14.エッセイ1 〜水に飛び込むことについて〜

 

 フランク・キャプラの『或る夜の出来事』(1934)は、アメリカ映画の古典として、今さら解説するまでもない。当時のアカデミー賞でも作品・監督・主演男女優・脚色賞の主要5部門をパーフェクト受賞し、有名作の多いキャプラの、分けても名高い作品だ。

 その中で、一般的に最も有名なシーンといえば、やはり「ヒッチハイクで必ず車を止める方法」だろう。クラーク・ゲイブルがいかにも自信ありげに車を止めようとするが、いざやってみると、もちろんどの車も素通りしていくまでだ。

 じゃあ、とばかりにクローデット・コルベールが交代する。すると、彼女はぬけぬけとスカートをたくしあげる。そして、その美脚を露にしてみせると、たちどころに車は彼女の前に急停車する。

 この映画を観るもの誰にとっても記憶に残るし、封切当時の観客はきっと腹を抱えて大笑いしただろうとおぼしき名シーンである。

 蓮實重彦も、それがゴダールの『ウィークエンド』でも利用されていることを示唆しつつ、「フランク・キャプラの『或る夜の出来事』いらい、まくられるスカートのはしから女の太股が露出するたびに、きまって自動車の急ブレーキが踏まれた事実が想い出されてきてしまい」(『映画の神話学』泰流社 P.90)と書いたりもするわけだ。

 

 しかし、おそらくロン・ハワードにとって、『或る夜の出来事』の最重要なシーンはそんなところではなかったはずだ。

 この映画の冒頭で、クローデット・コルベールはその結婚を大富豪の父親に反対され、豪華客船に父親とともに軟禁されている。それに不服な彼女はハンストを起こそうとするが、それも無益と知るや、なんとコルベールは船から海へと飛び込むのである!

 冒頭いきなりヒロインが海に飛び込む。おそらくこのことは、映画人としてのロン・ハワードの本能に、深く、根深く、骨の髄まですりこまれてしまったのではないかと想像する。

 あわてた父親は、直ちに子分たちに船を出させ、飛び込んだ彼女を追跡させるのだが、しかし彼女は何と、あっさりと逃亡に成功してしまうのである。コルベールは次のシーンではとっくに岸に泳ぎ着いており(いや、そんなシーンすら省略されている)、濡れた服をいったいどのように始末したものか、ともかく何事もなかったかのように、長距離バスに乗るのだ。

 そのバスの車中で、クラーク・ゲイブルと出会うという寸法だが、それにしてもしかし、銀幕の美女が一切ためらうことなく、海に飛び込み、自力で泳ぎ去っていくという、この凶暴きわまりない場面を見た瞬間、ロン・ハワードの人生は変わったはずである。

 よって、ロン・ハワードの映画では必ず誰かが水に飛び込まなくてはならない。

 

 海の中には美女がいる。そこにはクローデット・コルベールがいるはずだ。そんな妄想が形になったのが、『スプラッシュ』であることはもはや自明だろう。

 映画の開巻早々、少年トム・ハンクスは、海の中に美女=人魚を見出し、家族旅行中の船上から海に勢いよく飛び込んでしまう。そこに永遠の恋人を発見した主人公が、彼女を求めて再び海に飛び込むまでのゴタゴタが、この映画の骨子である。

 どちらかというと平凡な青年が、うっかり人魚と出会うことで、平凡からは遠く離れた生活に突き落とされる『スプラッシュ』の物語は、もちろん『或る夜の出来事』のようなスラップスティック・コメディとしての構成をとるだろう。その意味から、『スプラッシュ』はロン・ハワードの真の処女作と呼びたいフィルムであるわけなのだ。

 

 だがしかし、処女作という意味では、監督第1作『バニシングIN TURBO』はどうだというのか。

 実はこの『バニシングIN TURBO』も、父親に結婚を反対されたヒロインが、頭に来て家出をする話である。驚くべきことに、発想の根本が早くも『或る夜の出来事』だ。

 だがしかし、カーチェイスが売り物のこの映画は、旅の目的地が砂漠地帯のラスヴェガスである以上、水など登場しようがない。それでも、何とか理由をくっつけて、登場人物を水に飛び込ませるのがロン・ハワードである。

 この映画のように、その恋愛を認めてもらえぬ男女のラブコメディが、どんなシーンで終わるべきかというと、それは結婚式に決まっている。恋する2人の顔が大写しになって、キスをしたら、普通ならそこで映画にはエンドマークが出なければならない。絶対に。

 しかし、『バニシングIN TURBO』はこれに蛇足(?)をくっつける。めでたく結婚式を終えた2人は、その後、車でホテルへと向かう。その2人の車を、しつこいマスコミの車が追ってくるのである。そこからまたまた凄絶なカーチェイスが始まってしまうのだ。本来なら、これはまったく不必要なシークエンスのはずなのだ。

 で、追っかけに追っかけたあげくの果てに、2人を追いかけていたマスコミの車は、大邸宅につっこみ、壁をぶちぬき、部屋を乗り越え、すべてを破壊したあげく、裏庭に飛び出して、よりにもよって家庭用簡易プールの水の中に、ざぶんと飛び込むのである!

