19.『ビューティフル・マインド』 (A Beautiful Mind 2001

 

 『アポロ13』と並ぶ、もう一つのマスターピース。ロン・ハワードは『ビューティフル・マインド』で、ついに念願のアカデミー賞を獲得する。作品、監督、助演女優(ジェニファー・コネリー)、脚本(アキバ・ゴールズマン)での、堂々4部門受賞である。前年の『グラディエーター』(2000 リドリー・スコット)に引き続き、2年連続主演賞の期待がかかったラッセル・クロウは、惜しくも受賞を失した。

 ハワードは製作も兼任しているので、監督賞の他、作品賞とあわせ、一挙2つのオスカー像を手に入れる。幼い頃から芸能活動をしてきたロン・ハワードの半生の中で、おそらく最も栄誉にあふれた瞬間だったろうと思う。これほどの傑作を送り出してきたにもかかわらず、その受賞はいかにも遅かったように思うが、この待望の結果はちょうど監督デビューから15本目。これは驚くなかれ、スティーブン・スピルバーグがオスカーを初めて獲得した『シンドラーのリスト』(1993)も、『激突!』(1971)から数えて15本目の作品なのである(『トワイライト・ゾーン/超次元の体験』(1983)などの短編は数に加えない)。

 奇妙な偶然もあるものだと思うが、とにかく受賞記録には無縁だったロン・ハワードの、満を持しての栄光である。

 

このように、事実上ロン・ハワードの代表作ともいえる『ビューティフル・マインド』の構成は、それ自体としてはきわめて単純なものだ。数学の若き俊英として、プリンストン大学に入学してきたジョン・ナッシュ(ラッセル・クロウ)は、自信過剰で、時に辛らつ、人付き合いは絶望的にダメな学生だが、こと数学に関しては天才的なひらめきを見せる。

 在学中、ついに画期的な理論を見出し、数学者として前途洋洋たる道が開ける。美しい妻アリシア(ジェニファー・コネリー)とも結ばれるが、しかし学生の頃から彼を蝕んでいた病が、本人も気づかぬ間に進行する。統合失調症である。[]

 その病気は、ナッシュにありもしない幻覚を見せ、妄想が彼を苦しめる。国家のために暗号解読をしているという思い込みと、それ故にソ連のスパイに狙われているという被害妄想。そして存在しないはずの人物が見えてしまうという幻覚。ついに研究者としては完全にダメになり、精神病院への入院を余儀なくされ、夫婦生活も崩壊寸前となる。

 しかし、妻の献身的な介護と、学生時代からの友人の配慮を得、長い長い年月が彼の病を次第に緩和する。ひっそりと大学のかたすみで、教鞭をとるようにもなるが、ある日、彼の為した画期的な理論はついに、ノーベル経済学賞受賞対象となり、ストックホルムでの授賞式という生涯最大の栄誉と共に、ついにその業績が報われることになる。

 長い歳月の物語である。ナッシュがプリンストン大学に入学する1948年から、ノーベル賞授賞式までの1994年まで。実に50年近くにわたる人生のドラマだ。ちなみに、ナッシュが受賞した1994年のノーベル賞は、日本人にとっては大江健三郎が文学賞をとったことでも、縁深いものがある。

 

 さて、ナッシュが見る幻覚というものを材料に、『ビューティフル・マインド』が、観客をミスリードし続ける、計算しつくされた構成の妙は驚くほかない。

 存在しない人物を見てしまうというナッシュの病的兆候は、プリンストン入学段階で既に始まっている。しかしそれが妄想であるということは、観客にはほとんどわからないように描かれている。ドラマの視点がナッシュであって、そのナッシュが見ている人物は、スクリーンにも映っているのだから、それが彼だけに見えている幻覚などとは、誰も思わないわけだ。

 やがて観客は、それらをおかしいとは思い始めるが、しかしそれが幻覚だという確証は、観客にはほとんど与えられることがない。(細かな伏線はたくさんあるのだが、よほど注意深い観客でない限り、それに気づくことはまずないだろう)

 ナッシュの異常行動が頂点に達し、ついに妻アリシアが病院に通報。さまざまな説明を得てついに観客自身も、これまで見てきた多くはやはり幻影だったのだ、と確信するところで、135分にわたる上映時間のきっかり半分である。

 それまでの約70分がナッシュ視点のドラマであるならば、残りの約70分はナッシュの病を客観的に見つめる観客視点(多くの場合アリシアからの視点)のドラマとなる。観客はナッシュ夫妻の物語を、外側から見つめることになるだろう。

 ロン・ハワードにおいては、主観は自在に切り替わる。自分は今、誰とともに物語を追いかけているのか。そこを敏捷におさえていくことが、ロン・ハワードの映画を楽しむひとつのポイントとなる。そして、『バックマン家の人々』や『ザ・ペーパー』などの優れた集団劇を成功させてきたのは、観客のそれを含めた主観の切り返しの巧みさに負っている。物語の誰とでも一体化できるための演出なのであり、それが故に鑑賞後の豊かな印象を与えてくれるのだ。

 また、観客の視線は、登場人物たちの中に一緒にいることもあれば、その外に追いやられることもある。『身代金』の章で少し触れたが、失踪した子どもを公園の人ごみの中に捜すメル・ギブソンを描くとき、今動いているカメラはまさしくギブソンの視点だと思って見ていると、その画面の中にメル・ギブソンが突然フレーム・インしてきて、自分が今見ている画面の視点が誰のものなのか、わからなくなる。ギブソン? 観客? いや? 文字通りのパニック状態をそうやって表現するわけだ。観客や登場人物の視点を操ることについて、ロン・ハワードはこのような実に強引で大胆な超絶技巧もやってのける。

