18.『グリンチ』 (“Dr.Seuss’ How the Grinch Stole Christmas” 2000

 

 ロン・ハワードにとって、クリスマスというのは分けても特別な日のはずだ。というのは、フランク・キャプラの代表作『素晴らしき哉、人生!』(1946)がクリスマスの奇跡の物語であるし、『群集』(1941)もそう。その意味で、キャプラはクリスマスの映画作家といえる。

 だから、ブライアン・グレイザーが、イマジン・エンターテインメントの代表人として、アメリカの国民的童話作家、ドクター・スースの作品の映画化権を取得するに当たって、クリスマスの物語である『グリンチ』を選択したのは、故なきことではないだろう。イマジンではまた、ドクター・スースの代表作『キャット・イン・ザ・ハット』[]の権利も有したが(むしろこちらの方がドクター・スースとしての有名作)、ロン・ハワード自らが演出に乗り出したのが『グリンチ』の方だったというのは、ひとえにそれがクリスマスの物語だから、ということではないだろうか。

ハワードとしては、自分のキャリアのどこかで、当然クリスマスを題材にする作品(それもクリスマスの日に奇跡が起こり、すべての人心が回復するであろう作品)を作る使命感があったのかもしれない。

 

『グリンチ』の物語は、1966年にドクター・スース自らの監修でテレビアニメ化がされている。[]しかし、スース自身はハリウッドに対しては慎重な考え方を持っていたようで、映画化は実現していなかった。スースの未亡人、オードリーが夫の没後にその権利に対して柔軟な姿勢をとったのは、1998年のことである。これはハリウッド史上でも、最大規模の競り合いになったそうで、『グリンチ』の映画化には、多くの有力プロデューサーが乗り出した。もちろん、ブライアン・グレイザーもその1人だ。

権利獲得にあたっての条件はこうだ。競りの参加希望者は、プレゼンにあたって最低300万ドルの支払いを未亡人に保障すること。

これに従い、グレイザーはユニバーサルからの出資約束を取り付け、権利獲得に乗り出したものの、残念ながら不首尾に終わった。あきらめきれず、再度の挑戦を乞うたグレイザーは、今度はロン・ハワードにも知恵を貸すよう要請する。

ハワードは妻シェリルの助言とともに、『グリンチ』の物語に新たな要素を加えることを提案。主人公のモンスターであるグリンチは、クリスマスという習慣と、それに浮かれ騒ぐ人々に対して、一方的な激しい憎悪を抱いているが、原作絵本ではその理由をまったく明らかにしていない[]。そこでハワードは、グリンチがなぜクリスマスを憎むのか、という部分を明快にするアプローチを示したということだ。

さすがというべきか、オードリーはハワードが示したコンセプトを気に入り、『グリンチ』映画化の権利はグレイザー/ハワードのものになった。[]

その成果である興行結果を先に示すならば、『グリンチ』は28千万ドルを売り上げ、2000年の全米映画界の最大ヒットになった。2000年度のナンバーワンをほぼ手中にしていたトム・クルーズ主演の夏の大作『MI-2』(ジョン・ウー)を土壇場で退け、クリスマスシーズンでの大ブレイクを果たす。

のみならず、これはロン・ハワードのキャリアにとっても最大のヒットとなり、驚くべきことに、これは後に手がける、ブロック・バスター保障済みの大ベストセラー小説の映画化、『ダ・ヴィンチ・コード』(2億1350万ドル)よりも、さらに大きなヒットなのである。[]

このヒットは、翌年からリリースされるイマジン・エンターテインメントの大ヒットTVシリーズ、『24』のプロモーションを、手厚くサポートするための十分な資金源としても、大きな意味があったことだろう。2007年時点で『24』はシーズン8までの製作が決定済みで、今なお大きな話題を呼ぶ長寿番組として、イマジンの屋台骨を支えている。

