5.『スプラッシュ』 (“Splash 1984)

 

 最初の大ヒット作。全米興行収入6260万ドル[]で、文句なし。これによってロン・ハワードは、にわかに最も次回作が期待される映画監督の1[]となる。

 この上なく幸福感に満ちあふれた映画であり、映画の至福とはこのことであると断言できる。個人的なことを書かせて頂くと、筆者は高校生当時『スプラッシュ』を見たことの熱い感動から、一生「映画」に付き合うことを決意し、今にいたるまで、「いい映画」のスタンダードとして、『スプラッシュ』を胸に抱き続けている。

特にラスト、泳げないはずのトム・ハンクスが、人魚のダリル・ハンナを追って海に飛び込み、ブルーが揺らめき、澄み渡る水中で2人が手と手をとりあうとき、あまりの喜びに胸が張り裂けそうになったのを今でも思い出す。ロン・ハワード作品を体験するための、最初の1本というなら、まずこれである。

 

この人魚と人間が恋をするという物語の原案は、ブライアン・グレイザーが、長年温めていたものだという。シナリオの第一稿は、「プレイボーイ」誌などの寄稿家、ブルース・ジェイ・フリードマンによる。当初はコメディ色の強いものだったが、そこにラブ・ストーリーの要素を加え、水中シーン過多のオリジナル脚本から陸上中心にするよう、『ラブ IN ニューヨーク』に引き続き、ローウェル・ガンツとババルー・マンデルが招かれる。

当初ハワードは、『フットルース』や『ミスター・マム』[]といった作品のオファーも受けており、『スプラッシュ』には慎重な態度をとっている。『ラブ IN ニューヨーク』と同じ、荒唐無稽なコメディが続くことを懸念したのだ。けれど、そこを口説き落としたのがグレイザーだった。

ただ悪いことには、またしてもこの企画にのってくる映画会社がなかったことだ。さらに不運が重なり、同時期には『ファニー・ガール』(ウィリアム・ワイラー 1969)、『追憶』(シドニー・ポラック 1973)などの大物プロデューサー、レイ・スタークにより、ハーバート・ロス監督、ロバート・タウン脚本、ウォーレン・ビーティとジェシカ・ラング主演という大物ぞろいのプロジェクトで、同じ人魚を題材にした映画が進行中だった。実績のないグレイザーとハワードのコンビでは勝ち目がなく、この時点で出資会社がないのは当然だった[]

しかし最終的に、ディズニーが名乗りをあげてくる。この頃、ディズニーの映画部門は低迷をきわめていた。アニメのヒット作はなく、実写作品も子ども向けばかりで、映画部門の建て直しは必須だった。そこにディズニーが『スプラッシュ』に目をつけたのである。

折しも1983年にディズニーでは、やや年齢の高い、ティーン以上の観客層をターゲットとした映画作りのために、タッチストーン・ピクチャーズを設立している。ノン・ディズニー・レーベルの子会社を作ることで、従来の「ディズニー映画」のイメージでは製作が難しい、大人向けの作品を、ここで受け持つようにしたのだ[]。設立第一弾として、何が何でもヒットのほしいディズニーにとって、『スプラッシュ』は絶好のタイミングで出た企画だったと言える。そのことは、出資元のない『スプラッシュ』にとってもラッキーだった。

 

 物語は20年前から始まる。家族旅行で遊覧船に乗っていた少年は、海の中に何かを感じ、それをめがけていきなり飛び込んでしまう。すると海中にいたのは、何と半裸の少女だった。おぼれながらも、その出会いに満面の笑顔の少年(これほどうれしそうな笑顔も他にない)。2人は手と手をとりあうが、船の乗組員がすぐに彼を救出してしまう。乗組員は少女に気づかない。去って行く少年を寂しそうに見送る少女。やがて彼女は水中に姿を消したかと思うと、一瞬の後に尾びれがパシャン! と水を叩く。少女は人魚だったのだ。

この水の音。『スプラッシュ』では、水の音を表すそのタイトル“Splash”の通り、映画の中でこれを何度も聞くことになる。そしてそのすばらしさを、青山真治はティム・バートンのポチャンは、ロン・ハワードのそれに比べるとやや落ちる[]と表現したことがある。ティム・バートンの『ビッグ・フィッシュ』(2003)を引き合いに出してのことだ。