 本稿でもそろそろ明かさなければならないが、『ビューティフル・マインド』でナッシュが見る幻覚とは、ルームメイトであるリチャード(ポール・ベタニー)、彼の姪という少女マーシー(ヴィヴィエン・カーダン)、そしてナッシュを暗号解読要員としてつきまとう国家スパイ、パーチャー(エド・ハリス)である。

 この3人はナッシュの目にだけ見える幻影の人物だ。映画の前半においては、彼らが幻影であるなどとは、まったく感じさせないように作られている。この点について、DVDコメンタリーでの、ロン・ハワード自身の説明を引用するならば、幻影である彼らは、まず声から先に登場する。そして、その声の方向にナッシュが目を向け、その視線の先、ナッシュの視点で幻影としての彼らが登場するという仕組みだ。そして、ひとたびナッシュ視点で彼らをとらえたら、そこから先は、ナッシュと「幻影」がツーショットで同じ構図の中に一緒にいてもかまわない、というわけである。

 さて、実はこのことが『ビューティフル・マインド』で試みた、ロン・ハワード最大の冒険といっていい。というのは、ロン・ハワードのこれまでの映画は、誰もが同じ一つのものを見て、それに対する全員の共通する反応を描いたものだったからだ。

 その頂点である『アポロ13』は、ロケットの発射という誰もが同じものを見つめて、その成功を祈り、同様に誰もが同じ1つのものを見つめながら、アポロ13号の生還を乞い願う、全員に共通する視線と願いの束が、全てひとつに結集したところに起こる奇跡の物語だった。

 『コクーン』では誰もが宇宙人を見てしまう。登場人物の誰かがそれを見損ねて、エイリアンの存在を信じないなどといった、無用の事態は起こらない。『バックドラフト』冒頭の父親の死という悲劇。生徒全員が見ている教室で、「遥かなる影」を歌いながら、リック・モラニスが妻が復縁する『バックマン家の人々』。観光客でにぎわうリバティ島に、人魚が全裸で登場する『スプラッシュ』。犯人逮捕の情報を全国ネットで募集する『身代金』のメル・ギブソンから、全国民が固唾を飲んでひとつの番組を眺めている『エドTV』という異色作に至るまで、ロン・ハワードにあっての「事件」とは、疑うことなき衆人監視の中で起こるものだ。繰り返すけれど、誰もが同じものを見つめていて、それに一切の疑いはないのである。

 しかしながら、『ビューティフル・マインド』においては、主人公のナッシュにだけ見えていて、他の誰にも見えない登場人物がいるという異常事態。それまでのロン・ハワードの構成をひっくり返すような構造を持ってしまったのである。

 それこそが間違いなく、ロン・ハワードが自らに課した課題として物語化したであろうことは、実在の人物であるジョン・ナッシュの詳細な伝記からわかる。なぜなら、本作の原作となったシルヴィア・ナサーの著書には、ナッシュの症状としてこんなルームメイトや少女、スパイなどといった幻覚は語られていないからである。[]

 この書物で、ナッシュの症状として顕著なこととして描かれているのは、幻聴や誇大妄想、思考や感情の混乱、そしてそれから派生する暴力的な素行である。エド・ハリスやポール・ベタニーらが表現した、生涯つきまとう特定の妄想の産物は、完全にこの映画の脚色であり、ハワードはナッシュの症状として幻覚ということのみに焦点をしぼりこんだ。

 ナッシュだけにしか見えないキャラクターを設定したことで、『ビューティフル・マインド』は実に複雑で、奇形な映画となる。それは、登場人物たちの感情が、ひとつに集まるべき焦点がなくなってしまうからだ。

 登場人物の視線について、さまざまな冒険を繰り広げてきたロン・ハワードの、だからこれは1つの課題である。視線の集まるべき対象なしに、どこに感動の頂点を持っていくべきか、あるいはそれを作り得るのか。その問いに対しては、こんな回答が用意されるだろう。ナッシュのさまよう視線が、そこにまごうことなく実在する妻アリシアのそれと結びあう瞬間であると。

 時に見せる笑顔が、とてもチャーミングなラッセル・クロウの演技は確かに魅力的で、その微笑は愛さずにはいられない。それ以上に、内面の激しい葛藤を抑えながらも、献身的にナッシュにつき添うジェニファー・コネリーのドラマチックな演技は、見ている誰もが好きにならずにいられないだろう。

互いを見つめ合うそんな2人の視線が、激しい闘病生活でこわれかけた夫婦生活の危機をも超え、もう一度愛情をもって絡み合うこと。私たちはその瞬間を熱望し、その場面を見ずにはいられなくなる。苦難を共に超えようとする心。それが「美しい心」、すなわち「ビューティフル・マインド」という題意につながっていく。だから映画が模索するのは、それまでの道程なのである。

 見つめ合う彼ら2人の視線のカムバックの物語であるから、ハワードはやはりこれまでの作品とは、異例とも言える作劇上の省略を行う。それは、ナッシュとアイリスの家族である。これまで家族関係の描写にこだわり、家族構成員はすべて登場させることを原則としてきたハワード作品だというのに、ナッシュのもアイリスのも、2人の家族は一切登場しない。

