15.『身代金』 (“Ransom” 1996

 

 ロン・ハワードは自身の風貌・・・というよりは、テレビ俳優時代の役柄イメージそのままに、ハートウォーミングな人情ドラマで、監督としてのキャリアを作ってきた。また、一般的にそうしたイメージも強いだろう。

 けれど、ハワードはこんな言葉をもらしている。

「年をとってくると、ときに楽観主義者たらんとするのはきついときがあるよ」。

また、プロデューサーのブライアン・グレイザーもこんなことを言っている。

 「ロンは陽気で穏やかそうに見えるが、実は内面はひどく複雑で、暗さと不安を抱えた競争好きの人間だ。そして彼はそうした部分をまず人には見せないんだ。」[]

 楽観主義ばかり語ってはいられないと感じるだけの見識を持ち、実は内心に暗部を持つ男。アメリカ合衆国なるものを形成する、さまざまな物語を語ろうとする、そんな映画作家が、アポロ13号奇跡の生還という、アメリカ的楽観主義の極みを描いた次の作品として選んだものは、サスペンス・スリラーだった。

 しかしただのスリラーではない。テーマはずばり、合衆国の「自警」という考え方である。これもアメリカという国そのものを語るために、避けて通れぬテーマのはずだ。

 自らの身は自ら守る。アメリカ人にとって、ほとんどDNAに刻印されているかのようなこの概念に真っ向から取り組もうとしたのが、この『身代金』だ[]

 銃社会としての合衆国を考察するうえで、しばしば俎上に乗せられる「自警」という概念。しかし『身代金』の主人公は、結果的に銃を握ることにはなるものの、決して銃の所有者ではなかった(ただしベトナムの帰還兵という設定ではある)。この物語においては、徹底的に自分のことは自分で判断し、行動し、ケリをつける、究極の自警主義的な思想を体現する人物を描くことで、「自警」的行動というものをあぶりだしていく(なお、「銃」を持っての自警主義は、後の『ミッシング』にて引き継ぐことになるだろう)。

 さて、その人物を演じるのはメル・ギブソン。おそらくロン・ハワード作品史上、最強の男である。

 話はそれるが、これは何とも皮肉な話である。というのは、前年に『アポロ13』によって、アカデミー賞を切望したと思しきロン・ハワードが無冠に終わり、代わって監督賞を含む、その年の受賞を独占したのが、メル・ギブソンだったからだ(作品は『ブレイブ・ハート』)。

 俳優出身で受賞歴なしのロン・ハワードが、同じく俳優出身のアカデミー賞監督メル・ギブソンを演出する。このことを双方が、とりわけハワードが内心どう感じているのかは、ちょっと推し量る術がない。しかしフィルムには、全身からエネルギーをみなぎらせた、これぞまさに俳優メル・ギブソン、といった表層を見事に定着させていると思う。

 それはやはり、「自警」という思想の権化として、ギブソンの男っぽさは最高にマッチしていたというべきなのだろう。また、ギブソンの妻役を演じるのが、レネ・ルッソというのも、その強さをいっそう補っている。

それというのも、メル・ギブソンの代表的な大ヒットシリーズ第三弾『リーサル・ウェポン3』(リチャード・ドナー 1992)で、ルッソはギブソン演じるリッグス刑事の恋人・相棒役として登場しているからだ。[]そのため多くの観客は、『リーサル・ウェポン』(リチャード・ドナー 1987)での「最終兵器」メル・ギブソンとレネ・ルッソのイメージそのままに、『身代金』の主人公を見つめることになるだろう。巧妙なキャスティングという他ない。

 

こうして映画の不動の中心として屹立するメル・ギブソンを演出するのに、当然ロン・ハワードは彼を特別扱いするだろう。

舞台はニューヨーク。『身代金』も、他の多くのハワード作品と同様、家庭パーティのシーンから始まるが、『バックマン家の人々』や『アポロ13』のそれが、これから活躍を開始する登場人物を俯瞰するための、全体把握の場として機能していたのに対し、『身代金』のパーティでは、ホストとして威風堂々と振舞うメル・ギブソンの「この男」ぶりが際立っている。