 船上での陽気なロック演奏。その音楽に乗って一気に物語に没入させる。少年の兄はコインをばらまいては、それを拾うふりをして、女性のスカートの中をのぞくような悪ガキだ。それをきつくたしなめる両親。そんな中、少年はじっと水面を見つめている。破天荒な兄と、内省的な弟の性格の差が、早くも提示される。少年の見つめる水面が、太陽の光をいっぱいに乱反射させてみごとに美しい。少年の見つめる瞳と、水面のまばゆさを交互に見せる画面には、何か素敵な予感に満ちている。

 スピルバーグ作品における奇跡の「予感」が、夜空の満天の星の光と共にあるならば、ロン・ハワードは水面に反射する光と共にある。後述するが『スプラッシュ』は、スピルバーグの『E..』(1982)のバリエーションなのだ。

 このすばらしくテンポと手際のいいオープニングから、話は一気に20年後(現在)のニューヨークに飛ぶ。海中に落ちたことなどもう忘れている少年アラン(トム・ハンクス)は、兄フレディ(ジョン・キャンディ)と共に青果物の卸問屋を営んでいる。

 しかし、子供のときから十分に予見されていたように、仕事を取り仕切っているのは、もっぱらアランで、フレディは遊んでばかりのようだ。折しも失恋してヤケ酒を飲んだアランは、不思議な予感にかられてコッド岬へと向かう。少年の頃の旅行先である。

 ここでひょんな事故から海に落ちたアランは意識を失うが、ふと気がつくと海岸に打ち上げられている。そのとき物陰から彼の様子をうかがっている視線がある。やがて、ブロンドの美しい女性(ダリル・ハンナ)と、アランの視線と視線がぶつかりあう。

ここでも見つめ合う2人のアップをとらえた交互のショットが、すばらしくロマンチックだ。『スプラッシュ』は、2つの切り返しショットの映画でもある。見る者と見られるもの、または見返す者、この2つを交互につなげることによって、どんなマジックが起こるのかを描きつくしている。ロン・ハワードは切り返しショットのマスターだ。

ゴダールは『アワー・ミュージック』(2004)で、切り返しショットについて示すために、ハワード・ホークスの『ヒズ・ガール・フライデー』(1940)を引き合いに出したわけだが、ホークス以後この切り返しを最も巧みに使える映画作家は、ロン・ハワードである。

 そこで『スプラッシュ』の2人。トム・ハンクスは、君は誰なのかと、せわしくたずねるのだが、無言の切り返しを重ねるうちにいつしか言葉を失う。近づくダリル・ハンナ。ここでこの映画の決定的に見事な「事件」が起こる。この作品の成功のほとんどは、この出会いの場面の発明に負うと言ってもいい。近づき、言葉を交し合うより先に、なんとダリル・ハンナは彼を抱きしめ、キスをするのだ。驚く間もなくキスに答えるハンクス。見事に晴れ渡った快晴の空の下の、一切の恥じらいを捨てた熱いキス。これぞロマンチックの極みといっておかしくない。一瞬にして恋に落ちる出会いの場面として、これほど美しい演出はまたとない。そして観客も、この場面で直ちにダリル・ハンナに恋をするのである。

長いブロンドの髪を輝かせ、スラリと健康的な全裸の体。文字通り光り輝くダリル・ハンナは、ここにおいて映画史上最高のヒロインの1人となる。そして同時に後の大スター、トム・ハンクスにふさわしいデビューが飾られる。

キスの後、ハンナは体を離すと、慌ただしく海に向かって走っていく。あわてて引き止めようとするが、やがて彼女の姿は水中に入っていき見えなくなる。そして、さらにすばらしいショットが続く。ハンクスが画面こちらに向かって、不思議な出会いの驚きを口にすると、その肩越しはるか向こうの海面で、大きく尾びれが水面からはねあがり、またしてもパシャン! と水を打つ。その音に気づいてか気づかずか、再びハンクスは海の方に視線を向けるが、その時はもう海面はおだやかに戻っており、彼女の姿も消えている。

このように、物語に沿って魅力を述べていくとキリがないのだが、やがて彼女は全裸のままに自由の女神の前に再登場する。アランに再会するためである。突然の全裸の美女の出現に騒然となる群集。彼女はあっという間に警察につかまって、連行される。

 彼女の身元を引き受けることで、彼女が何者なのかがわからぬままに、アランは共同生活をはじめる。人間生活が何もわからぬ彼女は、いろいろと騒動をおこすのだが、テレビを繰り返し見るうちに言葉を覚え、自分をマジソンと名乗るようになる。

 アランとマジソンとの不思議な関係が続くが、実は人魚マジソンを海中で偶然みかけた生物学者コンブルース(ユージーン・レヴィ)に、生け捕りにしようとつけ狙われていた。公衆の面前で水をかけられ、みるみるうちに人間の足が人魚の尾びれに変わっていく。呆然とするアランと驚愕する群集。

