9.『バックマン家の人々』 (“Parenthood” 1989

 

 いよいよロン・ハワードが、真の意味でロン・ハワードらしい作品を撮る日が来た。技術的には訓練期間はもうとっくに終わった。ハリウッドパワーとしても、自ら企画を選べる立場となった。ここで、家族の群像劇、老人、子ども、笑いと涙にあふれたダイアログ・プレイといった、いかにもハワードをハワード足らしめている要素に則して、彼のもっともパーソナルであり、しかも集大成ともいえる作品を構想したことに何ら無理はないだろう。結果として『バックマン家の人々』は、真に傑作の名にふさわしい、胸しめつけられるほど感動的な、ロン・ハワード最高の代表作のひとつとなった。

 作品構想のきっかけは、『ガン・ホー』の撮影で、ブエノスアイレスに行った時のことだという。家族と離れるのを好まないハワードは、ここで家族全員を連れて行くのだが、このとき長女のブライスは4歳。その下の双子の姉妹、ジョスリンとペイジは生後まだ7ヶ月。この17〜18時間にもおよぶフライトはとにかく難儀だったようで、大量の荷物もさることながら、同乗のスタッフとキャストには協力を求めなければならないし、乗り物酔いでブライスは吐くし、双子の赤ちゃんは一方が眠れば一方は起きるしで、まるで落ち着かせてもらえない。

 いいかげん子疲れしたハワードは[]、そうした経験の数々を日記に書き綴る。後、それをもとに、旧知のシナリオチーム、ババルー・マンデルとローウェル・ガンツともエピソード交換をしつつ、「親であること」についての映画のアイディアを練る。

 なんといっても、プロデューサーのブライアン・グレイザーは2人、ローウェル・ガンツは3人、そしてババルー・マンデルにいたっては実に6人(内3人は三つ子)の子持ちの身分である[]。子育ての苦労ネタには事欠かなかったに違いない。

 その結果、ハワード作品としては出演者数最多の作品となった。主要メンバーだけで、実に10人を超え、ラストに誕生する赤ちゃんたちを含めれば、なんと親子5世代にわたる物語なのである。

この中心にいるのは、スティーブ・マーチン演じる[]、主人公のギル・バックマン。3人の子の父親であるが、9歳の長男は神経過敏で特別学級への進学を勧められている。その下の長女と次男も、手のかかる真っ盛りである。

 このギルから枝分かれして、彼の両親、そして彼の兄弟姉妹と、さらにその子どもたちをめぐる、いくつもの悲喜劇が展開する。

 

 物語は子ども時代のギルの野球観戦からスタート。野球好きのギルは、誕生日祝いとして、父親に野球観戦に連れてきてもらってはいるが、肝心の父はさっさと球場案内人にチップを渡して子守を頼み、どこかに(おそらくは一杯ひっかけに)立ち去ってしまう。

 少年はそんな不人情な父親に対する恨みつらみを、子守としてあてがわれた案内人に切々と訴えるが、次第にその口ぶりが、大人の愚痴のようになっていく。「ませたガキだ!」と、案内人が目を白黒させると、いつしかその少年は今の大人のギル、すなわちスティーブ・マーチンの姿に変わっている。彼は、子どもは親の重荷だと思い込まされてきたけれど、自分の子にはそんな思いはさせまいと決意したのだ、と一気にまくしたてる。

けれどもふと我にかえると、それは幻で、今は自分の妻と子どもたちで野球見物に来ているのだった。親父は薄情だったが、自分はよき父親としてがんばるんだ、というギルの気持ちの背景を、スティーブ・マーチンならではの演技で、笑いとともに見せる鮮やかな導入である。ちょっとウディ・アレンがやりそうな手だ。

 そしてクレジットタイトル。家族で野球観戦に来たギルが、大荷物を抱えて、駐車場の車に子ども全員を乗せるのだが、しかしただそれだけのことが、どうしてこんなに大変なのかをいやというほど見せる。荷物で両手はふさがっているし、娘はなぜか足にしがみついて離れない。一番下のチビは、せっかく車に乗せてもすぐに脱走し、ベビーシートにしばりつけるのも一苦労。走行中は騒々しく、家に帰ったら帰ったで、車中で疲れて寝入っているので、重たい子どもを抱えてベッドに放り込まなくてはならない。ハワード自身が体験したに違いない、子を持つ親の手間と苦労をまずはたっぷりと見せる導入である。

