アッバキアート







雨が降った。




ばちゃばちゃと音をたてて誰かが歩く。
ところどころに水たまりのできたコンクリートの上を歩く革靴。
白いズボンは裾に泥が跳ね、茶色く汚れている。
気のせいか早足にどこかへと向かっている。










「夕立ちってやつよ…ばかね」
くすりと白い歯を見せて笑った彼女に、僕は少しだけむっとする。
けれどそんなの顔に出したらまた子供ねとからかわれるのは目に見えていたから、
いや、脳裏に張り付いていたから、止めた。


少しでも、大人になりたかった。


「紅茶…いる?」
かくん、と軽く頷いた僕に、彼女は笑みの形を作った。


体があったまった。体の中を熱い液体が通っている感覚。



三時の料理番組を見て、彼女を思い出した。
大方、よく、料理をつくると言っていたのが原因だろう。
そんなちっぽけなことを覚えている僕は、どこかしらおかしいのかもしれない。

頭の螺子が飛沫と一緒に弾け飛んでしまっているのかも知れない。

そう考えると、おかしくなってさっきの彼女みたくくすりと歯を見せて笑った。



「雨竜君…正常かね?」


いや、まあ、それは。

熱い紅茶が湯気をたてていて、その湯気が僕の眼鏡を白く曇らせる。
それでなくても、外との温度差が激しくて家の中に入った時曇ったというのに。
更に言えば、雨のおかげでレンズに水滴が跳ねているのに。



アンティークな掛け時計が四時を知らせる。
僕はこの掛け時計が、好きだ。



「あなたはばかよ…。いつも自分を虐げてる」


突然彼女が言った。また、くすりと歯を見せて笑いながら。

僕の髪を自分の手で掻きあげるように、梳いた。




その暖かい手がとても好きだと思うのだ。




何を言ってるのかは、よく解らなかったけれど、なんとなくはわかった。



『僕が、自分を虐げてる?』


「そんなこと、ない」


アンティークな掛け時計はさっきから三分経った事を僕に教えた。
そして、秒針は変わらず動く。



元気が、ない。



僕の髪を梳いていた手が止まる。
僕は必然的に見上げた。見ようとしても見られないけれど。



なんだろう。



「そう心配しないで…」

失笑している。

やっぱり、また僕を子供みたいねなんて。



そして、彼女は僕の頭を撫ではじめた。


何が起こってるのかは良く解らなかった。
たぶん、解ろうとも努力しなかった。



心地よくて、暖かい手が僕に優しさを教えてくれているようで。
そんなのは、きっと解りっこない。でも、心のどこかで、そう思った。



彼女は心地良さそうに、目を閉じた。黒い、深い目が閉じられた。





なんか、苦しい。
こういうのを、元気がないと、言うのだろうか。




「そんなこと、ない」
繰り返した。
言われている言葉は違ったけれど、言う言葉は同じだった。



三時に見た料理番組に出てた女の人が、ちょっとばかっぽかったけど彼女に似ていた。
すこしだけ、すこしだけ、すこしだけ。
目の奥深さが似ていた。それだけ、それだけ。
テレビの女の人は焦茶色の目だったけれど、深い目は同じだった。







「そう…」
きっと、元気がない。
それは僕も彼女も。
そう、僕も、彼女、も。






いつか、クラスメイトが言ってたんだ。
取っ付きにくいねなんて。

そんなちっぽけな事、気にしてるわけじゃない。


でも、そんなちっぽけな事を覚えている僕は、どこかおかしいのかもしれないな、と。



やっぱり、頭の螺子が飛沫と一緒に、弾け飛んでしまっているのかも、知れない。






灰色、彼女のイメージはそんな感じだ。
とにかく、暗い位くらい。誤字じゃない。暗い、んだ。



彼女が、眠ってしまったのを見た。
僕の肩に頭を預けてすやすやと心地良さそうに。 手が、首についていた。




こんなにも、弱い、僕を、必要としてくれているみたいだ。


その、白い手が。




こんなにも、こんな、にも、弱い僕を。







必要としてくれているみたいだ。







元気がなかった。
僕も、彼女も。







必要だったのかも知れない。
自分を必要としてくれる存在が、
自分を守ってくれる存在が。





僕が、守ってあげられる。




から。




















自意識過剰だったかもしれない。








白い白い白い白い。




その、手が。




脳裏に張り付いていた。

子供みたいねとからかう彼女の白い歯と笑みの形と一緒に。









元気が、なかった。





元気が、なかったのかもしれない。





いや、なかった。









元気が、なかった。













遂にはアンティークな掛け時計は五時を知らせた。













(アッバキアート…abbacchiato-元気なく「音楽用語Web辞典」様より)








BACK