パーティの趣旨は、まさにギブソン演じる航空会社社長、トム・ミューレン(メル・ギブソン)の業績を祝う会だ。参加者の誰もが彼にエールを送り、妻ケイト(レネ・ルッソ)は注目を集め、息子のショーン(ブラウリー・ノルティ)は晴れがましく父を見つめている。そんな息子の熱い視線を、がっしりと受け止める父親が、ミューレンという人物である。

力強く頼もしい父親? ハワード作品として、それは初めての設定である。基本的にハワードが描いてきた父親像とは、『バックマン家の人々』を持ち出すまでもなく、誰もがどこか頼りなく、少々ふがいないものだ。

人格的には潔癖な『ウィロー』のウィローも人間的には成長途上にある未熟者であるし、最も理想的な父親像とも思える、『アポロ13』のジム・ラヴェル船長でも、子どもたちに対して決して父権的な振る舞いをする人物ではなかった。あえて言えば『バックドラフト』の主人公兄弟の父親が、「強い父親像」といえるかもしれないが、冒頭早々(主人公の少年時代)に死んでしまう以上、もとよりその資格を失っている。

『身代金』冒頭の家庭パーティの趣旨は、ミューレンが経営する航空会社の新コマーシャルの上映会である。当然ながらトム・ミューレン=メル・ギブソンの「強い男」ぶりを、悪ノリともいえるほどに強調したCMコンセプトだ。何せ、カウボーイハットをかぶったマッチョそのもののギブソンが、カメラに向かって微笑みかけてしまうのだ。

このギブソンのタフネスぶりに、一瞬影がさすのは、パーティに紛れ込んでいた、取材記者の乱入だ。いきなり、労働争議解決にあたっての不正疑惑を突きつけ、ギブソンの顔をしかめさせる。記者は直ちにつまみ出されるが、息子のショーンにはかすかな不安を残す事件となって、この後の彼の不運を暗にほのめかしている。

そうした瞬間はあるものの、全体としてはトム・ミューレンという男のカリスマ性を、このパーティ・シーンで遺憾なく発揮させるというわけだ。

 

そんなミューレンの一人息子ショーンが、身代金目当てに誘拐される。犯人グループからの息子の奪還が、この映画が描くだろう物語の最終目標となる。

誘拐現場はセントラル・パーク。そこでは子どもたちを集めた科学コンテストを開催している。夫のみならず、妻のケイトもセレブぶりを見せ、街の名士の妻である彼女もコンテストの委員長として、壇上で挨拶スピーチをしている。このときばかりはミューレンも脇にまわり、息子ショーンと人ごみの中で話をしている。

けれどショーンは自慢の発明品である、自主制作のリモコン飛行機を持ってきているが、コンテストにはエントリーできなくて腐っている。委員長の子どもは参加資格がないというわけだ。そのことを説明して、しきりになだめるミューレン。いつしかショーンはその場を離れて、一人で飛行機を操縦している。ミューレンの方は、やがて知り合いと出会って、ついつい話し込んでしまう。

ここからは視線のドラマである。息子の位置を確認して、彼に視線を向けるケイト。ただし、リモコン操作に没頭しているショーンは視線を返さない。そうしているうちに、実は先ほどから様子をうかがいつつ、じわじわとショーンに接近をはかっている犯人グループの姿がある。実行犯は3人。彼らが誘拐のチャンスを狙って、抜け目なくショーンに視線を投げかけている。

一方、これは驚くほど繊細なカット割りなのだが、息子から目を離して以後、誘拐実行のその瞬間まで、ミューレンが息子に目線をくれるショットは一度もない。つまり、本当に文字通り、父親ミューレンは迂闊にも子どもから目を離していたということが、編集によって示されている。弁解の余地なくほったらかしにしたのだ。