疲れ果ててようやくベッドで夫婦の時間を持てると思ったら、口をついて出るのは長男のことで、学校から呼び出しをくらっているという、妻カレン(メアリー・スティーンバーゲン)の報告だ。息子ケヴィンは神経症気味で、ヒステリーを起こしやすい、目の離せない子なのだ。

ここから先は、テンポよくギルの兄弟の家庭の様子を紹介していく。妹のスーザン(ハーレー・ジェーン・コザック)は、ハイドンの四重奏曲が流れるこぎれいな部屋で、夫のネイサン(リック・モラニス)と2人で、何やら小難しいことを誰かに話しかけている。カメラが切り替わると、そこにいるのはまだ3〜4歳の小さな娘。ネイサンは極端な天才教育信奉者で、フランス語から数学、はては空手までを徹底的につめこんでいる。放任主義のギルとは対照的な家庭だ。

一方、姉のヘレン(ダイアン・ウィースト)の家庭は、子どもがティーンエイジャーなだけに、もう少し深刻である。自分勝手な夫と別れて、シングルマザーとしてがんばっているが、娘のジュリー(マーサ・プリンプトン)はどう見てもろくでなしとしか思えない男のトッド(キアヌ・リーブス)と別れようとせず、最近は部屋にも連れ込んでいるようだ。そのことで娘とはうまくいっていない。そのうえ、息子のゲリー(リーフ・フェニックス[])は反抗期で口をきこうとしない。子どもの話をしっかり聞こうという意思はもっているし、実際よくやっているのだけど、接し方がわからない。時として癇癪を起こして、火に油を注いでしまう、そんな自分に嫌気がさしている。

 

そんなバックマン家の人々が、一同に会するよう、映画は家族パーティの場面を用意する。最初に各家庭個別の状況を見せてから、次に彼らを全員同じ場に集めて、それぞれの関係がどうなっているかを示す。ここからは群像劇を撮るロン・ハワードの腕の見せどころだ。

まずは、大人になった今でこそ、表面をとりつくろっているが、子どもの時に重荷にされたという思いから、どこかぎこちない父親フランク(ジェイソン・ロバーズ)へのギルの態度が描かれる。フランクはフランクで、ギルに対してどこか傲慢だ。

天才教育マニアのネイサンは、子どもを自由に遊ばせているギルを内心では軽蔑している。そんなネイサンに対して、妻のスーザンは実のところストレスを感じているようだ。

ギルの妻カレンを中心に、女たちはうまくまとまっていることがわかる。しかし、パーティもこのまま進めば和やかに終わると思いきや、その雰囲気をぶち壊すように登場するのが、ギルの弟ラリー(トム・ハルス)である。比較的常識人の多いバックマン家だが、このラリーだけは職につかず、ギャンブルには手を出す家族の鼻つまみものだ。けれどそんな道楽な性格にウマが合うのか、一同がとまどう中、父親のフランクだけは彼の登場を大喜びする。

しかし、そんなフランクの表情さえも凍りつくのは、そのラリーが小さな子ども(しかも明らかに黒い血の混じった)を、自分の息子だと連れてきたことだった。母親は逃げたという。しかしここで注目は、一様に気詰まりな表情を見せる中で、たった1人ヘレンの娘ジュリーだけは、面白くなりそうだ! と言わんばかりの笑みを浮かべることだ。

この顔をしっかりフォローするところが、肝心な表情を絶対にとり逃さないロン・ハワードの冴えたところであるし、演じるマーサ・プリンプトンも(堅苦しい母親に対する)、ざまあ見ろというか、うるさい親に対していかにも溜飲を下げたといった表現が見事だ。しかもそれが笑顔であるが故に、過剰に深刻なものになりかねなかった映画の空気が、ユーモアの糖衣でくるまれる。

