼を待つ人々のもとに帰還する人」としてのジム・ラベル。その場にいる人々の心が、同じひとつの願いで結ばれることの感動。映画本編を貫くポイントが、この短いプロローグにごっそり込められて、最初の10分というのにいきなり、超高密度な展開を見せる。

そしてロン・ハワードとしても、きわめて手の混んだ演出であり、この作品にかける意気込みのほどを感じさせるに足る、すばらしいオープニングとなっている。

 

同じひとつの願いで、心がひとつになること。先回りして言ってしまうと、それはもちろん緊急事態に陥ったアポロ13号乗組員たちが、無事帰還したい(してほしい)、という思いの一言に尽きる。実際『アポロ13』はその感情を描くための作品なのだが、その気持ちを増幅するために、ロン・ハワードは驚くほど丁寧に登場人物の心の動きを追いかけ、描写していく。むしろ、この映画はひとつひとつの危機回避の妙味よりも、そちらに比重があるとすら言えそうだ。歓喜、不安、嫉妬、私欲、奉仕心・・・ある種、人間の感情のパノラマワークだ。

実際、アポロ13号がその感動的な発射の瞬間を迎えるまでは、実に複雑な感情的プロセスを経ている。乗組員とその回りの人々の感情の動き方である。

いよいよ次期月面着陸プロジェクトである、アポロ13号の船長に抜擢されたと知るや、熱い興奮に身を震わせるジム・ラベル。これは当然の反応で、彼は「次こそ自分」の想いに身を焦がし続けていたのだ。この段階では妻マリリン(キャサリン・クインラン)も、夫の夢がついに叶ったことを無条件に祝福する。そのために休暇の家族旅行の予定がキャンセルになったといっても、お咎めなしだ(普通なら夫の仕事で家族旅行がフイになる場合、妻は不満たらたらのはず)。

けれど、妻が素直に夫の栄誉を祝うのはここまでである。その歓喜はすぐに、夫の安全に対する不安にかわる。以後、13号の発射その日まで、妻マリリンは夫に対して終始不機嫌である。連日のパーティに向かう(おそらくは、乗組員たちを迎えての社交パーティで、毎日愛敬をふりまくこと自体にも、嫌気がさしているようだ)車中でマリリンは、自分は発射の見送りには行かないとさえ言い出す。宇宙飛行は命がけ、それを待つ者の身にもなってみろというわけだ。

このあたりから、ラベル自身も妻への気づかいと、自分の夢が実現したことの高揚感、船長としての決断など、さまざまな感情がせめぎ合う。しかし、ラベルは船長だけあって、そうした感情のいちいちに心乱されたりはしない。これは宇宙飛行士の必須の資質(ライトスタッフ!)であり、それが後に事故によって月面を目の前にしながら、帰還を余儀なくされ、「月に降りたかった・・・」と後ろ髪ひかれる同乗者たちに、「君らはそれが望みか」と叱咤激励し、集中力が拡散するのを防ぐ。「ぼくは家に帰りたい。だから帰ろう」と。このように、ラベルは気持ちの切り替えが誰よりもできる人物として描かれるが、それはまた後の話である。

いささか脱線したが、一方、乗組員についてはさらにややこしい事態が起こる。ゲイリー・シニーズ演じる優秀な操縦士マッティングリーが、風疹の疑いがあるため、乗員からはずれねばならなくなる。しかし、この3人で訓練を重ねてきて、言葉を交わさずとも気持ちがわかるくらいのチームに強化してきている。いまさら、メンバー交代はそれ自体がリスクを伴うと、激しく主張するラベル。しかしNASAの上層部は感情に流されはしない。選択は二つに一つ。アポロ13号の乗員3名をそっくり入れ換えるか、マッティングリーのみの交代か。その決断は、船長であるラベルにゆだねられる。

ラベルは悩みつつも、マッティングリー降板を決める。呆然とするマッティングリー。自分が風疹だなどと診断した医者に掛け合うと主張するマッティングリーだが、決断したのは自分だとラベルが言い渡すと、彼はもう一言も返すことはできない[]。ここにひとつ、マッティングリーの中に怨恨、嫉妬という感情が残り、彼だけが宇宙旅行の蚊帳の外におかれることになる。

