合格レポート集(といっても参考文献丸写しですが(^_^;))

 

 

合格レポートを書くためのポイント

2000文字以上書くこと。

課題のお題に関することがらについては漏らさずすべてを書くこと。

課題のお題から、それないこと。(脱線してしまうと不合格になってしまう)

奥の手は、教科書丸写しだとすぐに解るので、丸写しするならば基本書から。(図書館で借りるといいと思います)

以下は私のレポートです。(写してもいいですが、言葉の語尾などをちょっとだけ変えてね)

 

法学
課題1 法の概念について
課題2  自然法論の法史的意義について
課題3  国民の司法参加について
課題4  法の解釈について
   
憲法(清水先生教科書)
課題 1  自己決定権はどのような問題となるか、具体的な例を挙げて述べなさい。
課題 2 裁判を受ける権利とはどのような権利で、この権利の保障のためには何が必要なのか述べなさい。
課題 3 報道の自由と知る権利の関係について述べよ。
課題 4 議院の国政調査権の意義と限界について述べよ。
   
民法1(総則)
課題 1 狭義の慣習法と事実たる慣習との関係を説明せよ。
課題 2 無効な契約あるいは取消すことのできる契約が誤って履行された後、無効が確定あるいは取消された場合の法律関係について述べよ。
課題 3 「権利能力なき社団」は現在では判例・学説上どうのように扱われているか、その法的構成を説明せよ。
課題 4 民法94条2項の類推適用による登記公信力の代用についての判例法理について説明せよ。
   

 

 

 

 

 

 

 

 

私のレポート
法学
課題1 法の概念について
評価A「何故に法の概念を定義する必要があるのか、ていねいに説明しており、好印象のレポートです。最後の結論までわかりやすく論旨が展開されています。残念なのは、「社会」の意味についての記述です。こういう議論は何のためにあるのか、その背景をもっと説明する必要があったと思われます。
「法という言葉を概念規定することは難しい。何故なら法は抽象的存在ではなく、具体的存在であるからである。ロンドン大学のグランヴィル・ウィリアムズによれば法の概念の問題は認識上全く無意味な言葉の問題にすぎない。

法の概念も各人の任意規定に委ねられるものとする。<法>という言葉の定義に関する言葉上の問題を処理する唯一の方法はそれについて考えたり論じたりすることをあきらめることであると法の定義を否定している。しかし、こうした法の概念規定をたんなる言葉の問題として否定する見解は一種の法のアナーキズムに通じかねない危険性を内臓する。しかし、法の定義が困難であるからといってただちにそれはウィリアムズのような法の定義の破壊的否定論にはつながらない。法は、法文化・制度=機構・法実践の主体の一種の函数関係のなかで歴史的に生成し、発展してゆく。こうした特性を持つ法をどのように定義するかは定義をする者の定義の目的によって定義の善悪が決まるのである。

帰するところ法の定義は便宜的なものである。だからといって、法の定義に学問的価値がないということではない。何故なら、法に関するある種の総合的な概念規定がなければ、法の性質、構造、機能というものを解明することが困難となり、ついには法というものの有機的生物体の全体像とその存在価値を明らかにすることもできなくなるからである。

では法を定義するにはどうしたらいいのか。それは法の実質的定義の意味を理解しなければならない。

法は常に人間とともにある。法を作るとき、法を運用するとき、法の世界の人間が、社会の平均的人間であることを見誤ると、法はその生命力を失う。その典型的事例がアメリカ合衆国が1919年に憲法を改正し合衆国の領土内で飲用を目的とする。酒類の製造・販売・運搬・輸出・輸入を禁止した。いわゆる禁酒法である。法の目的に反し、かえって密醸造、密輸、密販売、それに伴うギャングの横行、犯罪というように、社会不安や衛生上の弊害が顕著になってしまった。このように社会の平均的な人間を対象とすることを無視した法は守られることはない。人間集団の社会には必ず法がある。その意味において法は社会の生活条件である。では法が成り立つ社会とはどんな社会なのか。法の本質にかかわる問題だけに学説の間に争いがあり、国家説、部分社会説、全体社会説の3つに分けることが出来る。国家説とは、法の形成、存続の基盤たる社会は国家であるという説である。部分社会説とは、ある一定の目的、利益を追求するために意識的に組織されたそれぞれの社会に国有の法があるという説である。全体社会説とは、法は全体社会を基盤として存立し、正義・実現の要求のもとに立つ所の強面的、外面的、一面的な社会規範であって典型的には、その全体社会における組織強制をその効力保障手段としてもつ所のものである。法は全体社会、国家権力によって作られ国家の公的権力による強制を背後にして法の導守を強制する。しかし、法が法として行なわれるのは、法規範に服する多数の人々が、この法について自分達の準拠すべき正当性を有するものとして承認しているからにほかならない。時代が進歩と社会の変化のために社会の諸要請に適合できなくなった現行法への承認を人々が拒絶し、悪法を改廃することが、あるいは逆に人々の利益にかなう新しい法規範を作り出そうとする場合、こうした人々の能動態意思はもはや承認ではなく世論である。

世論はたんに法を支える力にとどまらず法を創造する力でも有る。社会の人々の要求や願望は社会集団や諸機関を通じて特定の見解となり、次第に特殊社会や機関の枠を超えて国民社会全体のなかに融合し、世論が形成される。当初は特殊社会集団の要求とか願望にすぎなかったものが国民社会全体の世論へと凝結するのは、人々の要求や願望がその時代とその社会の諸々の要請を最もよく満たし、その限りで人々から正当だと観念されて法の理念ないし目的に合致していると国民の大多数が確信するにいたるからにほかならない。

