20.『ミッシング』 (The Missing 2003

 

 典型的なハリウッド流メロドラマとして、あらゆる意味で大成功した『ビューティフル・マインド』に続く作品として、ロン・ハワードはさらにもう一つの典型的なアメリカ映画のジャンルを選択する。西部劇だ。

 広い意味での西部劇なら、すでに『遥かなる大地へ』に取り組んでいる。けれど、あれはむしろ西部劇の時代における、身分を超えたラブストーリーと言う方が近いだろう。そうではなく、ネイティブ・アメリカンと白人の確執を背景に、馬上の疾走とガンファイトをふんだんに盛り込み、広大な荒野を舞台としたオールドファッションな西部劇という意味では、いよいよこれが最初の取り組みである。

 

 個人的には、現在のところこれが最愛のロン・ハワード作品だ。ここには、かつてのアメリカ映画にはたっぷりとあったに違いない、アメリカ西部の風景の痕跡がある。1966年生まれの筆者の世代では、リアルタイムで観ることがかなわなかった、フォードやホークス、アンソニー・マンらを経て、初期ペキンパーへと至る、アメリカの原風景を持つ映画。

 この風景の中、インディアン[]に娘をさらわれたヒロインが、その奪還のためにライフルを持って馬を駆る。助っ人として、戦いのための知恵を持つ父親が彼女を先導する。そして、さらわれた姉を案じる幼い妹がそれにつき従い、家族の生還のためには欠かせぬ役割を果たしていく。

 過去の確執から、ヒロインとその父親の間には心の断絶があるが、ヒロインにとっては娘、父にとっては孫を救出する道程の中で、次第に和解の芽が育まれていく。そして来るべきクライマックスでは、険しい岩山における凄絶な決闘。

 土埃に汚れた顔で、岩場からライフルを構えて敵を狙うヒロインの姿は、それだけで観る者に映画的な喜びを呼び覚ます。そして彼らは娘の救出を成し遂げ、無事生還できるのかという、サスペンスフルな興味。

こうした、この映画のルックとシノプシスには、かつてのアメリカ映画がおそらく持っていたに違いないと夢想するところの、映画的な魅力がごっそりつまっている。

もし、『ミッシング』の中にないものをあえて探せば、それはたとえば『リオ・ブラボー』(1959 ハワード・ホークス)にあるような歌と笑いなのだろうが、そこは作品の性質が要求する、ないものねだりとして不問とすべきだろう。

 西部劇というジャンルを撮りにくくなった現代にあっては、それに取り組んだ現代作家はほとんどいない。スピルバーグはもちろん、マーチン・スコセッシやフランシス・コッポラ[]、ブライアン・デ・パルマのような70年代以後の監督は、慎重にそれを避けていることは周知の通りだ。それをふまえてか、ロバート・ゼメキスは西部劇を撮る方便として、『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART3』(1990)を製作するが、それはあくまでパロディだ。

ジム・ジャームッシュは『デッドマン』(1995)を撮り、呪術的なテーマを併せ持つことから、これは『ミッシング』との類縁性が高いとはいえ、『デッドマン』を旧来的な意味での西部劇とみなすことには、別の議論が必要だろう。

その意味では、『ワイルド・レンジ 最後の銃撃』(2003)のケヴィン・コスナーあたりだけが、孤独な努力を続けていると言えるのかもしれない。

 いずれにせよ、もはや西部劇は金にならないことは常識である。西部劇ぎらいを広言してはばからぬ、製作のブライアン・グレイザーがどう言うか心配だったと語るロン・ハワードだが[]、金勘定を避けられぬプロデューサーとしては、それも当然だろう。

 けれど、筆者が主張し続けているように、「アメリカの物語」のバリエーションを積み上げつつあるロン・ハワードのファイルにおいて、西部劇はどこかでクリアする必要があるのは必然だ。そして、西部劇というリスキーな企画を通せるとしたら、アカデミー賞受賞によって、影響力が頂点に達した、今をおいて他にないだろう。こんなタイミングはそうめったにあるものではない。

 振り返ってみると、第1章で述べたように、ロン・ハワードは『ラスト・シューティスト』(1976 ドン・シーゲル)で、西部の巨人ジョン・ウェインから、直々に銃の撃ち方を教わり、その最後をみとった、特権的な男なのである。