なお、こうした家族の頂点で、達観した面持ちで全員を見ているのが最長老のフランクの母、すなわちギルの祖母である大おばあちゃん(ヘレン・ショー)。このシーンだけで、全部で4世代。それぞれの関係の順列組み合わせが描かれる。

さて、そのマーサ・プリンプトンだが、続く家族そろっての晩餐のさなか(父フランクはひたすらに素行の悪いラリーの肩をもって一同をしらけさせるのだが)、急に停電になる。ギルが懐中電灯を探していると、「これはなんだ?」と、偶然に電動のオナニー器具を手にしてしまう。その瞬間、電気がつき、「持ち主」のダイアン・ウィースト(ヘレン)が奇声をあげてしまう。このとき、他人の不貞には笑みを浮かべたプリンプトンも、自分の母親の不始末である今度は笑いはしない。憮然とした怒りと軽蔑の入り混じった顔をするわけだが、ここでもハワードが俳優に要求する表情の選択がすばらしく的確である。

表情の連鎖という意味では、この場面は最も複雑なカットつなぎが行われている。もしも思わず叫び声をあげたヘレンのショットに続いて、あきれ果てた娘ジュリーのショットを入れて終わってしまうならば、おそろしく凡庸な場面になるはずなのだ。

ここを編集とシナリオの力で処理するロン・ハワードは、娘の顔に続いて、どう釈明したらいいかわからず混乱するヘレンをつなぎ、続いて、いっそ大笑いして場を取り持つギルを見せる。そして、その後に幼い子どもたちの好奇心に満ちた顔をはさんで、ギルの妻カレンが「あれは耳掃除機よ」と、機転の利いた一言。「大きいのね!」と言う子どもの反応を、「まったくだよ」と大おばあちゃんが泰然と受け、最後に何ともきまずい面持ちの、父フランクと、息子ラリーの2人のツーショットで(この2人が家族で一番ダメ人間なわけだ)、ようやくカットの連鎖でできたこの場面が、締めくくられるのである。

このようにロン・ハワードは、他の多くの作品でもそうだが、表情のアップを逐一報告するかのように挿入する。こうした説明的なショットの多用は、ある意味では非常に危険な手法ともいえる。物語のスピード感を奪うし、いちいち意味を押しつけられるので観ていて大儀だ。何より映画が凡庸になってしまいかねない最たる理由のひとつである。

しかし、そこを逆説的に回避するところに、ロン・ハワードの才能が示される。『バックマン家の人々』は、全編この表情による説明で押し通す。先に述べたように、このシーンで、もしとまどうヘレンの顔に続いて、娘のあきれ顔で場面を終えるなら、驚くほど当たり前の場面で終わるだろう。気まずさだけが残って、話が重たくなる。なぜなら、そこでエピソードが完結してしまうからだ。つまり、母と娘の亀裂がいよいよ深まったなといった印象のみが残るのである。

逆に、そうした「説明」的カットを省いて、オナニー器の発見だけでシーンを終えてしまうと(この映画がなまじコメディタッチであるだけに)、今度は『ケンタッキー・フライド・ムービー』(ジョン・ランディス 1977)のような、ただの悪ノリコメディになってしまう。すなわち、ドラマとしての深みが掻き消えてしまうのだ[]

そうでなく、コメディとしての楽しさは残しつつ、ドラマの風格を保つためには上のように徹底的な「説明」の堆積が必要なのである。

それをやるときのポイントは、それぞれのエピソードにケリをつけないこと。そして、その場の人物のほぼ全員の反応を網羅しておくこと。こんなことになって、この後どうなるのだろうか、という興味を残しつつ、エピソードを宙吊りにしたままシーンを終える。その連続によって、映画の時間を持続させていくのである。エピソードは保留常態にしておかないと、最後の大団円を作るのは難しい。だからこそ、やがて昇華されるべきもろもろの問題を、「ため」として物語の中に蓄積しているわけなのだ。

もちろん、各登場人物の反応を丁寧に示すことで、それぞれの人物像が観客の意識に根付いてくる。それは共感が深まるということだ。それはキャラクターを大切にするということで、そうした映画は素直に信頼できるのだ。