この意味で法規定が法規範としての効力をもつのは公権力による強制ではなく、国民の間における正当性なる理念とそれに対する法的確信ないしは承認ということになる。 つまり、法の概念とは法の定義が便宜的なものであるために一語で説明することはできないが、法そのものの本質は、平均的人間の社会規範であること。人倫における客観的道理の社会規範であり、強制を本質的特徴とする社会規範であり、正当性の確信に裏付けられた社会規範でなければならない。」

課題2 自然法論の法史的意義について
一度目はDでした。7ページしか書いていなかったので、文章量が足りなかったようです。二度目の評価でBをいただきました。
評価B「前回と比べると、内容の理解の深まった答案となりました。特に自然法学の今日的意義に言及しようとした点は評価できます。ただし、実定法学との交錯した場面についての言及が不足していました。
自然法とは人為的で可変的な実定法に対して人間の本性とか理性、神の意志や理性、事実の本性などに基づいて自然法に存立し、普遍妥当性と不変性を持つ法のことである。

わが国では明治初期に性法と呼ばれ、典型的には実定法に対する高次の法として実定法の妥当根拠ならびに正・不正の判定基準を提供し、自然法に反した内容を持つ実定法の法的効力は否認された。

自然法のストア学派によってはじめて明確に提示された。このような思考様式自体の起源はソフィストのノモスとピュシスという対比図式までさかのぼる。

ローマ法において人法と神法とが分離され宗教的要素がみられないのに対して顕著な対照を示すのが聖トマスを代表者とするヨーロッパ中世のスコラ学派である。アリストテレスの考えをカトリック神学と結びつけて発展させ、「永久法」「自然法」「人定法」を相互に結びつけた。

独自性を否定された法学には学問としての致命的な限界があり、聖書、モーセの律法が実定法な神法として法源性を認められ残虐な恣意的裁判を生むことになった。スコラ的法学はアンシアン・レジームの支柱となり、これに反撥してフランス革命の準備段階として合理的自然法思想さらに啓蒙思想が起こった。

近代自然法論が現代の国家や法の発展に寄与した点は、近代国家の理論的原型の構築、体系的概念構成と演繹的な論証方法の確立、社会改革の国家計画としての体系的法典の編纂の3点が挙げられる。

近代の国家像を理論的に集大成したのがホッブズとロック、ルソーなどの社会契約論者である。

 ホッブスは人間にとって最も重要なことは生命の保持=自己保存であり、国家の役割は全成員の自己保存の保護にあると説いた。各人が自己保存を貫徹させるためには各人の自然権を放棄する以外にない。その放棄の代償として各人は共通の権力、すなわち主権を設け、その主権者に強制力を付与し、主権者の命令たる法律の導守を通して各人の生命の安全を図るという契約を結べば<自己保存>という人間の最高命題は保持されるとし、このような主権が創設されたとき国家は生誕すると説いたのである。社会契約説において臣民の主権者に対する服従義務が認められるのは主権者が彼らを保護しうる権力を持っている限りであり、主権概念は功利主義的である。ホッブスの思想は相互に矛盾する絶対主義、個人主義の要素が雑居している。

 イギリス経験主義哲学の代表者とされるロックは政治論では自然法論者である。

 ロックが自然法や社会契約の思想を認めたのはホッブスに絶対主義の要素がみられるのとは反対に人権擁護のためだった。

 社会契約には結合の契約と服従の契約とのニ段階があり多数決原理が認められる。議会制民主主義が準備されフランス革命に強い影響を及ぼした。

 ルソーの一般思想の理論にはヘーゲルの国家理論を含め倫理的国家の理論の真の根源となった。

 自然法論者にとって、人間の本性が第一の基本命題であった。こうした命題や公理を体系の頂点にすえ、論理的名証性をもって各種の概念を演繹的に導き出したのである。

 こうした方法を用いて自然法論の巨大な法律学的体系を打ちたてたのが、ブーフェンドルフであった。

 この自然法論的方法はその後、歴史法学を経てパンデクテン法学を圧倒的に支配し、ドイツ民法典やこれと関係ある諸法典に決定的な影響を与えた。理性的かつ道義的行動がより良い社会を創造するという信念が法典の精神を支え、マクシミリアン民法典、プロイセン一般ラント法、ナポレオンの民法典、オーストラリア法典を制定させたのである。

 旧来の秩序が根底から動揺するか、崩壊し去った時代の転換期に自然法論は形成期にあった市民社会の要請する国家法秩序を建設する輝かしい旗手だった。

 自然法学はカントによって理性法へ転回し、かつ超克されるとともに歴史法学派の痛撃を受け、19世紀初頭あら勢威を失った。イギリスでもそれは功利主義法学や分析法学にとって代られた。法の根拠を民族の法的確信という社会心理的要素に求め、歴史的に現実の法を研究した点は歴史法学の大きな功績であった。

 この学派は歴史学の旗印の下に法と法学を新たに解明し、革新していった。

 しかし歴史法学は歴史学を標榜しても現に行なわれている法、すなわち実定法だけが学問的対象であった。

 歴史法学の本質的な仕事は歴史的記述にあったのではなく、実定法、とりわけ私法とその法解釈の体系的構成にあったのである。

 歴史法学が自然法論から受け継いだ最大の遺産は自然法論の公理主義・体系・方法であった。歴史法学に課せられた課題は、最高命題・公理から一般概念から特殊概念へと導き出す自然法論の概念構成と体系的方法によって成就したのである。

 自然法論思想そのものはその後もいろいろの学派の法思想の中に命脈を保ち、特に現代ではトマスに根をひく自然法論が有力にとなえられる一方、第二次世界大戦後のドイツではドイツ観念論、価値哲学、現象学などによりながら、またカトリックあるいはプロテスタントの神学的立場から、さらに法史学的考察の立場から自然法の議論が盛んに展開された。