この、マッティングリー失意の場面の直後につながるのは、のんきに女性とシャワーを浴びている、ケヴィン・ベーコン演じるスワイガートである。マッティングリーの代行として、アポロ13号の乗員として抜擢の電話が入る。歓喜のあまり、半裸のまま絶叫するスワイガート。ここはまさしく失意と歓喜の対位法である。

次に描かれる感情は「不安」だ。ほとんど完璧な操縦テクニックで、ミスなど犯さなかったマッティングリーに比べ、スワイガートの腕は確実に見劣りがする。スワイガートを新操縦士に迎えての訓練が開始されるが、なかなか課題トレーニングに成功しない。シミュレーションではすぐにロケット炎上になってしまう。

これ以前のシーンで、映画は同じ訓練をマッティングレー操縦のもとで見せており、その場面では、管制室が「アクシデント」を演出しさえするが、いささかもあわてぬマッティングレーはトラブルを切り抜け、鮮やかな操縦ぶりで課題をクリアしている。(この場面で、観客含め誰もが、この人物なら絶対に大丈夫だという深い安心感を得ている)

そのシーンが、きわめて爽快に描かれているだけに、スワイガートの劣位がきわだち、ここで映画には不安が蔓延をはじめる。

また興味深いのは、マッティングレーとスワイガートだけが、独身男性という事実である。つまり彼らを「待つ」家族は誰もいないということ。そして、マッティングレーは女っ気のないストイックな仕事師なのに対し、スワイガートはいつも若い女性との情事を重ねるプレイボーイ。それぞれを、ゲイリー・シニーズ、ケヴィン・ベーコンというキャスティングは実に適役だが、そうした性格の描き分けも好対照をなして、失意と歓喜、確実と不安といった、錯綜をはじめる感情の増幅に効果を与えている[]

無論、シミュレーションにおいて失敗を重ねるスワイガートへの不安に顔色ひとつ変えず、大丈夫だもう一度やろう、と感情の拡散を収束させるのに一役かうのは、リーダーのラベル船長である。こうした各種感情の拡散とコントロールが、『アポロ13』の最大の見所のひとつであることを、繰り返し主張しておきたい。

 

さまざまな感情が、ラベルのリーダーシップや、個人の立場など、はるか超えたところで、ひとつにまとまる瞬間がやがて訪れる。それが『アポロ13』前半の最初のクライマックスとなるだろう。それがアポロ13号打ち上げという一大ショーだ。そのとき、さまざまな感情はすべて溶け合って、ある一点へと集約される。それがまさに、アメリカの夢と栄光に対する崇高さ、そして打ち上げ成功への祈りという感情だ。

誇りと栄誉を一身に背負って、ラベル、ヘイズ、スワイガートの3飛行士がアポロ13号に乗り組み、操縦席に着く。

ラベル、ヘイズの妻といった待つ女たちは、自分の夫の無事が心配で、できたらアポロに乗ってほしくないと思っていた。ラベルの妻、マリリンは見送りには来ないと言い続けてはいたものの、夫婦の絆としてやって来るには来たが、やはり気は重い。また、ヘイズの妻は身重のためいっそう不安は強い。

また、チームからはずれた痛恨のマッティングレーも、打ち上げ台から遠く離れた丘の上に、孤独に発射を見にやって来る。嫉妬というべきか、失意というべきか、とにかく彼は複雑な表情をうかべている。

そしていよいよ発射のカウントダウン。ジェームズ・ホーナーの荘重な音楽が、その気分を否応なく高めていき、ロケットのエンジンが、ひとつひとつ点火されていく。この段階になって初めて、地上に残る飛行士の家族たちの「不安」はかき消え、栄光あるアポロの打ち上げの崇高さにとらわれ、ひたむきに打ち上げ成功を祈るようになる。

ネガティブな感情のとりこになっていたマッティングレーさえも、この瞬間だけは個人のすべての感情を棚上げにして、その栄光に身を捧げている。

飛行士の3人を含め、画面に映っている全員の感情が、同じひとつの思いに、完全にひとつになる。栄光への願いを込めて、発射成功を祈る以外の感情など、ただのひとつもこの場にはない。すべての人の気持ちがたった一個のものに収斂されていくこのプロセスこそ、ロン・ハワードが描こうとしたものに他ならない。すなわち、3人の操縦士を除いたすべての人々の視線は、上昇していくアポロ13号の一点に集中していくのである。