映画『グリンチ』の特大ヒットは、合衆国におけるドクター・スースの物語がいかに身近なものであるかの、これはひとつの証左となるだろう。物語というよりは、英語の語感で読ませるスースの絵本はほとんど翻訳不可能で、日本人にとっての知名度はほとんどゼロに近いが、たとえば米国の書店の児童書コーナーに、足を運んだ経験があれば瞭然とするように、ドクター・スースの作品が占める棚面積は、書店によってはほとんどディズニーのそれに匹敵する。

『グリンチ』のタイトルロールを演じるのはジム・キャリー。ラバーのメイクで顔を覆ってなお、ジム・キャリーその人だと認識させる、神業のような顔面演技の達人であることは、出世作の『マスク』(チャールズ・ラッセル 1994)で証明済み。『グリンチ』ではさらに過激なメイクで役に挑み、これを成功に導いている。ジム・キャリーの才能がなければ、『グリンチ』はそもそも今の形での映画化は不可能だっただろう。

興行という観点では、日本人にとってはこれも意外なことかもしれないが、『グリンチ』は、いくつものメガヒットを持つ大スター、ジム・キャリーにとっても、何と今に至るまで彼の最大ヒット作として君臨している。

それにしても、メル・ギブソンにオスカー獲得を阻まれた『アポロ13』の次回作が、そのギブソンを主演にした『身代金』であったことを含めて、テーマの類似性から『エドtv』を事実上なきがごとくに追いやった(この非難はとばっちりではあるのだが)『トゥルーマン・ショー』(ピーター・ウィアー 1998)の主演ジム・キャリーを、次作品の主演に迎えるという、ロン・ハワード作品のキャスティングの皮肉な偶然には、映画の不思議を思わずにいられない。

 

さて先述した通り、ドクター・スースによる絵本『グリンチ』(原題の直訳は「いかにしてグリンチはクリスマスを盗んだか」)の物語はきわめてシンプルである。

フーヴィルの住人たちはクリスマスが大好き。しかし、どういうわけか村のはずれに孤独に住むグリンチは、理由はわからないがクリスマスが大きらいだった。今年もクリスマスが近づいて浮かれ騒ぐ村人たちに一泡ふかせようと、グリンチはある名案を思いつく。

それは、夜になったら各家庭にしのびこんで、プレゼントやカードやツリーをすべて盗んでしまおうというものだ。グリンチは飼い犬のマックスをトナカイにみたて、サンタの扮装で何もかも盗み出してしまう。

盗みの最中に、小さな女の子シンディ・ルーが目を覚まして起きてくるが、グリンチはそれを適当にあしらい、まんまと盗みをやりとげる。してやったりと浮かれて帰ったグリンチだが、やがて村の方から楽しそうな歌声がきこえてくる。すべて盗み出したのにこれはおかしい。みんな嘆き悲しむはずなのに、と動揺するグリンチ。そのとき不意に気づく。クリスマスとはプレゼント以上の何かであると。改心したグリンチは、クリスマスが大好きになり、その日を村の人々と共に祝いましたとさ、といった物語。この話を、ドクター・スースのシュールレアリズム的ともいえる絵が彩っている。

 

ロン・ハワードが分厚く手を加えたのは、物語にない部分。すなわちそれが、それがドクター・スースの未亡人の心をとらえたという、グリンチがクリスマス嫌いになった原因のところだ。

これをハワードは、グリンチ少年時代のトラウマに求める。『アニー・ホール』(1977)以後のウディ・アレン作品に端を発した、『Ray/レイ』(テイラー・ハックフォード 2004)、『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』(ジェイムズ・マンゴールド 2005)などの「伝記もの」から、『スター・ウォーズ』新三部作(ジョージ・ルーカス 19992006)に至るまで、あるいは『ワイルド・アット・ハート』(1990)を含むデビッド・リンチ作品もそれに含まれようが、幼少期の不幸な体験が成長後にも影をおとすという設定は、ここ10数年のアメリカ映画のある種のセオリーだ。その意味では、さほど目新しい視点というには当たらないと思う。脚本をまとめたのは、ジェフリー・プライスとピーター・S・シャーマンである。