 現代自然法論は、自然法と自然法論との区別、自然法原理の基礎づけや種別、機能、法の歴史性との結合、自然法の実定法への内在化等々について多様な見解を提示して自然法論に対する従来の批判を克服しようとしている。

課題3  国民の司法参加について
評価B  基礎的な知識はあると思われますが、論述の進め方等、なお再考を要するところも見られるようです。まず始めに、本問が何を問うているのかを端的に指摘し、出題への理解を増します。

国民の司法参加を要請する法的原理=国民主収にもふれておく。議論の出発点です。

 わが国の現行制度を紹介するのが先でしょう。間接的な参加と直接的な参加に分かれているのはよい。しかし、ただ数え上げるだけではむしろ意外に多いという印象を受けるはずです。(全部の10近い。)

ナゲティブな評価を下すためには、運用の実態にも立ち入った検討を加えることが必要となります。

改革の方向性を探るため、諸外国の制度を参照することが有益です。もちろん、そのまま導入すればよいというものではない。

得先について、慎重な判断が求められるでしょう。

 世界には英米法諸国による陪審制度、ヨーロッパ大陸法諸国や旧社会主義諸国による参審制度がある。陪審制度とは法律の非専門家である一般国民が裁判官から独立して評議評決を行うことである。

 参審制度とは国民から選ばれた数人の参審員が職業裁判官と一つの合議体を構成し、職業裁判官と同一の権利、義務をもって裁判を行う。裁判の両当事者の間に力の不均等がある場合には、一般国民または利害関係者が参加する制度がとられ、専門的事件においては専門家の参加する制度がとられていると言える。

陪審制度も参審制度も密室の中で行なわれる職業裁判官の合議による裁判に対して国民が参加し、裁判に対する監視統制、透明化の機能を果たし国民主権という民主主義の理念を現実化している。

 他面において複雑かつ高度に専門的な裁判の場合、素人では判断の形成が困難ではないかという批判もある。

 しかし原子力発電所の許可問題などの科学技術的訴訟、良心的兵役拒否を認めない行政決定の取消訴訟、人間の生命倫理が問題となる医療倫理が問題となる医療関係訴訟のような場合はむしろ、健全な市民的理性に基づく倫理的判断が要求され、この点においては非専門家の国民が参加することに積極的な意義がある。

日本における国民の司法参加は世界に比べて制限されている。

 間接的な参加としては最高裁判所、裁判官の国民審査の制度(憲法79条2項)、最高裁判所や簡易裁判所の裁判官に非法律専門家である国民のなかから任命する制度(裁判所法41条、45条)、内閣における裁判官の任命(憲法79条1項・80条1項)である。

 直接的な参加には5つの制度がある。

 第一は簡易裁判所における審理や和解の手続きに参加する司法制度である。(民事訴訟法358条14−6)

 第二は家庭裁判所の審判に立ち会い、または意見を述べる参与員の制度である。(家事審判法3条、10条、10条の2)

 第3は海難審判にあたっての原因の探求がとくに困難な事件の審判に参加する参審員の制度である。(海難審判法14条)

 第4は民事調停または家事調停で調停委員会を構成し調停に関与する調停委員の制度である(民事調停法6条、8条、家事審判法3条、22条の2・27条の3)

 第5は検察官が不起訴処分した事件の当否を審査する(検察審査員)の制度である。(検察審査会法4条、2条1項)

 しかし日本における現行制度は部分的なものにすぎない。

 日本の陪審制度は昭和3年から昭和18年までであり、陪審法が停止されたのは戦時体制の時局の激化という時代的背景もあるが、制度そのものに数々の問題点があったからでもある。

 第一に陪審事件は刑事事件に限定されすべての刑事事件が陪審に付されたわけではない。

 陪審制度は法定陪審と請求陪審に分かれ、決定陪審については死刑または無期に当たるような特別の重罪に限られていた。請求陪審については陪審を請求して有罪となった場合に多額の陪審費用を支払らわねばならなかった。

 第二に皇室に対する罪、選挙法違反の罪、軍機に関し、犯した罪、治安維持法違反の罪などは、陪審不適事件とされ、陪審に付することができなくなってきた。

 第三に陪審員の資格が非常に限定され、一定の直接国税を納め、読み書きの出来る30歳以上の男子に限られ、女子には資格がなかった。

 第4に、陪審の評決である陪審の答申は過半数で足りるものになっていた。

 第5に裁判官は陪審の答申が妥当でないと判断した場合にはそれを受理せず、もう一度他の陪審に裁判をやり直せることができた。

 これが陪審の更新の制度である。

 第6に普通の事件の場合には3審制度がとられていたのに対して陪審付議事件の場合は控訴が認められず大審院に上告できるだけの2審制度がとられていた。

 日本の陪審制度には制度的限界はあったが、人権擁護のうえでかなり重要な機能を営んでいた。

 付議された陪審事件は2割以上が無罪となっている。

 この無罪率は非常に高く、被告人の人権擁護のうえに有益な制度であった。

 しかし国民主権の憲法秩序の下で日本の司法は職業裁判官の官僚裁判官の官僚的色彩が強い。

 今後、司法と国民の接点、国民の考えを司法制度にどう反映されるかが、問題となってくるだろう。

課題4  法の解釈について
評価C   全体的にみて小さくまとめ過ぎています。何故、法の解釈は必要なのか。概念法学的解釈、それぞれの長短所は何か?

種々の解釈技術はそれぞれいかなるものなのか。法の解釈は解釈者の主観的判断に過ぎないものか?

