23.『ダ・ヴィンチ・コード』(The Da Vinci Code” 2006

 

 おそらく知らぬ者のない、記録的な超ベストセラー小説の映画化。原作となったダン・ブラウンの小説は、全世界売上が7000万部という驚異の数字である。[]

 個人的な経験で恐縮ながら、当初は単行本で刊行された邦訳が、映画の封切に先立って文庫化されたときのこと。出先からの帰路の電車中に、自分が見渡した範囲だけで、実に5人の乗客が『ダ・ヴィンチ・コード』を読んでいるのをみかけたことがある。

 同様のコメントを、アルフレッド・モリーナも述べていて、「滞在先のプールサイドで10人以上が、『ダ・ヴィンチ・コード』を読んでいた。驚いたよ。どこへ行っても人々が“読んだ?”と話している」と。[]

 そして、ロン・ハワードによる映画化公開が近づいた頃、全国の書店は一斉にダ・ヴィンチにまつわる特設コーナーを組んだ。原作本はもとより、画集から映画・原作の関連本に至るまで大変な熱狂を呼び、「ダ・ヴィンチ・コード展」[]なる展覧会まで開かれた。

 日本国内ではそれほど大きな動きとはならなかったが、『ダ・ヴィンチ・コード』は宗教界からの強い反発も呼んだ。何といってもイエスとマグダラのマリアは、実は夫婦で、子どもも産んでいた、という内容なのだからそれも当然だろう。

もっとも、宗教界からのクレームは『ゴダールのマリア』(ジャン=リュック・ゴダール 1984)、『最後の誘惑』(マーティン・スコセッシ 1988)、『パッション』(メル・ギブソン 2004)など、イエスの生涯や解釈について、多少なりともスキャンダラスな作品が発表されたときの恒例行事のようなもので、さほど珍しい話題でもないといえようか。

 私事を重ねて心苦しいが、たまたま私は『ダ・ヴィンチ・コード』公開中にシドニーに滞在していた。上映劇場の前では、宗教運動家らしき青年が、パンフを片手に「この映画を作った者どもは罪人である! 見る者も同罪である!」といった演説を、日がな1日やっていた。5日間の滞在中、おそらく交替制で毎日やっていたから、宗教関係者のパワー恐るべしだ。

 ふと、その人が配りたがっているパンフには、どんなことが書いてあるんだろう、と悪戯心と好奇心が起こり、それをもらえまいかと声をかけようとしたところ、同じようにふざけ半分に彼をからかおうとした若者が一足先に声をかけ、パンフをもらっていた。

 するとその若者はその活動家につかまり、イエスの愛がどうの、純潔がどうのと、延々と話しこまれて放してもらえなくなってしまった。実に危ないところだった。

 とにかく、2005年から2006年にかけての、『ダ・ヴィンチ・コード』周辺の現象は、国際的に空前のものだった。

 これほど巨大な話題作を手がけるのは、ロン・ハワードとしてはまったく初めてのことだ。これまで、彼はフィクションの原作ものにはほとんど手を染めていない。わずかに『グリンチ』と『ミッシング』の例があるが、いずれも自由な脚色が施され(そしてそれが可能な作品でもある)、ほぼオリジナルといってもよい水準のものだ。

 『ダ・ヴィンチ・コード』のように、ほとんど脚色の余地を残されていない、可能な限り原作に忠実な映像化を義務づけられた作品という意味では、初めてのケースだ。

 初めてといえば他にもある。この作品がアメリカ合衆国を舞台にしていないという点だ。なるほど『ガン・ホー』では主人公のマイケル・キートンは日本に出向いたが、それは冒頭だけのことで、タイトルバックが終わると、すぐに帰国している。

 ファンタジー作品の『ウィロー』と『グリンチ』は例外としても、アメリカ映画の監督として、ロン・ハワードはアメリカ本土を一歩も出ないことも、また1つの特徴だった。

しかし、一転『ダ・ヴィンチ・コード』では、逆に主人公たちはとうとう一歩もアメリカ大陸の土を踏まない。フランスからイギリス、そして再びフランスへと、これは初めてヨーロッパだけが舞台となった作品だ。