『バックマン家の人々』あたりから、ロン・ハワードは意識的にさまざまな「アメリカの物語」を語ろうとしてきた。では、「アメリカの物語」とはどういうものをさすのか。それらしい解答のひとつとして、それは、すべての心が共通の目標に向かってひとつとなることであるだろう。

バラバラだった気持ちが、ある崇高な何かに向けて結束する。これは、複数の独立した州が集まってひとつの国家を形成した、合衆国建国の理念と完全に合致する[]。(あくまでも理想論としてではあるが)アメリカ的であるということは、複数の異なる存在が、その立場を超えてひとつになろうとする運動のことをいう[10]

そして、そうした「アメリカ的」なる「アメリカの物語」の最良の実例が、この『アポロ13』の打ち上げのシークエンスと言えるだろう。

また、言及するタイミングを失したが、発射から帰還までを一貫して管理し、またその使命感に燃える立場の存在として、地上管制センターのチームがある。『アポロ13』の中盤以後は、事故を起こしたアポロ13号の地球に帰還させるために、知恵の限りを振り絞るこの管制センターの働きに重きが置かれる。

その管制センターの中心にいる人物が、エド・ハリス演じるリーダー、ジーン・クランツだ。ここでの、エド・ハリスの演技はまったく感動的という他はなく、時にホットに、時にクールに、アポロ13号に降りかかる難題を裁き、自ら考え、あるいは支持を出す。ロン・ハワードは、いささかとっつきにくい人物だった『バックドラフト』のロバート・デ・ニーロを超える、理想的なリーダー像を描き出すことに成功した。

このクランツ登場シーンの演出ぶりが、また鮮やかである。管制センターのメンバーの手から手へと、ひとつの白い箱が回されていく。ここは冷静に考えると、誰かが持ってくればいいだけの話なのだが、とにかく人から人へとリレーされて箱が移動するわけだ。もちろんここは、高鳴っていくエモーションをさらに増幅させるために、カメラを常にスピーディに動かしておくための方便だ。

箱はやがて、クランツ自身の手にわたる。このときカメラは初めてカメラはクランツの手元から上昇して彼の顔を映し出す。きわめてスペクタクルな人物登場のさせ方であり、今後の物語をこのクランツが牽引することの、前口上として実に粋な描写である。

さらに、クランツは手渡された箱を開ける。中に入っているのは、目の覚めるように真っ白なチョッキ。クランツ夫人特性の手縫いだとのこと。それを箱から取り出し、鮮やかに着こなすと、室内メンバーからの一斉の拍手。苦笑いしてそれを諌めるクランツ。ここでも、クランツの魅力と求心力によって、室内がひとつの感情に統一されていく様が描かれているわけだ。

そしてもうひとつは、彼が身につけるのは妻の手縫いのチョッキ。すなわち、クランツ自身も「待たれている」存在であるということ、家に帰れば彼を待っている誰かがいることを、はっきりと指し示している。いや、ロン・ハワードはそうしたことを示さずにはいられぬ映画作家なのだ。

 

ここから先しばらくは、アポロ13号の順調で気楽な宇宙飛行が続くが、月着陸目前に回路破損によって、月面着陸どころか生還そのものがおぼつかなくなるところから、物語の苦難が開始する。

ここで言及されるのは、アポロ計画に関するマスコミ報道のあり方である。実はアポロ13号の発射と飛行は、テレビではまったく放送されていなかった。既に回数を重ねた宇宙飛行は、ニュースネタとして国民に飽きられていたのである。

てっきりテレビ向け放送だと思い込んで、宇宙飛行の様子を国民に向けて電場画像を送る13号の飛行士たち。ところが、それはまったくの空芝居で、放送電波には一切のっていないわけだ。知らぬは飛行士たちだけで、映像を見ながら複雑な思いの家族たちの様子。

何より、地上に残されていささか荒れ気味のマッティングレーだ。おそらくは、宇宙飛行の様子をテレビで眺めようと、(酒をあおりながら)テレビチャンネルをザッピングするのだが、どこにも映っていない。なんとも複雑な表情をうかべるが、放映してないとみるや、テレビのスイッチを切ってしまう。しかし、テレビを切る寸前に番組は特番に切り替わり、アポロ13号の危機を伝える報道となるのだが、彼はそれには気づかず、やさぐれてふて寝してしまう。(このとき、電話の受話器もはずしてしまうので、後の呼び出しに応じられないことになる)