 職を失ったナッシュの家計を支えるために、アイリスは生まれた子どもを「母に預けて」働きに出ることを口にしているが、その「母」は画面には出てこない。

 現実のナッシュには、彼の病を支えた母や妹がいるようだが、映画はあたかも彼が天涯孤独であるかのように描いている。

 この作品の場合、もしもアイリスやナッシュの家族を出してしまったら、その家族の瞳はどこに焦点を集めればよいのだろうか。ナッシュその人か? いや、それではジョン・ナッシュという人物個人の、栄光の物語になってしまうはずだ。あるいは、ナッシュのノーベル賞受賞をクライマックスとして、壇上に立つ彼の姿にアイリスやナッシュの家族全員の視線を集めるべきだろうか。すると今度はアイリスの献身が希釈されてしまうのではないだろうか。

 そう考えるとやはり、ナッシュとアイリス2人の物語にしぼることが、必須なのである。

 

だがそれにしても、この映画の視線の構造は複雑である。『身代金』の章で私は、ロン・ハワードが開発したテクニックのひとつとして、「第三の視線」というものを提案した。

『ビューティフル・マインド』でも、この「第三の視線」は遺憾なく活用されるわけだが、その「第三の視線」はナッシュの幻影のものなのだから厄介だ。

たとえば、研究者としては使い物にならなくなったまま、すでに老齢に達したナッシュが、いまや学部長となった昔のライバル、ハンセン(ジョシュ・ルーカス)と再会し、大学への出入り許可を得るため対面する。視線は当然、ナッシュとハンセンの双方向なのだが、部屋の隅には「第三の視線」の持ち主として、ナッシュの幻影であるリチャードが登場する。

リチャードの視線はナッシュに注がれ、その存在を気にしてナッシュもリチャードに視線をくれるが、直接の体面相手であるハンセンにとっては、リチャードは存在していない。だから、そちらに目線を送りつつも、けげんな表情を浮かべるだけだ。

映画においては、不可視のもの(たとえば亡霊)をいかに見せないままに表現するかが、ひとつの演出上のポイントになることがままある。しかし、ロン・ハワードは見えないものを、いとも堂々とあっけらかんと見せてしまった。

リチャードや少女マーシー、スパイのパーチャーが、実在の人物であるかのように登場するので、これは、前半においては観客をミスリードする手段であったわけだが、後半においては、ナッシュの病の深さを肌で感じさせる表現となる。

このナッシュとハンセンの対面シーンは、その最たるもので、幻覚にすぎないリチャードの方に視線を向けずにいられないナッシュに、とにかく気を揉まされる。つまり、ナッシュの異常行動を案じて、大学への出入りがかなわないのではないか、というサスペンスが作られるのだ。

このように、ナッシュの目では世界がどのように見えていて、健常者の目にはどのように見えているかが、きれいに切り分けられているのが後半のタッチである。前半はナッシュの視線と観客の視線は同一であり、それを疑いながらもナッシュと同じものを見ていたのだが、後半からはそれを突き崩しにかかり、ナッシュの視線を客観視させるような画面作りが行われている。これは「第三の視線」の驚くべき変奏だ。それに伴ってドラマもスリリングな大転換を見せ、およそ物語に飽きさせられることはない。

これだけのものを見せられたら、ロン・ハワードは視線の劇というものを極めるためにこそ、この映画にリチャードをはじめとする、3人の幻影を「創作」したのだと確信してもよいのではないだろうか。

これをなるほど、「見えるはずのないものが見えてしまう状況を描く映画」として、「説話技法の面では『シックス・センス』、『ファイト・クラブ』と同系統の作品であると言えるかもしれない」と分析する阿部和重の視点は決して間違っていない。[]

これらの作品が、ほぼ同時期に撮られていることや、『ビューティフル・マインド』が、大ヒット作『シックス・センス』(1999 M・ナイト・シャマラン)と『ファイト・クラブ』(1999 デヴィッド・フィンチャー)の後の作品であることからも、この傾向をうまくトレンドにのせたという見方も可能だろう。

しかし、『シックス・センス』や『ファイト・クラブ』では、「不可視の存在」というものを、最後まで観客をミスリードするための方便としてのみ利用したのだった。それに対して、ロン・ハワードにおいては、これまでの作品で論じてきたように、あらゆる視線のバリエーションを試みたその集大成として、『ビューティフル・マインド』に挑んでいる。

演出上の興味の対象が、「不可視の存在」そのものであるか、あるいは、「不可視の存在をみつめる視線」の側であるか。これは近いようでいて、思想において根本的な隔たりがある。

もしも『ビューティフル・マインド』が、本当の意味で『シックス・センス』の系列に連なる作品として、「不可視の存在」そのものが映画のテーマだったなら、たとえばの話として、いっそ妻アリシアまでもがナッシュの見た幻影だった、という「大どんでん返し」が必要となるだろう。

従って、『ビューティフル・マインド』をそのように扱ってしまうことは、ロン・ハワードの試みを矮小化することにつながりかねない。だから、このことは正確に区別しておきたい点である。

もっとも阿部和重の表現も、「・・・同系統の作品であると言えるかもしれない」と、慎重に保留を残してある点は、さすがの厳密さだと思う。

ただ、一方で、ストローブ/ユイレがハリウッド的なスペクタクル志向を拒否しつつ、映画の表象不可能性(たとえばユダヤ教の神)をめぐって、どれだけ困難な映像表現に挑んでいるかを四方田犬彦が語るとき、『ビューティフル・マインド』は批判対象として、格好の素材になり得るだろう。[]