必然的に英語を母語としない俳優も、多数登場する。中でもフランス人であるジャン・レノとオドレイ・トトゥは、ロン・ハワード作品に導入された、まったく新しい血である。

こうして『ダ・ヴィンチ・コード』は、ロン・ハワード作品として例外だらけの、珍しい作品となった。そしてそのことに、彼はどのように対応しているか。本稿ではそのことが少しでも詳らかになればよいと思う。

 

物語は、ルーブル美術館内での凄惨な殺人事件が発端となる。被害者はルーブル美術館長のソニエール(ジャン=ピエール・マリエール)だ。

実際のルーブル美術館を用いてロケーションされた、一連の場面はさすがに見ごたえがある。何物かに狙われ、怯えながらルーブルの暗い回廊を走るソニエールの姿は、『はなればなれに』(ジャン=リュック・ゴダール 1964)を頂点とする「ルーブル館内の疾走」という、きわめて映画史的に特権的な系譜に、1アイテムを追加するだろう。

ソニエール殺しの犯人は、宗教結社オプス・デイの修道士シラス(ポール・ベタニー)である。物語はやがて、このシラスという狂信的な人物が色素欠乏症という、生まれながらの病を抱えるが故に、不幸な幼少時代を送った結果、宗教への病的な帰属を強めたことを、フラッシュバックによって描く。

そのソニエールが残した暗号などをめぐって、講演旅行のため、たまたまパリに滞在中のラングドン教授(トム・ハンクス)が、ファーシュ警部(ジャン・レノ)によって、ソニエール殺しの現場に召喚される。

そして、大使館からだと称してそこに若いフランス女性、ソフィー(オドレイ・トトゥ)も登場する。彼女はラングドンに、警察は実は彼が犯人だと見ている、このままではつかまるから、警察の目を盗み、とにかく一緒に逃げてほしいと隠密に指示を出す。

こうして、物語はラングドン/ソフィーと警察との、追いつ追われつの逃避行となり、その過程でキリストの「聖杯」のありかを巡る謎解きが展開される。

複雑なストーリーなので、単純な要約を許さないが、殺されたソニエールはイエスの「聖杯」の真実を知る唯一の人物であり、ソフィーはその孫娘である。ソニエールはその真実を、複雑な暗号として彼女に託したが、ソフィーはそのことについてまだ意識的ではない。

しかしその真実が公表されることが、教義上はなはだ都合の悪いオプス・デイは、その証拠を永遠に消滅させようとやっきになっている。その急先鋒が、アリンガローサ司教(アルフレッド・モリーナ)である。彼はシラスからの絶対的な忠誠を利用して、目的を果たさんと作為の限りを尽くす。

さてその真実とは、イエスの聖杯とはすなわち、マグダラのマリアのことであり、彼女は実はイエスの妻だった。2人の間には子ども(娘)があり、その末裔は今に生きているという内容だ。

その証拠が、レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』の図象学的解釈によって語られる。ではソニエールは、なぜそのような重要な真実を知っていたのか。それは、彼が実はシオン修道会の総長だったためだ。その会において真実は代々伝えられ続けており、歴代の総長にはレオナルド・ダ・ヴィンチの名もあるという。[]

そして、現在の「聖杯」のありかは、ソフィーが祖父から託されたキー・ストーンに封印されており、それを開くには暗号の謎を解かなくてはならない。ラングドンとソフィーは、その暗号を解読しつつ、同時にオプス・デイ、警察、そしてそれ以外の追っ手からも、逃れんとする。

 

 なるほど、すこぶる面白い物語である。この設定が決まった瞬間、原作のヒットは約束されていたというべきだろうか。けれど、それがひとたび映像化される場合には、大変な困難を余儀なくされるということが、映画版『ダ・ヴィンチ・コード』によって露になった。