つまり、「順調で安全な」飛行はもはやニュース価値はまったくないが、それが「人命の危機」にかかわると、途端に報道が飛びつくというわけだ。全米の注目は一挙にアポロ13号の消息に集まっていく。

このあたり、ロン・ハワードのマスコミに対する感情の複雑さがかいまみえる描写が続く。ロン・ハワードにとってマスコミというのは味方であり、また敵でもある。思うにこれは、子役スターとして物心ついた頃から、マスコミの好奇にさらされていたロン・ハワードの、独特の感性ではないかと想像する。詳細は稿を改めるが、『スプラッシュ』にはじまり、『ザ・ペーパー』、『アポロ13』、『身代金』、『エドTV』に描かれた、ロン・ハワードのマスコミ観はとても興味深いものがある。

『アポロ13』では、マスコミというのは都合のいい時にだけ、ずうずうしく群がってくる、明らかに不快なものとして描かれている[11]。ラベル邸にぞくぞくとやってくる報道陣たちは、生中継に必要だから、庭の中にアンテナを持ち込ませろとラベル夫人に申し入れる。彼女は断固として拒否する。テレビ中継はしないのではなかったかと。すると、事態が変わって大ニュースになってしまったから、とぬけぬけと言う報道者の言葉はラベル夫人の逆鱗に触れる。では月面着陸は大ニュースではなかったのか。ここは主人の家であり、主人の許可なしには誰も一歩も入れない。文句があるなら主人に言うように。彼は金曜に帰ってくるはずだから、と。

待つ者の気持ちと、マスコミへの嫌悪がひとつに表現された、見事なダイアログと言っていいと思う。

 

それにしても、アポロ13号帰還までのドラマは、ロン・ハワードの技の粋を見ることのできる、分析無用の手に汗を握るほかない、名場面の連続である。

ドラマの興味を牽引する中心は、エド・ハリス演じるクランツを長とする、ヒューストンの管制センターだ。たくさんのスタッフを擁するセンター内を、ハワードのカメラと編集は、流麗に移動し、垂直に動き、個々人を、そして集団の動きと表情をとらえるべく大活躍する。

たとえば、ロケット合体のための、進入角度を割り出さねばならぬため、ラベル船長は紙に数値を殴り書きしながら、必死に手計算を行う。その数値をヒューストンに通信。管制室のスタッフたちは、その数字を聞いて一斉に「検算」を始める。計算に使うのは計算尺だ。今の目から見ると信じがたいことだが、彼らは当時、電卓すらない中で月に人間を送り込んでいたのである。

カメラに大写しでとらえられた計算尺を、数字がスライドする。そのすばらしい運動そのままに、検算作業をしていたスタッフたちが、次々とラベル船長の数字を「正しい」と、順々に報告していく。報告するスタッフたちを、スピーディに動いて次々と見せていくカメラ。すばらしい快感である。その無駄なく、テンポのいい動きのリズムは、全員がひとつになり、完全に集中した状態で13号帰還のためにフル稼働していることを示してあまりある。ここではステディカム撮影の達人、ロン・ハワードの表現力は極まっている。

また、増え続けるロケット内の二酸化炭素を排出しなければならないが、機内にはその装置がない。そこで、「ロケット内にある物」だけを使って、排気ダクトを簡易製作せねばならない。ここでもハワードは見せに見せる。選ばれたスタッフが、ロケット内に存在する物、それこそ宇宙服からマニュアルブックの類までをすべて準備し、会議室に向かう。スピーディに、かつスムーズに後退して技術スタッフをとらえるカメラ。大机の上に、「材料」がばらまかれる。「今、ロケットの中にはこれだけの物がある。これらを使って換気口を作るんだ」と。ここはハワードの垂直のカメラによって、机上にバーンとぶちまけられる「材料」が、真上からガッととらえられる。この映像的興奮もまたこたえられない魅力にあふれている。

苦難は続く。地球帰還のためにシステム再起動するためには、電力がたりない。したがって、再度のスイッチオンにあたっては、一切無駄のない手順を発見しなければならないのだ。1アンペアたりとも無駄に消費できない、この手順作成のために、満を持して指名されるのが、メンバーから外されていたマッティングレーその人だ。