このように、たくさんの視線をモンタージュしつつ移動するカメラだが、やがて横移動とともにカメラアイが柱の影になったかと思うと、次の瞬間ショーンの姿はかき消えている。失踪である。

こんなとき、ロン・ハワードのテクニックは決して間違いをおかさない。ようやく息子の姿が見えなくなったことに気づき、最初はゆっくり、しかし次第にあせりを高めていくミューレン。ケイトも異変を察知し、壇上からマイクでショーンにすぐ姿を現すようアナウンスする。

無駄であることはわかっているのだ。というのは、ショーンが操縦しているはずのリモコン飛行機が、明らかにコントロールを失って飛んでいるのだから。トムとケイトの焦りを、操縦者の手を離れてさまようリモコン機のショットに託して、適宜インサートさせる鋭い編集。はるか上空を飛ぶ飛行機には手を伸ばせない。完全になす術なしの現在状況が示される。

人ごみの中、息子を探してそれぞれ走るミューレンとケイト。ここでカメラアイは、実に複雑かつ印象的な表現をやってのける。カメラはあたかもミューレンまたはケイトの視点であるかのように移動する。彼らの目の代わりのように、左右に動きさえするが、しかしもう一度ぐいっと動いた瞬間に、今度はミューレンやケイト自身の体がフレームインしてくるのだ。

これに見ている者は、軽い困惑を感じる。てっきりミューレンの目線だと思っていたカメラの動きが、そのままワンショットでミューレンその人の姿を映しこんでしまうのだから。ケイト目線の場合も同様である。こんなショットを目にしてしまうと、無意識のうちに眩暈のような不安感、ちょっとしたパニックの感覚を覚えずにはいられない。ロン・ハワードは、こうしたまったく新しい視点の表現を開発している。

ショーンを探しまわるうち、やがてついにビルに引っかかって破損したリモコン機は、真っ逆さまに墜落。地面に激突して大破する。墜落に伴う、ロン・ハワードの上から下への「垂直のカメラ」である。

後にもう一度触れるが、『身代金』においては「垂直のカメラ」が使われるとき、それは完璧な絶望を示すときである。たとえば、『遥かなる大地へ』の垂直のカメラが、生命を呼び戻すものだったのとは、真っ向から意味が違っている。つまり、シニフィアン(意味するもの)は同じだが、シニフィエ(意味されるもの)が異なっているのだと言えば、より正確だろうか。

 

さて、こうしてストーリー展開に従って、コメントを加えていくことは趣意ではないので、ひとまずここまでにするが、ともあれ『身代金』において、ロン・ハワードが最も技を注いだのは、こうした視線の処理のはずだ。何をどのように見るかが、すべて生存をかけての勝敗を決する行為となるべく物語は進行する。

 ショーン失踪後、視線は空中をさまようリモコン機に注がれていくが、リモコン機には「目」が存在しないので、リモコンの側から見つめ返すショットはあり得ない。[]それがスクリーンにおける真の「失踪」ということである。

 なお、『身代金』における視線劇は、見る・見られるの関係だけではない。直接対話をしている相手以外にも同時に注がれる眼差しという、「第三の視線」とも呼ぶべきものを導入している。それが、この映画における冒険のひとつである。

 「第三の視線」とは何か。それを目にできるのは、たとえば誘拐の主犯シェイカー(ゲイリー・シニーズ)が雑貨屋のガサ入れをしている、初登場シーンである。

 犯人探しがこの映画の趣旨ではないので、未見の読者にそれを明かしても何らネタバレにはならないと思うが、主犯のシェイカーはニューヨーク市警の刑事である。警官の立場から、ミューレンが労働争議を金で解決したことを知っており、彼を「何でも金で解決する男」と評価したことから、一山狙おうと誘拐チームを組織し、その息子を標的にしたのである。

 そのシェイカーを演じるゲイリー・シニーズ、最初の登場シーンで、彼は雑貨屋でチンピラ相手に尋問を展開している。このとき、彼の目は直接話している相手でなく、別の人物へと向けられている。これが観客は気になってしかたがない。シニーズの目は、店内に入ってきてあれこれ買い物をしている、別の男の方にこそ向けられているのだ。本論では、こうした目線を指して「第三の視線」と呼ぶことにしたい。