 私自身は、ロン・ハワードによる映画化が決まったと聞いて、直ちに原作本を通読した。上記のように確かにスリリングな興味に満ちてはいるが、いかにも大衆小説的な展開にはいささか食傷したのが、正直なところである。だからこそ、現代の映画界において、最も腕のいい監督であるロン・ハワードの脚色に、逆に大きな期待を寄せたものだった。

 結果としてわかったのは、ロン・ハワードをもってしても、「どうすることもできない」ということだった。「追跡」と「逃亡」というのは、きわめて映画的なモチーフではある。しかしながら、これが「謎解き」ということになると、それを映画にするといかに退屈にならざるを得ないか、ということがはっきりする。

 ラングドン教授を演じるトム・ハンクスは、大スターとしておそらく全才能を傾けて、作品のレベルを引き上げようと努力していると思う。彼の眉間に深く刻み込まれた皺が、状況突破のために常に何事かを思案している男の様子を見事に表現している。

 暗号を解き明かすという、ラングドンの天才的な才能を表現するのに、ロン・ハワードは『ビューティフル・マインド』で用いた手を再び導入する。

 一見、意味のないローマ字の羅列から、意味あるキーワードを浮かび上がらせるとき、彼の目にはその文字が言葉通り、浮かび上がって見える。あるいは、彼の想念の周囲にはさまざまなイメージがぐるぐると回転する(ここでは天体のイメージ)。そのとき放心したような、しかし視線はきっちり定まった表情で、どこかを見据えている。そしてスリリングに流れる音楽。

 CGをほどよく使ったこの表現は、『ビューティフル・マインド』でラッセル・クロウが見せたそれと、ほとんど変わりがない。ロン・ハワードは既に成功済みの手持ちのコマを、そのまま流用している。

原作では細かく書き込まれた暗号解読の映像化については、もちろんそれでいい。しかし問題は、イエスとマグダラのマリアをめぐる解釈と、『最後の晩餐』についての図像学的説明である。ここはロン・ハワードをもってしても、ついに映画的にクリアできなかった部分とあえて言う。

 映画には原作ものといっても2種類ある。読んでいる者などほとんどいない作品の映画化と、その映画化を観る人のほとんどが、原作を既に読んでいると想定される場合である。『ダ・ヴィンチ・コード』は後者の典型的な作品だ。

 映画の観客のかなりの者は、もう原作を読んでいるか、少なくともストーリーを知っていると思っていていい。だから自由な翻案は許されないし、描くべきところはきちんと描かなければならない。それをさぼれば、原作にくらべて「物足りない」という烙印を押されてしまう。ましてやこれは、記録破りのベストセラー小説なのだ。

 『ダ・ヴィンチ・コード』にあって、どうにも端折ることを許されないのは、このキリスト伝説についての新説と『最後の晩餐』解釈だろう。大量の情報と薀蓄に満ちたこの作品の場合は、どこかで腹を据えて「説明場面」に徹しないことには立ち行かない。とにかく、撮らないことにはどうしようもない。いずれにせよ負け戦である。

 冒頭のルーブル美術館での殺人事件から、トム・ハンクスの登場。彼がその事件に巻き込まれて、オドレイ・トトゥが姿を見せ、彼を巻き込み2人で逃避行を開始するまでは、映画は無駄なく淀みなく進行するかにみえる。そこまでで、上映時間ほぼ1時間。いささか性急な展開に、困惑することは事実だが、まずは快調な進行といえるだろう。

しかし、彼らが落ち着いてものを考えるため、かくまってもらおうと身を寄せる、ティービング(イアン・マッケラン)が登場するあたりから、映画には急ブレーキがかかってしまう。物語の疾走感においては、これまで屈指の話術を誇ったロン・ハワードとしては、これは初めての敗北のように思われる。

ここからは、約20分もの長きにわたって、延々とセリフによる議論が展開されるのだ。ティービングはイエスとマグダラのマリアの関係について、その証拠をつかもうと生涯のすべてをかけている人物で、ラングドンとは旧知の仲という設定である。