彼の救援を得ようと連絡をとるが、受話器がはずされているからどうにもならない。直接マッティングレーの自宅に踏み込む、管制センターのスタッフたち。彼はふてくされて寝ていたから、アポロ13号の危機に気づかなかったのだ。

すっかり荒れていたマッティングレーが、清潔なスーツに着替え、使命感にあふれて地上管制センターに入室してくる姿は、まさに絶体絶命の危機に救出にやって来た騎兵隊のようなカッコよさだ。失意のどん底にいたとはいえ、この男が誰よりも腕のいい操縦士であり、科学者であることを、十分に承知している観客としては、これでもう安心だとさえ思う。彼を歓迎する管制室リーダー、クランツと共に、ここに13号生還のための最強タッグが完成したことの快感を存分に味わうことができる。

こうしたひとつひとつの事件の中で、ハワードのカメラは、複数の人物をひとつのフレームに収めるために、あらゆるテクニックを総動員して、個々のスタッフの性格の描き分けから、仕事の様子までを縦横無尽に視覚化している。

電力削減作戦成功のときのショットにおいては、手前にマッティングレー、画面ずっと奥にクランツを配している。ピントは手前のマッティングレーに当たっている中、画面奥のクランツは、マッティングレーに対してサムアップをし、彼に作戦成功のエールを送る。それを見て満足そうにうなずくマッティングレー。

2人のプロフェッショナルが互いに祝福し合うこの美しい場面は、カメラの切り返しで表現してしまってはいささか興醒めとなる。それをワンフレームで見せる『アポロ13』のロン・ハワードは、見せ方の統制について円熟の極致に達している。

何より、アポロ13号の乗組員たちを含めた、管制センターのプロ集団たち。彼らの鮮やかなプロとしての仕事ぶりをここまで見せられて、連想せずにいられぬ名前はもちろんハワード・ホークスである。[12]

『ハタリ!』(1961)や『リオ・ブラボー』(1959)、『ヒット・パレード』(1948)などで、男女を問わず、その道のプロたちの物語をドラマ化した、ハワード・ホークスの真髄からすると、ラベル夫人のマリリンもさしずめ、「宇宙飛行士の夫を待つ」ことのプロと呼ぶこともできるだろう。

その姓名を、このプロフェッショナル集団を描く映画史上の達人の名と同じくするロン・ハワードは、この段階にきてハワード・ホークスの正統な後継者と呼ぶことに、いささかの躊躇もない。

 

『アポロ13』もやはり集団劇である。しかも、アポロ13号機内、地上管制センター、操縦士たちの家庭と、3つのグループに分け、それぞれの模様を描く構成をとる。物語の拡散を防ぐために、アポロ13号機内はラベル船長、地上管制室はクランツ、家庭はラベル夫人マリリンと、それぞれ中心人物を定めてある。

各場面における求心力を保持することで、集団劇として非常に多くの登場人物がいるにもかかわらず、騒々しい印象を受けない。こうした作劇上のコントロールのよさも、ロン・ハワードの演出術の非凡なところといえる。そして、その中心にばかりカメラは向けずに、その周辺人物の仕事ぶり、役割を丁寧に示すことで、全登場人物に価値を見出すように仕向けるところが、『アポロ13』でのさらなる鮮やかさである。

たとえばクランツは中心人物かもしれないが、基本的に判断し、指示を出し、スタッフに仕事をさせる存在だ。実労働はその周囲の者たちがやっており、その労働ぶりを見せてきたのが、それまでの展開だ。だから周囲も血の通った存在として屹立し、決して「その他大勢」とはならない。

「案じて待つ者」としての中心はマリリンだが、その他にもたくさんいる。子供たちはもちろんだが、特に印象的なのはラベル船長の母親である。老化が進んでいる様子ではあるが、息子の生還を信じてびくとも動かぬその態度は、「老人」の存在を決しておろそかにしない、いかにもロン・ハワードらしい演出ぶりといえる。

こうしてあらゆる苦難の果てに、もう一度全員の心がひとつに集約する瞬間がやってくる。後半の物語は、感情がさまざまな方向に分散していた。管制センターのある者は悲観し、ある者は与えられた課題に集中していた。操縦士を待つ者たちは、時に泣き、時に希望を持ち、時に悲観し、あるいはマスコミに対して怒りを爆発させる。

