17.エッセイ2 〜マスコミ、あるいはキャプラの『群集』をめぐって〜

 

 ロン・ハワードの芸能界デビューは実に1歳のとき。大ヒットテレビシリーズ『アンディ・グリフィス・ショー』の子役として、広く名前を知られるようになるのは、わずか6歳でのことだ。ほとんど物心ついた頃から、マスコミ陣を前にかなりの場数を踏んできたことだろうと思う。だから、いわゆるパパラッチという存在は、彼の日常だったのではないか。それを理由にするのは短絡的にすぎるが、その監督作品の多くに、ネタを追っかけまわすマスコミ取材陣が登場するのも、どこか自然に納得がいく。

 ロン・ハワードは、この「マスコミ」というものを、愛していると同時にきっと憎んでいる。その辺りの複雑な気持ちは、監督デビュー作『バニシングIN TURBO』の、主人公カップルを追いかけまわすラジオDJのセリフに、端的に表現されているように思う。

 「きみたちを有名にしたのは、この私だよ!」

 その通りなのだ。取材する者とされる者は持ちつ持たれつ。そして、彼らはどこにでも存在している。『バックドラフト』の冒頭で、父親の事故死を目の前で目撃する幼き日の主人公。その呆然とたたずむ様子を、雑誌カメラマンはすかさずカメラにおさめている。そして、その写真が父親を伝説的な存在にすると同時に、主人公が成長してもなお残り続ける抑圧にもなるのだ。

 また、『身代金』と『エドtv』のように、マスコミというのは、主人公の有名性を保障しながらも、その立場を危うくし、その窮地を打開するために、さらに主人公に利用されるという、使い方ひとつで敵にも味方にもなる存在である。

 マスコミを、悪役として一方的に描いたのは『アポロ13』だろうか。彼らは都合のいい時にだけやって来る。とはいえ、飛行士たちのモチベーションの多くの部分は、テレビを通した功名心だということからも、やはり必要な存在ではあるのだ。

 

 このマスコミというものを表現するうえで、ロン・ハワードが常に意識し、規範としているだろう作品は、またしてもフランク・キャプラにあるだろうと想像する。1941年の作品『群集』である。

 『群集』のあらすじはこうだ。経営不振の新聞社がリストラを断行。そのとき解雇の対象となったのが、女性記者バーバラ・スタンウィックである。彼女は、どうせクビになるのならと、ほとんど焼けっぱちで、ジョン・ドウなる架空の人物による、「あまりにこの世の中がすさんでいるから、クリスマスの晩に身を投げる」という投書記事をでっちあげる。

 ところが、この記事が思いがけず大反響を巻き起こす。引くに引けなくなった新聞社主は、いるはずもない「ジョン・ドウ」を実在させなくてはと、一般人を募る。そこで白羽の矢が立ったのが、ゲイリー・クーパー演じるところの、食いつめた元野球選手である。才能はないが長身に甘いマスクと、人前に出すには申し分ない。ただ、彼にはなぜか影のように、いつも行動を共にしている老人がいた。その老人がウォルター・ブレナンである。

 ひとたび、実像を持ち始めるとブレイクは早い。新聞の売り上げは急上昇。ただの浮浪者だったクーパーは、記事によって全米中の有名人となり、ついには大統領選にまで影響力を持つようになる・・・。

 

 こうして書くと、キャプラの『群衆』という物語が、まるで『エドtv』そのものであることに驚くはずだ。『エドtv』が比較されるべき作品は、『トゥルーマン・ショー』なんかではなく、『群集』なのだ。

ヒロインが、出世のための苦肉の企画として、無名の一般人をでっちあげること。そして、そのことが当人をどれだけ傷つけるかを、最初に気づく良心を持っていること。バーバラ・スタンウィックの魅惑は望むべくもないが、早口で頭の回転が速く、上昇志向の強い女性像は、『エドtv』のエレン・デジェネレスに確実に引き継がれている。

 そして、マスコミの力で成り上がった自分の有名性に無自覚で、それに気づいたときには、もう取り返しがつかなくなっているという主人公の鈍さも。

 『群集』の当時はまだテレビがなかったから、すべては新聞とラジオだが、マスコミのイメージそのものは、まったく変わっていない。カメラを抱えて一斉に群がり、主人公の生殺与奪のすべてを握っている。有名になるのもマスコミの力なら、彼を苦しめるのもマスコミというわけだ(そして名誉回復に一役かうのもマスコミだ)。

 そしてロン・ハワードと同様に、キャプラもマスコミの存在そのものを、決して否定しようとはしていない。キャプラが批判の目を向けるのは、あくまでも背後に隠れて、私欲のために人心をもてあそぶ黒幕なのである。

 こうしたキャプラの思想を、ロン・ハワードもそっくり踏襲するが、ひとつだけ彼が受け継がなかったものがある。それが、『群集』におけるウォルター・ブレナンの存在だ。

 『群集』のブレナンは、主人公のゲイリー・クーパーにとって、ちょうどピノキオの「良心」として行動を共にするコオロギ、ジミニー・クリケットのようなものである。

 彼は、利用されて有名になっていく相棒を、絶えず叱責し続ける。クーパー(が言ったことになっている)言葉を信じて、隣人愛に目覚めた良心的な群集たちのことさえ、「亡者だ! 亡者だ!」と言って非難する。マスコミなんぞを通した言葉を信じるような連中は、その志がどれだけ純粋であっても、とにかく「亡者だ」というわけだ。

 

 このウォルター・ブレナンのように、きわめて真っ当な考えを述べて、主人公の頭を冷やし、劇中の素朴な「良心」として振舞う存在は、ロン・ハワード作品には出てこない。

 『群集』から50年。その歳月の間にアメリカが失ったものは、ウォルター・ブレナンのような良心だという、これはロン・ハワードのアイロニーだろうか。それとも、深読みがすぎる単なる偶然だろうか。

 私自身は、これは前者だろうと推測している。というのは『エドtv』の中に、わずかでもブレナン的な良心を宿した者の存在をあえて探すならば、たった1人だけいるからだ。それが、主人公エドの育ての父を演じるマーチン・ランドーだ。そのおおらかな人柄は、主人公をいくらかでも正しい方向に導こうとする「心」があるし、物語の中で高い精神を持つほとんど唯一の人物だ。

 しかし、そんな彼は病のために車椅子生活を余儀なくされているハンディキャップであり、当然ながら性的にも不能である。そして前章でも少し述べたように、彼は主人公一家にとって血のつながりがないので、家庭内での発言力はないも同然だ。

 『群集』では小気味よく奏でられたブレナンのオカリナも、『エドtv』のランドーにおいては、痛々しい酸素吸入器に代えられている。

 ブレナン的な良心は50年後のアメリカ合衆国においては、半身不随の車椅子の人物に象徴されてしまうという、これが現実だとハワードはさりげなく示しているとしか、私には思えない。これこそアメリカの瑕である。でなければ、マーチン・ランドーをわざわざ車椅子に座らせて演じさせている理由がわからないのだ。

 自家薬籠中のものとしているだろう、マスコミの存在を描いてさえ、ロン・ハワードの中にはフランク・キャプラが生きている。

 そして、キャプラにあってハワードにないものを特定すること。それはすなわち、この半世紀の間にアメリカ合衆国が失ったものに気づくことである。それはまた、アメリカ映画が失ったものに思いを馳せることでもあるだろう。もちろんそれは、ウォルター・ブレナンという、天使のような老人の存在である。

前へ  次へ  TOP