法の解釈とは、実体法の規範的意味内容を確定すること、「法の適用」と区別されずに判決作成活動全体を指す意味で用いられることもあるが、通常は法的三段論法の大前提を作成する活動を指すと理解されている。

法解釈においては立法者が制定当時に意図していた歴史的意味内容を探求することが基礎作業として不可欠ではある。

だが、法解釈の目標はそれが適用される時点で法的に正しい解決をもたらす意味内容を制定法の条文を手がかりに確定することであるから歴史的解釈が唯一の正しい解釈方法だとはいえない。

 法解釈の方法には大きく二つの立場に分けられる。

 概念法学的解釈学と自由法論的解釈学である。

 概念法学とは、法規の概念に依拠して形式論理的に法を解釈適用する立場であり、自由法論学とは法規の解釈をできるだけ形式論理に拘束されずに自由に事実に適合させるように解釈適用する立場である。

 概念法学的法解釈理論に立つせよ、自由法学的法解釈理論に立つにせよ、法律の解釈を通して法律の真の意味を確定していく場合に解釈技術として種々の方法が用いられる。

  先ず有権解釈と論理解釈とに大別される。

  学理解釈はさらに文理解釈と論理解釈に区分される。

 さらに論理解釈には拡張解釈、縮小解釈、補正解釈、反対解釈、類推解釈、勿論解釈などの方法がある。

 法の解釈は、制定法の立法目的、規制対象における利害対立状況、法適用の結果について利益衡量や政策的考慮などの価値判断を加えつつ、目的合理的に妥当な意味内容を確定する目的論的解釈を中心に歴史的解釈、文理解釈、論理解釈などの方法を適宜組み合わせて用いるべきである。

法の解釈においては、解釈者の主体性に支えられてなされた解釈が主体的に提起され、それがそのままの形たると、修正された形たると問わずに採用されてゆくと、その解釈は一定の社会的基礎を据えた客観性を獲得する。

 法の解釈は解釈者の主体性を通じて社会的に客観性を獲得してゆくのである。

 
 
 
 
 
憲法(清水先生教科書)
課題 1 自己決定権はどのような問題となるか、具体的な例を挙げて述べなさい。
一度目は、Dで再提出でした。自己決定権が、プライバシーの権利まで発展してしまったので……(^_^;)。
D評価「今回、大変よく勉強されたことはうかがえますが、方向性を誤ってしまったようです。まず、自己決定権の意義や根拠について述べた冒頭部分、内容に言及した2〜3ページまではよいと思います。

但し、後の展開として挙げられた例は「幸福追求権」ないし、「プライバシー」の問題であり、上記の例とは異なったものになってしまいました。

頭髪に関する例、バイク免許の取得に関する例、輸血拒否についての例など、自己決定権の問題として裁判になったものがありますので、それらについて検討してみて下さい。もう一度頑張って下さい。

二度目のレポートはAで合格でした。
評価A「課題につき、自己決定権の定義、意義、根拠が明らかにされ、具体的の検討が良くなされています。更に、判例の批判や詳細な学説の検討など、しっかりと行なわれていていいですね。今後とも頑張って下さい。」
 自己決定権とは個人が一定の私的事項について公権力の干渉を受けずに自らを決定する権利である。

人格的自律権ともいわれ、幸福追及権(憲13)の一内容と考えられている。 

自己決定権の問題として議論されている事項には、自己の生命身体の処分(治療拒否、安楽死など)、家族の形成維持(妊娠、出産など)、その他、身なり、ライフスタイルなどがある。

このうち、個人の生き方の決定そのものにかかわるものは、個人の尊厳の根幹部分を成すものとして公共の福祉による制限とは相容れないとされるが、具体的にどのような権利がそうした保護に値するかについてはいまだに議論の成熟をみていない。例をあげるならば、服装、髪型、顔のかざり(ひげ等)の自由である。

これは、社会団体における秩序、倫理観との抵触で問題になることが多い。

とりわけ教育の場である学校での規制については、学校長の裁量で、生徒の髪型、服装等の自由が一律に制限されている例があり、公立中学校で髪型規制(丸刈強制)についてその内容は著しく不合理でないとして憲法に反しないと判示した判例、高校校則による生徒に対するバイク規制(免許を取らない、乗らない、買わない)は社会通念上不合理ではないとした下級審判判決を肯定した最高裁判決等がある。

 生命に対する権利については、自己決定権の問題として、とらえうるものとして、まず子供を産む。あるいは生まない自由(権利)の問題があり、前者については精神障害者に対する断種(不妊手術)の強制(優生保護法による)、後者については、避妊、妊娠中絶規制(刑法212条以下、優生保護法)が例である。さらに自殺、安楽死も自己決定権にかかわる。生命に対する権利としては他に脳死、人工生殖、およびインフォームド・コンセントや新薬投与などがかかわる治療の問題がある。1997年に、「臓器の移植に関する法律」が制定され、脳死が一定の条件のもとに一人の死と認められるにいたった。

 自己決定権は、自己に関わる一定の私的な事柄について政府に干渉されることのない権利を意味する。13条の幸福追求権の一つとして学説によって承認されてきている。このような権利が承認されるに至った背景には、アメリカで妊娠中絶の権利などがプライヴァシーの権利として承認され、一定の私的な事柄について憲法上の保護が認められるようになったことがある。