 これが実にうまく観客をミスリードしていく演出術となっている。直接話しているチンピラへの尋問ぶりで、シェイカーが非常に実力のある刑事であることがまず認識できる。

 次に、この「第三の視線」によって、彼の関心は直接尋問しているチンピラなんかではなく、実は買い物している男の方にこそあることがわかる。見られていることを感じている男の方も、シェイカーに目を向けて、どこかびくついている様子である。そしてその男が、誘拐実行犯の一人であることを我々は知っている。得体のしれないサスペンスが画面に満ちる。同時に、尋問しながらも、第三者に対して視線を走らせているシェイカーの抜け目なさが、観客に印象づけられさえするわけだ。

 この作品にゲイリー・シニーズという演技達者が必要なのは、こうした画面を作る要請があるからだ。この映画は、非常に強烈な目を持つ俳優によってこそ可能な視線劇なのだ。

 雑貨屋のシーンが終わった後、シェイカーによって見られていた男は、潜伏地で熟睡している。その頭に不意に銃口が突きつけられるが、その銃口の主はシェイカー。早速、「優秀な捜査官」シェイカーが、誘拐犯のアジトを嗅ぎつけたか、と観客は瞬間勘違いをする。しかし、その後に続くセリフがそれを打ち消す。

 「サツに顔を知られているお前が、捜査官がうようよする店に入って、子ども用のシリアルを買うとは貴様はバカなのか。今度くだらん真似をしたら殺す」

 すなわち、シェイカーこそ主犯であることがここでわかり、観客は戦慄させられるというしかけだ。

 視線の強力さでは、ゲイリー・シニーズに一歩もひけをとらぬのは、もちろんメル・ギブソンである。話をいきなり端折るようだが、ギブソンによる「第三の視線」劇の極北は、終盤のクライマックスであらわれる。

 いかにもショーンを救って名誉の負傷を負った、お手柄警官を装っているシェイカー。ミューレンもシェイカーが、息子を助けた恩人として疑いを持っていない。そこで、懸賞金を受けとるために、ぬけぬけとミューレンの自宅オフィスにやってくる。

 メル・ギブソン対ゲイリー・シニーズ。それまでの展開において、互いに顔を合わせることのなかった二人が、初めてここで正式に相対して、視線劇をぶつけあわせる、息づまる究極のハイテンションシーンである。

 デスクをはさんで一対一。ロン・ハワードによる、向かい合わせの構図・反構図のおなじみのシーンだ。正義の警官を装うシェイカーと、それを疑わぬミューレンの、どこか曖昧でとらえどころのない会話を続けつつ、ミューレンは小切手を切る。

 ドアを開けはなしたオフィスの外で、ショーンがその様子をちょうど耳にする。聞き覚えのあるシェイカーの声に、ショーンは彼こそが自分を誘拐した真犯人であることを察知し、恐怖におののく。ショーンはシェイカーの斜め背後に位置し、彼からは見えない。その息子が恐怖にひきつる姿を目にするのが、ミューレンである。ここに第三の視線が発現する。

 シェイカーと何食わぬ会話を続けるミューレン。目線は当然シェイカーとミューレンが交わる。しかしそれと同時に、恐怖のあまり痙攣し、失禁すらしてしまうショーンの様子の方にも、「そうなのか? こいつなのか?」と、ミューレンは常に視線を投げかける。メル・ギブソンの雄弁な目は、ゲイリー・シニーズ以上に、どこに向けられ、何を感じているかが、手に取るようにわかる。

 この「第三の視線」によって実現可能になった、緊迫感の醸成はただごとではない。目の前の人物が、まさに犯人であることを察知してほしいと願う観客の感情移入以上に、しかしそれほど鋭く、相手以外の方に目線を向けていたら、背後にいる息子の存在が犯人に察知されてしまうのではないか、と取り越し苦労までさせられる。

