栗橋宿から小山宿を歩く


第4日目(平成20年4月12日)
JR宇都宮線の栗橋駅を出た左に静御前の墓があります。奥州平泉の源義経を追ってきた静御前は下総国下辺見で義経の最後を聞かされ栗橋の高柳寺(現古河市中田の光了寺)で出家しましたが文治5年9月22歳の若さで亡くなりました。ここには、招魂碑、供養塔などがあります。

ここからから旧道に向かい焙烙地蔵から前回の続きを歩きます。 栗橋に関所が設けられ関所破りは重罪人としてこの地で火あぶりの刑に処せられました。地元の人は処刑者を憐れみ供養のため焙烙地蔵を祀りました。

真直ぐに延びる街道を行くと右側に阿弥陀如来像を安置する顕正寺があります。栗橋宿をを開き本陣役を務めた池田鴨之助のお墓があります。向かいは深廣寺になります。

東3丁目の信号を過ぎると移築し整備しているようながありました。風情がある街道になり古い建物が残っています。

少しすると右奥に本陣跡があります。栗橋宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒がありました。八坂神社の手前に栗橋関所跡の案内があり路地を右に入ります。



関所跡碑は国道の下にあります。江戸幕府は交通統制、治安維持のため関所を設け「入り鉄砲と出女」を取り締まりました。栗橋の関所は利根川の対岸にあり房川渡中田関と呼ばれ東海道の箱根、中山道の碓氷と並ぶ重要な関所でした。

街道に戻ると八坂神社にでます。慶長年間の頃より鎮守の神社として祭られ寛保2年(1741)に本殿が復興されました。利根川の洪水の際、鯉と亀に囲まれて御神体が流れてきたと伝えられ狛鯉があります。また境内には庚申塔も見られます。

街道は八坂神社前交差点で右に曲がり利根川へ進みます。利根川橋で利根川を渡り茨城県古河市に入ります。左はJRの鉄橋で寝台特急北斗星が過ぎ去って行きました。

利根川橋を渡るとすぐに入ります。道が右に曲がるところに古河市教育委員会の房川渡と中田関所跡の説明板があります。中田宿に入り街道を進むと利根川堤信号の火の見櫓の下に中田宿の説明があります。

江戸時代の中田宿は利根川橋下の河川敷にあり宿場業務は栗橋宿で交替で行う合宿でした。真直ぐ続く街道を歩くと鶴峯八幡神社があります。鎌倉時代に源頼朝もしくは頼家が鎌倉の鶴岡八幡宮の神主をもって創建したと伝えられます。毎年4月の第3日曜日に無病息災、五穀豊穣などを祈願して神楽が奉納されます。



古河中田郵便局の前を行くと右側に静御前の遺跡として有名な光了寺があります。昔、武州高柳寺(栗橋町)の天台宗のお寺でしたが改宗し浄土宗のお寺になっています。街道は真直ぐに延びて続きます。

円光寺、本願寺を過ぎ中田駐在所の前を行くと右側に古河市立第四小学校にでます。

JR宇都宮線の踏切を渡ると街道は広くなります。少し行くと茨急バス茶屋新田停留所がありました。この辺りに中田宿と古河宿の間の茶屋があったのでしょうか。

茨城県立古河第三高校、市立第二中学校と過ぎると街道は雑木林になります。歩道は花壇に植えられた花が綺麗に咲いています。ボランティア団体により道路を清掃、美化活動が行われています。

原町交差点を直進し朝日バス原十字路停留所の前を通りしばらくすると右側に十九夜塔があります。前は古河第二高校で校庭に一里塚が現存します。フェンス越しに一里塚を見て進むと校門前に開校記念樹の椎の木の立派な古木があります。

さらに進むと史蹟祭禮道原町口の標柱がありますが、どのような由来かは分りません。浄善寺を過ぎると街道は広くなり古河宿へと進みます。



古河宿を歩くと日本三大長谷観音の案内があります。足利成氏が鎌倉の長谷寺に勧請したとされています。少し行くと御茶屋口にでます。この地に存在した御茶屋に由来します。徳川将軍が東照宮参拝には古河城で宿城するのが慣例で将軍が入城する際の御成の入口でした。

この先を左に入ると肴町で蔵造の酒屋や文政年間創業の米屋など老舗が並ぶ風情がある通りです。諸大名が古河城下を通過する際は使者を挨拶にだしました。古河藩からは役人が出向き使者を歓迎接待した御馳走番所があったところです。