さらに逆説を重ねるならば、説明的な顔の連鎖で話を進めるのは、基本的には「映画」ではない。テレビドラマだ。テレビドラマは小さな画面の情報だけで、説話を成り立たせねばならないので、説明的な表情とセリフだけで作られる。そしてすべてはアップで。

実際、ロン・ハワードはテレビ俳優であるわけだし、脚本のマンデルもガンツもテレビのライターだった。だから、テレビとの親和性は高い[]。そこで、それを「映画」へと持ち上げることに、『バックマン家の人々』の至難があったはずだといってよい。

幸い映画の画面は広い。この作品でも正確には、表情のアップというよりは、そのほとんどが腰から上のミドルショットである。そして、フレームに入る人物の量がものをいう。ロン・ハワードは画面内の人物の出し入れが圧倒的にうまい。1人だけを入れるとき、2人を入れるとき、またはそれ以上と、その画面を構成する人物の配置にもこの映画のおかしさがあふれている。

先のシーンでいうならば、オナニー器を見つけたギルの方を振り向く妹スーザンと、弟ラリーの表情がおおいにおかしく、続いて「持ち主」ヘレンが、思わず叫んだ途端に「お前かよ!」と言わんばかりに、ラリーと(しかも同時に父親フランクが)ヘレンの方を振り向く。けれどスーザンはギルの方を見たまんま、目を丸くしている、というこのアクションの組み合わせ。これが1つのフレーム内だけで行われている。

こうした画面の面白さにあふれているのが、『バックマン家の人々』の魅力の一つとなっている。フレームの隅々にまで気を配るというのは、こういうことだと思うし、ロン・ハワードがどれだけ丁寧に登場人物の手綱を握っているかがはっきりと分かる。さらにここで明らかになるのは、映画のフレームというものが持つポテンシャル、つまり、どれだけのものを同時にとらえることができるかという映画の画面の潜在力だ。

ロン・ハワードは映画の基本に律儀な監督である。向かい合う2人の視線は同時にとらえることはできない[]という、セオリーにのっとって、どれだけ細やかな切り返しの編集をしているかは、『スプラッシュ』の章で触れた通りだが、ここではさらに一歩深めて、一つのフレーム内に、どれだけの感情や動きを持ち込めるかということにチャレンジしているようにみえる。また、そうした技術に最も長けていたのが群像を描く達人、ハワード・ホークスやフランク・キャプラではなかったろうか。たとえば何でもいいが、キャプラの『我が家の楽園』(1938)や、ホークスの『ハタリ!』(1961)がどれだけ巧みに複数の人物を1フレームに収めつつ、その感情の動きを描いていたろうか。そして、それはそのままロン・ハワードのタッチに継承されているように思う[]

 

それにしてもすばらしいのは、これもまたダイアン・ウィースト演じる、母子家庭のヘレンのエピソードとなるが、息子のゲリーが家を出て、父さんの家で暮らすことにする、と言い出す場面だ。

自分で自分を抱きしめるかのような(無意識の自己憐憫が表されている)しぐさで、言いにくいことを切り出そうとするリーフ・フェニックス演じるゲリーの姿は、何とも痛々しい。このとき、やはり身の置き所がないといった風情で、部屋の端の壁際にもたれるように移動する。構図としては、彼の全身が入るような引きのショットで、いかにもゲリーの孤独感を示している。

このときのヘレンは、常に背筋を伸ばし、真摯にこちらを見つめて、しっかり子どもと向き合おうという意思にあふれている。2人のやりとりが進み、切り返しを重ねるたびに、腰から上のショットから次第に胸から上のショットへと、カメラは次第に2人に近づいていく。こうして、今まさに語られつつある人物たちへの興味を高め、そして、シーンの緊張感を高めていくのである。

そして、電話で父親に必死の思いでいっしょに暮らしたいことを、か細い声で訴えるギャビン。彼の向こうに、そんな息子の様子を見つめるヘレンの姿が、かすかに画面にインしている。電話の向こうで(声は聞こえないが)、つれなく息子を拒否する父。うちひしがれるギャビン。ここは後の名優、ホアキン・フェニックスのさすがの演技だ。心を打ちのめされた無表情の顔というものは確かに存在するのだ。彼の様子に反応するヘレンのカットが交互に挿入されて、事件の重さをあますところなく伝える。