ティービングはラングドンに、「イエスの真実」について薀蓄を傾けて解説をはじめる。膨大なセリフ量だ。英語を解さない者なら、字幕を読んでそれを理解するのに、集中力のほとんどを奪われるだろう。画面に目を向ける余裕はほとんどないはずだ。ここでは「映画」が「映画」であることの必然が完全に消滅している。

ところでこの「説明」シーンで、部屋にいるのは3人だけ。ティービングとラングドンとソフィー。シーン当初では、執事のレミー(ジャン=イブ・ベルトゥル)もそこにいて、合計4人だが、彼は「もう用事はないから下がっていいぞ」と言われ、画面から姿を消す。

こうして巧みに画面が3人になることで、これまで「第3の視線」という観点でロン・ハワードの表現を観てきた私にとっては、いささかの期待に興奮を禁じ得なくなる。構成に自由のきかない、このようなベストセラー小説の映画化にあたってもなお、独自の見せ方をするのではないかと。

しかし、3人だけになったとはいえ、その期待は早々に裏切られる。議論をするのは、もっぱらラングドンとティービング。たとえば『ミッシング』を思い出すならば、口論を続けるケイト・ブランシェットとトミー・リー・ジョーンズの間にあって、傍観者として、すなわち「第3の視線」として、幼いジェナ・ボイド(ドット役)がいたことは、画面に大変な意味を与えていた。その観点を適用するならば、『ダ・ヴィンチ・コード』のこのシーンでは、ラングドンとティービングの間で、「第3の視線」として機能するべきは、ソフィーのはずだ。

けれど、このシーンにおいて、議論はあまりにも一方的に展開するため、ソフィーは「第3の視線」として発動する力を奪われている。『ミッシング』での幼いドットには、議論を客観的に判定し理解する、記録者としての役割があった。それに対して、完全に脇に追いやられているソフィーは、基本的にいてもいなくてもいい存在に過ぎないのだ。

もちろん、ロン・ハワードは工夫の限りを尽くしている。古代ローマにさかのぼる、キリスト教成立の起源について語るとき、画面はフラッシュバックして、大群衆にあふれた古代ローマの場面を見せてしまう。

同じくキリスト教史において、女性がいかに迫害されたか(魔女狩り)のことを語るときは、大規模なセットを組んで、中世ヨーロッパを再現しさえする。

このあたりは、巨大な予算を使えるが故に製作可能となったショットだろう。かなりの部分CGに頼っているのだろうが、それぞれ1分にも満たないシーンのために、古代ローマや中世ヨーロッパの町並みを丸ごと作り上げてしまう。しかも生半可な規模ではない。

ここを、現代ハリウッド映画に典型的な、贅沢ショットと見ることはもちろん可能だが、画面の単調さを少しでも補うための策と見たほうが、より正解に近いのではないだろうか。

 

そしてダ・ヴィンチ『最後の晩餐』の新解釈。この絵に描かれた、イエスに向かって左側の人物は、実は女性。すなわちマグダラのマリアであるという、おおいに話題になった一連の主張。

ここもさすがにCGを駆使して、見事にわかりやすく見せてくれるが、話を先に進める必要性からも、その人物が女性である証拠としていくつか述べられる、「胸がふくらんでいる」とか「女性的な顔つき」であるといったことは、きちんと見せてはくれず、言葉だけで素通りされてしまう。とにかく言葉だらけなのだ。

一連の薀蓄を語りに語るイアン・マッケランの演技は、やはりさすがだ。ときに子どもっぽく、ときに理知の輝きをもって、魅力たっぷりに膨大なセリフを披露してのける。確かに至芸と言うべきだが、しかしそれだけではやはり、この20分にも及ぶ説明シーンに、生命を吹き込むことはできなかった。

 説明シーンはまだあって、それは終盤にヒロインの本当の真実、これは今さらいわゆる「ネタバレ」にはならぬと思うから述べてしまうと、すなわち彼女こそが、イエス・キリスト最後の末裔であるということの証拠だてである。

 このシーンも同様に、フラッシュバックを織り交ぜつつ、やはりセリフによって複雑な内容を伝えるためにのみ存在している。実際問題として、事件をまとめあげる最後のポイントだから、これ以上の脚色は確かにほどこしようがない。上映時間にして約10分、またしてもダイアログが中心の場面となる。