本町二丁目の通り交差点を過ぎたて商店街ジョイパティオの前に古河城下本陣址の碑があります。道路の向かいは古河城下高札場址の碑がありこの辺りが古河宿の中心でした。

停車場通を過ぎ街道が狭くなる交差点を街道は左に入ります。入った所は脇本陣太田屋旅館があったところですが現在は取り壊されて神宮寺の境内になっています。十字路を右折し、よこやま柳通りを行くと県道261号に合流します。



県道を歩くとマーケットシティ古河にでます。家電量販店、ファッションショップ、大型スーパー等があります。ここは茨城県と栃木県の県境になります。県道を歩くと野木神社の参道にでます。野木神社(のぎじんじゃ)は、応神天皇の皇太子である莵道稚郎子命を主祭神とします。

野木交差点で県道は国道4号線に合流します。馬頭観音の石柱を見て進むと野木宿の木戸があります。ここから野木宿になります。この先に野木町教育委員会の野木宿周辺の松並木の説明版があります。野木宿は本陣1軒、脇本陣1軒、問屋場4ヶ所の小さな宿場でした。

少しすると民家の塀の前に教育委員会の野木宿の説明版があります。この辺りに本陣があり道路の向かいが脇本陣があった所です。

さらに進むと満願寺の前に十九夜塔があります。月待信仰は江戸時代中期に全国的に流行し特に二十三夜に集まる二十三夜講は全国的に分布しています。そのうち十九夜講は十九夜様と呼ばれ如意輪観音を祀り安産を願う女性の厚い信仰を受けました。



満願寺の先は浄明寺十九夜供養塔青面金剛、石仏等を見ることが出来ます。民家の生垣に一里塚跡の説明版があるのですが見落としてしまいました。少しすると「是より太平に至る」の道標があります。説明板には、かつて日光への裏道とあります。

さらに国道を行くと観音堂と十九夜塔があります。また先には猿田彦大神を見ることが出来ます。日本神話に登場する神で古事記、日本書紀の天孫降臨の段に登場します。道の神、旅人の神とされています。

野木町松原を通り国道を歩き続けます。野木町役場入口交差点を行くと応永2年(1395)創建の法音寺があります。国道の反対側は友沼八幡宮です。ドライブインで昼食にして、さらに北上します。

街道は小山市に入ります。少しすると乙女一里塚があります。説明はないのですが位置関係と雰囲気から一里塚と確信しました。

この先に若宮八幡宮があります。大日如来坐像は宝永6年(1709)に鋳造されたもので戸外に安置されていることから濡れ仏様とよばれ親しまれています。



街道を行くと十九夜塔があります。片膝を立てて座る如意輪観音菩薩が彫られています。佛光寺の前を行き乙女交差点を過ぎると街道の面影を残す建物が見えるようになります。

JR宇都宮線間々田駅の標識の先で蔵造りがある家があります。街道の右側の消防署の先で日光街道中間点「逢いの榎」にでます。旅人の目印としてされてきました。間の榎が逢いの榎と呼ばれるようになり縁結びの木として信仰を集めてきました。

ここからが間々田宿になります。間々田宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠50軒からなり日光参詣する大名等に利用され位置的関係からも重要な宿場とされました。

少しすると間々田ひもの看板が目に止ります。間々田の伝統工芸品で草木染した絹糸を手組した組紐で帯締や羽織紐として使われます。間々田交差点辺りは本陣、脇本陣があったところですが現在はその面影は残っていません。

この先は間々田八幡宮の参道があります。創建は古く天平年間に勧請されたと伝えられています。五穀豊穣、無病息災を祈願する「ジャガマイタ」と呼ばれる奇祭蛇祭りで知られています。



鐘楼のある浄光院を見て街道を行きます。千駄塚交差点を過ぎたところに千駄塚古墳の道標があります。左に入ると県史跡千駄塚古墳になります。頂に浅間神社を祀っています。

粟宮(南)交差点を越えると地酒若盛を造る西堀酒造があります。創業明治5年の造り酒屋です。大正時代の仕込蔵は店舗として利用し日光山系伏流水の仕込水を試飲できるほか陶器類を販売しています。造り酒屋の建物を見ることが出来ます。ここで地酒門外不出の酒粕とぐい飲みを買いました。

少しすると大橋訥庵旧居跡があります。幕末の尊攘思想家で私塾思誠塾を開き宇都宮藩で儒学を教えました。粟宮交差点を右に旧国道4号線を進みますが車が多く横断歩道がありませんので手前で右に渡る必要があります。

安房神社参道を過ぎると小山市指定保存樹木むくのきがそびえています。国道50号線をくぐり県道を進み天神町辺りから小山宿になります。

須賀神社参道の前を行くと明治天皇行在所跡の碑があります。その裏は脇本陣になります。ここが今日のゴールでJR小山駅にでました。JR宇都宮線のグリーン車でビールを楽しみながら上野へ帰りました。