8.『ウィロー』Willow 1988

 

 すでに劇場作品として5本を製作した、ここまでのキャリアを見る限り、ロン・ハワードは、人魚やエイリアンこそ登場するものの、どちらかというとやはり、洒落たダイアログを中心にした、ウェルメイドなライト・コメディを得意とする監督だ。大予算を投入した『コクーン』も、派手なSFXよりは、やはりしみじみとした人間関係に、感動の中心をおいた作品だった。その意味でロン・ハワードはやはり、本人もその愛情をかくさぬ[1]、フランク・キャプラの衣鉢を継いだ監督といえるだろう。キャプラもやはり、よく練られた脚本を華麗な演出術で映像化するとともに、優れた俳優から最良の演技を引き出すことで、観客に深い満足を与えるのを得意とした監督だ。

 そんなロン・ハワードは、ここで監督としてのビッグ・ステップを踏む。痛快無比のアクション・アドベンチャー超大作である。プロデュースはジョージ・ルーカス。求められるのは、ダイアログによる場面展開を中心に、登場人物に密着した、親密なカメラアイではなく、躍動する画面と息もつかせぬ物語展開だ。SFXもふんだんに使った、この大型娯楽作の演出に成功して、ロン・ハワードの監督術はいよいよ成熟の域に達するはずである。

 『ガン・ホー』の後、ハワードは自らの手による、ファンタジー作品の企画を練っていたという[2]。それがどのような内容だったかは知る由もないが、おそらくは『スプラッシュ』や『コクーン』の路線を踏襲したものではなかったろうか。いずれにせよ、その相談のためにハワードはジョージ・ルーカスを訪問している。1985年のことだ。ルーカスとは、『アメリカン・グラフィティ』以来の間柄である。しかしハワードにとっては残念なことに、その企画は実現しなかった。けれどこのとき逆にルーカスの方から、別の企画をハワードに持ちかけてきたという。

 それはルーカスが10年来温めていた企画で(もしそれが事実なら『スター・ウォーズ』(1977)以前だ)、小さな魔法使いをヒーローとした冒険映画だった。ハワードは例によって、他人の企画を扱うことに躊躇する[3]が、他でもないルーカスとILMとの仕事だというのは、重要な要素だった。おそらくハワードは、ここで自分の情熱よりも、ルーカスの仕事から得られる経験と、必然的についてくるキャリアを選んだのではないだろうか。

そしてルーカスの構想を聞いて、幼い頃、父クリントが彼に語り聞かせた、「小さなティム(“Tiny Tim”)」の物語を思い出しもした。「小さなティム」とは、魔法のつまようじをあやつる小人のことだそうで、その頃の記憶が彼の創作欲をかきたてた。また、そろそろ物心ついてきた娘、ブライス[4]にふさわしいファンタジー映画を用意してあげたい気持ちもあった。こうしてルーカスとのコラボレーションの元に、『ウィロー』の製作がスタートする。

 

 次から次へと見せ場がやってくる、いわゆるジェット・コースター・ムービーである。メンデルスゾーンの交響曲第4番『イタリア』を思わせる、軽快でドライブ感たっぷりの「ウィローのテーマ」が鳴り響くと、否応なしに胸が高まってくる。この印象的な音楽を書いたのはジェームズ・ホーナー[5]。ロン・ハワードとは『コクーン』で仕事をして以来、この後も何度もコンビを組むことになる。『ウィロー』の魅力の多くの部分は、この覚えやすく口ずさみやすいテーマ曲にも負っているはずだ。

 『ラブINニューヨーク』の挿入歌として作られた、キャロル=ベイヤー・セイガー/バート・バカラックによる「愛のハーモニー」が、映画とは無関係に後に大ヒット[6]となりはしたが、「ウィロー」のテーマは、ロン・ハワード作品として初めて、映画に直結したテーマ曲らしいテーマ曲である。それはもちろん、ジョン・ウィリアムズによる「スター・ウォーズ」のテーマや「レイダース・マーチ」のように、その決定的な作品には誰の耳にも入るテーマ曲を取り入れようとするルーカスの方針でもあるだろう。その音楽が聴こえてくると、とにかく映画が走り出す。これはルーカスが関わる映画の最大の美点のひとつだ。

