21.『シンデレラマン』 (Cinderella Man2005

 

 実話に基づく作品として、ロン・ハワードの3作目。前2作が『アポロ13』と『ビューティフル・マインド』という、あらゆる意味で代表作というべき作品であることから、「実話」ものは、ロン・ハワードにとって、いわばラッキー・ジャンルである。

 そして『シンデラマン』は、夫と妻の物語であり、父と子の物語であり、友と友の物語であり、そして1人の男の生き様の物語という、ドラマ作りという点では、いかにもロン・ハワードらしい、またしてもというべき円熟の傑作。

 これら実話に基づく3作品を、ロン・ハワードによる「実話3部作」と書きたい欲望にかられるが、そこをもうひとつ踏みこんで、これを「復権3部作」と呼んでおきたい。

 「復権」、すなわち「名誉回復」である。すなわち、大きな名声を持った人物が、その栄誉をひとたび失い、苦難の果てに名誉を回復して、復権を果たす物語。

 『アポロ13』では、今や飽きられてテレビ放映もされなくなったアポロ計画が、危急の事故により、最大の失策を最大の名誉に変えた男たちの物語。

 『ビューティフル・マインド』は、天才の名をほしいままにした数学者が、精神の病によってすべてを失うが、人生の末期にあたって再び業績を讃えられるに至る物語である。

 そして、この『シンデレラマン』。向かうところ敵なしの無敗のボクサー。ファイトマネーは豊かに入り、暖かい家庭も築いて順風満帆の日々を送っていた。仕事も家庭も軌道にのった理想的な毎日。しかし時代はやがて大恐慌に突入。財産をすべて失い、あげく故障のために、ボクサーライセンスをも剥奪された彼は、限界ギリギリの生活で困窮に耐えねばならない。食わせるべき家族も食わせられないところまで堕ちる。

しかし、たった一度だけという契約で、ある日リングに上る。強すぎるが故に、対戦相手が決まらない若手選手のかませ犬としてだ。口の悪い旧知のスポーツ記者には、試合開始前から「ロッカーからリングまでが、ブラドックが両足で立てるわずかな間だった」などと、あらかじめ書かれてしまうほどに見込みのない試合だった。

ところが、久々のリングにハッスルし、これが思わぬ好ファイトとなって、彼は予想外の大勝利を収める。そこから再び復活の階段を上り始め、未曾有の大不況に疲弊する国民の希望の星となる。そしてついには世界チャンプのタイトルマッチのリングに立つ。

 この思わぬ幸運からヒーローに返り咲く、「シンデレラマン」といういささか気恥ずかしいニックネームを持つ主人公、ジェームズ・ブラドックを演じるのは、ラッセル・クロウ。『ビューティフル・マインド』に続く、ロン・ハワード作品主演である。

 そして、どんな苦難のときも夫を支え家族を守る、これも『ビューティフル・マインド』のアリシア(ジェニファー・コネリー)のイメージを踏襲する妻メイを、これも説得力ある演技では引けをとらぬレネ・ゼルウィガー。トレーナーとして、また友として、友情の限りを注ぐジョーをポール・ジアマッティ。万全のキャスティングをもって臨む作品である。

 

 物語の必然として、前半は貧困に悩むブラドック一家の生活が語られる。ここで難しいのは、前途有望な若きボクサーとして、栄光の頂点にあるブラドックを、どのように困窮生活に落とすか。天国から地獄へという、その描写をどうするかだ。

 だがしかし、ロン・ハワードはやはりロン・ハワードである。これ以上はないくらいスムーズな彼らしい方法で、一瞬のうちにそれを見せてしまう。

冒頭の試合での勝利に酔いつつ、ファイトマネーもたっぷりとポケットに入れ、洋々と帰宅するブラドック。妻メイとひとしきり愛の言葉を交し合った後、疲れた体を休めるべく、鏡台の前でペンダントをとり、腕時計をはずして就寝の準備をする。そのときカメラは鏡台の上を右から左へゆっくりと移動。そこにははずした時計があり、紙幣があり、アクセサリー類も豊富で、それなりに余裕のある生活ぶりがうかがわれる。