 重ねて、『スパイクス・ギャング』(1974 リチャード・フライシャー)では、リー・マーヴィンと共に、ここでも最後の西部劇に立ち会っている。アメリカ映画の継承者たるロン・ハワードとしては、彼らの遺産を確かに受け継いだことの証明書が必要だろう。

『ミッシング』はさしずめ、今は亡きジョン・ウェインやドン・シーゲル、リー・マーヴィン、リチャード・フライシャー(フライシャーは『ミッシング』製作時点では存命中だが)への、ロン・ハワードからのお香典とも言うべき作品なのだ。

 

大枠のストーリーは、先に述べた通りである。

ヒロインのマギー(ケイト・ブランシェット)は、牧畜、農作業をしながら治療師としても腕をふるい、女手1つで娘2人を大平原で育てている。

年頃の長女リリー(エヴァン・レイチェル・ウッド)は、過酷な自然の中での生活が不服で、都会行きを夢見ながら母親への反抗期に入っている。まだ10歳にも満たない下の娘ドット(ジェナ・ボイド)は、姉にくらべると気丈な性格で、母の言いつけに従いつつ不平を言わず、黙々と日々を送っている。

彼らの生活は、体の関係はあるのかないのか、マギーの恋人ともとれる、男手のブレイク(アーロン・エッカート)が手助けしている。

そんなある日、インディアンの格好をした白人が1人、体の痛みを診てほしいと、ふらりとマギーの家に流れてくる。事情を知らぬブレイクは、彼を気安く家に迎え入れるが、彼は昔、家族を捨てて家を出て行ったマギーの父親、ジョーンズ(トミー・リー・ジョーンズ)だった。彼はかつて白人の生活を捨て、インディアン部族へと身を投じたのだ。

彼の姿を見るや、激しい憎悪を露にするマギー。今さらどの面さげて顔を出したのか。治療を終えたら直ちに出て行くように言い渡すが、彼が出て行った翌日、事件が起きる。町に行った娘たちと、付き添ったブレイクが帰ってこない。

ここで娘たちの帰りを待つマギーの無為の時間の表現が美しい。娘たちの不在に、心ここにあらず、どこか仕事が手につかない。家の中で待てばいいのに、毛布に身をくるみながら薄闇の中、霧が煙る玄関口で待っている。だがしかし帰ってこない。

いよいよ胸騒ぎをおぼえたマギーが探しに出かけると、森の中には殺戮の凄惨な現場があった。インディアンたちによって、恋人のブレイクは牛の皮に包まれて蒸し焼きにされていたのだ。パニックに陥るマギーだが、そこには無傷のまま辛くも隠れおおせた下の娘ドットが残されていた。

長女はインディアンにさらわれたという。若い女をさらってはメキシコに売り飛ばしていくのだ。マギーは救出を決意。意に沿わないながらも、追い出したかつての父親ジョーンズに苦渋の応援を頼み、「捜索者」としての旅に向かう。

 

さらわれた子どもを、主人公自らが救出に向かうという意味において、これは『身代金』と同じ物語である。当初、マギーは娘の救出を騎兵隊に要請する。女の自分では勝てないという自覚があったし、憎むべき父との旅など願い下げだったからだ。

しかし、反乱をおこしたアパッチ族の討伐に忙しいという役所は、ほとんど耳を傾けず、情けなくも騎兵隊の部隊は、インディアンに襲われて無人の屋敷となった家屋の略奪に忙しい。

『駅馬車』(1939 ジョン・フォード)を持ち出すまでもなく、オールド・ウェスタンでは絶体絶命の危機に救出に登場するのが騎兵隊である。そのことは、『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(1984 スティーブン・スピルバーグ)まで踏襲されている。そこをひっくり返して、騎兵隊を役立たずと設定した点に、ロン・ハワードの現代的な視点がうかがわれるが、警官が当てにできないという意味では『身代金』のバリエーションともいえる(ただし『身代金』の警官達は救出に向けての最大限の努力をしたが、『ミッシング』の騎兵隊にそんな誠意は微塵もない)。

従って、自分そして自分の家族の危機は、自らの手でケリをつけなければならないという思考回路において、『身代金』が示した、アメリカにおける「自警」のテーマの起源を、はるかさかのぼる西部開拓時代に示したと言うこともできるだろう。

