6.『コクーン』 (Cocoon 1985

 

 前作『スプラッシュ』の大成功を受けて、ロン・ハワードの次回作は容易に決まる。今度は自分の企画を売り込むのではなく、依頼を受けてのことである。リチャード・ザナック、リリー・フィニー・ザナック、デビッド・ブラウンのプロデューサー・チームが20世紀フォックスのために持ち込んだ作品、『コクーン』だ。

 『コクーン』は、もともとロバート・ゼメキスが監督する予定で進んでいたのが、ゼメキスが『ロマンシング・ストーン/秘法の谷』(1984)[]に着手したために、ハワードにお鉢が回ってきたという。フォックスはここ数年、大きなヒット作が少なく、どうしても大当たりがほしかった。そんな折に『スプラッシュ』で名を上げ、予算とスケジュールを確実に守る、手堅い仕事ぶりが聞こえ始めていたハワードに、白羽の矢が立ったのだった。

 同時期、ハワードは『バニシング IN TURBO』以来となる、ロジャー・コーマン率いるニューワールド・ピクチャーのために、捕鯨に抵抗するグリーンピースの活動を描く、低予算スリラーを準備中。しかし百万ドルの演出料、何より千8百万ドルという、これまでの自分の監督作として最大の予算を任されたことから、『コクーン』に鞍替えをする。

 ただ、ハワードとしてはいくつかの懸念があった。それは、友好的な宇宙人との遭遇を描く『コクーン』の内容が、あまりにもスピルバーグの『未知との遭遇』(1977)と『E..』(1982)を連想させすぎるということ。すなわち、スピルバーグの記録的ヒット作との比較に耐えるほど、自分は実績を積んでいないと感じていたのである。そして、海が重要な舞台装置になることから、前作『スプラッシュ』との二番煎じを心配したのだ。

 それでもハワードが『コクーン』を引き受けたのは、トム・ベネデクによる脚本に興味を感じたことである。というのは、老人たちが中心となるドラマという意味で、ハワードが妻シェリルと数年前に共同で書き上げた“Old Friends”(『旧友』)というシナリオとの共通項があったためだ。結局このシナリオは出資者を見つけることができず、映画化されることなく終わったが、ハワードはその内容を生かせるのではないかと考えた。そこで、『コクーン』のオリジナル脚本に、より希望的な要素を加え、老いのテーマを強調することで、自分のビジョンに近づけたのだ。フォックスもそれを受け入れ、製作はスタートする[]

 結果的に『コクーン』は『スプラッシュ』をさらに超える、7千6百万ドルの全米興収[]をあげる大ヒットとなった。ロン・ハワード、いよいよスター監督の仲間入りである。

 

 舞台はマイアミ。物語は、観光客の沖釣りのために貸し船をして日銭を稼ぐ青年ジャック(スティーブ・グッティンバーグ)が、一匹も釣れなかったことを理由に、乗船客から料金を取り損ねて腐っているところに、4人の人物が好条件で数日間、船を借り切りたいと申し出るところから始まる。

 渡りに船とばかりに、ジャックは申し出を受ける。その4人は年配のリーダー格のウォルター(ブライアン・デネヒー)と、ものすごい美女キティ(ターニー・ウェルチ)と2人の若い男の組み合わせである。ジャックの操舵で4人は翌日から沖合いに出、表面が海草や貝類にびっしり覆われた繭状のもの(コクーン)を、連日海底から引き上げる。

 一方、この海岸に近い老人ホームでは、3人のイタズラ好きの老人が、近くの豪邸の室内プールにこっそりしのびこんで、水泳(といっても、ただ浮き輪で浮かんでいるだけだ)をするのを楽しみにしていた。

 ところがある日、プールにしのびこむとウォルターたちが海底から引き上げた繭が、プールにつかっている。当初は気にすることもなかったが、しかしそのプールで泳ぐと、みるみる身体が若返り、ダイブもできれば、なんとその夜は性生活まで営めてしまったのだ。

 繭を引き上げた4人は、実はアンタレス星人で、1万年前に地球を訪れていた仲間が、アトランティス大陸の沈没と共に海底に没し、それを引き上げにきたのである。プールの水には生命エネルギーが吹き込まれていて、繭の中で1万年の間眠り続けていた仲間達を覚醒させ、故郷に連れて帰るのが彼らの目的だったのだ。

 やがて美女キティに恋心を募らせたジャックが、つい出来心で船室の陰から彼女の着替えを覗き見してしまう。そのとき、ジャックは彼らが宇宙人であることを知る。一方、連日プールに忍び込んでいた老人3人組も、ある日逃げ損ねて物陰に隠れていると、折しも繭の引き上げから帰って来たウォルターたちの正体を知ってしまう。おおらかな4人の宇宙人は、バレたものは仕方がないとばかりに、老人たちとの共存をはじめる。

