よっちの雑談

ここには、ちょっとしたお話…よっちの思うことを書き記しています。
音楽も含め、それ以外のこともお話していますが、お茶飲み話程度にお読みいただければ嬉しいです。

芸術ってさ…

楽だけではなく、絵画や文学…といった“芸術”という分野は、意外なほど敷居の高さを感じるものかも知れません。美術館に通っているとか、コンサートホールに足が向く…という方は、それ相応の興味なり、関心なりを持った方であって、ちょっと暇つぶしに誰でも…という訳にいかないと思っているからかと思います。

だ、こんな仮定をしてみましょう。
音楽にせよ絵画(写真芸術も含む)にせよ、文学にせよ…それらに関わるものが一切なかったら。。過ごしていけますか?σ(^-^;) 答えはおそらく「No」だと思います。

音楽がないということは、歌謡曲も含めて、現在世にある音楽全てがないということです。
絵画がないということは、アニメもプリクラも…若者文化ともいうべきものから、報道映像に至る全てがないということです。
文学がないということは、メールも手紙も、そして雑誌もない全てが存在しないということです。

…というと驚くかも知れません。でも、私たちの日常生活に密着している全てを遡ると、芸術とは切っても切れない位置付けになるのです。

楽…現在の音楽の起源は、宗教儀礼や詩といったものと結びついていました。それが単旋律の音楽に変わり、9世紀に原始的な多旋律音楽になり…現代のありとあらゆる音楽へと発展していくのです。
絵画というのはラスコーの壁画に象徴されるが如く、人類の歴史と共にありました。それが手で描く“絵画”と機械で写し取る“写真”になる訳ですが、それが動いてアニメになり映画になり…日常映し出される映像となる訳です。
同じように文学というのも、様々な起源説がありますが…必要に応じて書き残されたものが時代と共に形を変え、必要に応じて書くことが一般的になり、手紙や雑誌…といった文字文化に繋がってくるのです。

論に聞こえるかも知れませんが、そうした時代の流れの中で消え去らなかったものが“クラシック音楽”であり、“名画”であり“歴史的映像”であり、“古典”であり“名著”として、今の私たちの目の前に展開されている…それだけに過ぎないと思うのです。それらを総称して『芸術』と呼ぶのであれば、それほど敷居の高いものではないのではないか…そう、思えてならないのです。


残るものの条件…

れを書いているよっち自身は、芸術というものに全くと言っていいほど縁がない生活をしています。せいぜい…上に挙げた3つの分野の中で唯一、『文学』に近い世界にいるといえるかも知れません。
世の中というのは面白いもので、必要があって生まれるものがたくさんあります。『作品』と呼ばれるものは、作者の内側に生み出す必要性を感じたから世の中に出るのです。
もっとも、20世紀後半のビジネスの世界ではその逆もありました。必要があって商品を生み出すのではなく、商品があって必要性を作り出す…という手法です。確かに、考えてみれば毎日使う歯ブラシ…。毛先は細いのが良いだの丸いのが良いだの…様々言われています。本当に必要なら何本も買い揃えなければならない…という変な具合なのです。あるいは、一昔前に流行った10連奏ランダムCDプレイヤー。どこにCDが10枚一度にセットできて、機械が適当に選曲してくれるCDプレイヤーがあったらいいなぁ…と思うのでしょう``r(^^;)

れども、世の中というのはその一方で驚くほど冷酷です。一時的なブームで終わるものが多く、ずっと残るというものはなかなか存在しません。
商品世界もそうですが、芸術の世界もそうです。もっとも解りやすいのが音楽。一時期、バンドブームと言われた時代がありました。その中で生き残っているグループが何組あるか? あるいは10年・20年前の名曲…と言われて耳にする曲は決まったものしかありません。年間に数百・数千と出る曲の中で記憶に残るものは少ないのです。
もし…それが疑問に思うのであれば、カラオケボックスに行くと解ります。自分が昔熱狂した音楽を、今何曲覚えているか…そういうものなのです。

