die.1










壁があった。その壁は決して他人には見えない代物だった。
高さは雲を突き抜け、幅は端が見えない程だった。
冷たい灰色をして、温度も触れた手をひやりと冷たさが襲った。


その壁は、あのひとと私をわける壁。
そして、けっして壊れない壁。

あちら側から、鍵を掛けられているに違いない。
だって、それは、絶対に越えられない境界線なのだから。
もしピッキングができるとしても、こちら側には鍵穴がなかった。
いや、あちら側にもないかもしれない。けれど、あちら側に行くことができないのだから、それを知る術はない。
壁が突き抜ける雲は、雨雲だった。汚い色をして、冷たい灰色を受け止めている。
雨は、向こう側は降っているのだろうか。こちら側は降っていない。
いや、この壁を隔てた先は、晴れているかもしれない。







何も、わからなかった。









夜中二時、彼女の家の電気は点灯していた。
家、といってもマンションの一室だ。二階で、ワンルームだ。


部屋は、血塗れだった。




「あっは…ッ……は……」


笑いながら、より深く己の体に傷を増やそうと、剃刀のせいで開いた肉のところへハサミを刺すため筆立てへ手を伸ばす。ハサミを、手探りで探す。手は震えている。
ハサミを、掴む。

勢いよく振りかぶったところで、宙に浮く手首を掴まれた。
手首を掴んだ手の主を辿ると、ベッドに座る彼女を半ば哀れみ見下ろす、石田雨竜がいた。
骨ばった、肉の薄い手だった。
掌にきっと血が付着してしまっただろう。
赤く、汚い血が。その血はの白いTシャツにべっとりと跳ねている


「…黒崎…くん……」

目を見開いて、はそう呟いた。
雨竜は、苦しそうに、まだを見下ろしていた。

そこにいるのは、雨竜の筈であるのに、が呟く名前は違う人間の物だった。


「…ッ、黒崎が、君をフッたと聞いたから、心配だったんだ」

は、俯いた雨竜を見上げ、疑問符をとばした。
少しだけ思案した後、思い当たった。
ああ、そうか、このひとも知っていたのだ。





「心配、される筋合いなど、ない、でしょ、う」

雨竜は、顔を上げゆっくりと首を横に振る。
今にも泣いてしまいそうで、こっちが苦しくなる。

目に涙など溜まっていなかったけれど、溜まっているように見えた。



(君は、おかしいくらい、黒崎を、愛していたから)

その声はあまりに小さく、掠れ過ぎていて、とても聞き取れなかった。




血走った目で、手首から滴る血を見つめ、それから傷の上からの手首を掴む雨竜の手を見つめ、はゆっくりと呟いた。
「なんで、とめる、の、石田、くん」



きっとこのハサミを思いきり刺せば、死ねる。
きっと、たぶん。
それを望んでいるわけではなかったが、そうしなければ『いけなかった』のだ。




「君に死なれちゃ、困るんだ」



それは、今にも泣きそうな声で、辛そうだ。
可笑しくて、は、思いきり高笑いした。








「ばか、よ、ば、か。私なんて、死んでも、いいの」

目頭には僅かに涙が溜まっていた。
しかし、涙のせいで目が潤むこともなかったし、その涙が頬を伝うことはなかった。


「成仏出来ないぞ。永遠にこの世を霊として彷徨い続けることになる」


「それでも、いいのよ」



ふと、彼女は、寂しそうな笑顔を見せる。
今までの表情とは、気違いじみた表情とは全くの別物だ。
目は血走っているが、いくらか睫毛を伏せているので血走った目は僅かに見えるだけだ。
睫毛は、頬に影を落としている。






「きっと、朝礼で黙祷するでしょう。そのとき、あのひとも手を合わせるでしょう」




それだけで、うれしくて、たまらない。
もし一瞬だけでも、私の事を考えていてくれるのなら。







「黒崎は、何も知らずに、明日学校へ来るだろう」

君が自殺を計ったことなど、何も知らずに。
雨竜は、続けた。



「僕は、それを見ていたら、堪えられない」

「もし死んだら、そのことはあの人の耳にも入るでしょう」
「入る、だろうな。きっと」


「私は、それだけで充分、なんですよ」



もしかしたら私は、あんたのせいで死んだのよと、あの人を一生鎖で雁字搦めにしたいのかもしれない。
この、安い命のおかげで、あの人を、一生私という鎖で閉じ込められるなら、それもまた、いい。




そう、思っているからかも、しれない。





「充分?自分は死ぬのにか」

さきほどまでの弱々しい顔ではなくて、嘲笑うような、顔だった。

雨竜は、手首から手を退けない。
骨ばった手から、血が流れた。
の血が、雨竜の手を伝って流れる。

傷に、荒れた手が染みた。

あの人の手も、こんなふうに荒れていた。


私達は友だちで、それ以上ではなくて。
馬鹿騒ぎをする、だけだった。





「そう、いい、んだ」









涙が、頬を伝った。



口を歪め、雨竜を見た。












ああ、やっと泣けた。




涙よ、全て、洗い流しておくれ。
塩っぱい涙、お前では無理かもしれないけれど。

























ええ?何これ。いってえ。






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