自律権と呼ばれるものである。日本の学説はこれを受けて、これらの権利をプライバシーの権利として、あるいはプライヴァシーという概念を避けて「自己決定権」として捉え、憲法上の保護を及ぼそうとしてきたのである。どこまでを憲法上の基本的人権と認めるかについては、あくまで人格的自律に不可欠なものにかぎられるとする考え方と、一切の自由を基本的人権と認める立場が対立している。後者の立場は、ドイツの連邦憲法裁判所の判例理論に触発されたもので基本法2条1項で保障されている人格の自由な発展の権利が一般的行動の自由と理解されていることから、日本でも一般的自由を基本的人権と認めようとしているのである。最高裁判所は、まだこのような自己決定権を一つの基本的人権と認めてはいない。

憲法制定直後から今日では自己決定権と呼ばれるような自由の侵害が最高裁判所で争われてきたが、最高裁判所は主張されている自由がそもそも基本的人権かどうかを明確にしないまま公共の福祉を理由に制約を合憲と判断してきたからである。

学説がこのような自己決定権を承認しようとしてきたのは、日本ではこれらを他人と関わりない行為でもしばしば本人自身の利益のためのパターナリズムに基づく制約や他人の権利利益を侵害しない行為を社会の道徳を理由に制約することを排除するために自己決定権を基本的人権と認めようというのである。

しかし、このような自由を裁判所が基本的人権と認めるためには考えなくてはならない多くの問題が残されている。第一にさまざまな自由を「自己決定権」という一つの基本的人権と捉えることそれ自体が困難である。一般的自由権説では自己決定権は自由と同じであり、そもなければさまざまな自由の寄せ集めに過ぎない。人格的自律権説でも開かれた内容となっている、これらの自由を裁判所が基本的人権と認めるべき根拠がはっきりしない。さらに、学説はこれらの自由を自己決定権として認めたうえに、その制約にかなり厳格な審査を想定している。

 しかしそのような権利が認められたとしても、それに合憲性の推定を伴ったゆるやかな審査以上の厳格な審査を正当化する根拠はなさそうである。このような観点から、生命及び身体の処分に関わる自己決定権は13条の生命権及び身体の自由の問題として捉えた方がよいし、これらの権利は政治参加のプロセスに不可欠な権利とみることができる。

 家族の形成、維持に関わる自己決定権やリプロダクションに関わる自己決定権やリプロダクションに関わる自己決定権はむしろ24条の問題として扱った方が適切である。24条は従来家族に関する平等保護を定めた規定として理解されてきた。

しかし同条は平等権規定であると同時に家族の形成、維持やリプロダクションに関する個人の権利を保障した権利規定でもあると考えられる。本来、このような権利は政治参加のプロセスに不可欠な権利とはいえないが憲法は戦前の歴史を反省し、あえて憲法上の基本的人権としたものといえよう。

しかしそうである以上、このような権利については厳格な基準を適用し、厳格な審査を正当化することは困難である。

ただこれらの事項の中には性差別とみるべき事例が含まれており、そのような事例については24条の下で性差別として厳格な審査が行われるべきである。これに対し、ライフスタイルの自己決定権と呼ばれているものについては、裁判所がこれを基本的人権と認めること自体が適切ではないように思われる。

課題 2 裁判を受ける権利とはどのような権利で、この権利の保障のためには何が必要なのか述べなさい。
評価B  裁判を受ける権利を非訴訟事件との関係でいうと、裁判所により適正な権利となることをもっと明確にすること。
憲法第三ニ条は「何人も裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」と規定し、裁判を受ける権利を保障している。

裁判を受ける権利はすべての基本権保障の前提となる。

 この権利が保障されることにより他の基本権の保障が完うされるのである。

 裁判を受ける権利は、民事、行政事件の場合、何人も裁判所に自ら訴訟を提起することができ、裁判所は適法な手続きで提訴された事件については、裁判を拒絶することが許されないことに意義があり、刑事事件の場合、裁判所以外の機関によって裁判を受け、刑罰を科せられることはないことに意義がある。

刑罰裁判は「公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利」を保障した憲法第三七条第一項と重複する。

憲法第三七条は自由権として裁判を受ける権利を保障し、憲法第三ニ条は、請求権として裁判を受ける権利を保障した。

裁判を受ける権利は外国人にも保障される。

「裁判所において」裁判を受ける権利を保障し、裁判所」とは「最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所」(七六条一項)をいう。

 特別裁判所の設置は禁じているのでこの裁判所に含まれない。

 裁判所以外の機関が司法的処分を行う場合、それが前審としてなされ、裁判所に対して訴訟の提起ができるようになっていれば、この規定に反しない。

 管轄違いの裁判所がこの「裁判所」にふくまれるか否かの問題があるが、判例は憲法第三ニ条は法律で具体的に定められた管轄裁判所の裁判を受ける権利までをも保障したものではないから、管轄権のない裁判所のなした裁判は違法であっても違憲ではないとした。

裁判所はこの事件について法律上正当な管轄権を有する裁判所を意味するとの批判がある。

憲法は裁判所の管轄については法律に一任しているが、法律により、ある事件をある裁判所の管轄と定めているにかかわらず他の裁判所で裁判されることがあっても、それを単に法律に違反するのでは、もしも権限ある裁判所に対して訴えを提起したにもかかわらず、それを拒否された場合にも、憲法上保護されないことを認めることとなり、現代国家における司法制度の原則に反すると、いうのである。

裁判を受ける裁判を保障するのだから、裁判として成立しない場合、例えば具体的な権利保護の利益を欠く場合はその請求が排斥されるのは当然で、これは、裁判の拒絶にはならない。

 憲法第82条第1項が定める公開法廷における対審、判決という原則が充足されていないものも裁判といってよいかが問題であるが憲法第32条の裁判とは公正な裁判という意味で必ずしも公開法廷における対審、判決を保障される純然たる訴訟手続きにあたる裁判ではなく、各事件に応じた適正な手続きの定めた広い意味の裁判をも含むと解すべきだろう。