四方田の論文は、直接『ビューティフル・マインド』に言及しているわけではないが、その観点に立って追及するならば、コリン・マッケイブやデヴィッド・トンプソンのように、この映画は最も敵視される素材となってしまう。[]

そして、その立場による批判を受けたとき、『ビューティフル・マインド』に限らず、「ハリウッド映画」は残念ながら有効な反論材料を持たない。私自身が本論で試みている通り、それは視線の劇の一形態としてとられた、作家的冒険なのだと、個々の作品レベルで応じる他はないだろう。

 『ビューティフル・マインド』は、典型的なハリウッド式メロドラマである。従って不可視のものも必然的に可視化され、現実のナッシュ夫妻の想像を超えた悲劇は速やかに克服、かつ隠蔽されて、きわめて楽観的な未来像を描いて幕を閉じる。こうしたハリウッドイズムに対して、マッケイブ流の批判を受けた場合、まだ「ハリウッド映画」はそれに対応する理論を持ち得ていないのだ。

思うに、そうした批判を受け入れつつも、それでもなお抗いがたく画面に立ち上る作品の力を語り続ける他、有効な方法はないのではないだろうか。そしてそのたゆまぬ努力こそが、ハリウッドを擁護する唯一にして最良の手段となるはずだ。

だからここでは、そのせめてもの努力をもう少し続けることにしたい。

 

こうして、いつかひとつに溶け合うべき視線の劇として、ナッシュとアイリスを位置づけたことは述べた通りだ。その最初のデートにおいて、すでに幻影(らしきもの)を目にして、そちらにばかり視線を送っているナッシュは、その顎をアイリスにつかまれて、「私のほうを見なさい」とたしなめられる。

この段階では、ナッシュの病はアイリスに(そして観客にも)明らかにされていないので、見過ごしてしまいそうだが、彼女のこの“Look at me!”というセリフは、ナッシュをつなぎとめようとするアイリスの最初の試みとして象徴的である。

その同じデートの日、ナッシュは「どんな星座も描いてみせる」と、アイリスの手をとり、手と手を重ね合わせながら、たくさんの星がきらめく夜空を指差し、数ある星をつないでアイリスの望む星座を形作るのである。

この美しく、ロマンチックなシーンにおいて、ロン・ハワードの「垂直のカメラ」は彼らを上から(夜空の側から)見下ろし、顔と顔を寄せ合った2人の視線が、ともに同じひとつの物(星座)を見つめている様子を描き出す。これは哀しいことだが、ナッシュとアイリスの視線が、幸福感をもって同じものを共有した、最初で最後のシーンとなるだろう。

実際このシーンの後、印象的なプロポーズのシーンで、2人の視線がもう一度交わりあった後、ナッシュとアイリスの結婚式へと続くのだが、彼ら2人の幸福な新婚生活というものは、一切描かれていない。驚くべきことだが、本来的には夫婦にとって最高の幸福の瞬間であるはずの、子どもの誕生さえ省略されているのだ。

「家族」というものにこだわった作品を作り続けたロン・ハワードにあって、ここでも大胆な省略を行ったというべきだと思う。何しろ、はっきり印象に残る形で2人の赤ん坊が登場するのは、錯乱したナッシュが子どもを浴槽でおぼれさせそうになるシーンが最初なのだ。観客にとってこの子は、気がついたら生まれていた程度の印象の薄さである。

結婚の時点で既に病が進行していたナッシュには、幸福な結婚生活を営む時間などなかったということだ。ナッシュの異常をいよいよ決定的なものと見たアイリスは、病院に通報。強制入院を受け、ベッドにしばりつけられたナッシュが、インシュリン療法によって全身を激しく痙攣させる衝撃的な姿を、アイリスはガラス越しに見守ることになる。

ここで、助けを求めるかのような怯えきったナッシュの視線と、それを見守るアイリスの視線は、ガラスを隔てて賢明に交わろうとする。この場面での構図=反構図の見事さは筆舌に尽くしがたく、本当に賢明に視線が視線をつかまえようとしているかのようだ。けれど、やがて意識が遠のいていくナッシュに、それはかなわぬこととなる。

やがて退院し、2人の生活が再会するものの、ここでは彼らの視線が交わることは決してない。むしろなるべく目を合わせないようにしている印象さえある。彼らの結婚生活において、もっとも空虚な時期。とはいえ、その間も決して愛情が失われているわけではないことを示す、すばらしいシーンがある。

アイリスがナッシュのかつての同僚ソル(アダム・ゴールドバーグ)と、冬のキャンパスを散歩しながら、その心中を語り合うところだ。こんな会話である。

 

「アリシア、元気なのかい?」

「幻覚は消えているわ。薬の効果とストレスもないから」

「違うよ。君のことだ。君は元気なの?」

「(長い間)私が感じるのは義務感なのよ。あるいは、全部投げ出してしまいたいという罪悪感。ジョンに対する怒り。神に対しても・・・。でもそんな時、彼を見て、私が結婚した頃の彼を思い出そうとするの。そうすると、彼は私が愛したあの人に変わるわ。・・・そして彼を愛した自分に戻れるの。いつもではないけれど。でもそれで十分だわ」

「・・・奴は運のいい男だ」

「いいえ、とても運の悪い人よ・・・」[]

 

『ビューティフル・マインド』には素晴らしいダイアログがたくさんあるのだが、これはその中でもとびきり素敵なものだと思う。

元気かと訊ねられて、それを自分のことでなく、夫のことだと受け取るアイリスの愛情の深さ。それに対して、「君のことだよ」と問い直す友人ソルの温かさ。そして、それに続くアイリスの言葉が、愛情にあふれながらも、なお心中複雑な彼女の率直な気持ちがすべて伝わってくる。