ころが、その逆に世の中には驚くほど長く残るものも存在します。別に特別な扱いを受ける訳でもなく、ただ世上が支持するから…歴代積み重なって現代まで残るのです。

音楽の世界で言うと、モーツァルトがその例です。
モーツァルトの音楽の中に『音楽の冗談(戯れ)ヘ長調(Ein musikalischer Spass)K.522(村の楽士の六重奏)』という曲が存在します。これは素人音楽家への当てつけ…ですが、その同じ時代の“素人音楽家”がどうだったのかは、知ることが出来ません。残っていないのです。でも、モーツァルトの楽曲は世を経て残る。。ココに芸術として昇華するものと世に埋もれて終わるものの違いを見出すのです。

絵画の世界で例を挙げるなら、ゴッホでしょうか。
現在では名画…とされるゴッホの作品の数々ですが、彼が生きているうちに売れた絵は『赤いぶどう畑』という絵たった1枚。認められ始めた頃に世を去ったゴッホですが、彼の描く女性は美術教室でも酷評されるようなデッサンの基本さえなっていない(そういう逸話も残っているのですが)…ふくよかな女性画だったと言います。
ただ、モーツァルトの場合と違い、ゴッホの場合は死んだ後の時代が「彼の作品を認める土壌」を持ち、そこで育って消えることなく現代まで価値が残った…という例になります。

文学では…となると誰を例に挙げたものか迷うほどです。モーツァルトのように在世中から文豪・名文筆家の名を得た作家もいれば、死後に認められた人もいます。
意外なのは国語科の授業で習う「古典」かも知れません。古典教材のほとんどは、印刷などない時代…手写しで限られた人しか見ない作品ばかりです。にもかかわらず残るのは、作品の感性や内容が現代に通じるから…という一点しかないのです。
ただ、最初に書いたように『文学』に近い世界にいるよっちとしては、『源氏物語』が残っているのは納得できても『紫式部日記』が古典教材となっているのは不思議ですけどね(笑)


困ったことに…

は…よっちがクラシック音楽というものに最初に出会ったのは、ご多分に漏れず小学校の授業でした。最初が何かは忘れましたが、一番印象に残っているのは、ハチャトゥリアンの『剣の舞』(正確に書くのであれば バレエ音楽『ガイーヌ』より『剣の舞』)でした。その後に中学で聴いたバッハの小フーガ ト短調(これまた正確に書くのであれば フーガ ト短調「小フーガ」(Fuge)BWV.578)の遅さを感じたこと。。(*´Д`)=з
同じ頃、CBS・ソニーから100枚組みのクラシック音楽のレコードが発売され、何を血迷ったか(?!)よっちの父親がそんなのを買ったから、さぁ大変( ̄〇 ̄;)
あれから20年以上経った今でも買った真意は判らないのですが、何にせよ…一番聴いていたのがよっちでした。暇さえあれば付いていた解説本やら何やらを開き、今日はこれ・明日はそれ…と聴いていたのですが、困ったことに…記憶に残らない。。というか、しばらく経って聴いた時に「あ、これ聴いたことある」という程度の興味しかなかったのです(^^;)

の当時のよっちにとっては、そのレコードに入っている演奏家が全てで、帝王カラヤンも、癇癪持ちトスカニーニも、名指揮者であるフルトヴェングラーも、クライバーも全く知らない。指揮者と言えばバーンスタインであり、マゼールであり、ワルターで、ピアニストと言えばホロヴィッツであり、グールドと相場が決まっていた“狭い世界の価値観”で見ていた(聴いていた)訳です。
でも、素人なりに…好きな音楽はありました。無論、誰がイイと言ったからでもなく、ただ自分の感性のみで聴いていたようなものです。中学生でチャイコフスキーの『悲愴』を連日聴いていたとか…今にして思えば、とんでもないヤツです(笑)

