16.『エドtv』 (“EDtv”  1998

 

ロン・ハワードの作品には、「水に飛び込む」ことの他に、もう1つしばしば出てくるモチーフがあって、それがネタを求めて騒ぎ立てる「マスコミ集団」である。

新聞社を舞台にした『ザ・ペーパー』はもちろん、主人公カップルの逃避行を追い回すデビュー作『バニシングIN TURBO』や、大都会に突然現れた人魚を追いかける『スプラッシュ』。それから『アポロ13』に『身代金』まで、ネタを求めて狂騒するマスコミ取材陣の姿が頻繁に登場する。

この『エドtv』は、そうしたロン・ハワードによる、マスコミ観の集大成だ。そして、マスコミによって窮地に陥った主人公が、マスコミの力を逆手にとることで大逆転を果たすという意味では、前作『身代金』の発展的な焼き直しとも言える。

では、なぜこの作品がマスコミについての集大成とまで定義してしまえるのか。それは、ロン・ハワードがここで初めて、メディアによる報道・放送に踊らされる「大衆そのもの」を描いたからだ。

『アポロ13』での奇跡の生還は、その逐一がテレビ放送されているが、それを見つめて固唾を飲んでいるのは、13号の操縦士はじめ、アポロ計画に関連した家族たちだけである。けれど、テレビの前にその数百万倍はいたはずの、無名のアメリカ一般視聴者の姿は、一度も画面に登場しなかった。

『身代金』でも同様で、メル・ギブソンが自らの姿をテレビ電波に乗せ、誘拐された息子の命の引き換えとなる身代金を、犯人への懸賞金に変えるという逆脅迫を全米に流したとき、その放送を見て唖然とするのは操作チームと犯人グループだけだ。そのニュースを見たはずの多くの大衆や、ガセでもなんでも、とにかく犯人の情報を通報しようとする一般人たちの姿は、とうとう映画には出てこなかった

すなわち、ロン・ハワードは何度もマスコミを描いてはきたが、そのマスコミ報道の受け手である大衆を画面に登場させたことは、ほとんどなかったのだ。

普通に考えたら、アポロ13号の成り行きを真剣に見つめる一般家庭のショットが、1つくらいあってもよさそうなものだ。それに、札束を積み上げて、「これが懸賞金だ」とすごんでみせるメル・ギブソンが大写しになった瞬間、驚きつつも「金儲けのチャンス!」[]とばかりに色めき立つ無名人たちの、細かいカットが3つか4つくらい連続して挿入されるのが、むしろセオリーのような気さえする。

その理由は簡単であって、これまでマスコミの好奇の対象となったロン・ハワード的登場人物は、都会に現れた人魚であり、宇宙で迷子になった宇宙飛行士たちであり、子どもを誘拐された大富豪である。つまり、その存在が既に特権的であって、ほっといてもニュースネタとして十分なキャラクターなのだ。

従って、群がるマスコミのその向こうに、数千万の視聴者たちがいるのはもはや自明。だから、そんなカットをいちいち見せている暇はないのだ(それくらいなら物語を先に進めよう! というハワードの声が聞こえてきそうだ)。

けれど『エドtv』の主人公は違う。彼はもともと平凡な青年であり、本来なら間違ってもテレビに映るような人物ではない。彼はあくまで大衆の存在があって初めて「作られる」人物であって、視聴者がいなければ、存在しないも同然なのだ。だから、彼を存在たらしめている無名の大衆を描写するのは、ごく当然の成り行きと言えるだろう。

こうして、「見られる者」だけを描いてきたロン・ハワードの映画に、それを「見る者」の要素が加わることで、これまで一方通行だった主観が双方向になり、従って彼のマスコミ論が完成する、という寸法である。

 

そんな『エドtv』の設定はこうだ。アメリカ国民の中から無作為に選ばれた無名の人物に、24時間べったりとカメラがはりつき、その生活すべてを全国にライブ放送するという番組が企画される。当初は、そんなものを誰が見るのかと訝るテレビ局首脳だが、番組は想像を超えて大ヒットし、選ばれた青年は国民的アイドルに祭りあがっていく。