生れ落ちたときから(というかフーヴィルでは、赤ん坊というのは風にのって運ばれてくる)、グリンチはパーティで浮かれ騒ぐ家庭の玄関先にやって来たため、誰にも気づかれず、一晩中放っておかれていた。幸先の悪い誕生物語である。

子どもの頃から緑色で特殊な風貌のグリンチは、いじめられっ子だったが、クラスの美少女マーサ・メイだけは彼に冷たくはなかった。特にたちの悪いいじめっ子は、後のフーヴィル市長である。クラスののけ者グリンチだが、「クリスマスは誰にも訪れる」と聞いて一念発起。密かにあこがれるマーサ・メイにあげるためのクリスマス・プレゼントを、精魂こめて用意する。

準備万端。いよいよ明日がクリスマス。しかしそのとき、「子どものくせに髭が生えている」という、自分のルックスを気にしてしまったのがいけなかった。つい手近にあった髭剃りに手を伸ばしてしまう。

翌朝、グリンチは紙袋をかぶって、顔を隠して登校。事情を知らぬ担任の先生は、顔を見せなさいと彼をたしなめる。固辞するグリンチだが、先生に促されてとうとう紙袋をとると、顔中傷だらけ。髭剃りがいけなかったのだ。その顔を見てクラス中は大爆笑。みんなの笑いものになってしまう。

こうして少年(?)グリンチはキレる。精魂こめたプレゼントを床に叩きつけ、学校を飛び出し、ひとり山の洞窟にひきこもってしまう。ぼくにはクリスマスなど訪れはしないんだと・・・。

ちなみに、幼いグリンチをそれなりに愛情こめて育てていたのは、ちょっと風変わりな2人の老姉妹。この老姉妹というのも、フランク・キャプラ作品には定番のキャラクターで、こんなさりげない設定を加えるところに、ロン・ハワードがクリスマス映画としてのキャプラ継承を意識していることは、まず間違いないと見るべきだろう。[]

そして、それに対応するフーヴィルの住人たちだが、いかにものどかで悪気のない、ロン・ハワード的な人々の集団である。物語の中心となる一家は、まさにそんなフーヴィルの住人を象徴するかのような5人家族。[]少し頼りないが優しく家族思いの父、見栄っ張りだが優しい母、脳天気だが気のいい2人の兄、そして賢く心優しい小さなシンディ・ルー。

原作では寝ぼけて起きて来るだけのシンディ・ルーの役どころを、映画化に当たっては大幅に拡大。グリンチの改心は、彼女の素朴な優しさが大きな意味を持つよう、説明づけている。

シンディ・ルーは登場する早々、クリスマスのプレゼント購入や、飾りつけにやっきになる大人たちの様子にあきれて、それをたしなめる発言をしばしば繰り返す。「買いすぎよ!」、「浮かれすぎだわ!」。

つまり、シンディ・ルーのキャラクターを、「王様は裸よ!」と、ごく当然のことを口にする子どもとして膨らませたことが、この脚色のポイントの1つである。しかし彼女の不幸は、これだけみんなが楽しんでいる日に、不幸な人が1人でもいてはいけない。だから、今年のクリスマス賞は孤独なグリンチに与えるべきだ! と主張したことにはじまる。

彼女はグリンチにクリスマス会に参加するよう依頼し、グリンチもそれを(迂闊にも!)受け入れ、楽しむが、昔のいじめっ子である宿敵、現フーヴィル市長に、プレゼントとして「髭剃り機」を与えられたことで、積年の恨みを思い出す。またしてもキレたグリンチは、街をめちゃくちゃに破壊する。

グリンチなんかを賞に推すからこんなことになったんだと、その責任を押し付けられそうになるシンディ・ルー。窮地を救うのはもちろん、優しいお父さんであり、家族の力である。このあたりはロン・ハワードの個性がフルに発動する構造になっている。