 マジソンは直ちに学者チームにとらわれの身になり、過酷な実験材料となってしまう。さて、ここからは兄フレディ役のジョン・キャンディが、そのコメディアンとしての芸を見せに見せる。解放されたものの失意の弟アランを叱咤し、マジソン救出のための尻を叩く。そして弟のために一肌も二肌も脱いで、人魚救出作戦をリードするのだ。

 マジソンが人魚だと暴いた生物学者も、良心の呵責から彼らの助っ人となり、抱腹絶倒の救出劇が展開し、あとはもつかせぬハッピー・エンドに向けてまっしぐらである。

 

 ジョン・キャンディが演じた型破りの兄フレディの造形は、ちょうど『ラブ IN ニューヨーク』でマイケル・キートンが演じた破天荒な友人役と合致する。おとなしく礼儀正しい主人公と、ちょうど対比する形で話をひっぱっていく。『スプラッシュ』のトム・ハンクスや、『ラブ IN ニューヨーク』のヘンリー・ウィンクラーといった、まるで俳優時代のロン・ハワード自身が演じてもおかしくなさそうな、品行方正で清潔な人物を主人公とすることに、ハワード作品の品のよさが決定される。死体置場を舞台にした娼婦の物語や、全裸の人魚という、少々きわどい題材を無理なくファンタジーにしたてあげる。

 けれど、それだけではドラマが鈍重になり、笑いの要素がたりないので、煮えきらぬ主人公を後押しするめちゃくちゃな人物を配置する。しかしこれは、基本的なスラップスティック・コメディのバリエーションと言っていい。すなわち、普通の生活を望む男の生活に無法に乱入して来て、無意識的に彼をひっかきまわす女性という構図である。この「女性」の部分を、親友とか兄にすげ替えているわけだ。これこそロン・ハワードが、過去のアメリカ映画を巧みに継承している要素の一つである。

 また、同時に『スプラッシュ』は先述の通り『E..』に想を得た部分が多い。英語がわからない人魚は、言葉を覚えるのにテレビを見るわけだが、E..が英語を覚える媒体もテレビだった。そして、そのE..が言葉を覚えるのに、テレビで見た映画のひとつがジョン・フォード『静かなる男』(1952)のジョン・ウェインとモーリン・オハラの熱烈なキスシーンで、これがダリル・ハンナとトム・ハンクスの出会いのキスに、遠くエコーを投げかけてもいるのではないか。

 また、人間界の実験台としてE..が狙われたように人魚も拘束され、主人公とその仲間達の連携プレーで組織から逃げようとするという構成も共通している。しかし、何よりもE..との親和性を感じさせられるのは、マジソンの人間の足が、人魚の尾びれに変わっていく描写なのである。

 深夜にこっそり入浴しようとするマジソン。なぜなら、水をかけると人間の足は、人魚のそれに変わってしまうので、正体を隠すためアランの目をかすめなければならないのだ。浴槽にお湯をはり、海水と同じようにするため食塩を混ぜる。準備を整えて、たっぷりとした湯に身を沈ませるのだが、その時ちょうど、まるでしおれた花が再び花を開かせるかのように、尾びれが広がっていく。この見事なイメージを見るたび、E..が超能力でしおれた花を蘇生していたのを思い出す。人魚にとって尾びれとは、花にも似たものなのだ。

 

 先に触れた切り返しショットの効果に話を戻すと、『スプラッシュ』のトム・ハンクスとダリル・ハンナのコミュニケーションは、いつでも規則正しい構図・反構図の編集で描かれていく。これはもちろん、この2人との関係にとどまらず、ハンクスとジョン・キャンディの対話の場面でも同じである。

特に恋人が人魚であったことを知って、彼女との恋が破れて意気消沈する弟アランを、兄のフレディが喝を入れる対話の場面など、ジョン・キャンディによる意外なまでにエレガントな演技の最大の見せ場でもあるが、これが見事なタイミングでつなげられている。セリフを言う側とそれを聞く側。そして相手のセリフを聞くことによって感情が動いていく表情を、心憎いばかりに切り返しでおさえている。

 この構図・反構図の図式がややこわれるシーンが1つだけある。それは結婚を持ちかけたものの、すげなくマジソンに受け流されたアランが不機嫌なままに口論するスケート場のシーンである。自分のことを何も教えてくれないと不平を並べるアランとマジソンの関係が、初めてほつれていくとき、カメラは2人を同時にフレームに収めつつ、どちらかが画面から出たり入ったりするように、会話を撮っている。