 番組方針は執拗をきわめ、すなわち食事・排泄・睡眠・性行為など、極度にプライベートな事項も含めて、すべての行動が全国放送される。

つまり、自分のすべてがさらされて平気な青年。それを熱狂的に見る視聴者。また、ウケていることを理由に、どんな異常事態が起こっても平気でカメラを回し続ける撮影隊と、さらにそれを喜ぶテレビ局上層部、という構図である。

視聴者がチャンネルを合わせなければ(視聴率が低ければ)、彼はただの無名人だ。けれど、それを数千万世帯が見てしまうが故に、彼の存在は不意に浮上する。

こう書いてくると、『エドtv』とほぼ同時期に制作されたことでしばしば引き合いに出され、結果的にその内容と存在を打ち消してしまった、もうひとつの作品をどうしても記さないわけにはいかない。それは、ピーター・ウェアーが主演ジム・キャリーと撮った、ほとんど同じ発想の作品、『トゥルーマン・ショー』(1998)である。

似ているとはいえ、しかしきわめて大きな違いはある。『トゥルーマン・ショー』の主人公トゥルーマンは、『エドtv』の主人公エドと違い、自分の生活が24時間テレビ放送されていることを知らない。彼が生れ落ちたその瞬間から、その成長のすべては放送されており、大衆に見守られているが、そのことを知らぬは本人だけという設定なのだ。

エドの周りは、いつもカメラマンたちがうろついているのに対し、トゥルーマンを撮っているのは、あちこちに設置された隠しカメラだ。つまり、家族ぐるみ、国ぐるみで、彼をだましているのである。だから、トゥルーマンの周りの家族、友人たち(すなわち全員がテレビの出演者)は、彼が動き回るたびにカメラのアングルが変わるので、食卓のミルクなどのラベルをカメラの方向にいちいち向けなおさなければならない。なぜなら、スポンサーの商品名は常に画面に映っていなければならないからだ。『エドtv』にはない、こんなブラックなギャグが、こちらには随所にある[]

 しかし私見を言うなら、『トゥルーマン・ショー』は、設定の異常さが度をすぎていて、結局のところストーリーを回収しきれなくなり、ただの絵空事になった失敗作だと思っている。確かに、見られることによって初めて存在する人格、というテーマは、『トゥルーマン・ショー』の設定の方が、より(たち)が悪い分、鮮明にして強烈だ。だから、他人のプライバシーを楽しむ大衆の病理や、ファシズムすれすれの情報産業のいびつさを戯画化できる。しかし、『トゥルーマン・ショー』のそうした押し付けがましい説教くささは、映画をとにかく重苦しく、鬱陶しいものにしている。

 ハワードはそうした説話作法を、誰よりも理解している映画作家である。そこで彼の嗅覚は、またしても旧知のベテラン、ローウェル・ガンツとババルー・マンデルのコンビを脚本に起用する。ハワード作品の物語を紡いですでに6本目。彼らなら間違いなくこのややこしい設定を、ウェルメイドに構成してくれるだろう。

 狙いは当たる。極端な環境にある人々の姿を、設定の積み重ねによって見せる彼らのシナリオは、しかるべきシチュエーションで、アメリカ人はどのように反応するかを、しっかり伝える物語となる。他人に見られることで壊れかけた家族が、もう一度もとに戻るまでを描いて、ファミリー映画としての要素を取り逃すこともない。こうして『エドtv』もまた、ロン・ハワードが蓄積しつつある、「アメリカの物語」の系譜の1つとなる。

 とはいえ、『エドtv』は『トゥルーマン・ショー』と比べ、批評的にも興行的にも成功できなかった[]。確かに、より露悪的な『トゥルーマン・ショー』の風刺性の方が、わかりやすくはある。エド役のマシュー・マコノヒーと、トゥルーマン役のジム・キャリーのスター・バリューの差も、決して無関係ではないはずだ。

 『トゥルーマン・ショー』は、「メディア社会」という、批判すべき標的をはっきり特定したが、『エドtv』はそうではない。メディア産業を揶揄しながらも、その自浄作用にも目を向ける。愚昧な大衆をからかいこそするが、愛すべき滑稽な不特定多数としても描いている。そして何より、これは家族の絆についての物語だ。この複合的な構成は、撃つべき敵をはっきり名指ししない[]。そのぶん難解で、表面的なコメディ要素だけが見えてしまった、という可能性はある。ロン・ハワード作品が蒙る、毎度の不幸である。