 ロン・ハワードの執念おそるべし。処女作にして、登場人物を水に飛び込ませるためなら、終わるべき映画も終わらせない。

 

 では、次作『ラブINニューヨーク』はどうか。これも、シノプシスとしては水を出しようがない作品だ。けれど、これも最後の最後。売春斡旋業を続けられなくなったマイケル・キートンはキャバレーで働くことになるわけだが、そのキャバレー、どういうわけだか店のど真ん中が大きなプールとなっている。

 そのプールに、マイケル・キートンは親友のカップルを救うため、意地悪なキャバレーの支配人を蹴り落とすわけだ。

 その後の『コクーン』が、全編、水、また水、ということは語るまでもないだろう。ロン・ハワードにおいては、水に飛び込みさえすれば、老人たちは若返ってしまうのである。

 

『ガン・ホー』もまた奇妙の極みで、アメリカにやってきた日本人の企業戦士たちは、なぜかオフタイムには川で水浴びをしている。その水浴びにつきあうことで、マイケル・キートンは日本人たちと少しでも交流をはかろうとあくせくするわけだ。日本人がヘンであることを示すのは勝手だが、しかしなぜに彼らを水に浸けねばならなかったのか・・・。

『ウィロー』には直接的な水は登場しない。しかし、ラストのバトルは激しい雨で、誰もがずぶ濡れとなっている。

『バックドラフト』もそうだ。終盤の大火災で主人公たちは、火災現場の貯水槽(なのかどうかよくわからないが、とにかく水がある)の水の中に落ちてしまい、困難な消火活動がさらに困難をきわめるのである。

 『遥かなる大地へ』では、ランド・ラッシュの行き着く先が、小川の流れる盆地である。その小川に馬の脚をとられたニコール・キッドマンは、バシャンと川に落ちてしまう。そのままレースを続ければよいはずのトム・クルーズは、彼女を捨て置けずに引き返してくる。水しぶきをあげながら、ずぶ濡れになって戦うクルーズは当然、土地も女も手に入れるわけだ。

 

 ちょっと凝っているのが『身代金』だ。息子を誘拐されたメル・ギブソンは、子供と引き換えに現金を持って、犯人グループの指定した場所に向かわねばならない。場所は、とあるスポーツジム。驚くべきことに犯人の要求はこうである。

「プールに服を着たまま飛び込め。排水口近くにカギがあるから。」

ここまで水にこだわられると、こんな犯人グループの要求に、もはや苦笑すらこみあげてくるのだが、きっちり理屈はつけられている。実はメル・ギブソンの体には、FBI捜査官によって発信機が巻きつけられている。それを見こした犯人の考えとしては、その体で水に飛び込めば発信装置は台無し。捜査チームは彼の所在をモニタリングできなくなり、犯人グループは居場所を特定されなくなるという寸法だ。

もちろんメル・ギブソンは、ずかずかとプール室にやってきて、見事にそこに飛び込んでみせる。

 

『ビューティフル・マインド』では、ラッセル・クロウがお風呂に赤ん坊を放置してしまう。忘れられた赤ん坊は、どんどん水に沈んでいく。すんでのところで妻ジェニファー・コネリーがそれを発見し、赤ん坊を水から引き上げるが、子供を死なせかけたことで夫婦生活はそこでひとたび、決定的な断絶を迎えてしまう。

『ミッシング』でも、誘拐された娘を捜索するため、憎み続けた父トミー・リー・ジョーンズと、不本意ながら旅をするケイト・ブランシェットだが、集中豪雨による洪水であわや溺死しそうになる。ここで、父娘の心にほのかな温かみが回復する兆しを見せるが、それは彼らがずぶ濡れになったからだと断言できるだろう。

 

このように、どこまでいっても、ロン・ハワードは水、水、水である。そして、水に飛び込むという行為の、その最大規模の作品が『アポロ13』であることは、前章でくどいくらいに書いたつもりだ。奇跡の生還をとげたアポロ13号は、成層圏から炎を吹き上げつつ、大海のど真ん中に飛び込んでいくというわけだ。ロン・ハワード作品史上、もっとも巨大な水へのダイブである。

 

フランク・キャプラを愛するのはた易い。その伝記ドキュメンタリー『フランク・キャプラのアメリカン・ドリーム』(1997 ケネス・バウザー)のナビゲーターを引き受けるのもいいだろう。しかし、これほどまでにキャプラ作品の変奏を、見事に、執拗に、そして豊富に奏でてみせるという、こんなに深く実践的で、しかも映画的な愛情表現があるだろうか。

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