肝心の飛行士3人も、極限状況のさなかにあって、スワイガートに対するかすかな不信から、感情的にならざるを得ない瞬間も発生する。何より、極寒状態のためヘイズは高熱を発し、体調は悪化をはじめている。それでも「僕は家に帰りたい」と、チームの心をひとつにまとめるラベル船長の気持ちの切り替えの早さと統率力が、船内の士気をギリギリのところで確保していた。

このように、各グループ内で、バラついていた感情がひとつになるのは、もちろん地球の引力圏に突入する数分間である。想像を絶する困難を経て、いよいよ地球への突入。大気圏に突入後、ロケットは燃え尽きることなく、無事に帰還できるのか。

このとき、もう一度この映画のすべての登場人物たちの心は、たった一つの感情に満たされる。「生還」。この一言に尽きる感情に満たされて、3人の飛行士は目を閉じ、管制室の者たち全員は正面のモニターパネルを見つめ、家庭で待つ者らはテレビのニュース画面を見つめる。今度もまた全員が同じものを見つめているわけだ。

改めて述べたい。『アポロ13』はさまざまな感情が、共通する唯一の願いへと絞り込まれていくことの過程を描きつくした作品なのだ。

ただひとつの願いに満たされて、多くの感情が完全に合致し、くいいるように何か一点を見つめるところに、必ず奇跡は起こる。それは映画においては絶対普遍の真理である[13]

 すぐに思いつくだけでも、見つめる視線のその向こうに青い衣の人は金色の野に降り立つだろう(『風の谷のナウシカ』(宮崎駿 1984)。または、日没の刹那に水平線の向こうに、幸せになれるという伝説の光線が一瞬輝くはずだ(『緑の光線』(エリック・ロメール 1985)。

そしてそのことは、スピルバーグがさんざん描いたことだ。誰もが見つめるその視線の先にUFOは飛来し(『未知との遭遇』)、奇跡を願うその視線に応えて自転車は宙を舞い(『E.T.』)、遠くを見つめる視線の向こうに再会の奇跡が訪れ(『カラーパープル』、逆に絶対に何も見ないことで一命をとりとめる(『レイダース/失われたアーク』)。こうした点からも、ロン・ハワードはスピルバーグの無意識の薫陶を受けていることは間違いない。

さて、かつてあこがれの人魚を追って海に飛び込んだ、当時新人『スプラッシュ』のトム・ハンクス。彼は11年の時を経て、今や2個のオスカーを持つ大スターの立場で、今度はアポロ13号ラベル船長として、ロケットごと再び海に飛び込むのである。そう、アポロ13号の帰還とは、海への突入なのだ。

奇跡の生還、奇跡の水へのダイブ。『スプラッシュ』にはじまり、ロン・ハワードがどこまでもこだわる、水中へのジャンプはここに最大規模のクライマックスを迎えるのである。

したがって『アポロ13』こそが、ロン・ハワードの真の代表作であるという命題は、ここに証明されるのだ。

 

最後に。『ザ・ペーパー』を論じた前章の註で、スピルバーグの影響下にありつつ、1984年にその最初の重要作品を発表し、その後のアメリカ映画を率いる作家として、ロン・ハワード、ロバート・ゼメキス、ジェームズ・キャメロンを「84年の世代」と提案した。

『アポロ13』は、この3人の「84年の世代」の幸福な出会いの映画であることは、指摘しておきたい。『アポロ13』の重要人物の2人、トム・ハンクスとゲイリー・シニーズであるが、彼らはもちろん前年に、ロバート・ゼメキスの『フォレスト・ガンプ』でフォレスト・ガンプと生涯の理解者ダン小隊長を演じた、名コンビである。

そしてさらに、『アポロ13』のSFXは、ジェームズ・キャメロンが創始したデジタル・ドメインによるものである。ここで、ロン・ハワードが旧知のジョージ・ルーカスによるILMでなく、なぜデジタル・ドメインを採用したかは知るべくもないが、偶然とはいえこの3人が『アポロ13』のもとに結集した意味は小さくない。無重力撮影の方法について、重要な示唆を与えたというスピルバーグの息さえかかった『アポロ13』は、「84年の世代」の美しい共演作でもあるのだ。