そして、左に移動しきったカメラは暗転。再び明るくなって、もう一度同じ鏡台の上を右からなめるが、今度はそこにもう何もなくなっている。わずかに結婚写真と、ブラドックの差し歯がおいてあるだけだ。おそらく売れるものはすべて売り払った結果なのだと想像がつく。

すかさず、「1933 大恐慌4年後」の字幕。ここからブラドック一家の貧困生活が語られる。同じ鏡台の上の右から左への移動を、2度繰り返すだけで、彼の経済状況の変化を見せてしまうロン・ハワードの手際のよさ(とあえて言うが)。栄華から一転、落ちぶれていくその間のブラドックの生活描写の一切を省略する。

物語の経済性もさることながら、劇映画として気の滅入るような陰鬱な描写は可能な限り避ける。これが映画から過剰な深刻さを排除し、口当たりのよいストーリー・テリングを行うロン・ハワード流の演出術である。これこそ典型的な、ロン・ハワード作品の品のよさ、居心地のよさの秘訣だ。

『遥かなる大地へ』でもそうだった。拳闘の八百長試合に与しなかったトム・クルーズが、町の顔役の怒りをかい、住居としていた売春屈を、ニコール・キッドマンと共に叩き出される。そのため住む場所がなくなり、吹雪の舞う屋外をさまようことになるが、寒さと飢えに苦しんでいるはずの数日間はばっさり省略され、カットが変わるや一気に数日後に飛ぶというジャンプカット。

これと同じように、『シンデレラマン』では、「困窮編」とでもいうべき前半部では、その貧苦の描写一切を省略する。また、極貧というものをあからさまな飢えとしては描かないことで、画面から伝わる悲惨さを軽減させる。

ロン・ハワードが最も好まない表現とは、後味の悪さというものである。極度の陰惨さは観る者の意識をそこに停滞させてしまう。観客はそのイメージをひきずり、ドラマが先に進んでいるにもかかわらず、ついついその印象を反芻することになる。物語の淀みない展開を旨とするロン・ハワードの演出術においては、従って過剰な描写は厳禁となる。その功罪は『ビューティフル・マインド』の章で、ハリウッド流メロドラマにおける二律背反という観点で示した通りだ。

しかし、ラース・フォン・トリアーやティム・バートンなどのように、後味の悪さを積極的に、過剰に開陳することこそが、作家的良心と思っている節のある映画監督も中にはあって、それを支持する者も少なからず存在するが、ロン・ハワードはそうした映画作りから、もっとも遠く離れた人物であることは間違いない。

たとえば、前半での印象的なエピソードとして、まだ幼いブラドッグの息子が、ソーセージを万引きしてしまうくだりがある。当然ながら子どもが万引きするシーンが描かれることはない。そんなシーンを見せられるのは、つらすぎるからだ。その代わりに、妻のメイが子どもの万引きを夫のブラドックに告げることで、観客にもそれが伝えられる。

ブラドッグは息子の行為を決してとがめることなく、盗ったものを一緒に返しに行き、その後で息子を諭す。このときにわかるのが、子どもがソーセージを盗んだのは、空腹に耐え切れなくてということではなかったことだ。

万引きの理由は、空腹のあまりではなく、口減らしのために自分たち子どもが、よそにやられないようにするためだったことが語られる。というのは、最近同じ目にあった友だちがおり、そのことが子どもの心に深い不安を与えたからだ。

このように、巧みに話を「飢え」から「一家離散」という家族構成の危機へと代替させる。悪くいえばすりかえる。ロン・ハワード流とは、まさにこれだ。ブラドックは、幼い子どもに対して「決してお前たちをよそにやるようなことはしない」と約束するだろう。

