何とも阿呆な話なのですが、少しばかり付き合って下さい。
それはきっと、彼が私にそう告げた時から、そう、始まっていたのです。



。僕が死んでも、後を追うなよ」




そう、私は彼が本当の意味で阿呆だと思うのです。







アッドロラート






そう、それは、確か毎週私が見ているテレビ番組が終わった直後の事でした。
その日は金曜日で、明日からは夏休みという日でした。


電話がかかってきました。一本の電話です。
ジリリリリ、と単調な音を繰り返し鳴らしていました。



「はい」

電話に出ると、受話器の奥からは聞きなれた声が聞こえて来ました。
それは、そう、彼の声。


何でも、話したい事があるらしく今から家へ来るそうです。
時刻は八時。とても男子高校生が女子高校生の元へと来る時間帯ではありません。
それに加え、私は一人暮らしです。心配です。


数十分後、彼がきました。いつものように白い服を身に纏って、眼鏡をかけていました。



しかし、いつもとは違いました。
変に真剣な表情をしていたのです。



…」

「なに」

玄関に突っ立ったままの彼が私の名前を呼びました。
汗がひとつ、彼の頬を滑り落ちます。



「僕は死ぬかも知れない」


何を馬鹿な事を言っているのだろうと思いました。
けれど、その声は嘘を言っている声ではありませんでした。
つまりそれは、本当なのです。彼は、本当に自分が死ぬかも知れないと悟っていたのです。




「そう」


私は、冷静に返しました。変に動揺してはかえって彼を困らせるかも知れないと考え付いたからです。



「僕が死んでも、後を追うなよ」






それだけを言って、彼はドアノブに手をかけました。
私はよくわからないままに、彼にそう告げられたのです。




「行く前に、言わせて」



そう、このまま手を離したら、そのまま消えてしまいそうな気がしたからです。

そう、まるで次に会う時は彼がお骨になってしまっているような。
いや、死んだように眠り続けてしまっているような。


とにかく、もうこの彼とは会えない気がしたのです。












「好きだった」














そう、その時の彼の顔を、私は決して忘れません。




そのまま彼は、ドアノブをまわして去って行きました。
何を告げに来たのかは明確に解っているのに、実際のところ何を告げられたのかはわかっていませんでした。
やっぱり、成績が下から数えた方が早いっていうのは、駄目なのかな。
私はそんなことを思いながらも、いつか友達に聞いた彼の携帯のナンバーを押していました。
必死でした。そう、必死だったんです。汗はだらだらと流れるし、それは今更になって彼はもしかしたら自殺志願者だったのかもしれない、今から死にに行くのかも知れない、などと変な空想が頭を過って来たからかもしれません。




「ああ…。おこんばんは。さっきはどうも。用はひとつ。まじめにきいて」


彼の静かな声は、聴こえるはずもありませんでした。
受話器から流れる音はなにもありません。それは少し、無気味でした。





「他殺は結構、だけど自殺は御遠慮願います」





そのまま、受話器をおきました。




自分でも何を言っているのかわかりませんでした。ただその時はひたすらに彼が自殺さえしなければ良いと、思ったのです。そう、他殺でも殺されてしまったら意味がないとどこかではわかっていたかもしれないのに、 私はそれでもそれだけを告げて電話を切りました。そしてそれ以降、彼に電話はかけていません。




あのテレフォン・ナンバーを意地でも暗記しておけば、今私は少しでも救われていたかも知れません。
保証はありませんが、そうなんとなく思ったのです。



ナイター中継で二十分遅く始まった歌番組を見ながら、私はそんな事を考えていました。
そう、思い出したのは確かあの時もナイター中継で二十分遅く始まった同じ番組を見ていたから。
だからだと思います。




今、私は隣にいる彼を非常に愛しく思うのです。




それを言葉に出す事はありません。あの時一度きりでした。
かといって、行動に出す事だってありません。私が自分から行動を起こしたのだって、あの時一度きりだったかも知れません。






「どうした?」






低い低いその声が好きでした。とても。
けれど今は低い低いけれど優しいこの声が何よりも好きなのです。




「なんでも、ないと思う」





そう、私はこの今がとても大切で、そんなのどっかの安っぽい小説の一文みたいですがでも本当にそう思ったのです。



そう、私はあの時の彼の顔を未だに忘れていないし、彼のテレフォン・ナンバーだって覚えていないけれどそれでも、あの晩の出来事を忘れる日は来ないでしょう。
たとえいつか何かの拍子に忘れてしまったとしても、死ぬ直前の走馬灯で思い出す事でしょう。
死ぬ直前に思い出せれば、私はそれでいいのです。





テレビのスピーカーから聴こえてくる音楽はアッドロラート調でした。
それは何かあの時を思い起こさせるひとつの原因にもなったのかもしれません。

あの時、テレビから聴こえて来たのもこの曲でした。アッドロラート調で、非常に悲しくなったものです。








「ばかみたいよ、でもとまらない」

曲線みたいな自分の声が私は自慢でした。これだけが唯一私の生涯で残るもの。
彼だって良い声だと誉めてくれました。お世辞かも知れないけれど。





いつかの日の事を思い出してしまった私は、切なくなりたくないが為にそのアッドロラート調の音楽に、詩を乗せました。













(アッドロラート…addolorato-悲しそうに「音楽用語Web辞典」様より)





BACK