 最高裁は強制調停を非訴訟事件手続きで行うことを合憲としたが、その後、性質上純然たる訴訟事件につき当事者の意思いかんに拘わらず終局的に事実を確定し、当事者の主張する権利義務の存否を確定するような裁判が憲法所定の例外の場合を除き、公開の法廷における対審及び判決によってなされないあらば憲法82条に違反すると共に同32条が基本的人権として裁判請求権を認めた趣旨をも没却するといわなければならないとした。

陪審制度が認められるかは、正規の裁判官ではない陪審員の意見のみによって判決を決するという内容の陪審制度は認められないが、陪審員は事実認定のみに参加し、又は被告人は自由に陪審を辞することができる内容の制度を設けることは、この規定に反するものではない。

 また陪審員に起訴理由の有無を決定させる起訴陪審の制度も憲法上認められる。

裁判とは、刑事事件では公訴が提起されたとき、それに基づいて刑罰を科する作用をいい、公訴の提起は含まれない。

 裁判を受ける権利は請求権の性質を持つ。

 貧困などのために事実上裁判を受ける権利を奪われる結果にならないように実質的にこの権利を保障する措置を構ずべきことを含んでいると解してよい。

 国家賠償法は、公権力の行使にあたる公務員の職務執行にさいして他人に与えた損害、公の常造物の設置管理のきずに基づく損害の賠償について定めている。

 この2条1項の営造物の設置または管理の瑕疵に基づく国および地方公共団体の賠償責任については過失を必要としない。

公務員に故意または重大な過失があったときは、国または公共団体はその公務員に対して求償権を有すると定めている。

 刑事補償請求権は、事後において、無罪の裁判を受けた時、その償いを金銭で行うように定めたのが、第40条である。

 被疑者補償規定は、被疑者が身体の自由を拘束された後、犯罪の容疑が晴れた場合の補償である。

 少年審判にかかわる補償は、少年の保護事件に係わる補償に関する法律の定めるところによる。社会権の理念からすれば、犯罪による重大な被害(死亡と重障害)について遺族または本人に対する給付金支給の立法措置が講ぜられている(犯罪被害者等給付金支給法)のは当然である。

課題 3  報道の自由と知る権利の関係について述べよ。
評価B 論点が拡大しすぎて、主題がかすんでしまっています。
 報道の自由とは事実をそのまま伝える自由である。

 表現の自由は各人が自由かつ自主的にその考えを構成することを前提とする。

 事実を知ることが需要である。

 表現の自由の中には報道の自由が含まれる。

 報道は新聞、その他のマスメディアの任務とするところにあるため報道の自由は新聞の自由、放送の自由、映画の自由などと呼ばれる。

 現代社会においては国民の知る権利は新聞やテレビなどのマスメディアの提供する報道によって充足されている。

 最高裁も報道機関の報道は民主主義社会において国民が国政に関与することにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の知る権利に奉仕するものである。

 思想表明の自由とならんで事実の報道の自由は表現の自由を規定した憲法21条の保障のもとにあることはいうまでもないと述べている。

 報道活動は情報の収集、処理、伝達という過程で行なわれる。

よって、取材の自由も憲法第21条の保障するところであると解さなければならない。

 最高裁もこのような報道機関の報道が正しい内容を持つためには報道の自由とともに報道のための取材の自由も憲法21条の精神に照らし充分尊重に値するものといわなければならないといっている。

 取材の自由はその取材活動に対して国家権力の不当な制限を受けない自由であるが、国家機関に対し、その保有する公的情報の開示を請求する権利を含むか問題である。

 開示請求権は抽象的な権利としては認められるが、具体的請求権は法律制度に待つと解すべきであろう。

  憲法21条が取材の自由を保障するといっても、無制約にこれを認めるものではない。

 反社会的な取材活動は制限を受け、被告人の人権、裁判の公正など対立する利益との比較衡量によって制限される。

 最高裁は公判廷の状況を一般に報道するための取材活動であってもその活動が公判廷における審判の秩序を乱し、被告人その他、訴訟関係人の正当な利益を不当に害するものは許さないところであるといわなければならない。

取材の自由といってもなんらかの制約を受けないものではなく、公正な裁判の実現というような憲法上の要請があるときはある程度、制約を受ける。

 取材の手段、方法が贈賄、脅迫、強要等の一般の刑罰法令に触れる行為を伴う場合は、勿論、その手段、方法が一般の刑罰、法令に触れないものであっても、取材対象者の個人としての人格の尊厳を著しく蹂躪する。

等法秩序全体の精神に照らし社会観念上是認できない態様のものである場合にも正当な取材活動の範囲を逸脱し違法性を帯びるといっている。

 さらに取材の自由については取材源の秘匿が問題となる。

 刑事事件の捜査のため、検察官の請求に基づき、裁判所が新聞記者に記事の出所について証言を求めた事件、朝日新聞石井記者事件において最高裁は憲法第21条の規定の保障は、公の福祉に反しない限りいいたいことはいわせなければならないということである。

 未だいいたいことの内容も定まらず、これからの内容を作り出すための取材に関し、その取材源について公の福祉のため最も重大な司法権の公正な発動につき必要欠くべからざる証言の義務をも犠牲にして証言拒絶の裁判までも保障したものではないと判示した。