 興行的な物言いをするならば、「売りにくい」映画というわけだ。そうするとやはり、本論の課題も、これまでの章で行ってきた通り、『エドtv』が、どのように「アメリカ人」についての物語を語っているかを、詳らかにすることとなるだろう。

 

 物語はこうだ。テレビディレクターのシンシア(エレン・デジェネレス)は、行き詰った自分のキャリアのため、視聴率を稼げる起死回生の企画が必要だ。そこで彼女は、まったく無名で平凡な1人の人物を選び、その1日を24時間ぶっ通しでオンエアしようと発案する。

 そこで、局は全米のあちこちにカメラクルーを送りこみ、その候補になりそうな人物を探しにかかる。そんな中、サンフランシスコの平凡なプールバーに、クルーはやって来る。ここでは互いに見知った仲の地元の若者たちが、軽口を叩きながら酒を飲み、ビリヤードに興じている。

 テレビカメラがやって来たと知り、いかにも何かしでかしそうで、軽薄なレイ(ウディ・ハレルソン)が、われ先にと自分を売り込みにかかる。けれど、そのときたまたま彼と一緒に写った、弟のエド(マシュー・マコノヒー)が、テレビ局スタッフの興味をひく。口当たりのよいマスクで、より一層平凡な印象のエドの方が、むしろ番組の意図にかなったのだ。洒落っ気たっぷりの弁舌も悪くない。

 振って沸いたようなオファーに、深い考えもなく引き受けるエド。ギャラはたっぷり。隠すことなど何もない自分の生活を見せるだけで、何を断る理由があろうか、というわけだ。かくして、エドの生活のすべては、全米のリビングに流れることが決定する。

 

 これが物語の発端だが、しかしテレビ局の眼鏡にかなったエドが、カメラテストに呼ばれ、関連スタッフとの面接を受けるシーンがとにかくすごい。言わんとするところを先回りして書いてしまうと、ここでは「誰ひとり、生身のエドなど見ていない」という、マスコミの非人間性を見せる恐ろしい場面なのだ。

 これは、エドが出演者として適格かどうかを決める最終面接で、カメラ映りのテストである。だから、エドの正面にはカメラが置かれている。そして、面接者である担当ディレクターのシンシアが見ているのは、「モニターに映ったエド」なのだ。

 つまり、これはエドとシンシアの1対1の面接だというのに、彼女が見ているのは、あくまでも「テレビモニター」であって、エドなんかではない。だから、シンシアがエドに質問するときは、エド本人にではなく、「モニターに映ったエド」に話しかけている。だから面接の間、彼女は「生身のエド」など一瞥もしないのだ(正確には何度か目線を送るが、あくまでお愛想程度である)。関係スタッフ[]も同様で、彼らは「生身のエド」に会うこともせず、別室のテレビで「モニターに映ったエド」を眺めて、あれこれ品評している。

 この残酷な場面では、その場にいる者全員の視線がテレビモニターに集中していて、すぐ傍らにいるはずの、「生身のエド」になど誰も興味がないことが、はっきり示される。テレビ局の人間にとって必要なのは、「モニターに映ったエド」だというわけだ。

 もちろん、テレビのカメリハというのは、こういうものであって、ロン・ハワードはそのファクトに従って撮っているだけだ、という意見もあるだろう。しかし、ハワードは注意深く、次のようなアクションを入れることで、これが慎重に考えた上での演出であることを、しっかりほのめかしている。

 エドはシンシアの質問に対して、面白おかしく返事をするわけだが、彼は普通の人間なので、カメラに向かって話をするのはどこか居心地が悪い。だから、ついついカメラから目線をそらして、質問者である彼女の方を向いてしまう。

 すると当然、カメラ目線がずれる。そのとき彼女はにこやかに、けれどピシリと「前を見て!」とカメラの方を見るようエドに言い放つのだ。人から話しかけられたら、その人に対して直接返事をするのが、人間のまっとうな反応だろう。けれど、シンシアは「モニターのエド」に話しかけ、その横にいる「生身のエド」は、その返事を直接シンシアにではなく、カメラのレンズに向かって行う。この2人は対話しているように見えて、どちらも相手に対して受け答えしているわけではない。これがいかに異常な対話のありかたかということを、この「前を見て!」の鋭い一言が、突然に表面化させる。