そして次に、「子どもをよそにやらない」という、ブラドックのこの約束がかなわなくなるのは、「飢え」ではなく「暖」が原因となる。食べ物以前の問題として、光熱費を払えなくなったブラドック家は、電気・ガスを止められてしまうのだ。寒さの厳しい時期に、これは命にかかわる問題である。

ハワードはここでも「凍え」を真っ向から描写するようなことはしない。それを、子どもの咳だけで示す。それを厳しい寒さから来る、おそらくは肺炎の予感として。けれど、それで過不足ないところが、ロン・ハワードの筋運びの妙である。一瞬、子どもが病死するかもしれないという連想が映画を包む。しかし、ロン・ハワードの停滞を知らぬ演出は、直ちに子どもたちを親戚に預ける(よそにやる)というメイの行動につなげ、画面から子どもを退場させる。

子どもを絶対によそへやらないという、ブラドックの息子に対する約束はここで破られる。「絶対によそへはやらない」と、ラッセル・クロウの重厚な演技で、子どもとの約束が強く印象に残っているだけに、ブラドックの痛恨な思いが伝わってくる。このように観客の意識は、「飢え」でも「凍え」でもなく、今度は「息子との約束の破棄」というさらに別の感情へと導かれるだろう。

そしてブラドックはどうするのか。すべてのプライドを捨てて、「物乞い」に行くのである。ボクシングのプロモーターたちの集まる高級クラブへと、ブラドックは足を運ぶ。そこで、彼は困窮していることのすべてを打ち明け、光熱費を払いたい、だから金をめぐんでほしいと切々と訴える。

そこにはかつて自分の友人でありトレーナーだった、ジョーがいる。そして彼からライセンスを剥奪した、試合の総元締めジョンストン(ブルース・マッギル)もいる。彼らを含め、その場にいあわせた者たちは皆、深い同情と共に、手持ちの小銭をブラドックに与える。

ここは確かに身を切るようなシーンであるが、人の温かみを軸とした描写であるために、決して痛々しい印象を残さない。そこには救いがある。実際、当座の金が手に入ったことにより、次のシーンでは直ちに子どもたちは家に帰ってくるだろう。驚くほどに迅速な筋運びである。

こうして、ロン・ハワードは「貧困」を描くにあたって、その最も切実な本質から、次々に描写の軸をズラし続ける。この物語の経済性、そして問題の本質の転換・代替こそが、ハリウッド流作劇術の基本作法であることが、『シンデレラマン』を通して読み取ることができる。

「貧困」に関するハリウッド的なこうした作劇術は、チャールズ・チャップリンを例外とし[]、『怒りの葡萄』(1939 ジョン・フォード)あたりが最も高級な実践だろうが、ロン・ハワードの、特に『シンデレラマン』のそれはむしろ、ハリウッドの伝記ものの系譜を連想するべきだろう。

たとえばそれは、『キューリー夫人』(1943 マーヴィン・ルロイ)や『グレン・ミラー物語』(1953 アンソニー・マン)など、古典的な伝記映画で見られる通り、いかに深刻な描写を避け、それを別のエモーションに転換させるかが演出テクニックの決め手となる。それを口の悪い者なら、ハリウッド流の詐術とさえ言うかもしれない。ロン・ハワードはそうした文法を、そっくり受け継いでいる。

しかし、これまでにも何度となく述べてきた通り、これがロン・ハワード作品を見ているときの安定感、安心感の源である。見ている者の気持ちを、必要以上にネガティブな感情によって波打たせる必要はない。その時点での主人公をとりまく環境のニュアンスさえ伝えられれば、クライマックスへの伏線としてはおつりがくる算段というわけだ。

 

先を急ぐならば、こうした「ことの本質」を別の感情へと転移する作業の最大の形は、ブラドックがついに世界チャンプに挑戦する、クライマックスのファイトである。

普通なら、観るものが映画の結末として望む最良の形は、主人公の勝利であり、『シンデレラマン』でいうならば、チャンピオンベルトの獲得だろう。けれど、主人公の条件があまりにも悪い場合、そのまま勝利そのものを、最終的な感情の持って行き場所とするならば、その感動には限りがある。なぜならその場合、せっかくここまで積み重ねてきた物語が、単なる「絵空事」に堕すという罠に落ちるからだし、単にストレートすぎるからだ。