 こうした一連の「解説」にすぎない場面が、『ダ・ヴィンチ・コード』から疾走感を奪い、何より「ややこしさ」を与えてしまっている。言葉に頼らざるを得ないタイプの「謎解き」とは、映画にとってかくも鬼門だといえるだろう。

 そして、ここで改めて気づかされるのが、書物においては「セリフ」ばかりのページというのは、きわめて読み易く、どんどん読み進めていけるのだが、映画において「セリフ」ばかりのシーンというのは、見るのに非常に骨が折れるという、奇妙な事実だ。

 圧倒的なダイアログ量ということでいえば、その古典的作品としてハワード・ホークスの名作『ヒズ・ガール・フライデー』(1940)を直ちに連想させようが、ここではむしろ『JFK』(オリバー・ストーン 1991)を比較例として参照しておきたい。

 ジョン・F・ケネディ暗殺の真犯人は別にいるという、戦後最大の謎を独自の解釈で描いたという意味で、『ダ・ヴィンチ・コード』に劣らぬ物議を醸した作品である。

この映画におけるオリバー・ストーンは、言葉また言葉という説明シーンの連続の中で、役者たちのダイナミックな振り付けと、スピーディな場面展開、フラッシュバックの多用と、過剰なまでのあらゆる手段を用いて、画面にメリハリを加えている。ことセリフによる説明という演出において、かなり強引とはいえ、ひとつの模範的な完成形を示したと言えるだろう。

 先に述べたように、ロン・ハワードも古代ローマや中世のシーンを挿入するなど、オリバー・ストーンに準じた形で工夫はこらしているものの、もう一つ大胆さに欠けた感触は否めない。『ダ・ヴィンチ・コード』時点でのロン・ハワードの中庸を行く演出法においては、説明的セリフの描写という点で、今後の課題を残したと思う。

 

 さて、作品に対していささか厳しい言葉ばかりを述べたように思うが、いかにもロン・ハワードならではという点も述べておかねばならない。

 まず、何より興味深いことには、この『ダ・ヴィンチ・コード』が24時間の出来事であるということだ。

 エピソードに次ぐエピソードであり、空間移動もパリとロンドンを往復するなど、主人公らの行動は何とも多忙をきわめ、数日間にわたる物語であるような印象を受けるが、この作品はずばり24時間のお話である。

 24時間に推移する波乱万丈の物語と聞けば、直ちにロン・ハワードとブライアン・グレイザーが率いるイマジン・エンターテインメントの大ヒットTVシリーズ、『24』を連想させずにはおかないだろう。『ダ・ヴィンチ・コード』が公開された2006年ごろは、シーズン5が放映中の時期にあたり、このドラマの人気がほぼピークの時期でもある。

 『24』は、キーファー・サザーランド演じるテロ対策捜査官が、24時間の間に次々と彼を襲う危機に対処する、典型的な一難去ってまた一難のドラマである。その構成として最も特徴的なのは、24時間という時の流れが正確に物語の進行と一致していることで、1時間枠全24話で1シーズン完結ということだ。

 『ダ・ヴィンチ・コード』は劇映画のため、さすがにドラマの進行と上映時間をシンクロさせるわけにはいかないが、可能な限り時間の推移が見てとれるよう、きっちり演出されていることが、はっきりと見てとれる。

 たとえば先に述べた、イエスと「聖杯」の謎を解説するティービングの家にこもるシーンでは、ラングドンたちがやって来たのは真夜中だったが、話しこむうちに、次第に窓の外が白々と明かるくなっていくさまが、はっきりととらえられている。

 そして早朝、まだ暗さが残る時刻にティービングの家から脱出し、自家用飛行機でロンドンに降り立つ頃にはすっかり明るくなっており、波乱万丈のロンドンでの出来事は日中真っ只中に繰り広げられる。そして追われる心配から開放され、いよいよソフィーの出自が明らかにされる教会の場面では夕方の空になっている。