すなわち、ヘレンとギャビンの2人の反応から、ついに画面には一度も登場しない電話の向こうの相手、すなわちヘレンの元夫(ギャビンの父親)の人格までもが表現されてしまうという、途方もない離れ業が実現している。

 

もうひとつ、マーサ・プリンプトン演じるヘレンの娘ジュリーが、ぐうたらな夫トッドと口論する場面。デートの相手を見つけたヘレンが、新しい恋人を家に招き、親密な時間を過ごそうという矢先のことである。怒り狂ったジュリーが、2人のムードをぶちこわすかのように入ってくる。キアヌ・リーブス扮するトッドが、危険だからと彼女の猛反対する自動車レースを始めたことを知ったからだ。

激しく怒鳴りあうヘレンとトッドの2人をとらえたカットのすばらしさ。画面手前にキアヌ・リーブスがこちらに背を向けて立っている。少し奥にジュリーを演じるマーサ・プリンプトン。さらにその奥、部屋の中ほどにことの次第を見つめる弟のリーフ・フェニックス。画面そのまたさらに奥に、口論の成り行きを見つめるヘレンと彼女の新しい恋人の2人。なんと画面の奥行きを4段階に区切ることで、その場にいる者全員をワンカットでとらえ、口論に対する全員の反応をいっぺんに見せてしまうのである。

これこそ同じダイアログ・プレイでも、ブラウン管という小さな画面の中では表現しきれぬテレビ・ドラマを超えた、「映画」の威力である。『バックマン家の人々』は、大規模なSFXも派手なアクションもないが、まさに劇場の大スクリーンでこそ見られるべき群像ドラマなのだ。

さらに終盤では、ジェイソン・ロバーズ扮する老父フランクと、トム・ハルス演じるダメ人間の次男坊ラリーとの対話で、『コクーン』の章で説明した、親密な対話は向かい合って、しかし、気まずい対話は同じ方向に並んでなされる、というセオリーがふまえられる。

すなわち、いよいよ首の回らなくなったラリーの借金は肩代わりする。そのかわり心を入れ替えてマジメに働くんだ、と諭す父フランク。ここでは、息子を更生させようと必死のフランクと、父の話をすがるように聞くラリーは、向かい合っている。ただし完全に心が通じていない以上、間にテーブルをはさんでのことだ。距離感は必要なのだ。

さて、フランクの話に真面目に耳を傾けていたかのようなラリーだったが、聞き終わった後、性懲りもなく「でかい話がある。今度は確実な話だ」と、また一攫千金の夢物語を話し始める。「その話がダメだったら、パパの言う通りにする(だから金を貸せ)」と。

ここで、フランクは自分の息子が、本当の本当に人間のクズであることを思い知る。ここから先は、向かい合ったポジショニングをやめ、2人が並んでの会話となる。つまり、もはやフランクはラリーの顔などまっすぐには見られないのだ。

ラリーはさらに言いつのる。「でも困ったな。息子のクールをどうしよう」。ここで完全に、息子の更生はあきらめざるを得ないと悟ったフランクはうちひしがれ、いっそすべてを受け入れる覚悟を決める。「心配するな。(わしがクールの面倒はみる)」。

決定的な父子の別れである。ラリーはきっと、のたれ死ぬか殺されるかに決まっている。ここでのトム・ハルスの恩知らずぶりも見事だが、親の希望のすべてが徹底的に打ち砕かれるジェイソン・ロバーズの演技がまた圧倒的だ。しかしそんな2人の演技は、このロン・ハワードの繊細な位置取りによって支えられている。

ラリーが出て行った後、彼が残していった幼いルークとフランクとの対話が続く。

「パパは帰ってくる?」、「いいや」、「そう・・・」、「一緒にここに暮らしたいか」、「うん」、「よし」。

こうしたごくごく端的な短いセリフだけで、とても切ない会話がなされる。ここでもまた、2人の位置が絶妙のポジションをとる。戸口に立つクールとはちょうど90度の角度で、ベランダに座るフランク。向かい合っても、並び合ってもいない、その中間なのだ。幼いクールと、老いたフランク、どちらにとっても、運命を受け入れざるを得ない、絶対的な平静の境地として、この位置関係をとるロン・ハワードの演出に舌を巻く。