なお、ハワードが熱望したアカデミー賞だが、残念ながら『アポロ13』は作品賞ノミネートこそされたものの、受賞は失することとなった(受賞はメル・ギブソン監督・主演の『ブレイブ・ハート』)。しかも、ハワード自身の監督賞ノミネートさえなかった。トム・ハンクスは3年連続の主演賞受賞の夢は果たせず(受賞は『リービング・ラスベガス』(マイク・フィッギス)のニコラス・ケイジ)。最終的な受賞は音響賞と編集賞のみという、さびしい結果に終わる。何より、圧倒的な存在感を示した、クランツ役のエド・ハリスが受賞を逸したのは釈然としない思いだ(受賞は『ユージュアル・サスペクツ』(ブライアン・シンガー)のケヴィン・スペイシー)。

これは何とも惜しい結果という他ない。もし『アポロ13』の作品・監督賞受賞が実現していたら、前の年に『フォレスト・ガンプ』で作品・監督賞を受賞したゼメキス。そして翌々年[14]に『タイタニック』で同賞を制することになるキャメロンと、ほぼ連続して「84年の世代」が栄冠を得ることになるはずだった。しかしながら、やはりそううまくはいかない。アカデミー賞の歴史は、ある種の映画人に対しては何とも厳しい試練を与えるものだ、という他ないだろう[15]

ただ、受賞にはめぐまれなかったが、興行的にはおおいに潤った。アメリカ国内の興行収入は1億7200万ドル[16]。後に『グリンチ』で記録的なヒットを放つまでのハワード作品としては最大の数字となる。

こうして、興行面でも、何より出来栄えの点でも、ある意味達成感を得ることができたのか、これ以後のロン・ハワードは、同じ「アメリカの物語」を語るにあたっても、やや重く、シリアスな題材を選ぶことが多くなってくる。そして先述した通り、すべての心がひとつの目標に向かってひとつとなるという、「アメリカの物語」の定義はそのままに、いよいよ、映画作家としての成熟期間に突入する。

『アポロ13』はロン・ハワードのキャリアにおいて最高度の達成を示した、永遠に揺るがぬ不朽の名作である。

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[] ロン・ハワード「いつの日にか、オスカー像を握ることを夢見ないかというとウソになるよ。」 Gray前掲書P.168

 

[] Gray前掲書 P.169

 

[] 「事故の第一報と同時に、テレビ、ラジオ、および活字メディアの記者たちが宇宙センターの施設に姿を現し始めた。(中略)ロビーに並べられたデスクに指定席はないから、早い者勝ちでどんどん占領されていった。」ジム・ラベル&ジェフリー・クルーガー『アポロ13』(河合裕・訳 新潮文庫 1995P.361

 それまでアポロ13号からの映像を放映すらしなかったマスコミは、事故の知らせを受けた途端にニュース価値を認め、報道を強化した。

 

[] トム・ハンクスは『フィラデルフィア』(ジョナサン・デミ)、『フォレスト・ガンプ』(ロバート・ゼメキス)により、1993年と1994年の2年連続でアカデミー主演男優賞を受賞。もちろんアカデミー史上初。

ただし、助演男優賞ではジェイスン・ロバーツが『大統領の陰謀』(アラン・J・パクラ)、『ジュリア』(フレッド・ジンネマン)で、19761977年と2年連続の受賞実績あり。

 

[] http://www.the-numbers.com/people/directors/RHOWA.php 参照。

 

[] 作品成立にあたっての情報は、Gray前掲書 P.170181および、“PremiereUS 1995 June掲載 Patrick GoldsteinRocket Man-Orbiting ‘Apollo13’ with Tom Hanks”を参照した。

 

[] なおこのシーンで、失意のマッティングリーは、彼に降板を言い渡すラベルとヘイズに向かい合わせの位置取りになっている。つまり、深刻な内容を話し合う構図として、彼らは向かい合っている。一方、ロケットの操縦室では、3人は同方向を向いて、並びあうことを余儀なくされるわけだ。

 

[] マッティングリー降板という、ラベル船長の苦渋の決断や、それに伴うマッティングリーの失望とスワイガーとの歓喜の様子。また、あたかもスワイガートよりも優秀であるかのようなマッティングリーの描写は、ジム・ラベル&ジェフリー・クルーガーによる前掲書には、まったく書かれていない。そして同書によると、マッティングリー交代の決断を下したのは、ラベル船長でなく航空医官である。従って、ここはロン・ハワードがいかにも彼らしいドラマツルギーで脚色したことがよくわかる。