 こうしてみると、ほんの数ページの絵本に対して、ロン・ハワードは自分の嗜好を、最大限に凝縮して詰め込んだということがわかる。それはつまり、キャプラ的な設定を可能な限り盛り込むということだ。[]

 それはすなわち、街の気持ちを目覚めさせる無垢な存在、つまり『スミス都へ行く』(1939)のジェームズ・スチュアート、『オペラハット』(1936)や『群集』のゲイリー・クーパーの役どころを、誰かに託すことである。そしてそれを担うのが、小さなシンディ・ルーということだ。

そのように考えると、映画『グリンチ』の主人公は必然的にグリンチではなく、シンディ・ルーだと考えるべきだろう。そこが童話『グリンチ』を映画化するに当たっての、いちばん大きな改変ポイントだといえる。

幼少期のトラウマというのは、アメリカ映画の現代的なフォーマットと見る方が妥当だろうが、ちょっと風変わりながら、理想的な家族と頼れる家長という設定(まるで『我が家の楽園』そのままのような一家だ)。買い物と飾りつけといった、表面的な物質主義に狂奔する大衆の姿。それを利用して私腹を肥やす権力者。献身的なヒロインと、無垢な主人公の情熱による、市民の心の雪解け―そうすると、シンディ・ルーというキャラクターは、キャプラ作品における、ヒロインと無垢な主人公の役割を、1人で担っているわけだ。そして、それに伴う人としての名誉の回復。こうしたすべてが1つに集まって、クリスマスの日の奇跡として、花火のように打ち上げられる大団円。

ロン・ハワードは結局のところ、『グリンチ』という国民的絵本の設定を借りて、『素晴らしき哉、人生!』という国民的映画のリメイクを企てたことは疑いない。しかも映画にはどこからか聞こえてくる天使の声のような、アンソニー・ホプキンスによるナレーションまで加えられている。これがまた見事な語り口調だ。

かくしてロン・ハワードは、「アメリカの物語」として、『グリンチ』という「アメリカ最良のファンタジー」を追加したというわけである。ハワードの「アメリカ物語」はこうしてどんどん厚みを増していく。

 

以上、物語面からばかり書いてきたが、映像面からみると『グリンチ』は、実のところとてもロン・ハワードとは、思えないような特殊な画面作りをしている。

フーという空想上の人種が住む、架空の村フーヴィルのポップでカラフルな美術は、これまで正統なリアリズムだけで通してきたハワード作品には、ほとんど見たことがない種類のものだ。『ウィロー』の小人族が住む村でさえ、限りなく現実味のあるデザインだった。『グリンチ』の美術イメージに比較できるものがあるとすれば、後の『チャーリーとチョコレート工場』(ティム・バートン 2005)を待たねばならないだろう。あれほど毒々しく下品な、底意地の悪さが充満したセットとは程遠いとはいえ。

話を出したついでに記しておくが、『チャーリーとチョコレート工場』と較べてしまうと、ロン・ハワードの演出する世界が、どれだけ感じのいいものかよくわかる。異常な色彩空間で、醜く下品な主人公が悪戯の限りを尽くすこの物語は、ひょっとしたらティム・バートンの方が、より関心を引く素材かもしれない。けれどバートンならおそらくは、サイコで、後味の悪い、一言でいえば自分の子どもには、あまり見せたくない種類の作品を作ってしまうだろう(『チャーリーとチョコレート工場』がそうであるように)。

ところがロン・ハワードがやると、ここにはいじめも意地悪もあるのに、そうした後味の悪さとはまったく無縁の映画になる。製作者自身の個性が現れた結果だと言ってしまえばそれまでだろうが、どれだけえげつないシーンを持ってきても、嫌味を感じないのだ。

たとえばプレゼントを買いに殺到する客を捌きつつ、現金をどんどんレジに押し込むレジ係の姿など、金儲け主義的な、かなり汚らしいシーンになりそうなものなのだが、そうはなっていない。それはやはり、ここに争いや仕返しといった、負の要素がないからではないだろうか。