 

 物語は、いかにもジョージ・ルーカスらしく、かつてどこかにあったような設定を総動員して作られている。

 悪の女王バヴモルダ(ジーン・マーシュ)は、権力をほしいままにしてきたが、ある子どもが彼女を殺すであろうという予言を受ける。そこで女王は、生まれてくる赤ん坊全員を今のうちに殺してしまおうと兵を出すが、その「希望の子ども」エローラは、助産婦がきわどいところで、川に流して命を救う。

 そして、流された子どもをたまたま発見したのが、ウィロー(ワーウィック・デイビス)だったというわけである。なんだか聖書の十戒物語のようだ。

 このウィローはというと、魔法使いのマスターになるための修行の身。思いがけず川辺で拾った人間の子どもエローラを、最初に出会った人間(ダイキニ族)に渡さねばならないとの長老の命を受けて、旅に出る。家族とのしばしの別れ。

 小人のネルウィン族で、仲間と共に旅をするウィローの姿は、JRR・トールキン『指輪物語』[7]と容易にイメージが結びつく。まるでホビット族のフロドそのものだ。これは『指輪物語』が、何かを求める旅ではなく、「指輪」を返しに行く物語であるのと同様、『ウィロー』が、人間の子どもを人間に返しに行く、返却の旅だという点にも求められる。もちろん、旅立ちから故郷への帰還の物語であるということも含めて。

そして何より、精錬潔癖な人柄で、魔法使いとなるべく研鑽を積んでいるという設定は、ルーカス自らが創造した、『スター・ウォーズ』のルーク・スカイウォーカー(マーク・ハミル)そのものだ。ウィローはルークのように、ジェダイ・マスターへの修行をしているものだと考えれば、話はとても見えやすい。

 ここからの『ウィロー』の設定は、どんどん『スター・ウォーズ』に近づいていく。ウィローが最初に出会う人間は、檻に入れられ宙吊りになっているマッドマーティガン(ヴァル・キルマー)である。こうしてこの2人のコンビによる冒険が開始する。

この、口は悪く粗野な命知らずだが、とにかく腕はたつ2枚目というマッドマーティガンは、やはり『スター・ウォーズ』のハン・ソロ船長(ハリソン・フォード)の設定にかぶっていく。借金取りのジャバ・ザ・ハットに追われる、いわばおたずね者のソロ船長の境遇は、檻に囚われのマッドマーティガンという状況にとてもよく似ている。

 また冒険の過程で、悪の女王バヴモルダの一人娘ソーシャ(ジョアンヌ・ウォーリー)とマッドマーティガンは、恋に落ちてしまう。ヒロインとなるソーシャは、若くて美貌ながらも、軍を率いて自ら戦闘も辞さない男勝りだが、この性格設定もレイア・オーガナ姫(キャリー・フィッシャー)と酷似する。そして互いの勝気から、最初は反目しながらも、最終的には結ばれるあたりもハン・ソロとレイア姫そっくりであることは言うまでもない。

 ウィローに付き従う、おしゃべりな2人の妖精もしっかり登場していて、これも『スター・ウォーズ』の2体のロボットC-3POとR2-D2のバリエーションである。ということは、黒澤明の『隠し砦の三悪人』(1958)も連想させられるということだ。

 ウィローを演じる、青い瞳が印象的なワーウィック・デイビスの大きな目と、ルーク・スカイウォーカーを演じるマーク・ハミルの目は実によく似ている。そして、マッドマーティガンのヴァル・キルマーの細い目と、ハン・ソロ役のハリソン・フォードの目も、同じタイプの目の形であることは、単に偶然といえるのだろうか。