それを回避した最良の例として、月並みではあるが、ここではやはり『ロッキー』(1976 ジョン・G・アビルドセン)をあげておく。同じボクシングを題材とすることから、『シンデレラマン』との親和性が高い『ロッキー』でも、一介のチンピラに過ぎない、とうに盛りを過ぎたボクサーのもとに、ふって沸いたようなタイトルマッチが舞い込むが、映画の焦点は決して主人公の勝利ではなかった。

それは主人公ロッキー(シルベスター・スタローン)が、試合前に恋人エイドリアン(タリア・シャイア)に語った通り、「15ラウンド終了のゴングが鳴ったとき、まだ立っていられたら、そのとき自分がただのチンピラじゃなかったことを証明できる」。すなわち、勝敗は二の次で、立っていることができるかどうかだったわけだ。なぜなら、この段階での主人公にとって、チャンピオンに勝つということは、あまりにもおこがましい話だからだ。そのため、単純に「勝利」が最終目標ではなく、「ノックアウトされない」ことをポイントにするわけである。

それと同じ理屈は、『シンデレラマン』でも同様で、実話としてどうあれ、ブラドックの勝利は基本的にあり得ないわけだ。では、ここで何を物語の主点におくかというと、これが「リングの上で死なない」ということなのだ。

タイトルマッチが決まった段階で、物語はしつこいまでに、主人公ブラドックの試合における生命の危機を伝えようとする。なぜなら現チャンピオン、マックス・ベア(クレイグ・ビアーコ)は若く無敵のボクサーで、その殺人的なパンチはすでに2名の対戦相手を、試合で殺しているというのだ。

この、「試合で人を殺している」という事実は、プレス会見場において口の悪い新聞記者“スポーティ”・ルイス(ニコラス・キャンベル)の口から語られる。ブラドックにとって、以前から折りに触れて余計なことばかり記事にする、犬猿の相手である。

現チャンピオンのベア自身も、悪びれもせずそれを口にして脅しをかける。しかもプロモーターの総元締め、ジョンストンに至っては試合をキャンセルしろとまで圧力をかける。ご丁寧にも、ベアが相手を殺した試合のフィルムをブラドックに見せ、たっぷり不安感をあおったうえで、もし死んでも訴訟を起こさないという念書に署名しろとまで言う始末だ。

ダメを押すのが妻メイの存在である。それまでにも、主人公を支えて十分感動的な人物として描かれていたが、物語は夫を失うかもしれないというメイの不安に、スポットをあてる。

今度のタイトルマッチだけでなく、これまでにもメイは試合のたびに、夫がもう帰ってこないのではないかという不安に苛まれている。夫の試合を見に来ることはついぞなかったし、ラジオ中継を聞くこともない。そのため子どもたちにもそれを禁じている。

対戦相手のベアが、試合中に2人の人間を殺していることは、最初メイに対して報告される。そのことを会見の場で口にした“スポーティ”・ルイス記者は、それをブラドック自身ではなく、同席したメイに対して言ったのである。そして、たまたま同じレストランに居合わせた挑戦相手ベアは、真面目な顔つきで「この試合は正直、棄権なさったほうがいい」と忠告をはじめる。挙句の果てに、メイに向かって「未亡人にするには惜しい女だ。ご主人が死んだらオレが面倒をみよう!」などと暴言を口にする。

試合への不安は、ブラドックでなく、妻メイに集中するように話は展開する。逆にいうと、ブラドック本人は自分が殺されるかもしれないという心配はまるでしていないか、しているにせよ、そのような描写は一切ない。

物語は、さらにメイに試練を与える。港湾労働者時代のブラドッグの同僚マイク(パディ・コンシダイン)は、労働争議におけるデモ騒ぎで死んでしまう。葬儀に参加するブラドック夫妻だが、そのときメイの目には夫を失って悲嘆にくれる未亡人の姿が目に焼きついてしまう。自分も今度はそうなるのではないかという連想から逃れられなくなる。