校では当然、芸術選択は音楽!と思っていたのですが、人数の関係で美術に。。一時はイラスト描きをしていたよっちですが、美術の成績は「アヒルか耳」というのがせいぜいでした。…というのも、当たった教員が“理論派”だったのです( ̄口 ̄) 印象派の画家は…どうこうとか、その頃の画風はどうだったとか…。感性そっちのけでデッサン・理論の繰り返しでしたから、すっかり芸術嫌いになったのです。その頃…クラシック音楽にも嫌気がさしてしまったのですが、再び聴くようになったのは、この10年でしょうか。

術というのは感性の問題です。ですから、好き嫌いがあって当然ですし、触れる分には全く理論なんてのは必要ないのです。何故か…よっちが受けてきた芸術教育は、この音楽はどうだとか、この絵画はどうだとか…そういう“理屈”が付きまとっていたように思いますし、それが困ったことに、芸術の敷居を上げているように錯覚する要因かと思うのです。
それは、どう表現したものか悩むのですが、このHPを作るきっかけをくれた珠乃という人物と出会い、音楽に触れる時…ここに挙げている名曲・名演を聴きまくったとは思えないような表現で「音の響きが良くない?」などと聞いてくるのです。「ココ、音が迫力あって良いわよ」と、感性だけで言って来るのです。それが新鮮でした♪(*'-^)-☆

屈なんていらないのです。聴いて・見て・触れて…そこから何かを感じ取れるのが芸術作品なのですから。逆に何百・何千と触れてみても、何も得るものがないのだとしたら…それは無意味でしかないのです。


こんな話をしてみましょう…

の話の続きになりますが、今度は文学から話をさせて下さい。まぁ…よっちの都合です(;^_^A(笑)

これは高校教育の現場に立つと見えてくるのですが、進学校や俗に言う優秀な生徒ほど、文章の読み方に偏りが見られます。
敢えて誤解を恐れずに言うのであれば、文章の表層を滑るかのような…“受験テクニック的読解”に偏る傾向があるのです。確かに、学校という場所では試験を通しての読解力や想像力を評価する必要性があります。ただ問題なのは、国語の問題というのは一定のルールがあって成立すること。つまり…「本文中のココにこう書いてあるから、答えはこうなる」という方程式に似たものがないと成立しないのです。

かつて、センター入試がまだ共通一次試験といわれていた時代のことです。ある国語の問題で『ここで主人公は何を思ったか次の中から選びなさい』という問題が出て、ある受験生は考え抜いても解けず、叔父のところに持っていった…という話があります。叔父はその問題を見るなり「ココに答えはない」と答えたのですが、その“叔父”というのが…その問題となった文章を書いた“作者本人”だったというオチがあるのです。
つまり、国語の問題は作者の意図を外れてでも成立する…という典型例なのですが、そこに沿うように読もうとすると、得てして本来の「文学」という芸術を味わうという部分からは遠ざかるコトにもなりかねないのです。
読んで、何らかの感想を持つ。。「感想を持つ」なら芸術に触れたことになるじゃないか!と言われるかも知れませんが、それはちょっと違うと思うのですσ(^-^;)


れを音楽に置き換えてみます。これはよっちが実際に経験してしまった笑い話のようなお話なのですが、ベートーヴェンの交響曲第9番の演目を含む、とあるコンサートでのこと。
その前に数曲、違った曲をやって…いよいよ第九の第1楽章が始まりました。そして第2楽章へ…。この時、前の列にいたご婦人のグループでこんな声が挙がりました。
「早く、第九が聴きたいわ。それだけを聴きに来たのに…前置きが長いわね。」 え?!( ̄口 ̄)
そうです。そのご婦人方はあの4楽章だけを『第九』と思っていた訳です。つまり…ベートーヴェンの交響曲第9番を全部聴いたことがない…という訳です。