頼りになるは自分だけ。それというのも、映画の後半においてジョーンズは旧知のインディアンと合流し、彼らと組んで娘の救出を狙うのだが、しかしこれがうまくいかないのだ。数をたのんで救援を求めても、その作戦は手痛い失敗に終わる。

救出に来たインディアンの顔を知らず、そしてアパッチ語も解さない長女リリーは、せっかく彼が助けに来たのに、彼を敵だと勘違いし騒ぎ立ててしまったため、急襲を気づかれてしまったのだ。

物語においては、これをリリーの中に潜む、インディアンへの偏見が露呈した結果であるととらえることもできるのだが、構造的には自分以外の手に頼ると作戦は失敗するという、『身代金』が描いたセオリーの再現と読むほうがわかりやすい。

結局、頼るべきは自分だけなのであり、その発想がアメリカ人に根深く刻まれた自警という概念の根本なのだ。西部劇とは、もしかしたらそうした行動様式を伝え続けてきたフォーマットであり、かつ本質なのではないだろうか[]。あるいはロン・ハワードはそのことを再検討するために、『身代金』に引き続き、『ミッシング』でその設定を描いたのではないかと想像する。

マイケル・ムーアは『ボーリング・フォー・コロンバイン』(2002)の中で、なぜアメリカ人が銃を持つかの理由を考察したその答えとして、何か得体の知れない「恐怖感」であるとした。こうしてみると、その「恐怖感」の源は、『ミッシング』の中にずばり語られていることがわかる。

「自警」というと勇ましいが、それを単なる恐怖感と不安感から来るものと言い換えれば、敵とみなすものに対して及び腰になることは、「腰抜け」ということになる。「腰抜け」=Chicken(チキン)というのは、アメリカのタカ派男性にとっては最も忌み嫌う言葉だ。ついには西部劇の舞台にまで空間を広げる『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985 ロバート・ゼメキス)[]の、タカ派の主人公が、Chicken(チキン)と言われるとキレて、無鉄砲さがむき出しになるのを思い出したい。

『ミッシング』の主人公たちの不安の相手、すなわち敵は、娘をさらったインディアンである。映画はこのインディアンに対する漠然とした不安感が通奏低音となる。いささか乱暴に結論を先走るが、アメリカ人の「自警」が「恐怖心」の裏返しであることは、マイケル・ムーアが考察した通りとして、その「恐怖」の源がアメリカ先住民族、インディアンにあるということはあり得るのではないか。

それが『ミッシング』から読み取ることのできる仮説である。自警転じて、徹底した攻撃主体に変貌した、映画史上最悪の悪党を主人公とする、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』(1994 オリバー・ストーン)の主人公がインディアンを幻視することは、そのことと無関係ではないだろう。また、同じオリバー・ストーン作品『ドアーズ』(1991)の主人公による、不安感に満ち、挑発的な音楽のインスピレーションの源泉もインディアンの幻視であった。

『ミッシング』はだから、そうしたインディアンのオカルティズムを強調する。「文明人」を自認するアメリカ人に対して、先住民族であるインディアンは、「呪い」をかける存在として描かれる。「文明人」にとって、これぞ漠然とした不安・恐怖の最たるものである。

このような見方は差別ではないのか。もちろん差別である。だから、『ミッシング』のヒロイン、マギーはインディアンに対する偏見を隠さない。そうした差別心を持つ、囚われの長女リリー自身が、千載一遇の救出チャンスをフイにしてしまったことは、先述した通りである。

マギーと行動を共にする父ジョーンズは、白人社会を捨ててインディアンの部族に入った男である。そのために家族を捨て、そのことがマギーの父に対する憎しみの理由であった。そのジョーンズにしても、インディアンの呪術の深奥まではわからない。

ジョーンズは道中に、インディアンの呪いに対抗できるよう、末娘のドットに魔除けのペンダントを与えるが、母親のマギーはそれを断固拒否する。それは、憎むべき父親から物などもらわないという気持ちの現われである以上に、魔除けなどという非科学的なものを信じたくないという思いからだ。