 この「第三の視線」においては、ミューレンを見つめるシェイカー。シェイカーと息子ショーンの両方を見つめる、第三の視線の持ち主ミューレンに加えてもう一つ、シェイカーを見つめているショーンの視線も加わるのだ。実に4方向もの視線が複雑に絡まりあい、もつれにもつれることで、これこそサスペンスだとしか言いようのない、見事な場面を作っている。ロン・ハワードはここにおいて、いよいよ視線劇の達人として君臨するだろう。

 なお、印象的だがちょっと複雑な「第三の視線」シーンがもうひとつ。実はミューレンには誘拐犯の心あたりがあった。冒頭に伏線として張られた、労働争議の収賄疑惑において、ミューレンが刑務所送りにしたブラウン(ダン・ヘダヤ)という男がいる。牢に入れられたことの怨恨から、この男が手引きして誘拐をたくらんだのではというわけだ。

 そこで、ミューレンは刑務所にいるブラウンとの謁見を願い出る。彼が誘拐犯と信じて疑わぬミューレンの視線と、自分を刑務所にぶちこんだことから憎悪に満ちたブラウンの視線が、差し向かいになってぶつかり合う。

 また、この謁見はマジックミラーごしに、デルロイ・リンド演じるホーキンスFBI捜査官が監視している。このホーキンスがいるはずの方向に向けて、「第三の視線」としてミューレンはしばしば目を向ける。しかしマジックミラーごしなので、ミューレンからホーキンスの姿は見えない。この「第三の視線」はホーキンスの側からだけであり、従って一方通行である。このように、この場面は全体において、何らの意味合いを担ってはいないが、そのいびつさにおいて、記憶にとどめるべきシーンである。

 こうして、この映画においていかに視線が重視されているかは、例証していくとキリがない。冒頭のパーティシーンでも、キッチンで働く賄いの女中の手首に彫られたタトゥーを、ショーンはたまたま目にしてそれが彼の記憶に残る。ショーンとタトゥーの切り返し。後に監禁されたショーンは、そのタトゥーから犯人グループの女が自分の家に働いていたことに気づくのだ。

 あるいは、犯人に要求された身代金を運ぼうとするミューレンだが、信号待ちの車中から、ショーウィンドウのテレビに映ったCMの自分の姿をたまたま目にする。それをにらみににらむミューレン=メル・ギブソン。その視線をまともに受け止めるカメラ。にらむ目線のあげくの果てに、ミューレンは身代金支払いの翻意を決意する。犯人にくれてやる代わりに、その金を犯人発見(息子生還)のための懸賞金とすることを、テレビニュースに流すのだ。

 こうして、重大な決断から、ささやかな伏線にいたるまで、『身代金』は常に視線の劇としてある。しかし、技巧に技巧をこらしたこの演出術は、ここでもあまりに自然に、そうと気づく間もなく見せてくれるので、ほとんど気づかれることがない。

 別の章でも述べたが、ロン・ハワードの映画は、あまりにもさりげなく高度な演出が施されている。技術を技術として感じさせられないくらいに、ストーリーの語り口に資されているためだ。そこで本論はどこまでも、そうしたロン・ハワードの演出術を顕在化させることに力を注ぐつもりである。

 

 さて、そろそろ「自警」というテーマに話を移したい。

 誘拐犯逮捕と息子救出のために、ほどなくしてホーキンス捜査官(デルロイ・リンド)率いるFBIのチームが、ミューレンの屋敷に部隊を設置する。

 ホーキンス以下、捜査チームは誠実そのものに描かれている。決して無能ではないし、それなりに経験豊かなプロ集団である。しかし、その作戦はことごとく裏目に出て、どうしても救出に至ることがない。