 そしてもちろん、ソフィーと分かれたラングドンがパリに戻り、入浴後に髭をあたりながら、ふと「聖杯」の真実に気がつき、ルーブル美術館までの道を、単身歩いて向かうときは夜。

 時刻は定かでないながら、ラングドンがすべての謎を解き明かし、ここで再びルーブルにやって来たのは、前夜にソニエール館長がシラスに殺害された時間とほぼ同じと見て間違いないだろう。事件の発端から、最終的な「真実」の発見までぐるりと1回転。まさに24時間なのである。

 つまりロン・ハワードは、おそらく意識的に大ヒットドラマ『24』の手法を、『ダ・ヴィンチ・コード』に持ち込んでいる。

 『24』のように分割画面を多用して、複数舞台を同時に見せるような、あからさまな手法こそ避けてはいるが、ソフィーとラングドン、警察の動き、宗教結社オプス・デイの動向といった、複数の舞台をそれぞれに切り離して描き分け、個々に独立して事件解決がなされるといった点では、構成も非常によく似ている。

 ロン・ハワード自身は『24』の製作に直接クレジットされているわけではないが、自らの製作会社のヒットの方程式をそのまま導入し、間違いのない確実な演出法を選択したであろうことは想像にかたくない。

 実際、ドラマが停滞を余儀なくされる前述のような欠点こそあれ、総じてしまえば、この理屈っぽい原作に、よくぞこれだけのスピード感、疾走感を付与したものだと思う。

 

 そして最後にこれだけは述べておく。最も重要なことだ。

問題含みとはいえ、私自身はこの『ダ・ヴィンチ・コード』のラストばっかりは、何度見てもあふれる涙をおさえることができずにいる。

 ロン・ハワードがまさに、ロン・ハワードである見事な刻印が、このラスト・シークエンスにある。いや、ラストに来てついに炸裂したというべきか。

ここだけは心して観て頂きたい。あえて言うが、ロン・ハワードが撮影したあらゆるショットの中で、最もすばらしく、最も美しいシークエンスは、『ダ・ヴィンチ・コード』のこのラスト5分にある。(驚くなかれ、DVDのチャプター番号にして何と「24」である。)

 先に述べたように、すべての事件が解決し、パリに戻ったラングドンは風呂にも入り、のんびりと髭をそったりもしている。そのとき手元を間違え、うっかり頬をカミソリで切ってしまう。洗面台に一筋の血が流れ、排水口に吸い込まれていくのを見つめながら、ラングドンの頭脳は、最終的な真実=すなわち「聖杯」のありかに思い至ってしまう。[]

 その道しるべをたどりながら、ラングドンが一歩一歩、舗道を進む。この歩みがいい。そしてパリの石畳の舗道がいい。沸きあがる思考を抑えきれぬように、一心不乱にトム・ハンクスは歩く。

ロン・ハワード初のヨーロッパ撮影は、この「舗道」を見出し、そして人物の「歩行」を見出した。ロン・ハワードが、これほど見事に人物を歩かせたことは、かつてなかった(旅を描いた『ウィロー』でさえ!)。小さいけれども大きな発展である。

そのすばらしい歩みの、やがて行き着く先はルーブル美術館だ。バックに流れるワーグナー『タンホイザー序曲』を思わせる、ハンス・ジマーの荘重な音楽がすばらしい。奥底から何かが沸きあがってくるような、神秘と興奮が見事に表現されている。

 トム・ハンクスの知性と畏敬の入り混じった険しい表情もまたすばらしく、ついにルーブル美術館のピラミッドの中心にたどりついたトム・ハンクスを、カメラはロングで何度も平行にとらえた後、そのカメラ・アイは下、そして上から見つめようとする。

 ここで、ようやく現われるのはロン・ハワードの垂直のカメラ。まさに神の視線である。ロン・ハワードの神の目線のカメラは、上空から垂直90度に一気に下降し、床を突き抜け、ルーブルのピラミッドを通り行き、はるか地下へとどこまでも降りていく。そこにあるのが「聖杯」だ。