メイは夫に本音を打ち明ける。自分はこれまでずっと、あなたが試合に出かけるのが嫌だった。今回は帰ってこないのではないかと、いつも不安でたまらなかった。だから、あなたがケガをして試合ができなくなることを祈りさえした。そうすれば、もう試合に出なくてすむから、と。

これはブラドックにとっては残酷ともいえる言葉である。なぜなら、その全盛期にブラドックは重なる故障に悩まされ、実際そのためにライセンスを剥奪されたのだったからだ。これに対して夫は、妻を抱きしめて応えるしかない。

このとき、「同じつらい思いでも、リングの上でなら耐えられる」と答えるブラドックの心境は、どんなに危険であっても、月面の土を踏むというかけがえのない体験には変えられない、『アポロ13』のラヴェル船長(トム・ハンクス)のそれと完全に一致する。

そしてメイの役どころは、夫の苦難を陰で支え続ける、献身的で気丈な妻として、『ビューティフル・マインド』のアリシア(ジェニファー・コネリー)の再現ともいえるわけだが、立場としては、彼女はまたラヴェル船長の妻、マリリン(キャサリン・クインラン)の再現でもあることがわかる。すなわち、夫の生還をいつも家で待つ妻。もしかしたら今度こそ夫が帰って来ないのではないかという心配から、夫の仕事そのものに不安を募らせる女性という立場である。

『シンデレラマン』は、『アポロ13』、『ビューティフル・マインド』と続いた、三部作の最終編と言ってよいと思うが、それは主人公の妻メイが、前2作の妻アリシアとマリリンを総合した女性像と見なせるからでもある。

こうしたロン・ハワードの首尾一貫し、しかも単なる主題の再現に終わらぬ、発展的なフィルム・メイキングの態度にはやはり驚かされる。

寡黙に夫を支える妻たちについてのもう1つのエピソードとして、『シンデレラマン』にはとても印象に残るシーンがある。

本稿では決して多くの言葉を費やさなかったが、ことによったらこの作品の主人公ブラドック以上に魅力的な人物が、ポール・ジアマッティ演じる[]、マネージャーであり、トレーナーであり、親友であるジョーである。

ブラドックのライセンス剥奪後も、何とかチャンスをみつけて、復帰戦の算段を整えたのが彼であった。そして、そのファイトに誰よりも心動かされて、ハッタリと正論と泣き落としという、弁舌の限りを尽くしてライセンスの再発行に尽力(ライセンス獲得のため、元締めのジョンストンとジョーの1対1の口八丁の一騎打ち。机をはさんで主要登場人物が向かい合ったとき、ロン・ハワード作品においては、いつでも奇跡のような名場面が生まれる)。ブラドックの現役復帰への足がかりを作る。

そしてジョーは、再試合のためにトレーニングに専念せよと、ブラドックに当座の金を渡す。そこで、内心の怒りを爆発させるのがブラドッグの妻メイである。

というのは、生活は苦しいがせっかく危険な試合に出なくてすむようになった。それなのにまたその世界に引き込むつもりなのかと。いつでも夫の無事の帰りを待つ身であるメイとしては、再び試合の日々が戻ることに耐えられない。

そこで、ジョーの家に乗り込むが、ドアの外からメイは彼をさんざんになじる。もう夫をつらい目に合わせるのはやめろ、自分だけ広いアパートでのうのうと暮らしながら、夫の体を道具に使い、自分だけ金儲けをするのはいいかげんにしろ、と。

申し開く言葉を持たないジョーとその妻ルシール(リンダ・カッシュ)は、言いたいことを全部言わせきった後、彼女をとにかく部屋に招き入れる。しかし、部屋の中は空っぽで、真ん中に小さなテーブルがあるだけだ。言葉を失うメイ。その小さなテーブルで3人は語り合う。ジョーは、ブラドッグがトレーニングに専念できるよう、彼の生活費のために、売れるものはすべて売り払ったことを告白する。