 目の前のリスク回避を優先する、マニュアル化された捜査では駄目なのだ。そのやり方では、たとえば最初の身代金受け渡しに際して、受け取りにやって来た犯人チームの一人を、激しいチェイスの果てに、ついに射殺してしまう。子どもの居場所を突き止め、救出するためには、何としても共犯者を生け捕りにしなくてはならない。それなのに、相手が撃ってきていることからこちらも発砲せざるを得ず、ついに致命傷を負わせてしまうのだ。

 劇中人物たちはそのことを知る由もないが、しかし観客は、殺された共犯者が犯人グループ内で唯一、子どもの身を気にかけている穏健派であることを知っている。そのため、彼の死は救出の唯一の希望の糸を断ち切られたような気持ちにさせられる。作劇上、最初に死すべきは誰なのかということの、正確な見積もりである。

 こうした失態をきっかけとするまでもなく、ミューレンはすべてを自分で切り回そうとしている。そもそもこの身代金受け渡しの役割を、自分自身がやると言い張ったのが、他でもないミューレン自身なのだ。

 FBIの当初の計画は、ミューレンに姿格好の似た捜査官を選定し、彼を身代金受け渡しのボディダブルにするものだった。しかしミューレンはそれを拒否。自分でやると強く主張する。ホーキンス以下、捜査チームはそれを何とか押しとどめようとする。「責任持ってあなたを助けられないから」と。

 聞く耳持たぬミューレンは、自ら乗り出すわけだ。この行動原理の根幹は、息子への愛情という以上に、身を守るのに信じられるのは自分だけという、まさに「自警」の精神に根ざすはずである。そして、「彼ら(FBI)にはまかせられない」という、彼の本音に基づいてもいる。

 それは、トム・ミューレンという人物が、裸一貫から事業をおこし、屈指の航空会社にしてのけた、いわばアメリカン・ドリームを体現した男だという設定から、なおのこと説得力を持つ。彼はすべてを自らの手で切り開いてきたのだ。

 以後、すべてを自ら下そうとするミューレンに対し、ホーキンス捜査官は頭を痛め続けることになる。そもそも、ミューレンを「守りきれない」からこそ、身代金受け渡しに、ボディダブルを使う作戦だったはずなのだ。しかしそれをミューレンが拒否し、自分自身が受け渡しに乗り出したために、彼を「守るために」せっかくの共犯者をやむなく射殺するハメになった、という見方もまた、可能なのである。悪循環だ。そしてこの悪循環が、「自警」と「法規制」との、永久に折り合いをつけられぬ、アメリカ合衆国における現実社会の矛盾を暗喩してさえいるのではないだろうか。

 そしてそのミューレンの行動の頂点が、200万ドルもの札束を目の前に積んで、「身代金は絶対に渡さない、この金はそのまま生死を問わずに、犯人グループの賞金にあてる」との声明をテレビの電波に乗せるというものだ。その後、犯人グループとの交渉が決裂したミューレンは、さらに懸賞金を倍にしさえする。

 すべて是非の分かれる行動だ。ミューレンは妻をも説得しなければならない。彼は、犯人であるシェイカーとの交渉にあたって、「なぜうちの息子を選んだのか」と詰問する。それに対する答えは、「何でも金で解決する人間だから」であった。「そういう人間は、必ず金を出す」と。

 すなわち、ミューレンにとっての目の上のたんこぶである、労働争議解決のために裏金を使ったという事実をさしているわけだ。

 しかし、シェイカーの誤算は、ミューレンが本当に文字通り「金で解決する人間」だったことだ。身代金を自分たちの首への賞金に代えるとは思ってもみなかった。

この行動は妻を説得するミューレンの理屈によると、犯人チームに思いがけない事態を発生させ、身代金がとれないようにする。決して金がとれないとわかると、必ず内部から分裂をはじめる、ということだ。

 その理屈は実に説得力があるし、実際その通りになる。シェイカーのもう一つの誤算は、この誘拐が彼の単独犯でなかったことだ。もともと犯人チームも寄せ集めであり、精神的結びつきはきわめて希薄。1セントでも多く金を手に入れるためには、平気でシェイカーを売りさえするだろう。