ハワードの世界にあっては、どんなに状況が混沌としても、そこに見苦しい争いは起こらない。やられたらやり返すといった悪意の連鎖がない。ロン・ハワードにあるのは合意のコミュニティであり、互いに分かり合った集合体なのである。

そのことは、『身代金』のような犯罪映画は別として、『バニシングIN TURBO』から『エドtv』に至るまですべてそうだ。その最たるものが、『コクーン』の宇宙人たちだろう。自分たちが救出に来た仲間のための生気をすべて、地球の老人たちが吸い尽くしてしまったため、全員が死んでしまったというのに、宇宙人たちには地球人への復讐などといった発想は、芽生えさえしなかった。

もちろん、グリンチの行動原理のすべては怒りと復讐からくるわけだが、もともと彼はひきこもりを選択していることと、本人ひとりのこれは完全に空回りなので、結局は笑いに(決してブラックなではない)転化してしまうというわけだ。

話が脱線したので、『グリンチ』の美術について話を戻すと、ドクター・スースの風変わりなイラストを再現するために、ここでは直線などどこにもない、すべて丸みを帯びた曲線でできた建物をびっしり配置している。何もかもパステルカラーで、目に痛い原色は使われていない。しかも、それらが画面の隅から隅まで埋め尽くしている。住民のメイクや服装も色とりどりで、彼らは皆、画面のあちこちを歩いている。画面密度では空前の規模ではないだろうか。実際、このフーヴィルのセットを築くために、ユニバーサルの11ステージをすべて占領したという。(裏を返せば、このプロジェクトに対するユニバーサルの力の入れようも並みじゃない)[]

この、ゆるくていびつな世界を撮るのに、ロン・ハワードのカメラはワンカットたりともまともな構図を撮っていない。どんなカットも斜めにかしいでいたり、多くのショットでは、広角レンズのために構図が少しひしゃげていたりもする。

そしてカメラはいつでも、まるで酔っ払ってでもいるかのように、ゆらゆらと動いている。ぴたりと落ち着いていないのだ。

これはロン・ハワードが、クレーンやステディ・カムを駆使した、流麗な移動撮影を得意とするとはいえ、見せるべき対象は常にぴしりと画面中央に据え、きわめて統制のとれた、ハワード・ホークス的な画面作りを身上とする、これまでの画面設計とはまったく異例の選択だ。

しかしロン・ハワードの技術はどこまでも物語に奉仕する。この騒々しく、にぎやかなフーヴィルの世界観を表現するためには、どんな技術も動員し使いこなす。しかし、これだけ作りこまれたセットの実写と、その隙間を埋めるCGによる画面加工の手間は、想像を絶する。これならいっそ、全編CGアニメにしてしまえばいいのではないかとふと思う。

たぶん、コストと手間、そして見込める観客動員の損益分岐を考えると、それが正解なのだ。リック・ベイカーの職人芸によるジム・キャリーのメイクは、2時間を要するというし(メイクをとるのも同じ時間がかかるから、キャリーの拘束時間のうち4時間がメイクにかかっている)、フーヴィルの住人たち全員に同等のメイクが必要なのだから、素人考えでも気の遠くなる作業だ。[10]

そして、こうした手間を惜しんだわけではなかろうが(惜しむどころか、むしろさらに大変なはずだ)、しかるべきファンタジー世界を映像化するために、実際に全編CGにするという方法を選択したのが、ロバート・ゼメキスである。『ポーラー・エクスプレス』(2004)だ。

この作品はCGアニメの体裁をとるが、しかしただのCGではない。ゼメキスのチームは、実際に生身の俳優に演技をさせて、その動きをコンピューターにとりこみ、画面上のアニメのキャラクターに、それを再現させるパフォーマンス・キャプチャーという技術を手に入れた。