呪いのきわめつけは、救出失敗によって逃走したときに、少女誘拐のインディアンの首謀格、ペーシュ(エリック・シュウェイグ)が、マギーがうっかり落としたヘアブラシを拾ったときにかけられる。

そのブラシについていたマギーの髪の毛に、ペーシュは悪魔的な呪いをかける。すると、はるか遠方に逃げ去ったマギーの体に異変が起こり、高熱に一昼夜うなされ続けるのである。空間を越えて、実際に呪いが効果を発揮したのだ。

他にもペーシュはさまざまな迷信、ジンクスにのっとって行動し、きわめて霊能力の高いインディアンとして描かれている。

また、一度逃げ出そうとしたリリーに罰を与えるため、彼女の口を開かせ、その口の中に一掴みの砂を流し込むという凄絶なシーンもある。このときペーシュは、「この砂をかみ締めろ! この味がお前の残りの人生の味となるだろう!」と、予言ともつかぬ呪いの言葉を投げつける。

ここで肝心なのは、映画が描いたペーシュというインディアンの、こうした得体の知れない恐ろしさである。その行動原理が、白人に対する憎悪だけでないことは、彼が誘拐する少女が白人だけでなく、他部族のインディアンも対象となっていることからもわかる。彼の動機は他者からは推し量れない憎しみに由来するのである。

マギーは、インディアンの原始性に対する武器として、文明をその拠りどころとし、それを聖書に求める。日ごろの母の教えを守り、母にかけられた呪いに対抗するため、聖書を朗読し続けるドット。インディアン呪術の原始性に対して、キリスト教の文明性といっても、やっていることはたいして変わらないことが、ここで暴かれる。

アメリカ先住民=インディアンによるまじない・呪いなどバカバカしいと思いつつ、しかしどうしようもなく頭をもたげてくる不安感――ちょうど、この映画のマギーのように。これがアメリカ人の心に刷り込まれてしまった不安と恐怖、ひいては「原罪」であると考えられはしまいか。これが『ミッシング』から読み取れるテーマである。

原罪。すでにロン・ハワードは、『遥かなる大地へ』のクライマックス、ランドレースにおいて、主人公をはじめとする白人たちが、勝手に自分たちの土地を奪おうとするのを憮然と見つめるインディアンたちの姿を、画面の隅に配置していたのを思い出したい。

『ミッシング』という、きわめてリアリスティックに撮られた映画の中で、ロン・ハワードが非現実的、というよりは、ほとんどファンタジーの域ギリギリのところまで、インディアンによる呪術の超常現象を描いた理由を、ここに求めたいと思う。

まとめると、自警を理由として、武装するアメリカ人の心理の根本である不安感は、そのまた源がインディアンに対する差別に基づいた漠然とした、得体の知れない恐怖であり、それがイコール、アメリカの原罪だったという構図におさめられるだろう。そこを明らかにしたのが、『ミッシング』が持つ意義の一つと言えるのではないだろうか。

 

以上、テーマ面から触れたが、『ミッシング』の構造上、見逃せないのが、ジェナ・ボイドの高い演技力からも忘れがたい印象を残す末娘、ドットの存在である。

幼い彼女はいつもそこにいる。いるだけでなく、すべてを見、すべてを聞いている。

そもそもの事件の発端は、田舎暮らしにうんざりしている長女リリーが、町に「自分の声が聞ける機械」が来るから見に行きたいと、マギーに懇願したことからだ。母親のマギーは、それをくだらないと退け、家畜の出産があるから許可できないというが、そうした母と姉の口論の一部始終を、ドットはそばで聞いている。母に対するリリーの愚痴を聞くのも、ドットの役割だ。

それ以後も、マギーとジョーンズの確執の一切の間も常にそこにおり、心配そうに母の顔を見上げている。そして、姉の捜索に同行している彼女は、戦いの現場でも、そこで必ず事件の推移を見つめている。

何より幼いドットは、母の恋人ブレイクが惨殺され、姉リリーがさらわれる一部始終、すべてを見ていた唯一の生存者なのだ。まさに目撃者であり、証人である。

母マギーは娘の救出を決意し、出奔しようとするが、当然ながら幼いドットには、親類に身を預け、そこに残るように言う。そのときドットは母に食い下がり、自分は決して残らない、私も連れて行けと自己主張する。長女と違い、これまで文句ひとつ言わず、いつも黙々と母親の言いつけに従ってきたドットが、これはおそらく初めてマギーに口ごたえをした瞬間だったのではないか。その激しさがここで奔出している。泣き叫びながら「連れて行かなければ、私はママを追うわよ!」とまで口にする。