 『遥かなる大地へ』から顕在化し始めた、ロン・ハワードの垂直のカメラ=神の視線は、ここで初めて、文字通り「神」それ自体を発見するために用いられる。

 そして垂直のカメラから一転、平行のカメラ(すなわち真横から)で撮られるトム・ハンクスは、神の御前で厳粛にひざまづく。その後カメラはもう一度垂直に、夜空=天を映し出す。

 ロン・ハワードが開発した神の目線のカメラが、ロン・ハワード自身の脚色をほとんど許さぬ、ベストセラー小説の映画化という、極めて不自由な条件の中でこそ、むしろ初めてその本来の機能である「神」そのものを撮ったという偶然に、とにかく深い驚きを感じる。戦慄さえ覚えるほどだ。

 これこそ神の導きでなくて何だろうか。神は存在する。「映画」の神だ。

 ロン・ハワードの垂直のカメラは、この『ダ・ヴィンチ・コード』のラスト・シークエンスを撮るためにこそ、延々と準備されていたとしか思えないのだ。

 そしてさらに重要、かつ決定的なことを述べなければならない。私は「聖杯」に行き当たったトム・ハンクスを、カメラは平行の角度から何度も映し出すと言った。

 つまり「垂直のカメラ」は「聖杯」(神)へと下りていくが、「平行のカメラ」はひざまずくトム・ハンクス(人間)のショットもとらえて放さない。

 垂直のカメラの「縦」のラインと、平行のカメラの「横」のラインがクロスするとき、それは何を指し示すだろうか。

 それはもちろん、「十字架」ではないか。

 ロン・ハワードは神の視線である「垂直のカメラ」に対して、ここで初めて人間の視線である「平行のカメラ」をぶっつける。2つのカメラが十字架の形を作って、この映画はその厳粛な幕を閉じるのだ。

 

 『ダ・ヴィンチ・コード』は、必ずしもロン・ハワードにとってふさわしい企画ではなかったかもしれない。その結果も必ずしも幸福なものとはいえなかったかもしれない。

けれど、この映画において、彼の最も重要な演出術を行くべきところまで発展させ、ついには意味論的に集大成してしまったが故に、これも彼のマスターピースとすることに、私は何の躊躇もない。

 この『ダ・ヴィンチ・コード』ラスト5分こそ、至高のロン・ハワード、そしてロン・ハワードの究極である。

 そしてロン・ハワードがこれまで撮った全カットの中でも、ベストオブベストと言って、まったく差し支えない。

 繰り返すようだが、『ダ・ヴィンチ・コード』に否定的な感情を抱いた人も、このラスト5分だけでもいいから、再見されることを強く勧めたい。DVDではチャプター番号「24」である。

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[] 2007年秋時点に店頭に並べられた、角川文庫版『ダ・ヴィンチ・コード』の帯に示された情報による。

なお、角川書店オフィシャルHP内の「社史」によると、「2004年に単行本で大ヒットした「ダ・ヴィンチ・コード」の文庫版を310日に上・中・下巻で発売。単行本、文庫本合わせて1050万部という出版史上最大級のヒットに。」と記されている。

http://www.kadokawa.co.jp/company/history.html

 

[] 『ダ・ヴィンチ・コード』DVD特典映像「魅力的なキャストたち」における発言。

 

[] 2006年、森アーツセンターギャラリーにて。

 

[] ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』(越前敏弥・訳 角川文庫 2006 下巻P.2627)には、シオン修道会の歴代総長のリストが掲載されている。馴染み深い名前としてや、サンドロ・ボッティチェリ、アイザック・ニュートン、ヴィクトル・ユゴー、クロード・ドビュッシー、ジャン・コクトー、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチといったところ。

 

[] このラストシークエンスさえも、ダン・ブラウンの原作どおりなのだが、たただ一点、この手元を誤ってカミソリで頬を切ってしまい、流れた血が排水口に筋を引いて吸い込まれるのを見つめながら、「レッド・ライン」に思い至るという描写は原作にはない。優れて映画的なロン・ハワード/アキヴァ・ゴールズマンの脚色である。