 ルーカスにあっては、未来への可能性にあふれた純真なキャラクターは大きな目。すれっからしのタフなヒーローは細い目というのが鉄則のようである。そういえば『アメリカン・グラフィティ』のリチャード・ドレイファスも、同タイプの大きな目の持ち主だ。

 たった1つだけ違うことがあって、『スター・ウォーズ』のルークは家族を失うことから物語が始まるが、ウィローは愛する妻子にめぐまれた暖かい家庭の父親である。ウィローには家族間の葛藤は存在せず、そこだけさかさまになっている。すなわち、そんなルーカス的なキャラクター構造の中に、「我が家の楽園」に帰還することという、「家族」の物語が導入されることによって、ロン・ハワードの個性が見事に加わっていく。その意味で『ウィロー』は、ルーカスとハワードによる真のコラボレーションなのである。

 

 長い旅とアクションの果てには、ウィローの一世一代の術によって、封印を解かれた善の魔女フィン・ラゼル(パトリシア・ヘイズ)と、悪の女王バヴモルダの魔法一騎打ちとなる。しかしこの善と悪との対決ということよりも、特記したいのは、ウィローたちが守り抜こうとしたエローラは、最終的にはマッドマーティガンと、彼と結ばれるソーシャに引き取られ、育てられることになるということだ。この、実の父母ではない男女によって育てられる赤ん坊。これは、『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』(2005)のラストにおいて誕生するルーク(とレイア)が、実の父母以外の者たちによって育てられるだろうことを、遠く予告している。

 この実の父母以外に育てられる子どもというテーマは、ロン・ハワード自身はまだ一度も描いていない。ハワードにおいて家族とは、常に血の絆によって結ばれているのである。いや、むしろ後の『ミッシング』においても見られるとおり、血縁のない父親にあたる存在は排除されさえするだろう(開始早々にネイティブ・アメリカンに惨殺されるアーロン・エッカート)。だから、このあたりはやはりルーカスの創造にかかるのだろうが、だからというわけではないが、『ウィロー』最大の弱点は、このエローラという赤ん坊が、物語において何の役にもたっていないということだ。

 明らかに別撮りしてつなげたのが見え見えの赤ん坊の表情を、ときどき思い出したようにインサートしたりはするものの、作劇上どう見てもロン・ハワードがこの子どもに興味を持っているとは思えない。というより、話そのものは徹底して魔法使いとしてのウィローの成長と帰還に焦点があたっていて、エロールという存在自体はかなりどうでもいいものになっている。というか、持て余している気配さえ感じられる。その点はやはり悔やまれるところだ。子ども、ことに親のいない子の演出を好む、たとえばスピルバーグのような演出家なら、もっとこのエロールというキャラクターにスポットをあてた可能性はある(もっともスピルバーグは乳幼児を映画に登場させたことがないので、無意味な連想なのだが)。

 

 だが、そこを大目にみるならば、『ウィロー』はおよそ隙のない作品に仕上がっている。とにかくどの場面で、何をどのように見せるかというバランスがほとんど完璧なのだ。エピソードの豊富な映画だから当然ともいえるのだが、印象に残る場面が実に多い。

 たとえば最初の方の村祭りのシーンで、ウィローが人々を集めてマジックをやってみせるシーンがある。中空にした木の洞を自分の腕に通して、その上から火のついた矢を腕に抜き刺しするという手品。作品全体の中では何ということもないシークエンスではあるが、腕に火矢を通すときの、サスペンス感たっぷりのウィローの顔つきや、成功して「どんなもんだ」と言わんばかりの顔といった表情を、実に生き生きとカメラは収めている。そして、それを見て笑い転げるウィローの幼い娘や、驚く村人ひとりひとりの顔。ウィローに批判的な村の意地悪親父も、この時ばかりは「なかなかやるわい」といった顔つきをして見せる。その後に続く、布にくるんだ子豚を消してしまうマジックでも同様で(このマジックはラストの闘いの伏線にもなっている)、次から次へと現れるたくさんの表情のドラマが、ここに組み立てられている。