なぜそれほどまでに? と、当惑を隠せないメイだが、ここがすばらしいのは、いつもは饒舌なジョーが言葉につまってしまうところだ。それでもたどたどしく、それは直感のようなもので、選手の中に“何か”が見えた。そして、それがわずかであってもその希望にかけたいのだと、何とか自分の気持ちを表現しようとする。

そして、ここはロン・ハワードのというよりは、脚本のアキバ・ゴールズマンの才能によるところが大きいと思うのだが、さらに言葉を費やそうとジョーがやっきになったために、セリフが空回りをはじめたところで、ジョーの妻がやんわりと「クラッカーをとってきて」と夫に指示し、彼をシーンから退場させる。

ここで妻と妻。女どうしの1対1での話し合いとなる。見事な場面展開である。繰り返しになるが、テーブルをはさんで人物と人物が向かい合ったとき、ロン・ハワードは最も素晴らしい場面を作る。ジョーの妻は「何かを決意した夫をとめることができるかしら」と口にする。こう言われて、メイに語り継ぐ言葉はない。「いいお部屋ね」とのみ口にし、立場を同じくする妻として2人は微笑みあう。そしてカメラは空っぽの部屋の真ん中で、ぽつんと向かい合う2人を、じっと見守るように映し続ける。

この場面に示されるように、饒舌と沈黙とが絶妙のバランスで使い分けられ、しかも人物の出入りが巧みに計算されつつ描かれる。『ビューティフル・マインド』以後のロン・ハワードがマスターした、これは最重要のテクニックだろう。前述の通り、練りに練った言葉を準備するアキバ・ゴールズマンの力が大きいはずだが、その言葉の力を十分に生かすためには、ロン・ハワードの演出術は不可欠だったろう。

こうした場面演出の円熟度において、筆者はどうしても、視線と言葉による室内劇の達人、ダグラス・サークを連想すると言ったら、思いつきと飛躍が過ぎるだろうか。だがしかし、たとえば『ビューティフル・マインド』、『ミッシング』、『シンデレラマン』を知っている今の目で、『天の許し給うものすべて』(1955 ダグラス・サーク)のしかるべきシーンなどを見ていると、メロドラマの作家として、この偉大な映画作家の域に近づこうとし、かつ意識的に継承しようとしている現代アメリカ作家は、やはりロン・ハワードただ一人だと思わされるのだ。

 

このようにドラマ部分を十分に描きつつ、ついにクライマックスのタイトル戦。ここについては、ほとんど語るべき事項はない。それがいくら巧みであるとはいえ、カメラワークや編集のことなど忘れて、ただただ物語の行方に胸をドキドキさせていればよいと思う。

そのとき画面を見つめながら、前述の通り勝敗のことなどでなく、ブラドックが死なずに家に帰れるかどうかだけが気になっていることを、確認できるはずだ。試合中、何度も挿入されるメイの顔。彼女も今回ばかりは、控え室に直接夫に励ましの抱擁をしに出かけ、これまで決して聞こうとしなかった試合のラジオ中継を聞いている。

ブラドックの教区の教会でも、説教壇にラジオを置いて、神父と信者たちが試合の行方に聞き入っている。行きつけのパブでも同様だ。いまやブラドックの活躍は、街の人々の希望の中心になっている。このあたりの市井の人々が、主人公の成り行きを見つめる描写は、『エドTV』のそれを想起することも可能だろう。

試合シーンはロン・ハワードには珍しい、手持ちカメラを多用した躍動感あふれる画面作り。スローモーションや早回しさえも使って、臨場感を盛り上げていく。肉体を駆使するラッセル・クロウのここは独壇場だが、悪役に徹した対戦相手、ベアを演じるクレイグ・ビアーコも大いに健闘だ。