先にも述べたように、エドはあくまでモニターに映ってこそ価値を持つ存在だ。この映画は、ひとたび「生身のエド」に対する視線を失ったエド自身が、それを回復するまでの物語となるだろうことを、このシーンは予告していると言っていい。それと同時に、マスコミ視線の性質(本質)そのものを、ごく端的に示してしまっているのだ。

かくして、24時間テレビの出演者はエドに決定する。続くはこれもロン・ハワード作品におなじみの、家族一同そろっての食事シーンである。ここで、エドの家族構成がすべて明らかになる。食事はロン・ハワードにとって、人物紹介のための重要シーンだ。ここではエドのテレビ出演をめぐって、家族同士で賛否両論のか侃々諤々の議論となる。

お調子者の兄レイは、ぜひとも引き受けるべきだと主張する。何のことはない、彼は弟のギャラを目当てにしているだけである。一方、母親ジャネットと(サリー・カークランド)と妹マルシア(ヴィヴィカ・デイヴィス)はいささか心配顔で、あれこれ口やかましい。継父アル(マーチン・ランドー)も、心配には心配だが、彼はこの家族にとって血のつながりがないので、基本的に口出しできる立場ではない。

ちなみに、ここで彼らが食べているのは、ケンタッキー・フライド・チキンのテイクアウトばかり。母親も妹も料理などしない、ルーズな家庭だということがよくわかる。これをたとえば『バックマン家の人々』の食卓シーンと比べると、なんとも貧しく、部屋も狭苦しい。これもまた、ロン・ハワードが描くアメリカ家庭の、ひとつのバリエーションである。

 

さて、こうしてエドの奇妙な生活は幕をあける。朝起きて、目覚めたその瞬間から彼の鼻先にカメラがある。起き抜けの寝ぼけた頭で、いつもの癖で股間をまさぐっても、それもすべて全米に中継されているわけだ。

ここで興味深いのは、エドがさほど「ヤバイ」という表情を見せないことだ。このあたりから、撮られる者が、撮られることに対して、どれだけ鈍感なものかということが表現される。それもそのはず、今まさに撮られつつある者は、自分がどのように撮られているかをリアルタイムで見ることは決してなく、映っている自分を見ようと思ったら、録画などに頼るしかないからだ。「撮られる」ということは、常に後追いなのだ。

ロン・ハワードはこのへんを、何とも手際よく演出する。エドはテレビの前に行って、自分の顔が映っていることを確認する。けれど、テレビに映っているのは、「テレビを見ている自分を見ている自分の姿」である。何だかややこしいのだが、当人にとって、さほど画として面白いものではない、というか撮られていることの実感は強くないだろう。

だからエドは、「初めてテレビに映った自分」をここで目にするが、彼の様子はうれしそうでこそあれ、さほど感激している様子はなく、曖昧な笑顔を浮かべるのみだ。

ところで、こんな無名の人間の、ただの日常生活を映すだけという番組に、当初は半信半疑だったテレビ局の重役ウィテカー(ロブ・ライナー)の評価や、これを見ている一般大衆の興味が、一挙に高まる瞬間がやってくる。

それは、エドがたまたま兄レイの家を訪ねたことに始まる。そのとき兄と一緒にいるのは、兄のガールフレンドであるシェリ(ジェナ・エルフマン)だとばかり思ったのだが、実はまったく別の女性であることがバレる。行きずりの女をたらしこんでいたというわけだ。

偶然テレビのカメラがとらえるのは半裸の女。これが一挙にテレビに流される。当然、シェリも自分の家でこれをテレビで見ているはずなので、レイはカメラの前で賢明に取り繕おうとするが、どうにもならない。

レイに拝み倒されて、「何でオレが」とぼやきつつも、エドは代わりにシェリのところに弁解に行く。そこにいるのは失意のシュリ。ところが、エドは実のところ彼女のことを好きだったものだからたまらない。兄の弁明に来たつもりが、雰囲気的に兄の彼女を略奪する形になってしまう。(カメラの前で)キスする2人。弟が自分の彼女を奪う様子を、今度は自分がテレビで見る羽目になって大ショックの兄レイ。