マギーはこの言葉に逆らえない。確かにこの子は残していっても、自分を追ってくる。それだけの芯の強さを持った子であることを、母は知っている。こうしてドットはこれからの物語の証人として、常に現場に立ち会う資格を身につける。ロン・ハワードは以降、常にこの子の眼差しをとらえることを忘れない。

ただ、この子はあまりにも見ようとしすぎる。見すぎるが故に、姉をさらったペーシュを中心とするインディアンたち一行に、奇襲をかけるべく身を隠しているとき、よりよく見ようとつい双眼鏡を手にしてしまうのだ。そのレンズが太陽に反射したため、ペーシュに気づかれ救出作戦は失敗。退却を余儀なくされてしまう。

そのとき落としたマギーのヘアブラシが、ペーシュに拾われてしまい、先述したインディアンの呪いをかけられるというわけである。

このように、証人としてのドットの行動は、一行を窮地に陥れたりもするのだが、彼女の存在は映画に客観性を与え続ける緩衝材となる。もしドットの存在がなければ、母マギーと父ジョーンズの一対一に収斂した、非常に息苦しい確執のドラマとなってしまうだろう。そして、娘を一途に追い続ける妄執の物語になる可能性もある。

けれど、ここですべての行動を外側から見ているドットがいるために、物語は静かに冷静に進んでいく。マギーとジョーンズが、子どもの前では感情を露にできないというドラマツルギー上の事情もあろうが、映画を観る者の気持ちもドットによって、緊張感から少し開放されるのだ。

もう一点。西部劇にはその物語(より西部劇らしい用語を使うならば「伝説」と言うべきか)を外から見つめて立ち会う、証人となる人物が必要だ。考えてみれば、『ラスト・シューティスト』の中では俳優ロン・ハワード自身が、そうした位置づけだったではないか。最後のガンマン、ジョン・ウェイン伝説の終わりの証人となるのである。

 

ここでひるがえって考えてみると、どうもこの証人としてのドットの存在というのは、『身代金』にはじまり『エドTV』を経て、『ビューティフル・マインド』まで拡大してきた「第三の視線」の最終形なのではないか。

もともとドットは物語の進行に必要不可欠な存在ではない。幼いので救出作戦そのものに直接かかわってくることはないし、マギーとジョーンズの確執においてはもとより蚊帳の外だ。けれどそのすべてに彼女は立会い、そして見つめている。

筆者がこれまでの章において何度か提案してきた、ロン・ハワードの「第三の視線」という手段は、一つには、直接相対する人物間のどちらか一方にはその存在を察知されないが、もう一方に対しては心理的な影響を与え、感情を増幅する効果がある ものだった。

そしてもう一つは、『エドTV』がそうであったように、対立する人物間の感情には直接影響を与えないが、それを注視するテレビなどのメディアを通した、「大衆の目」も、広い意味での「第三の視線」としてとらえてきた。

このドットの視線は、単独でその二つの役割を担っている。観察者・証人として後者の観察者の目であり、また相対する人物間(ここではマギーとジョーンズ)の感情を緩和する役割として、前者の影響を与える目としても機能するということだ。

これまでロン・ハワードが設定した「第三の視線」は、確かに映画に複雑さをもたらしてきたが、しかしここでのドットほど、大きな意味合いをもって描かれたことはなかった。ロン・ハワードはひとつの手法の可能性を、さらに拡大させたというわけだ。

とりわけすさまじいカットがある。そこへと至る段取りはこうだ。

「力」による長女救出は、もはや不可能と見たジョーンズが、金で娘を買い戻そうと、旧知のインディアン、カイタ(ジェイ・タヴァレ)と乗り込むが、見事に失敗する。このカイタの息子の許婚も、やはりペーシュに囚われていたのだ。無念にもカイタは残忍に殺され、ジョーンズ自らも深手を負い、おめおめと逃げ戻ってくる。

ジョーンズ(と長女)の帰りを、焦がれて待っていたマギーと対面。激しい絶望の中、2人は向かい合う。人物と人物が真正面から向かい合う、ロン・ハワードにおける特権的なショットだ。