 この陽気な場面は直後に暗転し、イノシシに似た獣の襲来によって、村はパニックに陥るのだが、ここでもまた泣き叫ぶ娘や村人の顔を確実におさえていく。パニックシーンだから、カットは短くカメラも激しく動くが、表情をおさめる一瞬だけはカメラはぴたりと静止する。躍動と一瞬の静止。ロン・ハワード独特の映画術である。何か特殊なことをやっているわけではないのに、なぜだか記憶に残ってしまう。だからこそロン・ハワードの映画は語りにくいのだが、その訳はこうした細かさであるといえるだろう。

 同様のやり方で、たとえば後の『遥かなる大地へ』のクライマックスにおける、ランドレースのシーン。一斉にたくさんの馬が疾走する非常に躍動的な場面が続く中、やはり馬を走らせる青いドレスのニコール・キッドマンが、帽子を飛ばしてしまうという一瞬の静止を伴った忘れがたいカットがある。見せるべきものは、必ず見えるように撮られている。こうしたタッチにこそ、ロン・ハワードを見る。

 そして、ウィローが初めてマッドマーティガンに出会うシーンの、ほとんど掛け合い漫才のようなやりとりは、話者と話者の切り返しにつぐ切り返しを伴う、編集の勝利である。言葉のやりとりというのは、こうつなぐのだという見本になりそうなほど、テンポのよい編集を実現している。

 もちろん『ウィロー』といえば、馬車と馬車のチェイスシーン(鳴り響く「ウィローのテーマ」!)や、雪山での滑空シーン、クライマックスの魔法合戦といった、派手な見せ場が目立つのだが、そうしたいわゆるアクション・シーンが生きてくるのは、むしろそれ以外の細かいところで作りこまれたドラマがあってこそである。キャラクターに血を通わせる演出、というのはまさにこのことだ。この作品は、ロン・ハワードの映画的ボキャブラリーがいかに豊富であるかを示している。

 

 もう一つ『ウィロー』で重要なことは、ここでロン・ハワードはついに、垂直の作家であるという嗜好が定着したことである。ハワードは横移動の作家ではない。それよりはむしろ、上から下、下から上への動きを好む高低の監督だ。あるいは奥から手前への監督でもあり、これらのタッチがいよいよ極まるのは、『バックドラフト』においてであるが、それについては章を改める。その萌芽は『ウィロー』にあり、ここでその視点が駆使されるのは、終盤の古城での戦いのシーンである。

 ここでウィローとマッドマーティガンは、城壁を自在に動くことのできる、猿のような姿の怪物トロルたち。それから、魔法のかけ違いで出現させてしまった、蛇かミミズのような醜い巨竜と激しいアクションをくりひろげる。ここで垂直の壁を蜘蛛のように這う無数のトロルや、天を衝く長い首を上下させる巨竜は、必然的に縦の動きとなる。それを効果的に追いかけるためには、カメラは上から下、下から上を狙っていく。その連続が生み出す映像の躍動感はたとえようもない。ここにロン・ハワードの垂直のカメラアイを発見することになるだろう。

 そしてこの動きは、やはり垂直の構図を好んでいるはずのジョージ・ルーカスが、『スター・ウォーズ』シリーズ6本をかけてなお、手に入れることのできなかったものだ。舞台設定は十分整えている、たとえば『エピソード1/ファントム・メナス』(1999)のクライマックスとなった、オビ=ワンとダース・モールの決闘シーン。『エピソード2/クローンの攻撃』(2002)前半のオビ=ワンとアナキンによる飛行船での戦闘など。ルーカスにおいては、落下と上昇のサスペンスに満ちていながら、ロン・ハワード流の垂直のカメラ演出は作り損ねていると言わざるを得ない。ここにロン・ハワード印ともいうべきタッチがひとつ誕生する。