 2人の関係のバランスがこわれるところである、そんな場面のために、スケートリンクという設定を用意するハワードと脚本チームの、周到な演出に驚かされる。スケート靴をはいて氷上を滑っているのだから、当然ながら違和感なくスムーズに画面への出入りが可能なわけだ。

 そして、2人を映しながらも、一切の切り返しを必要としない場面が、ラストシークエンスに訪れる。マジソンを追って海に飛び込んだアランが、海中で手をつなぎ合いながら、海中奥へ奥へと向かっていく。ここに至って、もはやトム・ハンクスとダリル・ハンナを交互のショットで写すようなことはしなくていい。(未来に向かって)同じ方向を見つめるカップルは、ツーショットでおさえさえすればよいのである。こうして構図・反構図のドラマは完結する。内容的にも形式的にも、すばらしく構成された作品であり、見事な傑作である[]

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【注釈】

[] 数字的データはhttp://www.the-numbers.com/people/directors/RHOWA.htmlによる。

 

[] 『スプラッシュ』がリリースされた1984年は、ロン・ハワードの他、次の世代のハリウッドを担う、もう2人が最初のブレイク作を生んだ記念すべき年である。1つはロバート・ゼメキスの『ロマンシング・ストーン』であり、もう1つはジェームズ・キャメロンの『ターミネーター』。ゼメキスは翌年の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で、さらにその才能を開花させ、『フォレスト・ガンプ/一期一会』(1994)で作品賞・監督賞他、オスカーを独占する。キャメロンも同様に映画史上最大のヒット作『タイタニック』(1997)を生み、やはりオスカーを独占。

 

[] 結局『フットルース』は、『スプラッシュ』と同じ1984年に、ハーバート・ロス監督、ケヴィン・ベーコン主演で公開される。『フラッシュ・ダンス』、『ステイン・アライブ』などと同様、この頃ブームとなり、進化してきたMTVによるヒット曲のプロモーション・ビデオとの相乗効果を伴い、サントラともども大ヒットとなる。

また、『Mrマム』は1983年にスタン・ドラゴッティ監督、マイケル・キートン主演で製作され、これもヒットを記録する。

 

[] 作品成立上のエピソードは Gray前掲書 P.100107および、Kramer前掲書P.5255を参照した。

 

[] マイケル・アイズナー『ディズニー・ドリームの発想 上』(布施由紀子・訳 徳間書店 2000

「ウォルトの死後ディズニー社は、映画業界では一歩も二歩も遅れをとっていた。あまりに時流に合っていなかったため、有能な脚本家や監督、プロデューサー、俳優を惹きつけるのがむずかしくなってしまったのだ。ウォルトを失ったいま、彼に代わってできることと言えば、新たに有能な人材を見つけて育て、ほかの映画制作会社並みの報酬を払い、彼らが魅力を感じる作品を思いどおりに撮るチャンスを与えてやることだけだ。そうした試みに着手するため、一九八三年、ロン・ミラーがタッチストーン・レーベルを作り、ディズニー社ははじめて、家族向け、子ども向け一本槍だった従来の方針とは違った路線で映画を製作できるようになったのだ。」(同書 P.258

引用文中のロン・ミラーは当時のディズニーのCOO(最高執行責任者)。これを受けて、1984年にCEO(最高経営責任者)に就任したマイケル・アイズナー傘下で、タッチストーンは『ビバリーヒルズ・バム』(ポール・マザースキー 1985)、『スリーメン&ベイビー』(レナード・ニモイ 1987)、『グッドモーニング・ベトナム』(バリー・レヴィンソン1987)、『カクテル』(ロジャー・ドナルドソン 1988)といった大ヒットを連発。完全に軌道に乗せることに成功する。

 

[] Intercommunication2004年夏号(No.49)青山真治×蓮實重彦「批評が消えゆく世界の中で―映画・運動・顔」より。

「『ビッグ・フィッシュ』で沼の魚が「ポチャン」とやる問いの「ポチャン」の在り方を、ロン・ハワードの「ポチャン」の在り方を比べてしまったんですね。するとこれは蓮實先生のせいとしか言いようがないんですけど、あの『スプラッシュ』の「ポチャン」と比べるとやや落ちる、という見方になってしまうわけです」(青山真治)

 

[] 『スプラッシュ』は、1984年度のアカデミー賞では脚本賞にノミネートされ、ゴールデングローブ賞ではドラマ・ミュージカル部門の作品賞にノミネートされる。