これを語るジェニファー・コネリーの言葉の抑揚を含め、1語を口にするごとに変化する視線や表情の雄弁さ。それを受けるアダム・ゴールドバーグの演技も見事である。そしてこのシーンは、いい季節の本当に美しいキャンパスの柔らかい木漏れ日の中で交わされる。陽射しの強さに目を細めなくともよい、けれどもほどよく明るい光が2人を照らして、たとえようもなく美しい。そして、言葉にならぬほど見事なカット割りで、この映画の数ある名シーンの中でもとりわけ胸を打つ。

こうした心休まるシーンもあるのだが、アリシアとナッシュの視線はどんどん乖離していく。よそよそしくなった彼らの態度は、彼らの室内レイアウトでも表される。特に狭いキッチンには中央に柱があって、その柱を隔ててナッシュとアリシアの立ち位置が配置される。彼らの心に、修復しがたい溝ができつつあることを示すかのようだ。

やがて、錯乱したナッシュが子どもを浴槽で死なせかけるという、先にも触れた決定的な事件がやってくる。恐怖のあまりパニックに陥り、子どもを抱きしめながら病院に通報しようとするアイリスに、幻影のパーチャーが銃を向ける。その幻影を実在と見ているナッシュは、パーチャーを押しのけるつもりで、アイリスを突き飛ばしてしまう。アイリスとしては、彼の病気は自分(や子どもに)危害を加えるものになりつつあるという、決定的な恐怖だ。

こうしたシークエンスの、ロン・ハワードの物語の進め方の巧みさは、もう論じようがない。赤ん坊を浴槽に入れるナッシュ。母としての本能でわが子の危機を察し、家へと走るアイリス。溺れゆく赤ん坊。ほとんどグリフィス的ともいえる、あまりにも見事なカットの積み重ねで、場面が切り返され、ただ息をつめて事の推移を見守るのみである。

この事件をきっかけに、ついにナッシュは再入院を促されるわけだが、さて、ここが『ビューティフル・マインド』全編中で最大のクライマックスだ。

ナッシュとアイリスは、部屋で再入院のための身支度を整えている。ナッシュはやはり入院を撤回できないだろうかと、まだ拒んでいる。アイリスは何も言わない。

やがて病院からの迎えの車が来たので、ナッシュを残したままアイリスは部屋を出る。もう一度部屋に入ってくるときは、きっと医師団もいっしょだろう。しかし、しばらくの間の後にドアが開いたとき、アイリスは1人である。彼女は病院の車を帰したのだ。

このとき、アイリスは決意を固めている。入院はしない。何があろうとも、2人で生きていくのだと。

アイリスはナッシュの前に膝立って語りかける。

「何が現実なのかわかる?」と語りかけながら、アリシアはナッシュの頬に触れる。そして次に彼の手をとり、自分の頬にも触れさせ、次に自分の胸を触らせる。これと、これ、そしてこれこそが「現実」なのだと。

「夢から覚まさせてくれるものは、きっと頭なんかではないの。きっとここなのよ」[]

と、もう一度彼の手を自分の胸にあてがい、そしてこう言う。日本語にしては興醒めなので、原語で書く。

I want to believe・・・that something extraordinary is possible.”

 (私は信じたいの。何か信じられないくらい素晴らしいことも可能なんだと)

 この見事なフレーズの、特に“believe”と“that”の間は、たっぷりと間をあけて読んでいただきたい。これらの言葉が1語1語、ジェニファー・コネリーの口から噛んで含めるように、ゆっくりと語られ、ついに2人は感極まって抱きしめあう。

涙なしでは見られぬ、この圧倒的に感動的なシーンで、ようやくアイリスとナッシュの目と目は重なり合う。視線と視線は揺るぐことなく交わってびくとも動かない。アイリスはもちろんだが、ナッシュの視線ももうそれることはない。長い長い歳月の後、彼らの視線はとうとう再びめぐりあったのだ。

このとき、改めて気づかされる。ジェニファー・コネリーという女優が、どれほど大きく、美しく輝くダークブルーの瞳の持ち主であったかを。

ここでのラッセル・クロウが素晴らしいのはもちろんだが、ジェニファー・コネリーの演技はこの瞬間、問答無用でアカデミー賞確定である。これほど巨大な説得力をもって演じられたシーンを、ロン・ハワード作品はもちろんのこと、映画史でもそれほど多くは知らない。

脚本のアキバ・ゴールズマンは奇跡のようなセリフを、この映画の中に数多く残し、その宝石のような言葉を出演者は見事に表現した。『ビューティフル・マインド』は、これまでのハワード作品の中でも、こうした会心のシーンにひときわ満ち溢れている。

もうひとつ大切なことがある。このセリフの言葉としての素晴らしさもさることながら、「現実」というものがどこにあるか。それは、手をとり互いに相手に触れ合うことであるということを語っていることなのだ。見つめる視線のその向こうにこそ奇跡が、すなわち“something extraordinary”が待っていることは、『アポロ13』が描きつくし、その起源をスティーブン・スピルバーグらの印象的な作品に負っていることは、『アポロ13』の章で論じた通りだ。