 表現の自由は内心の自由と異なり、多くの人を相手とする社会的なものであり、他人の人権を関連し、その限りで制約を受ける。

 国家公務員法第102条1項は政治的行為を制限し、政治行為の定めを人事院規則に委任し、人事院規則14−7は広い範囲にわたって政治的行為を禁止、又は制限している。

 営利広告は、内容、方法について多種、多様のものがあり、種々の法律の規制を受けている。

 営利広告の制限について争われた旧あん摩師、はり師、きゅう師及び柔道整復師法に関する事件において最高裁は、もしこれを制限に許容するときは患者を吸引しようとするためやもすれば虚偽誇大に流れ、一般大衆を惑わす虜があり、その結果、適切な医療を受ける機会を失わせるような結果を招束することをおそれたためでであって、このような弊害を未然に防止するため、一定事項以外の広告を禁止することは、国民の保健衛生上の見地から公共の福祉を維持するためやむを得ない措置として是認されなければならないと示した。

 知る権利が保障されるということは、積極的表現行為の自由は沈黙の自由を論理的に含む。

 報道の自由が国民の知る権利に由来すると考えなければ、報道機関の沈黙の自由は全面的に憲法上肯定されることになる。

 こうした知る権利は国際人権規約でも表現の自由に含まれるものとして、口頭、手書き、もしくは印刷、芸術の形態または自ら選択するほかの方法により、国境とのかかわりなくあらゆる種類の情報、および考えを求め、受ける自由という表現で保障している。19条2項。

課題 4  議院の国政調査権の意義と限界について述べよ。
評価B  国政調査権の本質について対立する見解がしめされていますが、これらを紹介した上で、自らはどのように考えるのか、きちんとまとめることが必要です。
 国会が国権の最高機関として国政の中で重要な役割を演ずるためには、国政上の様々な事象について調査する権限が必要となる。

このため、現行憲法は、両議院は各々国政に関する調査を行ひ、として議院の権能として国政調査権を認めている。

この国政調査権については独立権能説補助的権能説とよばれる見解とがある。

 前者は第41条の国権の最高機関性を根拠として国政調査権は憲法の他の条項によって、国会、議員に与えられた諸権能とは、別個独立した権能として各議院に与えられているものであるとする。

 また最近は、国政調査権の国民の知る権利に寄与する機能を重視してこの独立権能説を根拠づける見解も唱えられている。

 これに対して後者は、国民調査権は憲法の他の条項によって国会、議員に与えられた諸権能を有効適切に行使させるために認められた補充的な権能である。

 この両者の違いは、調査権の及ぶ範囲に現われ、前者の立場からはおよそ国政に関する事項であれば、国政調査権は及び得ることとなるが、後者の立場からは、憲法の他の条項によって与えられた諸権能の範囲にかぎられることになる。

 国政調査権の限界については、昭和24年に参議院法務委員会と最高裁判所とのあいだの浦和事件をめぐる論争が有名である。

これは母子心中事件に関する地方裁判所の判決に関して、参議院法務委員会がその量刑を不当とする決議を行ったことに対し、最高裁判所が司法権の独立を侵すものと反論した事件である。

 この事件に関しては、独立権能説との議論として理解されるのが一般的であるが、しかしこの事件を独立権能説と補助的権能説との議論にのみ結びつけて理解するのは生産的ではなく、むしろ重要な論点は国政調査権の行使によって個別具体的な判決に介入することは可能かという点である。

 司法権の独立との関係、公務員等の守秘主義、職務上の秘密との関係、国民個人のプライバシーとの関係などの具体的場面における問題となるのは浦和事件でも問題となった司法権との関係であり、裁判所に係属中の事件に介入することはもちろん確定した裁判であっても当事者や担当裁判官に関する事項を直接の調査内容とするものは許されないと解するのが通説である。

 また同一の事件であっても裁判所と並行して無関係に調査することは許されるし、また司法の実際の運用状況等の調査についてはむしろ必要場合もある。

 ただしこのような並行調査は直ちに裁判官に予断を抱かせるものではなく、また裁判の公平をも害しないが慎重に行うべきである。

 公務員の守秘義務との関係では議院証言法第5条にその調整規定が設けられている。

 国政調査権行使の主体については憲法は両議院としているが、その行使は本会議によってのみされのではなく、国会法参議院規則、議院証言法などの条項は委員会がこの権能を行使することもできるとしている。

 国政調査権の行使によって要求するものであるが、第62条では証人の出頭および証言と規定し、後者については議院証言法では書類の提出、国会法104条では、報告または記録の提出と規定しているが、いずれも同じ意味である。

 議院証言法による出頭証言要求や記録の提出要求は不出頭や偽証、不提出について罰則でもって担保されている強制力を伴ったものであるが、国会法第104条による記録の提出要求には強制力はない。

 強制力のない出頭、発言の要求としては、証人喚問制度とは別に公述人や、参考人の制度がある。

 国政調査権の行使の客体については証人の出頭、証言の要求の場合には限定しないが記録の提出要求の場合には、内閣官公署その他という限定がある。

 しかしこのその他については広く何人に対してもできるものと解されている。

 国政調査権の目的は、審査または調査のためといった限定がある。

 委員会を例にとれば国政調査権は当該委員会に付託された議案の審査のために必要な場合かまたは議長の承認を得た事項についての調査のために必要な場合のみに認められるものであって、これを逸脱して一般的に行使することができるものではない。

 国政調査権行使の手続きについては、議院が行う場合には議長が報告、記録の提出を要求し、議長から証人、参考人に通知するものとされ、委員会が行う場合には、報告、記録提出要求および証人の出頭要求の場合には、議長を経由して、参考人、公述人の場合は委員長から直接に通知するものとされている。

 内閣及び官公署に対する報告、記録の提出要求については、内閣、官公署に対し、委員会が報告または記録の提出を求める必要があるときは、通常や理事会において協議し委員会から直接その提出を求めるのが例であるとされており、簡便な方法が先例として定着している。