 もともと『ウィロー』という作品は、たくさんのカメラアングルを必要とするものではあった。ウィローたちネルウィン族は小人という設定である。だから必然的に彼らの村のシーンは、非常に低いロー・アングルとなる。実際、先に触れたイノシシのような獣の襲来で村がパニックになるシーンでの、低い位置から狙ったカメラの、地を這うようなスピード感はすばらしくスリリングな時間を体験させてくれる。

その他、長身のヴァル・キルマーと小さなワーウィック・デイビスを無理なく1つのフレームに収めるためには、画面設計上の実に大きな努力がはらわれているはずだ。そこではまちがいなく、高から低、低から高へのスムーズなカメラの動きが必要になってくる。

こうしたことを実現するために、ロン・ハワードは手持ちの演出術を総動員し、かつそれを押し広げる必要にせまられたであろう。その一つが、この垂直のカメラアイといえるのだが、ここではロン・ハワードが監督として持っていた潜在的な能力が、いよいよフル稼働したと見てよいのではないか。たぶん、映画作家にとって超大作映画を手がけるというのはそういうことなのだ。どれだけ手持ちのカードを切れるか。その意味でも、『ウィロー』はロン・ハワードの可能性を切り開いた重要な作品である。

 

ただし収益の方はというと、全米の最終興行は約5700万ドル。ジョージ・ルーカスによる夏の大作としてこの数字は[8]、やはり期待はずれと云わざるを得ない。何が災いしたのかは推し量りかねるが、しかしワーウィック・デイビスが言う通り、『ウィロー』は「小さな俳優」に主役をはる機会を与えたという意味で画期的な作品である[9]。また、この映画で開発されたモーフィングというSFX技術[10]が、その後の映画表現にもたらした成果ははかりしれない。

『ウィロー』が持つ、有形無形の影響力は大きい。そうした評価も含めて、この作品は十分に讃えられてしかるべきである。もちろん、大人から子どもまで何度もの鑑賞に耐える、スピードと興奮、そして幸福感にあふれた、大娯楽作としても屈指。そして出奔と帰還の成長物語とは、かくも魅力的だということを教えてくれもする、かけがえのない作品だ。

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[1] キャプラの業績を追ったすばらしいドキュメンタリー作品、『フランク・キャプラのアメリカン・ドリーム』(“Frank Capras American Dream”ケネス・バウザー監督・脚本 1997)では、ロン・ハワードがナレーターと案内役で登場している。これは、フランク・キャプラ生誕100周年を記念して、キャプラの実子(トム・キャプラとフランク・キャプラJr.)の製作総指揮によって製作された。

 

[2] 以下、本章の作品成立における情報は、GrayおよびKramerによる前掲書を参照。

 

[3] ハワードは「『ウィロー』の製作では、これまでのどの作品でよりも、多くを学ぶことができた」と、ルーカスとのコラボレーションを喜び、感謝しながらも、「いくつかの点では欲求不満の残る経験だった」と言う。

「製作も半分を過ぎたあたりで気がついた。初め、他人の映画を作っているのだということに。」

そして、「これが終わったら、今後はこうした状況からは、避けられるものなら無縁でいようと自分に言い聞かせていた。自分の視点をこそ信じて映画を作ろう。そして、協業であるとはいえ、しかし、そこに自分の独自性があると認識できたと感じられるまでは、映画にコミットするまいと」

以上、Robert J. EmeryThe DirectorsTake One”(TV Books 1999P.63 を参照。

ロン・ハワードが映画作りにおいての独立性をいかに欲しているかが、よく察せられる発言である。

 

[4] ロン・ハワードの長女、ブライス・ダラス・ハワード(1981年生)は、後に『ヴィレッジ』(M・ナイト・シャマラン 2004)で、映画デビューを果たす。

 