今の目から見ると技術的に未成熟とはいえ、当時としては十分以上に画期的な手法として、実写とアニメの融合を実現させた『ロジャー・ラビット』(1988)の作者であるゼメキスの、これが行き着く先だったというわけだろう。ちなみに、『グリンチ』のジェフリー・プライスとピーター・S・シーマンは、この『ロジャー・ラビット』の脚本コンビである。

個人的には、パフォーマンス・キャプチャーのような手法は、どこか俳優の身体性・肉体性というものをないがしろにしているように思え、かすかな違和感を否定できないのが正直な感想である。これがある種の映画が進む道だとすれば、残念な気持ちがないではない。

けれど、『グリンチ』のジム・キャリーでさえ、これだけ分厚くメイクしていてなお、俳優としての身体性を炸裂させているものの、その細かな表情の変化はやはりCGによるデフォルメが施されているのだ。

水準以上の映画作家が、ある特異な世界を創造するにあたって、そのヴィジョンをあますことなく再現するためには、やはりフルCGというのは、避けられない道であるようにも思う。

そう考えるならば、『グリンチ』は実写とCGの、一方が一方を侵食することなく、ほどよく共存しているところにもまた、意味があるのではないだろうか(むしろCGが使われていることは、ほとんど意識させられない)。そうした調和のとれかたも、ロン・ハワードらしいといえば言えそうだ。いずれにしてもこの作品が、21世紀を目前に控えた、200011月に全米公開されたということは、これも不思議な偶然というべきだろう。

完成した画面ではどれだけ真に迫っていても、実際には存在しない恐竜やエイリアンを、想像の中だけで(ブルー・スクリーンの前で)相手に演技するタイプの映画と違って、ジム・キャリーが肉体化したモンスター、グリンチは紛れもなく「そこにいる」。

だから、狂気すれすれのジム・キャリーのオーバーアクトを目の前にして、シンディ・ルーを演じるテイラー・モンセンは、彼の演技があんまり可笑しいので、()で笑ったりもしているように見える。そんな様子もまた魅力的で、演技的にまだスレていない、映画初出演のモンセンを抜擢したのは、こうしたところに効いてくる。そこには言葉にならぬ「何か」が、画面に定着しているのだ。

『グリンチ』はこの種のファンタジー作品としては、そうした意味も含めて非常な重要作である。先端技術を駆使しながらも、なおかつ実写であることのルックをきちんと兼ね備えている、これは今後のアメリカ映画が何かを見失いそうになるとき、常々振り返って参照されるべき、ひとつのマークポイントになるはずだ。

そしてそれは、ロン・ハワードの個性がそれを実現したと、あえて言っておいて間違いはなかろうと思う。それには、モーフィングという、まったく新しい技術をとりいれながらも、大切にされていたのが、あくまでも生身の俳優たちだった『ウィロー』を思い出せば足りるだろう。

ロン・ハワードはそれまでの映画のあり方を、刷新するタイプの作家ではない。フランク・キャプラやハワード・ホークスが築いてきた作劇の伝統を踏まえながら、要素として先端技術を利用するにすぎない。ここがロバート・ゼメキスやジェームズ・キャメロンとの一番の違いだろう。

極論すれば、液体ロボットを描けなければ『ターミネーター2』(1991)は、企画からひっくり返さざるを得ないが、CG加工のない『グリンチ』を成り立たせることは、十分可能である。

最先端技術を駆使した「映像革命」というものを非難することが、本論の主旨では断じてないことをお断りしておきたいが、『グリンチ』はアメリカ映画が道を迷わぬための参照点として、銘記しておくべき作品であると思う。

 

なお、これまでロン・ハワードの現場や私生活を献身的に支えてきた母ジーンが、『グリンチ』プレミアを目前にした、200092日、病のために亡くなった。

『グリンチ』のエンディング・ロールには、「他の何よりもクリスマスを愛した、ジーン・スピーグル・ハワードへ」という美しい献辞がされている。[11]

前へ  次へ  TOP

 