 しかしながら、若返り効果にハメをはずしすぎた3人の様子から、プールの秘密がホームの老人たち全員の知るところとなり、老人たちがプールに殺到した。その結果、プールの生命力がすべて吸収されてしまい、繭の中のアンタレス星人は死んでしまう。ウォルターは怒るが、逆に老人たちにアンタレス星への招待を申し出る。そこには、不老不死の世界が待っているから、と(おそらく、映画史上最も地球人に対して寛大な宇宙人である)・・・。

 

 集団劇を好むロン・ハワードの、この作品は最初の本格的な試みである。老人ホームを舞台の1つとするので、多彩なキャラクターの多彩なエピソードを描き分ける必要がある。そして、この映画のもう一方の軸として、美貌の宇宙人キティに恋心のようなものを描くジャックの存在を置く。

残念ながらこの映画は、そこの部分で集団劇としての作りに欠点を残している。それは、このスティーブ・グッテンバーグ扮するところのジャックの動かし方がうまくいかなかったことだ。それによって、集団劇としての構成が、「老人ホームの側」と「ジャックと宇宙人たちの側」という感じでぱっくりと2つに分かれてしまう。この2つのグループがうまく接続しないのだ。

 たとえば、老人ホームのリーダー格であるベン(ウィルフォード・ブリムリー)には、友だち作りがヘタで、おそらくは学校ではいじめられており、両親の離婚で母親に育てられている孫デイビッド(オリバー・バレット)がいる。この少年は事あるごとに、老人ホームに来て、居心地のいいおじいちゃんと一緒にいたがる甘えん坊だ。

 この少年と、気のいい若者であるジャックが心を通わせ、少年の成長をそっと手助けするような挿話がひとつでもあれば、話はうまく接続するはずなのだ。たとえば不在の父親の代わりのような存在として。

ところが、このジャックは老人たちと一切の交流をもたない。感じがいいという以外には、ほとんど人格が与えられておらず、目が覚めるように美しいターニー・ウェルチの相手役としてのバランスをとるために、ハンサムな青年を配置したにすぎないようにも見える。

 あえて言えばその目的は、異星人とのセックスという「売り」の場面を描くためである。それは『コクーン』というファンタジー作品において、派手なSFXの見せ場を作るための方便だ。なるほど確かに幻想的で、興味をそそるシーンではあるが、老いのはかなさ、哀しみといった、この映画本来のテーマを語るうえでは、さほど重要なシーンではない(ただし映画の予告編に使うにはもってこいの場面ではある)。

 ロン・ハワードは、まだ『コクーン』の段階では、自分自身の分身のようなキャラクターを描かずにはいられないように見える。すなわち、俳優としての自分自身が演じてもおかしくないような、精神的に安定したお人好しの好青年という役どころである。『ラブINニューヨーク』ではヘンリー・ウィンクラーであり、『スプラッシュ』ではトム・ハンクスだ。

けれど、それらの作品では、その毒気のなさを補強し、ドラマの平板化を避けるために、マイケル・キートンやジョン・キャンディといったクレイジーな俳優を相方に据えていた。しかし『コクーン』には、グッテンバーグに対応するマイケル・キートン役が不在なのである。その意味では、この作品で飛躍的に多くなった登場人物をまとめるのに、ロン・ハワードの手綱はまだ未成熟だったといえるのかもしれない。

 

 けれど、そうした部分は後から考えれば感じることであり、見ている間は良質な物語に心を奪われる。『コクーン』が描く人生末期の姿は、やはり何かの真実を伝えている。

 中でも、老人たちのリーダー的存在ベン(ウィルフォード・ブリムリー)は、運転免許更新のための視力検査を受けるが、老眼で検査に通らない。(検査用マークがまるで見えない負け惜しみに怒鳴る、「交通標識はもっとでかいぞ!」というセリフが、ユーモアの中に哀しさがにじむ)免許停止になったので、マイカーを片付けようと、孫のデイビッドと共に車を白いシートで覆う、すばらしいシーンがある。もう車に乗れないから必要ないのだ。

こういうしみじみとした場面を演出するとき、ロン・ハワードは最もよい仕事をする。免許更新できなかったことをぼやきつつも、友だちも作らず、祖父母のところにばかり入り浸る孫を優しくたしなめながらの、祖父と孫とのどこか哀愁ただよう共同作業。