確かに、そのご婦人方…楽章の合間に拍手をするというベタな失態は演じなかったのですが、止せばいいのに…それが後ろの席に聞こえるような声で宣ったものですから、周囲から失笑を受けておりました。まぁ、その中に優しい御仁(?!)がいて、自分の連れに解説するような口調で、これが第2楽章だという話をされたことで、それ以上の展開はなかったのですが(意地悪なよっちは、その後も放置した方が面白いと思ってみていたのですけど)、こういうことがあっては芸術に触れたような“錯覚”で満足するだけになってしまうのではないか…と思うのです。

び話を文学に戻します。小学校・中学校でよく出された「読書感想文」。悩みましたよね…酷い時は単行本の後ろにある解説を写したりして(笑)
けれど、「解説」というのは一種の「分析」…つまり文学者の文章に対する文学的考察という学問的分野を含むのです。それは「感想」でも何でもありません(だから、学校の教員はすぐに見破るのです(^^;))。それは…上に書いた美術の教員が「印象派の画風は云々」というのと少しも変わりません。

小学校3・4年生の国語教材に『ごんぎつね』という有名な教材があります。そして、この授業の進め方の最後は…これまた有名な展開で、その後を書かせる…というものが多く見られます。すると、驚くべきコトに8割以上の子どもが「実は“ごん”は生きていた」という筋書きで書くのです。それは、本文中のドコにも鉄砲の弾が直撃したという内容が描かれていない…ということに起因するのですが、子どもはたくましい想像力でその世界を描くのです。
実は、このピュアな発想こそが「芸術」を味わう結果の1つの形なのではないかと思うのです。そのものに“触れる”ことで想像力を働かせ、そこから何かを得て自分の糧とする。。それこそが芸術に触れる神髄なのではないか…と思うのです。

筋書きを理解して・読解したら終わり。というのでは、文章を世に送り出した作家の思いが全く伝わっていないコトになります。感動なり何なりで…心が動いてこそ「芸術」なのです。
想像力というのは神が人類に与えたもうた最高の能力です。その最高の能力を震わせてこそ、芸術に触れるということになるのではないか…そう思うのです。


さて、音楽です…

代の音楽というのは、実に多種多様なジャンルに分かれています。世界各国の民族音楽や歌謡曲…そしてこのHPで取り上げているクラシック音楽やBGM音楽に至るまで、全てを知り尽くすのは一生かかっても困難だというほどの多さです。
ですが、音楽というのはある1つの需要に基づいて作り出されている…そして奏で継がれているというコトにお気付きでしょうか?

それが「人の心が欲する音楽」というもの。歌謡曲も然り、民族音楽はその典型と言えるかも知れませんし、BGMもそうした需要に基づいたものです。

本では年末恒例の“第九”ですが、ご当地であるヨーロッパなどでは、そんな頻繁に演奏されることはないと言います。それだけのステータスがあって、意味がある…と考えられるからなのでしょう。世に出た音楽は、その後は必要とされ続ける場面がある限り奏で歌い継がれて行くものなのです。
ただ、文学や美術と異なるのは、作り出した人間が意図したことを意図したまま伝えられていくと言い難い部分を多く含んでいる…ということなのです。例えば美術であれば、その絵によって感銘を受けた・美しいと思う…という方向性が定まります。文学はそれより少し複雑で、作者の意図しない読まれ方をしたり、あるいは上に書いたような読解だけに偏って何も得ない…ということも起きてしまいます。ですが、音楽はさらに“転用”とか“編曲”という形で、思いもかけない使われ方をしたりするのです。