 「そして医官はマッティングリーを搭乗員リストから外した。/ラベルはマッティングリー飛行士に対して強い信頼感を懐いていたが、代わりを務めることになった新しい搭乗員(スワイガート)も決して引けはとらなかった。」(ラベル&クルーガー 前掲書 P.154

 

[] 「われら合衆国の人民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の静穏を保障し、行動の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫の上に自由の恵沢を確保する目的をもって、ここにアメリカ合衆国のために、この憲法を制定し確率する。」(アメリカ合衆国憲法〔1788年〕〔前文〕)

 「自由にして独立の諸邦として、連合植民地は、宣戦・講和をなし、同盟・通商の関係を結び、独立諸邦が正等になし得るその他一切の行為をなす完全なる権限を有する。」(一七七六年七月四日、連合会議における十三のアメリカ連合諸邦の全員一致の宣言(独立宣言)〔1776年〕より)

 以上、樋口陽一・吉田善明 編『解説 世界憲法集 第4版』(三省堂 1988初 1991改)より引用。ただし傍点は筆者。

 

[10] 無論、この「アメリカ的」なるものが最悪の形をとる場合、それはひとたび開戦となったら、とにかく国民一丸となって合衆国大統領を支持することになる。その最たる結果として、2003年から始まるブッシュ(子)大統領によるイラク戦争の形となって現れたことは、言うまでもない。

 

[11] アポロ8号(1968年)のときは、「ほとんどの視聴者としては月からのプログラムを見るか、さもなければ何も他の番組は見られないという状況になった」(ラベル&クルーガー 前掲書 .99)わけだが、「アポロ13号の出番になったときには、世界もテレビ・ネットワークも関心を失っていた。(中略)全国の視聴者の意向としては、このような娯楽番組を中止して宇宙からの放送に切り換えることにはほとんど賛成なしの状況だった」(同 P.163

 

[12] 「それはまったくハワード・ホークスの映画ですね。つまりプロフェッショナルの集まりだということですね。」(「季刊 リュミエール」8号 1987年夏 筑摩書房 所収 山田宏一・蓮實重彦による対談「そこに映画だけがある ハワード・ホークス賛」における山田宏一の発言より)

ハワード・ホークス作品が、プロフェッショナル集団の映画であることを、この対談では存分に語られている。また、

 「ホークス的な人物は、男も女も、ただプロとして彼らの任務すなわち友情の証明を果たそうとし、そのために命をかける。」 山田宏一『シネ・ブラボー 小さな映画史』(ケイブンシャ文庫 1984P.21

山田宏一のこの美しい言葉は、まるで『アポロ13』について語られているかのようにも思える。

 

[13] 「映画を見るとは、ある正しい時と場所とに幸運にも居合わせた人々が、みなの視線を一つに連帯させて、なにかとてつもない、その時限りのものを目撃してしまうことなのだ。」沢田康彦・畑中佳樹・斎藤英治・宇田川幸洋『映画的!』(フィルムアート社 1987)所収 畑中佳樹「映画館に奇蹟が起こる」P.46

 「伝説の自然現象は、彼らの一途な祈りにも似た視線にだけ応えて、おごそかに、儀式のように生起する。(中略)映画は人々の視線によって生かされている何かである。数十年に一度だけ起こる伝説のスペクタクルとは、見るという行為を特別のものにせんとして映画がいつのまにか探り当てた潜在的な自己像なのかもしれない。」同P.48

 

[14] アカデミー作品および監督賞は、94年『フォレスト・ガンプ』(ゼメキス)、95年『ブレイブ・ハート』(ギブソン)と続き、96年は『イングリッシュ・ペイシェント』(アンソニー・ミンゲラ)をはさんで、96年に『タイタニック』(キャメロン)受賞。ロン・ハワードが『ビューティフル・マインド』で作品・監督賞を得るのは、『アポロ13』の6年後の2001年となる。

 

[15] たとえばスティーブン・スピルバーグ。しかるべき作品を発表しておきながら、『シンドラーのリスト』でオスカー制覇を実現するまでに、長い年数を必要とした。ことに受賞を有力視された『カラーパープル』では、作品賞を含む多数のノミネートを得ながら、監督賞候補からははずれ、しかも無冠に終わった。その意味で、『アポロ13』のロン・ハワードも似たような冷遇を受けたということか。

 

[16] 数字的根拠は、http://www.the-numbers.com/people/directors/RHOWA.php 参照。