けれど、互いが互いを触れ合うことによって、相手を実感するということ。このことも、スピルバーグがほとんどすべての作品で主張し続けたことと一致する。すべてを書き記す余裕はないが、『E..』(1982)の人差し指を筆頭に、『カラーパープル』(1985)の姉妹が重ね合わせる手の平、『フック』(1991)でかつて自分がピーター・パンであることを思い出すきっかけとなる子どもたちの手、そして『太陽の帝国』(1987)の少年が両親の記憶を取り戻すラスト・・・とだけ例として述べておきたい。

ここでジェニファー・コネリーが、ラッセル・クロウの頬に触れ、彼の手をとり自分の頬に触れさせるその姿は、スピルバーグが描いてきた触れ合いのシーンを、ロン・ハワードが引き継ぎ、総決算したとさえ言える。

その出自がスピルバーグの影響下にあらざるを得ないロン・ハワードは、『ビューティフル・マインド』のこの場面において、ついにスピルバーグ免許皆伝であるとみなしたいと思う。その意味で偶然とはいえ、この作品が同じデビュー15本目のアカデミー賞受賞という形で、彼のキャリアの頂点となったことは、まずふさわしいことなのではないだろうか。

 

ジェニファー・コネリーを筆頭に、主演のラッセル・クロウ他、『ビューティフル・マインド』の俳優陣のすばらしさは、ハワード作品の中でも最高水準だ。

ナッシュの幻影であり、時に共感を寄せ、時にストレスを与える旧友リチャードを演じるポール・ベタニーの変幻自在。あまりの存在感に、幻影とわかっていても、実在と思わされるスパイ、パーチャーを演じるエド・ハリス。

そして誰よりも、学生時代は敵対的ライバルだったが、壮年以後は学部長としてナッシュに大学への出入りを融通するハンセンを演じた、ジョシュ・ルーカスの温かみあふれる演技が忘れられない。彼はこの映画のもう一つの要だ。また、ナッシュの主治医を演じるクリストファー・プラマーの存在も、この映画に圧倒的な風格を与えている。

こうしてみると、『ビューティフル・マインド』は、ナッシュとアイリスの夫婦関係に集約された物語のようにも思われるが、登場人物の多彩さと重要性において、この作品でさえも、やはり集団劇としてとらえることも可能だろう。

実際、直接的にはナッシュの同僚である、ハンセンをはじめとする3人の学友が、アイリスと触れ合う場面になるとき、そのシーンからあふれる温かさの印象は忘れがたく魅力的なのだ。こうした俳優たちの演技アンサンブルの果てに、ノーベル賞受賞という、ついに果たされるかつての天才数学者ナッシュの復権。

『バックドラフト』で、何よりも大切にされたのは消防士たちの名誉だった。『アポロ13』は、既に大衆に飽きられていたアポロ計画が、その障害克服において史上最高の栄誉と変えた、飛行士と管制塔員の名誉回復の物語である。『ザ・ペーパー』は記者としての、『エドTV』では一市民としての誇りを回復する物語として、ロン・ハワードは必ず物語の構造を、名誉の回復へと構成する。

プリンストン大学では、偉大な学者に対する敬意を表するため、自分の万年筆を捧げるという習慣があるそうだ。

ノーベル賞受賞の内示を聞くため、老ナッシュが大学内カフェに座っていると、居合わせた店内の学者たちが、1人、また1人とナッシュのもとに訪れ、彼のテーブルに万年筆を置いていく。思いがけなさと喜びを隠せぬナッシュを、ロン・ハワードの「垂直のカメラ」が上から感動的にとらえる、この上なく見事なショットがある。

おそらく、ナッシュにとっては、受賞そのものよりも、同僚たちの敬意を一身に受けたこの瞬間こそが、人生最高のときではなかったろうか。ロン・ハワードが授賞式のシーンにおいてではなく、彼のとっておきのカメラワークである、「垂直のカメラ」を、授賞式のシーンではなく、ここで見せている意味はそれである。

 

さて、最後にこの映画が実話に基づいているが故に、書いておきたいことを記さねばならない。『ビューティフル・マインド』が映画として、疑問の余地なく傑作で、良質な作品であることに何ら異論はない。よほどうがった見方をしない限り、この作品に涙しない者はほとんどいないだろう。

けれど、この映画はやはり都合のいい側面ばかりを見せている、という非難があればそれに対して反論はできない。このことは、四方田犬彦らの論を引きつつ先述した通り、ストローブ/ユイレらが試みている表象不可能性と立ち向かう立場からは、批判されるべき最大の点となりもする。

確かに、様々な葛藤は描いてある。彼ら夫婦の苦悩はまずまず伝わってくるし、特に天才数学者としての一生を台無しにしたナッシュの苦悩は想像するに余りある。だが、それはハリウッド流のメロドラマとしては、必然的な苦難にすぎなかろう。物語のセオリーとして、登場人物の苦難の果ての幸福の涙、というわけである。

しかし、実際のアリシアとナッシュは、ついに離婚に踏み切っている。よりを戻して再婚こそしたものの、必ずしも映画のように、最後まで健気に添い遂げたわけではなかった。2人の背後にいる家族の存在が、作劇上すべて省略されていることは既に述べたが、ナッシュの症状もほとんど幻覚にのみ絞られている。けれど、実際には誇大妄想と、それに暴力も伴っている。映画では示唆するにとどめているが、現実には相当な修羅場があったという。

まだある。現実のナッシュには同性愛的な傾向があって、「恋人」も多数あった。映画の中のナッシュ=ラッセル・クロウしか知らない者にとっては、ある意味ショックなことかもしれないが、実は彼にはアリシアとの結婚以前に、愛人がおり、彼女との間には男の子も生まれている。そして、その愛人と子どもに対しては、きわめて薄情で冷たい仕打ちをし、経済的な援助もほとんど行っていないようでもある。[]