 こうしてミューレンと犯人グループとの駆け引きは、血みどろの消耗戦となり、ホーキンスはじめ、FBIの捜査チームの存在感は遠景に消える。

 

 この「自警」について、ロン・ハワードは何ら明快な是非を出していない。結果的に子どもを救出できたとしても、彼が自警を是としたわけでないのは言うまでもない。ハリウッド映画の定型として、それは物語上の要請でしかないからである。

 あくまでも「自警」を旨とする精神構造は確かに存在する。そして、間違いないことは、それこそがアメリカ合衆国であるという点であり、そうした心性を映画化するのが『身代金』でのロン・ハワードの使命だったということだ。

 さらに付け加えると、本稿では『身代金』が視線の劇であるということを入念に語ったが、「自警」は、おのずと「監視」という概念にも結びつく。

 すなわちミューレンは、「身代金」を「賞金」へと変換することで、アメリカ中の人間の視線を、犯人チームを監視する大捜査網と化したということだ。もちろん、アメリカ中の人間の視線などというものを、可視化できるはずはない。しかし、「自警」と「監視」を表裏一体のものに結びつけることで、犯人チームに注がれる何十万もの監視の目を、視線の束としてスクリーンに蔓延させることに成功する。こうして、視線の劇としての『身代金』は、途方もなく巨大なイメージを獲得するだろう。これもまた、ロン・ハワードの驚くべき手腕という他ない。

 そのハワード自身は、『身代金』のDVD特典メイキング映像で、この映画でもっともうまくいったシーンは、電話を通してミューレンとシェイカーが互いに激しくやりあい、興奮の極みで電話口の向こうで銃声が聞こえた場面と、それに続く夫婦の抱擁シーンだと述べている。

 放たれた銃声から、ここで観客を含め、誰もが子どもが死んだと思う。ここで絶望のどん底に落ちたミューレンは、ふらふらとバルコニーに行く。観客は彼が身投げをするのだと予感する。高所のバルコニーから、はるか下を覗き込む「垂直のカメラ」。

『身代金』にあっては、この「垂直のカメラ」を目にするとき、誘拐された子どものリモコン機が墜落したときと同様、それは完璧な絶望を指し示す。

しかし、ひとたび地上を覗き込んだミューレンは、身を投げることはできず、寄り添ってきた妻ケイトと抱擁するのである。[]

ハワード自身は、子どもの死とミューレン自身も自殺するのではないか、と思わせることについて、うまく観客の気持ちをミスリードし、しかも夫婦の熱い絆を十分に表現できたとみて、結果に満足しているようだ。[]

実際、受話器を解してのミューレンとシェイカーの、激しい言葉と言葉の応酬を細かなカットでつなぐ、この場面のハイパーテンションぶりはすさまじいもので、観る者に激しい緊張を強いる。ここでもメル・ギブソンとゲイリー・シニーズの、どちらも一歩もひけをとらぬオーバーアクトぶりを見事に利用した、これ以上はあり得ない最高の演出である。自画自賛するに足る名シーンであると重ねて述べておきたい。

 

こうして『身代金』は、スターとしてのメル・ギブソンの興行力も手伝って、1億3千6百万ドルと、『アポロ13』の数字には届かなかったものの、それまでのロン・ハワード作品としては自己2番目の大ヒットとなった。[]

そして、最後まで暗雲のたちこめたような、暗い内容であるにもかかわらず、それをヒットにつなげたことで、ハワードの作風を大きく押し広げることとなった重要な作品だ。

本論では「自警」というキーワードを用いたが、合衆国民の本質ともいえる精神性をまたひとつ描いて、ロン・ハワードの描く「アメリカの物語」はさらなるふくらみを増した。つまり、ポジティブな物語の裏側たる、ペシミスティックな影のアメリカにまで領域を拡大したということだ。冒頭にも記したが、この路線は7年後の『ミッシング』でも拡張的に、受け継がれることになるだろう。

しかしそれ以上に、『身代金』は物語として圧倒的におもしろい。あらゆるシーンにおいて、観客に激しい緊張感を強い、一瞬たりとも興味をそらさぬ超一流のサスペンスアクションだ。