試合の行方が決まったとき、ロン・ハワードらしく、垂直のカメラはリングを見下ろしながら、天へと登っていく。おそらくこれ以外には考えられぬ幕引きだろう。

 

さて『シンデレラマン』は、観た者の誰をも引き付けずにはおかず、深い満足感が得られることの確実な、魅力あふれる物語を持っており、しかも欠点が見当たらない。前評判も高かったと伝えられ、普通ならば大きな興行的成功をもって迎えられるはずだった。

が、これは残念ながら多くの観客を動員することにはならなかった。全米興行はわずかに6200万ドル。8800万ドルという製作費の回収には到底届かない数字である。[]

作品の出来栄えには自信があったと思われる、アメリカの一部の映画館チェーンでは、もしこの作品に不満足だった場合は、申し出れば半券と引き換えに入場料を全額払い戻すという、ほとんどヤケっぱちなキャンペーンまで張っている。その効果がどれだけあったのかはわからないが。[]

確かに「シンデレラマン」とは、垢抜けないタイトルであるとはいえ、それほどまでに観客の興味をつかみそこねた原因は、やはり謎である。互いに一歩も譲らぬメガトン級の夏の超大作『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』(2005 ジョージ・ルーカス )、『宇宙戦争』(2005 スティーブン・スピルバーグ)と、封切時期をほぼ合わせたのが原因だろうか。

確かに、こうした何年かに1度というレベルの超話題作がある年に、うまいことヒットを飛ばそうと思えば、かつて『ハムナプトラ/失われた砂漠の都』(1999 スティーブン・ソマーズ)や『マイ・ビッグ・ファット・ウェディング』(2002 ジョウェル・ズウィック)がそうであったように、大規模な夏興行がはじまる直前の空白期間を狙うと効果的、という実例の蓄積もあったはずで、『スター・ウォーズ』や『宇宙戦争』のような、客層が違うはずの作品と、どれだけ食い合ったかはわからないものの、封切時期の設定ミスはある程度否めなくはあるだろう。[]ロン・ハワードの師匠格である、スピルバーグ/ルーカスの新作に押されるのはやむを得ないにしても、さすがに残念という他ない結果である。

 

最後に、実話に基づいた『シンデレラマン』も、『ビューティフル・マインド』同様、メロドラマとしての体裁を整えるために、やはり事実と異なる脚色を施していることを、参照材料として記しておきたい。

私自身は、そのことを「映画」の評価にはいささかも影響を与えはしないと信じ、そうした脚色も必要とあらば、また是とするものだが(何しろ世の中には事実と異なること、イコール映画としても低劣、と判断するタイプの人が多く存在するが故に、何度でも繰り返しておきたい)、映画のメロドラマ的効果を盛り上げる点で、ロン・ハワードと脚本のアキバ・ゴールズマン、そしてあるいは製作のブライアン・グレイザーがどのような点に着目したかを知るために、一番重要なところだけをあげておく。

映画では、ブラドックの挑戦相手、マックス・ベアは2人の選手を試合中に殺したことになっているが、実際には1名だけである(対フランキー・キャンベル戦)。ここは、ブラドックがいかにヤバイ相手と戦うことになるかという気分を盛り上げ、不安にふるえる妻メイの心情を増幅させるためには、犠牲者が1人だけではインパクトが薄いと判断したのだろう(ただし、ベアの試合でのダメージで、脳に取り返しのつかない損傷を受けたと思しき選手(アーニー・シャーフ)が、後に別の選手(プリモ・カルネラ)との試合で命を落としたという事実はあるようだ)。

そして、ベアは人を殺したことについて、いささかの痛痒も示しておらず、映画では好きになりようのない悪役として描かれているが、実際のマックス・ベアは試合で死なせた選手の未亡人に、報酬の全額を贈るためのタイトル・マッチを行ってさえいる。その金額は1万5千ドルに達したというから、当時としてはかなりの額だろう。[]