 

以上のように、『バックマン家の人々』は計算しつくされたフレーミングの魔術によって、一瞬も目をそらすことのできない集団会話劇となっている。

しかしながら、主人公のギルを演じるスティーブ・マーチンの名演技以上に、この数多い出演者の中で誰よりも魅力を輝かせているのは、その妻カレンを演じるメアリー・スティーンバーゲンだ。

家族のさまざまなトラブルを、いつもその笑顔で受け止めるおおらかな母親像。彼女の笑顔がクッションとなって、深刻なエピソードの数々を柔かく包み込む。

最後になるが、『バックマン家の人々』のクライマックスで、今度は同じ方向を向いて並んでいる位置から、向かい合っている位置に、ゆるやかに移行するという試みがなされる。この位置関係の切り替えが、同一シーンで行われると、どれだけすばらしい結果をもたらすかを示す最良の例で、ロン・ハワードがさらに見事なタッチを見せてくれる瞬間である。

それはいよいよラスト、子どもたちの学芸会を見に来たギルたち家族のシーンに見ることができる。ギルの娘は劇中でいじめられる役なのだが、それを見て本物と勘違いした幼い下の子が、「姉ちゃんをいじめるな!」と舞台に飛び込み、劇をめちゃめちゃにしてしまう。またしてもの子どものトラブルに、はじめギルは、「またか!」というような、うんざりした表情を浮かべる。

けれど、めちゃくちゃになった舞台をじっと見ていると、思わず笑いがこみ上げてしまう。笑うギル、めちゃくちゃの舞台、笑うギル、とショットが重ねられる。この、「笑うギル」の2度目のカットは、1度目のそれよりもさらにギルの顔に寄っていて、観ている者の感情が自然と高まるよう、抜け目なく演出されている。さらに言えば、このときギルの目にうっすらと涙が光っているのが、ひたすらすばらしい。本当に光っているのである。

そしてここまでは、ギルとカレンは2人並んで舞台を見つめている。が、そのときギルはふと、隣の妻カレンに目を向ける。すると、彼女は最初からこの状況を笑顔で眺めているのに気づくのである。すばらしい笑顔。彼女のおおらかさ、妻として、母親としての温かさがあふれている。そんな彼女の笑顔に感極まったギルは、彼女の方に体の向きを変える。彼の視線に気づいたカレンも、ギルの方に体を向ける。このように互いの笑顔を「発見」することで、並んでいた2人は、向かい合う2人へと、ごくごく自然に位置を変えるのだ。まさにクライマックスにふさわしいこの場面の感動は、この一続きの立ち位置の変化が作り出したものである。

向かい合わせから並んだ位置への移行は、先に描写したフランクとラリーの場面のように悲劇をもたらすが、その逆に、並んだ位置から向かい合わせへの切り替えは、これは幸福の予感となるのだ。

やがて生まれてくるお腹の赤ちゃんを思い、そして、完全和解を果たした夫婦の温かい抱擁。抱き合う2人を見つめるカメラは、上昇しながらやさしく後ろに引いていき、2人の姿も劇を見守るその他の集団の中に消えていく[]。このやわらかく昇っていく垂直のカメラこそ、繰り返し述べてきたロン・ハワードタッチの真髄である。

それ以上に、このシーンでのギル演じるスティーブ・マーチンと、妻カレン役のメアリー・スティーンバーゲンの奇跡のような名演技。ことにスティーンバーゲンの笑顔は本当にすばらしく、このとき初めて、この映画の中心は彼女の笑顔とともにあったことを知る。

なお、カレンがそうした境地に至ったのには訳があって、この学芸会に行く直前、口げんかをしていたギルとカレンに割って入って、バックマン家最長老の大おばあちゃんが突然言い始める。