美術より文学が受け手によって複雑になる…というのは、ココでは詳細は避けます。ですが音楽は…至る所で耳にします。
例えば上の例に挙げたハチャトゥリアン。バレエ音楽としての「ガイーヌ」よりも「剣の舞」の方が有名すぎるのですが、あれは当初は含まれていなかった音楽なのです。ところが初演前日になって「クルド人が剣を持って闘いの踊りを踊る」という場面が急遽追加されることに…。そこで踊りに相応しいリズムを机を叩きながら徹夜で考え…あのリズムが生まれ、一気に曲を書き上げたといわれます。ところが、あまりに曲だけが有名になってしまったため、ハチャトゥリアン本人は「こうなると知っていたら、この曲は書かなかった」と複雑だったというのです。そのハチャトゥリアン自身、これが小学校の運動会だの、映画音楽だのに“転用”されるとは思ってもみないでしょう。
同じコトは、ヴェルディのレクィエムにも言えます。誰もあの“怒りの日”が、映画音楽や、ましてアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」のCMに使われるとは思わないでしょう。

楽というのは、イマジネーションの世界…と言えるのかも知れません。イメージさえ合致してしまえば何でも使える。まして“歌詞”によって制約を受けない場合(酷い話、外国語で何を言っているか解らない場合も含みますが)、その幅は驚くべきものになります。
逆からこれを言えば、心に触れるという点に於いて、音楽は誰にでも受け入れやすい素地が存在する…とも言えます。
ある映画の関係者が、バックに流す音楽に迷った時には“このクラシック音楽を使う(確かヴィヴァルディの『四季』の『冬』だったかと記憶しています)”という話を、某昼間のトーク番組でしていたことがあります。程々左様に、音楽というのは「元がこうだから、こう聴かなければならない」という制約がないのですσ(^-^;)

ですが、何故か学校教育の音楽の時間…というのは、このないはずの“制約”を付けようとします。確かに、作曲家の背景や心情を含めて…という“学習指導要領に則った授業”というそれこそ制約の多い中では、致し方ないのかも知れません。
けれど…そうなると1つ、触れられない事実というモノも出て来てしまうような気がしているのです。


“授業”的音楽で触れられないコトを…

楽というものを、授業でやる場合…どうしても「作曲家の思いを汲み取り、想像力を喚起する」などという大上段に振りかぶったようなお題目が付くのですが、実際には…それほど大上段に振りかぶるような理由を持たない音楽もあるのです。
例えば上の文章で取り上げたハチャトゥリアンの『剣の舞』。あるいはバッハの膨大な数のカンタータを考えてみれば、“需要”があって“供給”したという音楽もあるのです。言ってみれば「商業主義的音楽」とでも言えるモノが、クラシックには多く存在するのです。
ましてやクラシック音楽の大半(?!)がそうであるように、パトロンが存在して…そのパトロンの意向が反映されている音楽。。というのはザラにあるのです( ̄〇 ̄;)

際のところ、クラシック音楽といえども意外と世俗的でなければ存在し得ないのかも知れません。ただ、ドコでどう間違えたか…敷居が高く感じるようになってしまったのです。

その敷居の高さを、改めて低いモノにしよう(もっと親しみやすいモノにしよう)という試みは、色々なところで耳にします。運がいいのか悪いのか、作曲家の死後相当な年月が経ているため、クラシック音楽に著作権が存在しない…というのもあるかも知れません。
例えばそれは現代音楽アレンジであったり、あるいはそれは、某国営放送で放送されている『ゆうがたクインテット』でのコンサート風演奏会であったり。。とにかくクラシック音楽はカビの生えた旧態依然の音楽ではない…ということを知らしめる行為は、そこかしこで耳にするのです(=^▽^=)

々と書いてきましたけど、このHPにも“こぼれ小話”のような、作曲家は雲の上の人間ではなく…ホントに普通の人々だということ、そこから生まれた音楽もまた敷居の高いモノではないということ…そういうことを少しでもこのHPを通して感じ取って頂ければ、そこから心のオアシスに辿り着く方が1人でもいて下されば…このHPを立ち上げようと考えた珠乃も、そしてそれを受け継いで、こうして編集をしているよっちも、嬉しいと思うのです。

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