このあたりから、漠然とテレビを眺めていた視聴者たちは、身を乗りだして画面に見入るようになる。(このハプニング以前の段階では、「どこが面白いんだ?」という夫の言葉に、「なぜだか目が離せないの」という、視聴者妻のさりげないが、しかし核心を突く一言が印象深い)この思いがけぬ展開をきっかけに、視聴率は急上昇。エドのやることなすことすべてが全米の注目を集め、一躍エドは時の人と成り上がる。大ブレイクだ。

自分でもよくわからないうちに、有名になったエドは、どこに行くにも大衆が熱狂的に声をかけてくるが、こうした一連のストーリーの中で、エドはあきれるくらいに、自分がテレビに映っていることに対して鈍感である。

エド以外の彼の家族たちは、それほどでもない。というのは、自分がエドと一緒でないときは、テレビのエドを見ているのだから、彼と一緒にいるとはどういうことなのかをあらかじめイメージできる。けれど、撮られっ放しのエドはそうはいかない。繰り返しになるが、「撮られる」とは常に後追いなのであり、撮られつつある自分の姿を、自分で見ることは決してないのだから、彼にとってはいつもひとごとなのだ。

こうして、本論の冒頭で提示したように、テレビに映る人物は、テレビに映ってこそ、はじめて存在するという仕組みが、次第に露わになっていく。

これまでの人生で、エドは街を歩いていても誰も振り返らぬ無名人だった。家族・友人以外にとっては、彼など存在しないも同然だ。それが一躍有名になった瞬間、「エド」という人物が存在をはじめる。しかし、有名なのは「テレビに映ったエド」であって、「エド本人」という実像ではないのに、当の本人はそのことに気がつかない。なぜなら、「エド本人」は「テレビに映ったエド」に対して無自覚なのだから。そこで、自分が有名である所以を勘違いするわけだ。

しかし、カメラのレンズを経由しないと存在しない人格なんて、そんなものは結局、仮像である。そして、テレビに映るということは、そればかりがどんどん肥大化し、実存在がのっとられるということである[]

その結果、膨張する仮像は、「実存在」の「仮そめの部分」を明らかにしてしまう。たとえば、まだ小さい時に女を作って家出してしまった、とエドたち兄妹が信じさせられていた産みの父親ハンク(デニス・ホッパー)が、突然エドの前に姿を現すのだ。

要するにこれは、いまや有名人になったエドを当て込んで、仕事の世話をせびりに来たのである。ここまではよくある話だ。しかしその登場は、てっきり出て行ったのは父親の方だと信じていたのに、実のところ彼は追い出されたのであり、母こそが男(すなわち育ての父のアル)を作って、実の父を追い出したのだという(エドたち兄妹にとって)衝撃の事実を、明らかにしてしまう。この展開に仰天して、ますます盛り上がる視聴者たち!

こうして、仮の存在が実家族の仮構を暴き出してしまう。そして、執拗なカメラと大衆の好奇の視線は、今度はシュリとの恋路を妨げる。気さくにカメラの前に登場するエドに比べ、カメラに映ることを嫌悪するシュリは、大衆の反感を買うからだ。つまり、画面に登場しようとしない者は、その存在を許されないというわけだ。

そこに彼女の後釜を狙って登場するのは、テレビに出る気満々の、スーパー美女ジル(エリザベス・ハーレー)である。彼女はテレビカメラの前でセックスをすることなど、意にも介していない。カメラ映りをたっぷり意識して、堂々と登場する。その下品ギリギリの存在感は、しかし圧倒的な美貌ゆえに視聴者の絶大な人気を集め、彼らの興奮も頂点に達する。画面に登場しようと思う者は、虚像であってもなくても大歓迎されるというわけだ。

だがしかし、驚くべきはエドの方で、テレビカメラの前で堂々と誘惑されてみせるのだから、しかるべきトレーニングを受けていない人間の、カメラに対する鈍感さたるや恐るべしである。