「19のとき、じいちゃんにローラーコースターに乗せてもらったよ。胸が悪くなるほど恐くって、でもスリルがあって、恐かったから何回も乗りたいと思った。友達はそれがイヤだとメリーゴーラウンドへ。あんなのただ回るだけ。ローラーコースターの方が楽しいよ」。

人生をローラーコースターに見立てた、この映画のすべてを総合するテーマとなる決めの長セリフを、最後にもっとも目立たなかった[10]大おばあちゃんの見せ場としてもってくる。その言葉に感銘を受けたカレンの笑顔がまたすばらしいのだが、一方、男のギルはその言葉の意味がさっぱりわからない。それにあきれたカレンは珍しく怒って、「おばあちゃんはすばらしい人よ。私もローラーコースター党よ!」と。

最長老の大おばあちゃんに、この映画のすべてを総括する言葉を与え、それに感銘を受けるのがカレンとすることで、家族の根幹はやはり女性であり、そして老人なのだという視点を、ハワードは改めて提出する。

先の、めちゃくちゃになった学芸会劇の騒ぎの中で、ギルはローラーコースターに乗っているかのような、不思議な「揺れ」を体験する。この奇妙な「揺れ」を感じたとき、彼はようやく、「回っているだけのメリーゴーラウンドよりも、ローラーコースターがいい」という大おばあちゃんの暗喩を理解し、そのとき不意に、そばにいるカレンの笑顔のかけがえのなさを「発見」するというわけなのだ。ここで『バックマン家の人々』は、親と子の物語であると共に、夫婦のドラマとして、物語のヤマ場をしめくくる。

 

たくさんの集団が登場する会話劇を寸分の隙もなく構成して、なおかつ映像表現上の冒険をすみずみまでしかけている。各登場人物の造形も完璧で、誰一人としておろそかにされたキャラクターはなく、セリフのひとつひとつはすべてウィットに富んでいる。

『ウィロー』では決して成功とは言えなかった子どもの演出も、ここではまったく破綻なく、その魅力をうまく掬い上げているし、贅沢きわまりない俳優陣による魅力もかけがえのないものである。ことに後の大スター、キアヌ・リーブスとホアキン・フェニックスの初期の姿を見られるという意味でも貴重な作品だ。

こうして、『バックマン家の人々』は、ロン・ハワードのパーフェクトといってよく、まさに会心の作である。この後、ハワードは何本も傑作を撮ることになるが、分けてもベスト作品の1つと言えるだろう。

その出来栄えに見合って、興行的にも十分な見返りを得ることができた。ついに興収1億ドル突破[11]。いよいよ初のブロックバスターをものにし、以後の充実しきった作品群へと猛進するのである。

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[] 「ようやく(ブエノスアイレスに)到着したとき、ぼくは疲れ果てていた。荷物を全部放り出して思った。何てこった。人生が何もかも根こそぎ変わってしまった。いったい何だっていうんだ。これが親ってこと(parenthood)なのか!と。」Emery 前掲書P.6364

また、作品成立過程に関しては、Emery前掲書P.6365 およびGray P.139147を参照した。

 

[] Gray前掲書による。

 

[] ロン・ハワードが、今まさに頂点にある旬の大スターを起用するのは、実はこれが始めてで、そのことに非常にナーバスになっていたが、マーチンの協調性に助けられた旨を語っている。

「ドン・アメチーは大スターだが『コクーン』の時点ではそうでなかった。テレビ映画で一緒になったベティ・デイビスもそうだ。けれど今回はスティーブ・マーチンだ。映画産業の頂点だ。いったいどうなるのかととても不安だったが、スティーブはとてもよい雰囲気を作り、多くをもたらしてくれた。自分自身が優れたライターなのに何も口出しせず、常に協力的だった。全キャストがすばらしかったが、その空気を作ってくれたのはスティーブだ。彼は演技アンサンブルの一員であることを自覚し、雰囲気作りにとても役立ってくれた」Emery前掲書 P.65

 

[] 1974年生まれのフェニックスは、このとき15歳。リヴァー・フェニックスの実弟として、『スペースキャンプ』(ハリー・ウィナー 1986)でデビューするが、この『バックマン家の人々』を最後に俳優活動を長く停止する。93年の兄リヴァーの薬物による事故死をはさみ、『誘う女』(ガス・ヴァン・サント 1995)で再デビュー。ニコール・キッドマンを相手に見事な演技を見せ、この作品からリーフでなく、ホアキン・フェニックスを名乗るようになる。

