日本橋から千住宿を歩く


第1日目(平成19年9月24日)
日本橋から栃木県日光市鉢石宿を目指して日光街道を歩きはじめました。日本橋は徳川家康が全国道路網整備計画に際し架けられた橋で1604年には5街道の基点とされました。日本道路網の始点で道路元標があります。

この日は、NHK街道てくてく旅 日光・奥州街道踏破で四元奈生美さんが仙台城下への約400kmの旅にでました。

日本橋を中央通りを進むと右に三越本店があります。延宝元年(1673)呉服店越後屋として開業し建物は昭和10年に完成したルネッサンス式建造物で東京都選定歴史的建造物です。

街道は、日本橋三井タワーの交差点を右折しビルの谷間を進みます。街道は首都高速1号線の下で地下横断歩道を歩きます。横断歩道を出ると小津本館ビルがあります。伊勢商人小津静左衛門長弘が承応2年(1653)江戸大伝馬町に創業した紙問屋の老舗です。



街道を歩くとホテルギンモンドの前に旧日光街道本通りの道標があります。少し寄り道をして、この先の交差点を左折しました。

小伝馬町交差点の先に十思公園があります。ここは、江戸伝馬町牢屋敷跡です。公園内には石町時の鐘が保存されています。二代将軍秀忠の時、江戸城西の丸から日本橋石町に移設された江戸最初の時の鐘で時を報せていました。また公園内には吉田松陰終焉の地碑があります。

隣接する大安楽寺に伝馬町処刑場跡の石柱、吉田松陰を始めとする人々、伝馬町牢屋敷や処刑場を供養するために建立された延命地蔵があります。

さらに進むとお玉ヶ池種痘所跡があります。勘定奉行川路聖謨の屋敷内に設けられた種痘所があったところで東京大学医学部の発祥の地です。悲恋伝説があるお玉ヶ池は江戸初期はかなり大きな池でしたが安政の頃には小さなものとなり現在は跡形もありません。



街道に戻り大伝馬本町通りを歩くと洋品雑貨や木綿繊維を扱う横山町問屋街に入ります。問屋街を抜けて靖国通りを横切り江戸通りを行くと交番の脇に郡代屋敷跡があります。関東一円及び東海方面など各地にあった幕府の直轄地(天領)の年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があったところです。(中央区教育委員会)

神田川に架かる浅草橋を係留された屋形船を見ながら渡ります。江戸幕府は、主要交通路の重要な拠点に櫓、橋、門などを築き江戸城の警護をしました。奥州.日光街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれ、警護の人を配置したことから浅草見附と言われました。

JR総武本線のガード下をくぐり江戸通りを進みます。日本人形や店舗装飾品の問屋が建ち並んでいます。街道は蔵前一丁目交差点の先で二本に別れますが右の国道6号線を進みます。蔵前は江戸時代、幕府が天領の年貢米などを収納保管した蔵があったことに由来します。



街道は駒形へと進みます。左に駒形どぜうがあります。初代越後屋助七が享和元年(1801)に創業した老舗です。駒形橋西詰交差点で国道から離れ真直ぐ行くと雷門です。浅草寺への参詣者で賑わっていました。

東武鉄道浅草駅のガードをくぐって墨田公園を歩きます。公園に入ると山の宿渡し跡があります。渡しのあった花川戸辺りは山の宿とよばれ浅草寺の参拝者や花見客で賑わったところです。 言問橋西交差点から交番の左を行きます。

少しすると待乳山聖天があります。金龍山浅草寺の支院で正しくは本龍院といいます。十一面観音菩薩を本地仏とする聖天様を本尊とします。浅草名所七福神の一つです。 吉野通りを行くと山谷地区に入ります。食事などのサービスを提供しない簡易宿泊施設が建ち並び日雇い労働者が集まっています。昼間から酒を飲んでいる姿も見えます。住居標示制度により山谷の地名は残っていません。

吉野通りと明治通りが交差するのが泪橋交差点であしたのジョーの舞台になったところです。今は泪橋の面影はありません。



泪橋を過ぎると荒川区へ入ります。南千住駅前歩道橋で東京メトロ日比谷線を越えます。南千住駅に隣接して小塚原回向院から分院独立した延命寺があります。小塚原刑場の刑死者を弔うため寛保元年(1741)に建立された延命地蔵菩薩(首切り地蔵)には参詣に多くの人が訪れます。延命地蔵は刑場内に建てられましたが土浦線(JR常磐貨物線)の施設工事のため現在地に移設されました。

常磐線のガードをくぐると小塚原回向院にでます。安政の大獄により刑死した吉田松陰、橋本左内などの志士たちが葬られています。また江戸時代後期の窃盗犯、義賊伝説で名高い鼠小僧次郎吉や高橋お伝などの盗賊の墓があります。

南千住商店街を歩くと国道4号線にでます。国道を渡ったところに素盞雄神社があります。石神信仰に基づき創建は延歴14年(795)です。3年に1度の本祭りでは重量千貫の御本社神輿(浅古周慶作)が氏子により宮出しされます。境内の大銀杏は江戸名所図会にも描かれ絵馬を奉納祈願する習わしがあります。



国道を行くと千住大橋が見えてきます。隅田川に架けられた最初の橋で、文禄3年(1594)関東代官領伊奈備前守忠次を普請奉行として現在地より上流200mほどのところに架けられました。

千住大橋を渡ると「奥の細道矢立初めの地」の碑があります。江戸時代の俳人松雄芭蕉は元禄2年(1689)門弟河合曾良とともに深川採茶庵より船で隅田川をさかのぼり3月27日に千住大橋辺りで船を降り奥の細道へ旅立ちました。関東より奥州、北陸を経て大垣に至る600里余(2400km)日数約150日の行脚でした。
行く春や鳥啼魚の目は泪
大橋の袂は大橋公園「おくのほそみち行程図」があります。で足立市場の前で国道を離れ右のでやっちゃば通りを進みます。やっちゃばとは多くの問屋のセリ声がやっちゃやっちゃと聞えてくる場所(市場)からきたと言われます。古くは戦国時代旧陸羽街道(日光街道)の両側にあつた青空市場が始まりです。

ここから千住宿になり奥の細道プチテラスがあります。千住宿では紙製の煙草入れが江戸時代から昭和初期まで作られました。特に浜松屋の煙草入れは歌舞伎役者に人気がありました。少しすると左に千住宿歴史プチテラスがあります。漉紙問屋横山家から移築された蔵の中がギャラリーとして公開しています。

旧日光道中の道標の先の路地を左に少し入った所には千住市場の鎮守様河原稲荷神社があります。大きな狛犬には石工の名前は刻まれていませんが浅草神社の狛犬と台座石組みなどが似ており同じ石工の作とも言われています。

街道を行くと千住高札場跡、一里塚跡、千住宿問屋場跡、貫目改所跡などを見ることが出来ます。ダイエートポスを右に入った足立都税事務所の植込みに森鴎外旧居橘井堂跡について足立区教育委員会の説明板があります。街道を行き北千住駅前のメインストリートにでて今日は終わりにしました。