[] ボー・ウェルチ監督で、マイク・マイヤーズ、ダコタ・ファニングといった人気者をそろえて、2003年に映画化された。まずまず上出来のヒットになったが、日本では劇場未公開。(DVD化に際しての邦題は『ハッとしてキャット』)

 

[] 童話作家ドクター・スースについての詳細は、ジョディス・モーガン,ニール・モーガン『ドクター・スースの素顔 世界で愛されるアメリカの絵本作家』(坂本希詩雄,平野順雄・訳 彩流写 2007)参照。

 

[] 原作絵本ではこう書かれている。「グリンチは クリスマスが だいきらい!/クリスマス・シーズンなんてくそっくらえ。/なぜかって? そいつは きかないで くれないか。/だれにも なぜかは わからない。」(ドクター・スース『グリンチ』 井辻朱美・訳 アーティストハウス2000

 

[] 作品成立にかかわる情報は、Gray 前掲書 P.203209参照。

 

[] 以上、数字上のデータはhttp://www.the-numbers.com/people/directors/ を参照した。

 

[] 「面白いのは、キャプラの映画には、いつも気の変なオールド・ミスのお婆さんの姉妹が出てくるところですね。「オペラ・ハット」にも「毒薬と老嬢」にも出てきますね。ブラック・ユーモアといったところなのかもしれませんが、狂ってて、すごくおかしいんですね」淀川長治・蓮實重彦・山田宏一『映画となると話はどこからでも始まる』(勁文社 1985 P.112山田宏一の発言から

 なお、「気の変なオールド・ミスのお婆さんの姉妹」というと、私などは宮崎駿の『千と千尋の神隠し』に登場する湯婆と銭婆を思い出してしまう。同じく宮崎作品『紅の豚』のヒロイン、フィオにも老婆の姉妹が親戚にいた。また『魔女の宅急便』でも、正確には姉妹でなく、女主人とお手伝いさんという関係だが、いかにも姉妹のような雰囲気だった。老婆の姉妹には、しかるべき映画作家の本能を刺激する何かがあるのだろうか。

 

[] 偶然にすぎないだろうが、ロン・ハワード自身も、子ども3人の5人家族である。『バックマン家の人々』、『エドtv』の主人公家庭も5人家族であることはこれも偶然か。

 

[] 加藤幹郎は、キャプラ作品を次のように定義している。

「そもそも人民喜劇の人民とは何をさすのか。それはリンカーンが「人民の、人民による、人民のための統治」というときの「人民」に近い。(中略)キャプラの人民喜劇がえがくのは、そうした「人民主義」的理念を忘れた冷たい都会、腐敗した民主主義社会、一般国民をおきざりにしたワシントンに、そこに住む者からすれば変人(スクリューボール)にしか見えない主人公が乗り込んでいって、そこを浄化するという物語である。」 加藤幹郎『映画 視線のポリティクス 古典的ハリウッド映画の戦い』(筑摩書房 1996P.1819

加藤がここで言うところの、変人(スクリューボール)とは、主人公のグリンチでなく、シンディ・ルーであることは、決して誤解してはならないところだ。

なお、加藤による同書は、キャプラが第二次大戦に当たって、いわゆる人民喜劇の映画作家から、いかにして戦意高揚のプロパガンダ映画を製作するようになったかを、プレストン・スタージェスとの対比と共に分析した、必読の労著である。

 そして『素晴らしき哉、人生』は、プロパガンダ作家としてのキャプラが、再び人民喜劇としての作家に戻った、戦後の作品であることは重要な部分だが、その分析はロン・ハワード論の分を超えるだろう。

 

[] DVD『グリンチ−コレクターズ・エディション』収録の特典映像のメイキング・ドキュメンタリー「セット装飾」に詳しい。

 

[10] DVD収録のメイキング・ドキュメンタリー「特殊メイクアップ&デザイン」に詳しい。

 

[11] To Jean Speegle Howard,“who loved Christmas the most”と書かれている。