以後、『グラディエーター』(リドリー・スコット 2000)で演技開眼。アカデミー助演男優賞にノミネートされ、『ウォーク・ザ・ライン/君に続く道』(ジェームズ・マンゴールド 2005)では、ついに同主演男優賞にノミネートされるなど、充実した出演作品が続いている。

 

[] 「ロン・ハワードの最初のアイディアは、『ケンタッキー・フライド・ムービー』(ジョン・ランディス 1977)に類する、バカバカしいエピソードを集めたコメディだった。しかしグレイザーやガンツ、マンデルの脚本家チームとディスカッションを重ねるうちに、より深く、より思慮深いアプローチが必要だとわかった」Gray前掲書 P.140

 

[] 実際、よほどテレビ向きという判断があったのだろう。『バックマン家の人々』は1990年、NBC放送でテレビシリーズ化された。製作総指揮は、ロン・ハワード、ブライアン・グレイザー、ローウェル・ガンツ、ババルー・マンデル自らがあたり、脚本もガンツ、マンデルによる。

 主人公のギルをテレビ俳優エド・べグリー・Jr.が演じた。リーフ・フェニックスが演じたゲリーの役は、何と子役時代のレオナルド・ディカプリオがやっている。他に知名度の高い俳優としては、キアヌ・リーブスが演じたトッドを、デイビッド・アークエットが務めている。

 

[] 「同じ人間が、同時に相手を見詰めあっているということができない。(中略)実は映画というのは、見つめあっている瞳に対しては全く無力であって、それを表象するためには、次々に継起的に画面を示すというカッティングが、必要とされてくるわけです。それが映画の原則であります。」蓮實重彦『映画からの解放』(河合文化教育研究所 1988P.5758

 

[] 群像劇の達人として、もう1人ウディ・アレンの名を挙げることができる。たとえば『ハンナとその姉妹』(1986)が、その最高度の達成だろう。この作品でアカデミー助演女優賞をとったのが、ダイアン・ウィーストであり、『バックマン家の人々』でもヘレン役(再びアカデミー賞ノミネート)として印象を残したことは偶然ではないはずだ。(ウィーストは、やはりウディ・アレン『ブロードウェイと銃弾』(1994)の演技で、2個目のアカデミー助演女優賞を受賞している)

ウディ・アレンとロン・ハワードが異なるのは、ハワードがあくまでもアメリカ映画が素地になっているのに対し、アレンはイングマール・ベルイマンの群像劇に負っているという点だ。

 この違いについて宇田川幸洋は、

「そう、ウディ・アレンの映画なんかと比べるとわかるんだけどさ。ウディ・アレンはヨーロッパ・スタイルで撮っているからさ、人物のアップだけで長いこと回しても平気でしょ。でもロン・ハワードってアメリカの撮影所のスタイルで撮っているから、カッティングで次から次へと映さないと気がすまないところがあるよね」宇田川幸洋・粉雪まみれ・沢田康彦『映画のあとに』(キネマ旬報社 1992P.32と分析している。

 

[] 抱き合うスティーブ・マーチンとメアリー・スティーンバーゲンは、カメラが後退するにつれて、身をかがめることで、あたかも群集の中に姿を消していくように見せている。こうしたちょっとしたマジックは、見ているとまったく気がつかないのだけれど、ロン・ハワードがどれだけ繊細に役者の動きを振付けているかを示す、格好の例である。

 こうしたロン・ハワードのマジックは、見ている間はほとんど意識させられることはない。そうした点が、ハワードの映画術がまったくといっていいほど語られない原因なのだろう。

 

[10] これは実は正しくない。全編中もっとも目立たない登場人物は、エイリーン・ライアン演じる、フランクの妻、すなわちギルの母である。どういうわけか彼女だけはセリフもなく、ほとんど出番がない。

 

[11] データはhttp://www.the-numbers.com/people/directors/RHOWA.phpを参照。