このとき、カイタの息子もマギーと共にジョーンズを出迎えるのだが、父は勇敢に闘ったが無念にも殺されたことを聞かされると、その場を静かに離れていく。こうして、家族以外の構成員は、やんわりとシーンから排除される。ここに「第四の視線」はあってはならないからだ。

万策つきたジョーンズは、マギーに救出はもうあきらめるよう諭す。でないと全員死ぬと。しかしマギーは声なき声で訴える。もう一度だけなんとかしてほしいと。そのときのカットだ。シネスコの広い画面の左にジョーンズ、右にマギーを配して向かい合い、その中央に2人を見つめてトッドが立つ。

この全編中最も美しいシーンにおいて、ロン・ハワードの「第三の視線」は完成する。[]とにかくここは、言葉にならぬ(実際マギーは一言も言葉を発しない。セリフなしでこれほどの感情を伝えてのける、ケイト・ブランシェットの演技はまさに神がかりである)、とてつもなく深い感情がスパークする、筆舌に尽くしがたく美しいシーンである。

そして物語においては、長女を奪還するための、この次の最終作戦において、いよいよこのドットが重要な役割をもって参加。「第三の視線」の立場から開放され、ついに当事者として立つ。

険しい岩山を、逃走のために小さな体で必死に全力疾走するドットの姿は、観る者の涙腺を刺激してやまない。彼女を援護して、母が撃つ、そして祖父が撃つ。西部劇ならではのギラつく太陽光線の中に繰り広げられるこのガンファイトほど、血沸き肉躍り、かつ心揺さぶられる名場面もそうはないはずだ。

最後にもうひとつだけ付け加えたいのは、ドットによるこの「第三の視線」はそのまま、「祈りの視線」にもなっているということだ。『アポロ13』の章において、愛する人の生還を願う視線の束がひとつになるとき、そこに奇跡が起こるということを書いた。ここまでの苦しい道中ですべてを見つめ、姉の生還を願い、「みんなで家に帰る」ことこそが望みのドットの瞳こそがそれでなくて、他に何だろうか。

このドットという少女には、かくも多くのものが託されているのである。そうした彼女の存在感の大きさ、重要さに無意識に反応させられ、映画への求心力とする、これも人心をいかにつかむかの構成力に長けた、ロン・ハワード流演出術のなせる業だ。

なお、ロン・ハワード作品の多くは、無事に「家に帰ること」の映画であった。『アポロ13』はその最たるものだが、『ウィロー』がそうだ。『コクーン』、『身代金』も。『スプラッシュ』は水の中(家)に帰る物語であり、『ザ・ペーパー』だって、家に帰れぬ新聞記者がようやく帰宅できるまでのドラマといえるだろう。

こうしてみると『ミッシング』もやはり、ロン・ハワードが描いてきたことの多くが、凝縮されてつめこまれた作品であることがわかる。この映画で大切なことは、「救出」そのものではなく、家族がそろって「生還」することなのだ。

このように「帰還/生還」の物語を描き続け、帰るべき「家」を大切にするロン・ハワードは、いわゆる「流浪」の人ではない。言うなれば放浪形のハックルベリー・フィン・タイプではなく、定住形のトム・ソーヤー・タイプと言うべきだろうか。[]このトム・ソーヤー形というのが、案外ロン・ハワードの本質を言い当てているようにも思う。とはいえ、俳優時代のロン・ハワードがテレビムービーの『ハックルベリー・フィン』で、まさしくハックルベリーを演じているのも、興味深い偶然といえるのだが。[]

「帰還」が意味するところは、物語がおさまるべきところにおさまって、疑問の余地なきエンディングを迎えるということである。行ったまま終わるのはどこか心もたない思いを残す。それを余韻と呼ぶこともあるだろう。しかしアメリカ映画の定型とは、家(家庭)を築くことである。だからコメディにおいては結婚式をそのラストに持ち、悲劇においては死別となる。すなわちそこから先は物語を進めようのない、大団円というやつだ。

ロン・ハワード作品を見終えた後の充実感、達成感の源は、その物語が必ず主人公たちの境遇が安定へと向かう、「帰還」を基本軸にしているからだとみても、あながち間違いではないように思う。