かくしてシュリはエドの前から姿を消し、そうなって初めて、彼はこの状況の打開を図ろうとする。けれど時すでに遅く、契約書にしばられ、この興味の尽きぬエドの家庭環境は、エド本人だけでなく、その家族までカメラが追い回すようになっていく。仮象が実存在を完全にジャックしたのだ。

カメラによって奪われた実存は、カメラによって奪い返さなければならない。一計を案じたエドは、カメラの前でテレビ局首脳の「恥ずかしい真実」を視聴者から募集する。それをテレビの前で発表するから、というのだ。

これこそまさに『身代金』でメル・ギブソンが行ったのと同じ、究極のメディア戦略である。そのためには家族の協力も不可欠で、カメラによって破壊された家庭は、それを取り戻そうと再び団結する。

カメラによって分断された家族同士の視線を、再び互いの存在に向け直すことで、その関係性を回復させるということだ。こうして、家族と家族の間柄というのは、テレビなどを通さぬ一直線に結ばれ合う視線であることが示される、というわけだ。

 

そして『エドtv』と『身代金』が通定し合う表現はもう1点ある。それは前章でも述べた、「第三の視線」の存在だ。

『身代金』では、対決する2人の人物AとBの他に、もう1人の人物Cがいて、人物Aは人物Bに知られることなく、人物Cに目線を向けることによって、空前のハイテンションを演出するという手法が開発されていた。

『エドtv』では、このさらなる発展型が示される。たとえば、前述のように、実の父を追い出したのが、母その人だったという事実を、エドが母親に問い詰めるシーン。彼は母を難詰しながらも、そこにテレビカメラがあるのだから、そんな極度にプライベートな会話さえも、全米中継されていることに気づいている。そこでちらちらとカメラの方にも目をやるのだが、もう母に対する追求は止まらない。

ここでは、「第三の視線」を向けられるCは、テレビカメラに相当する。そして、そのカメラの向こうには、何千万人もの視聴者がいるというわけだ。

前章でも、メル・ギブソンの逆脅迫という行為は、「第三の視線」を全米視聴者による犯人グループへの監視の目と転化する、ということを指摘した。これはその変奏とも言える。

こうして、『エドtv』は、メディア超大国であるアメリカ合衆国での有名人願望と、その現実の表れというものを、視線劇としてシミュレートする。

 

そしてもう1つ、この映画で忘れられないのは、テレビを見つめる「大衆」の存在である。冒頭でも触れたように、これまでのハワード作品では、まったく描かれなかった視聴者の存在が、『エドtv』ではたっぷりと描かれている。

テレビの前で釘付けになっているのは、バーの親父、黒人夫婦、ゲイのカップル、女子寮の女学生たち、仲間の家に集まるもてない男子高校生どもなどだ。こうした一般大衆のいちいちを描写しているところが、この映画の面白さのひとつを形作る。

そして、登場するのは無名の視聴者だけではない。「エドtv」なるテレビ番組を、あれこれこきおろすテレビ討論会の面々[]。ジェイ・レノを初めとする、有名テレビショーの司会者も、「エド」をネタにしてジョークを飛ばす。

彼らはめいめい、「エド」について好き勝手なことを口にする。実際に自分の友人だったら、間違っても口にしないだろう、というようなことばかりだ。誰もが知っている「エド」は誰にとっても「他人」なのだ。

中でも印象に残るのは、宅配荷物の配達人として働くシュリが、ある年配女性の家に荷物を届ける場面である。その女性は、荷物を届けたのが「有名なエド」の彼女と知るや、笑みを浮かべて「光栄だわ」とは言うが、化粧のしかたや、エドとレイのことなど、あれこれ勝手な意見を言い始める。

業を煮やしたシュリが、早く受け取りのサインをしてくれと言うや否や、「生意気な!」と態度が豹変。敵意をむき出しにする。視聴者にとっては、テレビの中の人物は自分にとって都合のいい人形のようなもの。自分に反論してくるなど許しはしない。

このあたり、ロン・ハワードの演出はさすがに巧みで、不快な面持ちでその家を去ろうとするシュリが振り返ると、そこに花束を持ったエドが立っている。ほっとして笑みを浮かべるシュリだが、すかさず彼の背後から、(いかにもぬっと)テレビカメラが現れるのだ。またしても表情がこわばるシュリ。視聴者(大衆)のためのシュリ(またはエド)と、エド(個人)のためのシュリという存在は、決して並び立たないということだ。