この場面での車の白シートを、ポーリーン・ケイルは、「屍衣のよう」[]と見事に言い当てている。このシーンは、ずっとバストショットで撮られているのだが、作業が終ると、白いシートですっぽりと覆われた車全体を、カメラは斜め上から見下ろすように撮る。風を受けてふくらむシートに包まれた車は、間違いなく棺桶を連想させるように見せている。重たく切ない、けれどさりげない、見事なワンカットである。

 『コクーン』という作品は、多くの場合、若返った老人たちが元気いっぱいにはしゃぐシーンによって記憶されている。彼らが飛び込み台から勢いよくプールにジャンプするシーンであり、何より名高いのはドン・アメチーによるディスコでのブレイク・ダンスだ。誰が見たってスタンド・インであることは明らかなのだが、その前後のアメチー[]の笑顔があまりにも爽やかなので、ついそのことを忘れそうになる。

 けれど、そうした楽天的なシーンを輝かせているのは、やはり先述の、車に白シートをかけるような哀愁シーンなのである。老人ホームの中でも、決して若返りプールに入ろうとしなかった頑固者のバーニー(ジャック・ギルフォード)と、その妻ローズ(ヘルタ・ウェア)の一挿話は、ひときわ美しい。

 就寝前、ベッドに横になっている妻ローズの傍らで、静かに本を読んで聞かせるバーニー。いつしか話題は思い出話に変わっており、互いへの愛情に満ちあふれた暖かな時間が流れる。やがてバーニーは、もうこれ以上は疲れるからしゃべるなとばかりに、「薬の時間だよ」と化粧室に立ち、いくつかの薬ビンをとりに行くが、戻って来るとローズはそのまま息絶えている。呆然とするバーニー。やがて彼の目に涙があふれてくると、それまでのシーンで、やや遠くから遠慮がちに2人を写していたカメラは、ゆっくりと彼らの方に近づいていく。まるで天使のようなカメラだ。ロン・ハワードのカメラは、ここぞという場面では、絶対に間違いのない動きをする。この「天使のカメラ」は、後に『遥かなる大地へ』のラストで、死にかけたトム・クルーズがまた息を吹き返すシーンなどで、見ることができるだろう。

そのバーニーが、それまでは決して入ろうとしなかった若返りプールに、ローズを抱きかかえて行き、目を開けぬローズに、生命の水をかけ続ける。ちょうどミケランジェロのピエタ像を思わせるそのポーズに、ロン・ハワードの確かな感性を感じさせられる。

 こうしたハワードのセンスがさらに輝くのは、宇宙行きを決意したベンが、孫のデイビッドに本当の事情を説明できぬままに、別れを告げるシーンだ。晴天の空の下、2人は小川に膝まで入って、投げ釣りをしている。竿は1本。ときどき祖父のベンが糸を巻き取っては仕掛けを直し、水に投げ込み、その竿を孫に持たせてやるのである。そのくりかえし。

 伴奏音楽の流れぬこの美しい場面は、小川のせせらぎと野鳥の鳴き声だけが背景に聞こえてくる。この場面はどうも小津安二郎『父ありき』(1942)の、名高い父子の釣りシーンを思い出さずにはいられないが、ロン・ハワードも小津を見ているのだろうか、と少し楽しい空想もまたありだろう。

また、こうしたどこか気まずい会話をする場合は、互いに向き合わずに、並んで同じ方向を見ながら話をするという、確かなセオリー。他にもベンと妻のメアリー(モーリン・スタプルトン[])が、孫と娘に(最後であることを隠しつつ)別れを告げ、車を走らせるところ。思わず涙ぐむ助手席のメアリーに、「迷っているか?」と訊ねる運転席のベン。互いにどんな言葉を口にすればよいかわからない。であるが故に彼らは並び合っている。

 気まずい会話は向き合っては行われないという点ではもうひとつ。生来のプレイボーイ癖が、若返ったとたんにぶり返し、妻から別居を言い渡されたジョー(ヒューム・クローニン)が、宇宙行きの前に許しを求めて、妻アルマ(ジェシカ・タンディ)の部屋を訪れる場面である。ジョーとアルマはソファに横に並んで座って、もう一度心を通わせあうのだ。この場面は、次に続くドン・アメチーとグウェン・バートンとの熟年結婚式のシーンで、2人がぴったりと向かい合って顔を見合わせているのと、見事な対照を示す。

 横に並ぶということは、横目で相手の顔を見なければならないということだ。感情を押し隠したような複雑な表情と雰囲気を、無理なく描くことができる最良の人物配置なのだ。まだ背が低い、孫のデイビッドの場合は、そこに相手を見上げるという角度が加わって、一層複雑な表情を見せてくれる。