そして、何より衝撃的なのは、映画の中では浴槽に沈められ、ラストでは立派に成長した若者として登場したアリシアとの一人息子チャールズのことだ。彼は、父譲りの数学的センスから、学者としての将来を嘱望されていたが、非常に痛ましくも運の悪いことに、父親の病気が彼にも発病した。

チャールズは父親と同じ統合失調症にかかり、父親同様に学者としてのキャリアは足踏みを余儀なくされ、現在もなお闘病中である。ナッシュ自身も介護を行っているそうだが、アリシアにとっては、夫に続き息子の悲劇にも見舞われ、これほど気の毒な人生はない。[]

そうした悲劇的な現実を、『ビューティフル・マインド』は一切伏せている。もちろんこの作品は、事実に基づくとはいえドキュメンタリーではない。だから、大予算を投下したハリウッドの商業映画としては、致し方のない選択であり、「ハリウッド様式」の枠組みの中で、一本の劇映画としてみた場合に、その価値がいささかも揺らぐものではない。

ただこのことは、「映画」というジャンルを扱う場合に、常に考えておかなければいけないことなのだと思う。「映画」は編集によって成り立つ映像芸術である。だから、50年もの時間を2時間に圧縮して語ることができる。CGの進歩は、そのことをより一層リアルに可能にしている(同じ1人の俳優が、メイクによって大学生から老人までを演じることができる)。

だから「映画」は隠蔽する。そして、隠蔽されている事柄について、常に意識的であることは困難である。それが「映画」の素晴らしさであると同時に、「映画」の限界だ。ここでストローブ/ユイレやゴダールを持ち出しつつ、彼らはそのような限界性に挑んでいるのだ、という話に持っていくのはあえて控えよう。けれど、『ビューティフル・マインド』という、美しい映画の向こうには、とても美しいなどとはいえない、醜い現実が横たわっている。

 『ビューティフル・マインド』という作品は、全米で1億7千万ドル、全世界では3億1千7百万ドルを売りあげる大ヒット作品となり、数々の輝かしい映画賞の受賞も伴って、一般的認知度は非常に高まった。[10]それによって、統合失調症という病気が広く紹介されたことで社会的理解が高まり、この病気と闘う人にとって、大変な励みと支援につながったという。確かにそういう面もあるだろう。だから、それもまた1つの効能だ。そして、そうした社会的意味合いの重要性が評価され、数々の受賞にもつながった、という見方も可能なはずだ。

 けれどその一方で、父親と同じ病に犯され、今なお闘病中であるというナッシュの息子チャールズは、映画のラストではきわめて健全に成長した青年として、父母と言葉を交わしている。そうした『ビューティフル・マインド』の幕切れは、すべての困難を克服し、ついに家族の永遠の幸せを手に入れたかのように思わされる。そのことは、果たして現実に神経失調症と戦う家族たちにとって、どれほどまやかしの物語となるのだろうか。そのことには、正直思いを馳せずにはいられない。

 ロン・ハワードの作品は、それがあまりにもウェルメイドであるが故に、問題提起の意識の欠如もまた甚だしい。『ビューティフル・マインド』は、現実との接点が大きな題材を扱っていたと言えるが故に、同時に封印してしまった部分もこれだけあるのだということは、それは「映画」の名のもとにあえて、本論では記録しておきたい。

 ほぼ全生涯にわたる病の克服と、びくとも揺らがぬ夫婦の理想的な関係。やがて来る名誉の回復。こうした『ビューティフル・マインド』の構成は、まぎれもなくロン・ハワードが厚みを持たせつつある、「アメリカの物語」の1つである。それと同時に、「アメリカ映画」の清と濁が、どちらも極端な形で宿っている点において、重要作であり問題作だとも思う。

この作品の、そしてハリウッド映画が抱える、こうした二律背反はどのように解けばよいのだろうか。

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[] 『ビューティフル・マインド』公開当時、この病気は「精神分裂病」と呼ばれており、劇場公開時およびDVD版字幕、または同時期のすべての資料はその呼び名で統一されている。現在は「統合失調症」という病名に変更されているため、本論においてはその表記に従う。

 

[] シルヴィア・ナサー『ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡』(塩川優・訳 新潮社 2002

 「ナッシュの発病初期に顕著に見られた傾向は、躁状態でも鬱状態でもなく、むしろ知覚の鋭敏化、ひと晩中寝られないほど神経が高ぶり、異様に警戒心が強くなることだった。そのうちに、日常目にするもののほとんど(中略)が、重大な意味を秘めており、自分にだけはそれが理解できると考えられるようになる。(中略)同時に自分が宇宙の神秘を解明できるまであと一歩だとも信じるようになった。(中略)さらに日がたつと、以前の同僚たちに、自分がある大がかりな陰謀をあばいたとか、さまざまな数字や聖書の言葉に隠された秘密をといたという手紙を次々と送りつけるようになる。」(P.20

 

[] 阿部和重『映画覚書vol.1』(文芸春秋 2004)P.33

なお、さらに阿部は同書において「ナッシュの見る被害妄想的な幻覚は、アメリカのあらゆる場所がファンタジーの舞台となり得ることを示している」(P.33)と、独特の観点を示唆している。

 