こうしてみると、テレビの前で、エドの行動1つ1つに一喜一憂する視聴者たちの姿は、自分は参加してもいないのに、贔屓のチームに悪態をつきながら、テレビでスポーツ観戦している大衆の姿にとてもよく似ているように思えてくる。

たとえばボクシング観戦しながら、テレビに向かって、ボディだのフックだのと、自分が選手なら、そんなこと絶対にできないくせに、勝手な感想を言う人々。スーパーボールや、ワールドシリーズなどに熱狂するアメリカ家庭の戯画が、この視聴者・大衆たちに、そっくり描かれていると思ってまちがいない。

そしてその無責任さは、テレビ局に対してエドが勝つということは、要するに自分たちが熱狂している「エドtv」という番組の放送終了を意味するというのに、それでもエドを応援するという自己矛盾にまったく気がつかないところに表れている。要は贔屓のチームに勝たせたいという気持ちそのままなのである。(それでいて、番組が終了した瞬間、ある視聴者は「明日から何を見よう・・・」とぼやく)

 

ロン・ハワードはそんな大衆の愚かしさを、決して憎めないものとして描いている。テレビの前に座りながら、たとえばゲイのカップルは、エドの運命と共にロマンチックな感情を分けあったりもする。テレビは、家族間のコミュニケーションを取り持ったりもするのだ。それもまたアメリカの(というより、全世界の)現実というものであるし、映画はそのことを決して否定していない。ちなみに、映画において「否定しない」ということは、その人物が「ひどい目にあわない」という意味だと、はっきり定義しておきたい。

そうした彼の温かなタッチは、作品を非常に後味のよいものとしているが、同時にそれが『トゥルーマン・ショー』に対する劣位となったことも確かだろう。

だがここまで示した通り、『エドtv』の持つ、高い批評性は見落としてならないし、ほぼ忘れられた感のある現在の評価以上に、これはもっと観られるべき作品のはずである。

前へ  次へ  TOP

 

 



[] 実際、『バニシングIN TURBO』では、駆け落ちした娘の捜索に、父親が賞金をかけ、その額を聞いて色めき立つ面々が次々描かれる。しかし、その面々が、イコールその後の物語の重要人物となるのだから、少し話は違う。やはり無名大衆を見せようとしないロン・ハワードの感性は、少し独特である。

 

[] スポンサーがらみのギャグとして『エドtv』が笑えるのは、番組が始まった当初は、画面下のスポンサー名が、せいぜい街のピザ屋とかその程度だったのに対し、番組が大ヒットするにつれ、表示されるスポンサー名が、ペプシやYahoo!などの大手企業になっていくことだ。

 

[] 『エドtv』の全米興行収入は、わずか2250万ドルにとどまったのに対して、『トゥルーマン・ショー』は、12600万ドルと、大変な好成績をあげている。これはもちろんピーター・ウェアー監督作品としては、現在のところ最大のヒット作である。データは、http://www.the-numbers.com/people より。

 

[]先に紹介した『トゥルーマン・ショー』のピーター・ウェアー監督も、実はオーストラリアのテレビ・ディレクター出身。主演のジム・キャリーも、テレビの「サタデー・ナイト・ライブ」などから、キャリアを開始させた人物である。にもかかわらず、メディアに対するハワードとのこの目線の違いは興味深い。

 

[] この関係スタッフの1人に、『ガン・ホー』のモーレツ日本人社員として主演した、ゲディ・ワタナベが懐かしい再出演をしている。

 

[] ここにきて、『エドtv』のモチーフは、またしてもフランク・キャプラの傑作群の1つ『群集』(1941)と通底しはじめる。キャプラの『群集』もまた、無名人がマスコミによって、全米を動かす有名人に祭り上げられていく物語である。(第17章も参照)

 

[] ここで、「エドtv」がいかに低俗な番組かと、口角泡をとばして罵倒するコメンテーターの一人が、いまや『ボウリング・フォー・コロンバイン』(2002)や『華氏911』(2004)で、すっかり世界的に顔を知られるようになった、マイケル・ムーアである。