 

このように、『コクーン』は必ずしもすべてがうまくいった訳ではないが、欠点を補って余りある魅力にあふれている。老人たちと、彼らが宇宙に行くことを集団自殺と思い込んだ警察隊による、スピード感あふれる水上チェイス。その果てに、壮大な宇宙船降臨[]が待つ物語の推進力は、息をもつかせぬアクション展開だ。ロン・ハワードがいかにその類似性を懸念したといっても、この展開はもちろん『E..』や『未知との遭遇』のバリエーションである。(それはもちろん、激しいチェイスの後の新しい未来へという意味で、既に前作『スプラッシュ』が、試みたことであった)けれど観客は、この大団円を満足感と共に納得するだろう。

これらに関して、畑中佳樹は『コクーン』の魅力を、次のような見事な文章で表現している。

「星空に夢を馳せるのは子供の特権であると、理由もなく決めつけてしまったジョージ・ルーカスやスピルバーグに対する、これはロン・ハワードの反論なのである。少年は夢など見ていないで、現世に立ち向かっていけばよいのだ。いちばん切実に星に願いをかけているのは、その存在理由をすでに現世に使い果たされてしまった老人たちではないのか。」[]

この映画が、なぜ老人たちを中心に据えたのかを説明し、ロン・ハワードの製作意図を理解するのに、これほど的確な指摘は他にない。『E..』のラストでは、宇宙人と少年はお別れを言わねばならない。けれど、『コクーン』では共に旅立っていく。それは、地球という現世においては、明日のない老人たちだからこそ許される展開なのである[]

『コクーン』の成功によって、コメディからシリアス・ドラマ、そしてSFXまでを自在に駆使できることを証明し、監督ロン・ハワードは、映画界でのその地位を完全に確立する。

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【注釈】

[] そして、『コクーン』がリリースされた1985年の最大ヒット作は、ロバート・ゼメキスによる『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(2億1千万ドル)である。なお、『ロマンシング・ストーン/秘法の谷』は前年1984年の20世紀FOXの最大ヒット作品となった(7千5百万ドル)。これは同年同時期に公開された『スプラッシュ』(6千3百万ドル)を超える数字である(数値は注釈3のサイト参照)。

なお、1984年はロン・ハワード、ロバート・ゼメキス、ジェームズ・キャメロン(『ターミネーター』)という、後のハリウッドを牽引する3人が、そろって出世作を発表した、記念すべき年である。

 

[] 作品成立における情報は、GrayおよびKramerによる前掲書を参照した。

 

[] http://www.the-numbers.com/people/directors/RHOWA.html のデータによる。

 

[] ポーリーン・ケイル『今夜も映画で眠れない』(柴田京子・訳 東京書籍 1992

「運転免許更新のための視力検査に落ちた彼が白い防水シートを車にかけると、それが屍衣のように、これを最後と風にふくらむ。」(P.19

ただし、ケイルは『コクーン』そのものについては、「人生の押し売り」と切り捨てている。

 

[] 『コクーン』の演技によって、ドン・アメチーはこの年のアカデミー助演男優賞を獲得。77歳である。

 

[] オスカーはドン・アメチーの手に渡ったが、ベンとメアリーを演じたウィルフォード・ブリムリーとモーリン・スタプルトンの、知見と寛容を体現するかのような、魅力的な老夫婦像は忘れがたい印象を残す。

 

[] 特殊効果を担当したジョージ・ルーカス率いるILMは、『コクーン』でアカデミー視覚効果賞受賞。

 

[] 畑中佳樹『2000年のフィルムランナー』(フィルムアート社 1987P.277

 

[] 1988年には『コクーン2 遥かなる地球』(“Cocoon The Return”)という続編が製作される。製作は同じく、リチャード・ザナック、リリー・フィニー・ザナック、デビッド・ブラウン。出演者もブライアン・デネヒーを除き、アメチー、グッテンバーグ、ウェルチ、ブリムリー、クローニン、ステイプルトンなど、ほぼ全員が復活。ただし、ロン・ハワードはノータッチ。

地球の海底に残してきたコクーンが、海底地震で危険な状態になったため、ウォルターを除く3人のアンタレス星人が再び地球に行くことになる。そのついでに、アンタレス星にわたった老人たちが、地球に里帰りするという、続編にありがちな、いささか強引な設定である。

監督はダニエル・ペトリーに変わり、興行的にも失敗作といってよいが、「人の優しさ」という点に注力して、『コクーン』との関連性抜きに、それなりに楽しめる作品になっている。