そして、ベアを完全な悪役とすることで、この映画はある種の誤解を与える可能性も持つことになる。というのは、ブラドックとのタイトルマッチで、ベアがはいているトランクスには、大きくユダヤの印が縫い付けられているのを、はっきり確認できるからだ(これは事実だったようだ)。

とことん好人物として描かれている、ブラドックのマネージャー、ジョーもユダヤ人である事実も考え合わせると、人種的な深読みには当たらないことであるのだが、これはある意味で危険な脚色だったともいえるだろう。ブラドックがロン・ハワードと同様に、アイルランド系の人物であることもあわせるならば。

なお、「シンデレラマン」というニックネームは、映画ではブラドックに対して口の悪い、“スポーティ”ルイスなる記者が、その記事でつけたことになっており、それまでよい印象を持っていなかった人物が、珍しく好意的な記事を書いたことで一同の顔をほころばせもしている。しかし事実は別の記者によるネーミングのようである。[]

これは、悪く描いたキャラクターを少しでも好印象に、しかも話としてオチがつくよう、エピソードをうまく回収するためのテクニックだろう。確かにちょっといい雰囲気の場面になっている。

 

『シンデレラマン』は、大恐慌から第二次大戦前夜までのアメリカにおいて、庶民の英雄として復権を遂げた人物の、印象的な物語である。ロン・ハワードのアメリカ物語は、また珠玉の一編を積み重ねていく。

だがこの作品は、いわゆるヒット作ではない。けれどこの作品がレンタル・ショップの片隅にひっそりと置かれ、時の経過と共にいつしか忘れさられてしまうとしたらいかにも惜しい。語り継がれるべき永遠の名作として参照され続けることを、切に願うのみである。

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[] 淀川長治『私のチャップリン』(PHP 1977年)

「しかしこれまでのチャップリン映画で靴を喰べる(ママ)ほどの飢えは見たことはなかった。チャップリンが自分の靴を食う。思えば自分のトレイド・マークの一片を食っちまったわけである。捨て身の食事である。(中略)けれども映画の中ではこれほどの飢餓の残酷恐怖は描かれたことはない。」(P.142

 

[] この年のアカデミー助演男優賞のノミネートにあげられた。

 

[] 数字上の根拠は次のURLを参照。http://www.the-numbers.com/people/directors/RHOWA.php

 

[] 200574日付 日本経済新聞

 

[] 『ハムナプトラ』は、『スター・ウォーズ エピソードT/ファントム・メナス』(ジョージ・ルーカス 519日初日)に先行させ、199957日全米公開を初日にセットして16千万ドルの大ヒット。

『マイ・ビッグ・ファット・ウェディング』に至っては、『スパイダーマン』(サム・ライミ 53日初日)に先行する、2002419日を初日として、実に24千万ドルを叩き出した。

 

[] マイケルC.デリーサ『シンデレラマン 妻と子に支えられた不屈のチャンピオン』(黒輪篤嗣・訳 竹書房 2005年)

「ベアーは生涯、キャンベルを死亡させたことを思い悩んだ。ベアーの息子で俳優のマックス・ベアー・ジュニアが二〇〇一年、《サンマテオ・タイムス》に次のように証言している。「父は暴力的な人ではありません。とても社交的な人でした。(キャンベルの死のことで)たびたび涙を流しました。母の話では、二十年後も、夢にうなされていたそうです」」(P.92

その他、本稿において、伝記的な事実に関する情報は同書を参照している。なお、同書は映画『シンデレラマン』の、いわゆる「原作本」ではなく、映画作品公開に伴って、映画の史実考証者によってまとめられたものである。

 

[] 「スポーツ記者は前評判の低いタイトルマッチを盛り上げるため、“売り”になるものを探した。(中略)しかし絶妙なあだ名を考えついたのは、ネーミングの名手デイモン・ラニアンだった。ラニアンはブラドックの経歴をおとぎ話のように描いて“シンデレラマン”と名づけた。おそらく同名の芝居がヒントになったのだろう。ブラドック本人は嫌がったが、あだ名はまたたく間に広まった。」(前掲書 P.193