 またしてもロン・ハワードのフィルモグラフィーには、魅力あふれる成功作が一本加わったのである。

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[] Gray 前掲書 P.185

 

[] 小熊英二『市民と武装』(慶応義塾大学出版会 2004)によると、自警の論拠ともなるべき合衆国憲法修正第二条(市民の武器携帯の権利)の思想的背景は、R・シャルホープの文献をもとに、十六世紀から十八世紀にかけての近代自由主義にあり、その元祖はマキャベリである。

その語るところの一部を、手前勝手に省略しつつ要点を引くと、

「市民軍の本質は、個々の市民が経済的に自立しているということにある。」

「こうした武装観は、自由主義思想と調和しやすいものであった。なぜなら自由主義は、市民の自由を称え、権力を止むを得ざる必要悪として制限しようとする思想だからである。」(以上P.14

「こうした思想は、アメリカ建国の中心人物たちにも共有されていた。(中略)そして武装を奪うことは、人民を恐れる圧制者の行為であり、自由の国は、よく組織され武装した人びとの自発的意思によって守られなければならない。」(P.1516

 

[] 続く『リーサル・ウェポン4』(リチャード・ドナー 1998)では、ギブソン演じるリッグスと、レネ・ルッソ演じるローナは、結婚して出産するまでになる。また、ローナはリッグスの相棒だけあって、男以上の身体能力を持った女性刑事という役どころである。

 

[] ただし、このリモコン機には小型カメラがとりつけられていて、飛行機目線から落下して、破損するまでの映像は撮影されている。その画面を何らかの手がかりにならないかと、ミューレンが見るシーンもある。

 

[] ここでミューレン=ギブソンが自殺しなかったのは、自殺などもっての他のカトリック教徒としてのメル・ギブソン本人の宗教的心情とは、さすがに何の関係もないだろう(「彼(ギブソン)はアイルランド系の極右カトリックであり、中絶絶対反対を標榜し(七人の子持ちである)、ローマ教会はリベラルすぎると批判を続けている」

(「現代思想」(青土社)20036月臨時増刊 Vol.318 「総特集 ハリウッド映画」所収 村山敏勝「メル・ギブソンの政治身体」より)。

けれども、メル・ギブソンほど自殺衝動の強い人物を演じ続けて来たスターも、少ないように思われる。実際に銃口をくわえて自殺しようとする場面もある『リーサル・ウェポン』(リチャード・ドナー 1987)はもちろんだが、出世作となった『マッドマックス』(ジョージ・ミラー 1979)の刹那的なヒーロー。

監督デビュー作ともなった『顔のない天使』(メル・ギブソン 1993)の厭世的な主人公も、潜在的な自殺志願者と見ることができそうだ。また、『ブレイブハート』(メル・ギブソン 1995)の主人公の最期は実質的な自殺とも思えるし、自殺願望の権化ともいうべき、『ハムレット』(フランコ・ゼフィレッリ 1990)を演じてさえいるのだ。

なお、先に引いた村山敏勝の論文は、メル・ギブソンの本質をつかまえて、蒙を開かされることの多い優れた仕事である。

 

[] 「この作品でもっとも説得力のある場面は、われながら会心のできだと自負しているんだが、電話の場面だ。メル(・ギブソン)とゲイリー(・シニーズ)が話しているうちに、ゲイリーが激昂する。メルもレネ(・ルッソ)もFBIも子どもが殺されたと考える。観客にも真相が伏せてある。そして、メルがふらふらとバルコニーに出る。飛び降りるつもりなのか誰にもわからない。それにレネの顔を挟みこんでいった。そのとき傷ついた夫婦は、取り乱しながらも支えあうんだ。」

(『身代金』DVD内特典メイキング映像「あなたならどうする」より、ロン・ハワードのコメント)

 

[] 数字の根拠は、http://www.the-numbers.com/people/directors/RHOWA.php による。