[] 四方田犬彦『映画と表象不可能性』(産業図書 2003)所収「ストローブ/ユイレのシェーンベルク解釈」参照。

 この論文において、四方田はシェーンベルクのオペラを映像化したジャン・マリ・ストローブとダニエル・ユイレの『モーゼとアロン』について触れ、無調音楽であるシェーンベルクの作品の対照として、ハリウッド映画を調整音楽となぞらえ、次のような興味深い表現を行っている。

 「伝統的な調性音楽では、不協和音は最終的にはかならず解決されなければならない。この構造の対応物を映画において求めるとすれば、それはフィルムが終わるまでに説話行為がかならず完結していなければならないという、古典的ハリウッド映画の約束ごととなる。メロドラマの最終部分では平行モンタージュがしばしば登場して、「最後の瞬間の救済」を語ってきたし、ハッピーエンドこそはハリウッド映画におけるイデオロギー的な様式であった。」(P.9495

 この指摘は、浴槽で溺れようとする赤ん坊のエピソードを参照すると、『ビューティフル・マインド』に対する言葉とさえ受け止めることができる。

 そして、このように述べる。

 「ストローブとユイレが果敢にも対決を挑んだのは、こうした映画的制度に対してである。彼らはフィルムのなかで、物語が最終的解決を見るという立場を拒否し、映像どうしの間に位階を認めない。」(P.95

 

[] コリン・マッケイブ『ゴダール伝』(堀順之・訳 みすず書房 2007)における、スピルバーグに対する激しい批判を込めた文章に対する注釈より。

 「ハリウッドの凋落を本当に図示したいのであれば、精神疾患についての二つの映画、サミュエル・フラーの『ショック集団』(一九六三)とロン・ハワードの『ビューティフル・マインド』(二〇〇二)を比較するにしくはない。(中略)ハワードが偉大なアメリカ人の人生の一つに偽りの戯画化を施した代物に関しては、それを描写する言葉を見出しがたいが、スピルバーグ流派の完璧な実例ではある。」(P.404

 

 しかし言わせてもらえるなら、ここでマッケイブが「見出しがたい」と吐き捨てるように述べた、「それを描写する言葉」を必死に見出そうとしているのが本論であり、「スピルバーグ流派の完璧な実例」という言葉を、賛辞と受け止めるためにこそ本論は存在する。

 なお、この同じ注釈の中でマッケイブは、デヴィッド・トンプソンによる「控えめな」(という皮肉さえ付け加えながら)『ビューティフル・マインド』批判を紹介している。マッケイブによるロン・ハワード批判は、きわめて激しい。

 

 なお、こうしたスピルバーグ(ハワード)的表象性を、ラングマンの非表象性と対比させつつ、第三の道をとったのがストローブ/ユイレであるとする、きわめて示唆的な論文が、四方田による前掲書所収の「ストローブ/ユイレと『モーゼとアロン』」である。

 

[] この会話はやはり日本語にすると何かが失われてしまう。非常に美しいダイアログなので、原語で引用する。

“SoAliciahow・・・how are you holding up? ”

“Well, the delusions have passed. They’re saying with the medication and low stress environments・・・

“No, I mean, how are you?”

・・・I think often what I feel is obligation, or guilt over to leave. Rage against John, against God, and…but… Then I look at him and I force myself to see the man I married, and he becomes that man. He’s transformed into someone I loved. And I’m transformed into someone who loves him. It’s not all the time…but it’s enough.”

“I think John is a very lucky man, Alicia.”

“So unlucky.”

 

[] このセリフも原語で記しておく。

”Maybe the part that knows the waking from the dream, maybe it isn’t here…Maybe it’s here.”

前出のセリフとあいまって、これらの言葉はほとんど詩の域にさえ達している。

なお、以上に引用したセリフは市販DVD版の字幕の翻訳には従っていない。論旨と適合させるために、筆者が訳出した。

 

[] 「(前略)むしろ、どこから見ても利己的で、冷酷とさえ言える道を選んだ。息子を貧困から守ることもせず、断続的ではあれ母親から引き離すにまかせながら、自分が父親であることだけは主張して、いつまでもつながりを維持しようとしたのだ。」(ナサー 前掲書 P.258

 

[] 「ジョニー(ナッシュとアリシアの息子チャールズのこと:筆者注)の将来は、考えただけでも痛ましい。」(ナサー前掲書P.576

 「ジョニーとの生活は、ナッシュとアリシアにとってひどい重荷になっている。ナッシュはそれを「撹乱され」、「蹂躙された」状態と表現し、しばしば「どうにでもなれという投げやりな気分」になる、と述べている」(同 P.577

 「ジョニーは、ナッシュとアリシアを振りまわし、ときにはふたりの仲まで引き裂いている。ふたりは、ジョニーの不始末―家のものを壊し、ふたりに乱暴を働き、人前ではしたないまねをする―を、たがいのせいにし合う。」(同.P.578

 

 ナサーのこの本は、こうしたあまりにも痛ましい現実をまざまざと教えてくれる。映画作品とは離れても、克服しがたい病気が、一人の天才学者、ひとつの家族の幸せをいかに奪うかを知るための必読書であり、洞察に満ちた労作である。

 また、本書は1999年の全米批評家協会、伝記部門の大賞を受賞。ピューリッツア賞の同部門の最終候補ともなった。

 

[10] 数字的な根拠は、http://www.the-numbers.com/people/directors/RHOWA.php

受賞については、アカデミー賞で作品・監督・助演女優・脚色賞。ゴールデン・グローブ賞で作品・主演男優・助演女優・脚本賞。放送映画批評家協会賞で作品・監督・主演男優・助演女優賞。