 

それにしても、ロン・ハワード作品の俳優たちは、常に最高レベルの演技を発揮するが、ここでも子役の2人はもとより、ケイト・ブランシェットとトミー・リー・ジョーンズの存在感はすごい。特にブランシェットのいくぶんか野性味のある風貌が、大西部の荒野に見事にマッチする。馬を駆る彼女のシルエットの美しさは、同じオーストラリア出身の女優として、幾分か線の細い『遥かなる大地へ』のニコール・キッドマンさえ上回る。ライフルを持ってのアクションにおける動きも俊敏で、女優としての彼女の幅の広さに驚かされる。

もちろん、その演技力を活用する演出の技も群を抜く。救出の旅に出かける直前、マギーはふと、さらわれたリリーの寝室に目を向ける。そこには、彼女がさらわれた日の朝、彼女がそのベッドで目を覚ましたそのままの形で、枕の頭の部分がへこんでおり、布団が娘の体の形に皺がよっている。今ついさっきまでそこに娘がいて、まだ体温までもほのかに残っているかのようなその寝台の様子に、マギーは感極まるが、その涙をこらえて馬にまたがる。家族がいたことの実感とその不在の哀しみを、ここも一つのセリフにも頼らずに表現し尽くした、見事な場面のひとつである。

 

なお、『ミッシング』の興行だが、全米でわずかに2,690万ドル。残念ながらやはり今の時代に西部劇が商売にならないということを、結果的に証明した格好になった。製作費もバカにならず、6,500万ドルをかけているから、世界興収でも3,800万ドルにすぎない。これは手痛い損失と言わざるを得ないだろう。[]『ビューティフル・マインド』の成功の直後であるだけに、大きく見劣りすることも確かで、一般的な観客からは完全に背を向けられる形になった。

しかし、興行的な側面はともかくとしても、『ミッシング』は以上のように、たとえようもなく素晴らしい、傑作アクション活劇である。

前へ  次へ  TOP



[] 現在においては、アメリカ先住民のことをネイティブ・アメリカン、ないしはアメリカン・インディアンなどとするのが正しいと思うが、本章では字数の便宜性や、原作の内容を鑑みて、旧来の「インディアン」と表記する。筆者に一切の差別的な考え、およびそれを助長する意図はまったくないことは、くれぐれもお断りしておきたい。

 

[] ちなみにコッポラは『グラマー西部を荒す』(1965)なる作品で監督デビューをしているが、これを「西部劇」というのはちょっと苦しいだろう。

 

[] DVD収録特典ディスク「メイキング・ドキュメンタリー」参照。

 

[] そのことを思うならば、『ダーティ・ハリー』(1971)をその極北とする一匹狼のヒーローを主人公に持つ、ドン・シーゲル/クリント・イーストウッドのチームは、必ずしもウェスタンの舞台を持たなくても最後まで西部劇を作り続けたというべきだろうか。西部劇そのものであるアリゾナの保安官が、単独で大都会で「法」を執行する『マンハッタン無宿』(1968)をぜひ参照したいところである。

 

[] 正確を期しておくと、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)の主人公マーティ(マイケル・J・フォックス)が「チキン」と言われてキレるという性格が付け加わるのは、『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2』(1989)からである。キャラクターを膨らませるために、急遽追加されたネタだ。

 

[] 市販DVD『ミッシング』のタイムカウンターでは、1時間45分24〜30秒のシーンがそれである。必見のワンカット。

 

[] 柴田元幸『アメリカ文学のレッスン』(講談社現代新書 2000

「トムが方向性としてはすでに中心(大人の世界)に向かいはじめた求心的な少年であるのに対し、ハックはあくまで中心にかかわらずに生きていたい遠心的な少年である。」(P.9

 

[] Huckleberry Finn”(監督ロバート・トッテン 1975 ABC放送 90分)。テレビムービーでもあり、筆者は観る機会を得ていないが、子役といっても、もう19歳になってのロン・ハワード。さぞかし大きなハックルベリーだろうと想像する。驚くなかれ『アメリカン・グラフィティ』(1973)よりも後の作品なのである。

 

[] 数字的な根拠は、http://www.the-numbers.com/movies/2003/MISSN.phpを参照。