[5] ジェームズ・ホーナーが、『ウィロー』のために書いたケルト風の音楽は、後にホーナーの名を不動のものにする、『タイタニック』(ジェームズ・キャメロン 1997)のための音楽を先取りしている。

 

[6] ディオンヌ&フレンズ『愛のハーモニー』(“Thats What Friends Are For”)は、1985年のビルボード誌1位を獲得。これは、ディオンヌ・ワーウィック、エルトン・ジョン、スティービー・ワンダー、グラディス・ナイトの、夢のコラボレーションによる大型企画。この時期USA for Africaなど、大物ミュージシャンによるチャリティ企画が相次ぐ中、エイズ基金のチャリティソングとしてリリースされた。

 本家の『ラブINニューヨーク』では、同曲をロッド・スチュワートが歌っている。

 

[7] 『ウィロー』のロケ地の一つであるニュージーランドが、トールキンの『指輪物語』の完全映画化である、『ロード・オブ・ザ・リング』三部作(ピーター・ジャクソン 20012003)のロケ地に選ばれたのは偶然だろうか。

 

[8] 興行上の数値は、http://www.the-numbers.com/people/directors/RHOWA.htmlを参照。

なお、『ウィロー』の全米公開は1988520日。この夏は話題作がひしめく、まさに激戦の年だった。

その他の作品には、『ランボー3/怒りのアフガン』(525日)、『クロコダイル・ダンディー2』(525日)、『ビッグ』(63日)、『ロジャー・ラビット』(622日)、『星の王子ニューヨークへ行く』(629日)、『ワンダとダイヤと優しい奴ら』(715日)、『ダイ・ハード』(715日)、『カクテル』(729日)などがあり、どれもが人気スターを売り物にした話題作である(日付は全米での公開日)。ちなみに8月には、同じジョージ・ルーカス製作、フランシス・コッポラ監督による『タッカー』も公開されている。

ちなみに、この熱い夏を制したのは、ロバート・ゼメキスによる、アニメと実写の合成もさることながら、ディズニーとワーナーのアニメキャラの共演で話題を呼んだ『ロジャー・ラビット』の1億5千万ドルだった。

次いで『星の王子ニューヨークへ行く』、『ビッグ』、『クロコダイル・ダンディー2』。ここまでが1億ドル突破作品である。

 

[9] ワーウィック・デイビスによるDVDコメンタリーより。

 

[10] モーフィング(Morphing)は、「2種類の映像をコンピューターで解析して、ある物からまったく違う物に変えることもできる」(ジョージ・ジョブラブ)、CGを駆使した特殊効果の名称。『ウィロー』のために、デニス・ミューレン率いるILMのチームが開発した。

 『ウィロー』では、ウィローがダチョウやトラなど、様々な動物の姿を経て、善の魔女ラゼルを人間に戻すシーンなどで使われている。

 「モーフィング」は、その後の映像表現に大きな革命をもたらしたが、中でもその最大にして最良の成果は、『ターミネーター2』(ジェームズ・キャメロン 1991)である。キャメロンはそれに先立つ『アビス』(1989)でも、すでにモーフィングの可能性を大きく前進させている。

映画作品以外でも、マイケル・ジャクソンのヒット曲“Black or White(1991)のプロモーション・ビデオにおいて、歌うジャクソンの姿がさまざまな人種の男女に、次々と変身するイメージで印象的に使われた。ジャクソンが黒豹に変身するパートもある。なお、このフィルムの演出はジョン・ランディスである。

モーフィングに関しては、『ウィロー』DVD特典映像「魔法のデジタル技術 モーフィングについて」が参考になる(前述のジョブラブの言葉はここから引いた)。

また、『ジュラシック・パーク』DVD特典映像「メイキング・オブ・ジュラシック・パーク」では、モーフィングを含めたCG技術の発展について、実際の映像と共に多くを知ることができる。