 国政調査権の行使の方法には、この他に政府に対する質疑、議院派遣あるいは委員派遣といった方法も認められている。

民法1(総則)
課題 1  狭義の慣習法と事実たる慣習との関係を説明せよ。
評価B  論点は一応把握していると思います。法例2条の慣習と民法92条の慣習との間に存する矛盾の存在をしっかりと認識することが必要であり、これを矛盾としてではなく合理的に説明できるかが問題です。

その上で適用範囲について言及する必要がある。

以上の点についてより充分論じて下さい。少し説明不足です。

個人が一定の行為を繰り返し行う時はその行為は習慣となる。そのような反覆行為が個人にとどまらず社会に広まることがある。

そのような行為について規範意識を持つにいたったとき、その行為は慣習と呼ばれ、社会的規範の一つとなる。

このような慣習規範が裁判の際に裁判規範とされたとき慣習は慣習法となるのである。

わが国では法律上2種類の慣習法が規定されている。法例二条の狭義の慣習法と民法九ニ条の事実たる慣習がそれである。

 狭義の慣習法とは、法例2条に、公ノ秩序善良ノ風俗ニ反セサル慣習は法令ノ規定ニ依リテ認メタルモノ及ヒ法令ニ規定ナキ事項ニ関スルモノニ限リ法律ト同一ノ効力ヲ有スと規定された慣習をいう。

 公の秩序善良ノ風俗に反しない慣習であること。法令の規定によって認められた慣習であるが法令に規定のない事項に関する慣習であること。法令の規定によって認められた慣習には相隣関係し(217、219、228、236条)、入会慣行(民263、294)地上権(民268、269)永小作権(民277、278、279)がある。

 法令に規定のない事項に関する慣習には温泉慣行、水利慣行がある。

 この意味の慣習が存在すれば裁判所はその適用を義務づけられており慣習があるかないか、あるとすればその内容がどういうものかについて裁判所が確定する責任をおう。訴訟当事者には慣習の主張および立証をする必要はない。

 事実たる慣習とは法令中の公の秩序に関しない規定に異なった慣習がある場合において法律行為の当事者がこれによる意思を有するものと認めるべきとは、その慣習に従う。

 これは任意規定よりも慣習を優先させる趣旨である。

 人々は慣習を前提として、生活し取引をしているのであるから、ひとたび紛争が生じた時は、慣習を基準として紛争を解決するのが妥当だというのである。

 慣習と区別するため、法律行為の解釈の基準となる慣習を事実たる慣習という。

 現行借地借家法の前身の借地法が制定される前、東京市内では土地に対する税金の増加その他の事情の変更があれば借地人の承諾がなくても地主は一方的に地代の増額をすることができるという慣習があるとされたのは事実たる慣習の一例であり、それは後に立法化されるに至った。

 なお定期預金の期限前払い戻しにおける利息に関する慣習、労働条件は就業規則によるという慣習を認めた判例があるが、他方宅地建物取引業者が不動産取引の媒介をした場合に、規則で定める最高額の報酬を当然に受けるという慣習があるとはいえないとした判例、借地権者が当然に更新料支払い義務をおうという慣習があるとはいえないとした判例がある。

 今日では、任意規定とは異なる慣習を認定しなくても正義、衡平の観点から法律行為の解釈によって合理的な結論が導かれるおとが多いという指摘がある。

 狭義の慣習法が強行法規や任意法規もない場合、はじめて裁判規範として登場するとすれば事実たる慣習との間に、一つの矛盾が生ずるということになる。

 狭義の慣習法が任意法規に劣後するのに対して、事実たる慣習が任意法規に優先するのは矛盾だとされる点である。

 二つの慣習を比べると、法例二条の慣習はその名の通り、狭義の慣習法、つまり強い慣習であるのに対し、民法92条の慣習は単に、事実たる慣習、つまり弱い慣習にすぎないからである。

 国民の強い法的確信、規範意識にささえられているが故に、裁判規範となる事実たる慣習は強固な法的確信、規範意識に支えられるにいたっていない。

 民法上も直接裁判規範とはなれないのに、強い慣習の方が任意法規の下位におかれ、逆に弱い慣習の方が任意法規の上位におかれる。

 法例二条にも、慣習のみと表現されているだけで、決して慣習法とは表現されていないのに、法例二条の慣習が、裁判規範とされ、慣習法と呼ばれる強い慣習とみなされ、民法92条のそれが裁判規範とされないが故に単に事実たる慣習と呼ばれる弱い慣習とみなされる点に矛盾が生ずるのである。

 

 さらに直接裁判規範となりうるから、法例二条の慣習の方が間接的にしか裁判規範になれない民法92条の慣習よりも優越しているというおはおかしい。

 直接にせよ、間接にせよ、裁判規範としてとりあげられるルートを異にするのみと解するべきではないだろうか。

 

 民法92条の慣習は契約をめぐる紛争を法例2条の慣習はそれ以外の紛争をそれぞれ適用対策とするという一種の住みわけを認めるとしたら、両者の規範的効力の優劣は事実上問題とならない。

 慣習法は制定法を改廃することができるかという問題だが、狭義の慣習法は法例2条の法令ノ規定ニ依リテ認メタル慣習の具体例が示すように、任意法規のある場合にも成立し、それを排除しているから改廃の余地があることは明白であろう。

 事実たる慣習は任意法規と異なった慣習が契約を媒介として間接的に法源となるのであるから、当事者の意思しだいで慣習によって任意法規が現実に適用されなくなることもありうる。

 事実問題として考えた場合には慣習によって強行法規すら空文に帰せしめられる場合がありうる。

 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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