匂わんか……。
土曜日の午後。私はバスの中にいた。

乗客は少なく、私は窓辺の後部席で一人、高村薫の「季歐」を読んでいた。

突然、一人の老人が私の横にスッと座り、いきなり、本を読んでいる私の顔を覗き込み、「匂わんか」と聞いてきた。

内心、私は、厄介な老人が近づいてきたもんだ……。チッと思っていた。

風体は、浮浪者かと思われても仕方がない老人である。

老人は勝手に私に向かって話し出す。「きれいにしておかんと、若い人が嫌がるだろ。みんなに言われるんだわ。正直に言ってくれ。匂わんか……」

「べつに匂いませんけれど」と私。

「そうか。匂わんか。ありがとう! ありがとう」と老人。

黙って頷き、私はまた本に目を移したが、老人は構わず、勝手に喋り出す。「綺麗にしているつもりなんだがな、みんなが、匂う、匂うっていうんだ……」

私は、隣にべったりと座られて、嫌だった。

ペラペラと喋り出す老人に、バスの乗客達は、チラチラと視線を向けるが、あきらかに係わり合いにならないようにしているようだ。

「席、色々あったけれど、あんたのスカートの柄が綺麗だったから、あんたの横に座ったんだ」老人は、私の横にべったりと座っている。

私は、構わず、本に目を向けていた。

突然、老人はカバンの中から、チラシのようなものを取り出し、自分の尻の下に敷き、その上に座った。

「雨の日とか、誰か濡れたままで座るだろ。だから、汚いんだ。あんたも気をつけた方がいいよ」と言った。

私は、老人がチラシを敷いたことで何か意味があるんだろうかと思った。

まさか、おしっこでもするんではないか、それとも、大きい方ではないかと、内心ヒヤヒヤしていた。

老人は、そんな私に構わず勝手に喋り出す。「あんた、学生さんか、社会人、奥さんか?」

私は、本を読みながら、もう別の席に移りたいと思っていた。

バスを降りようと思った。窓際にあるバイオリンケースを肩に背負い、「降りますので」と老人に言った。

老人は笑顔で「さよなら」とバスを降りる私の背中に向かって言った。

 

学生の頃、あるメーカーのビールの試飲キャンペーンのアルバイトをしたことがある。

日給1万2千円で、スーパーで新発売になったビールを紙コップに注ぎ「いかがですかー」とビールをすすめるだけの簡単な仕事である。

そのときも、似たようなことがあった。

一人の老人が、紙コップをのせたお盆を持った私に近づいてきた。

「すみません。尻に何かついていないか見てくれないか?」といきなり言われ、老人は後ろ向きになり、ズボンをはいたお尻を私に見せた。

私は、かなりびびったが、「なにも、ついていませんよ」と言った。

嘘である。お尻に、何か茶色いものがしみていた。老人はどうやら、漏らしてしまったらしい。

「そうか……。そうか…。ありがとう、ありがとう!!」老人はえらく、私に感謝して立ち去っていった。

正直に言えばよかったんだろうかと後で考えたが、もし、本当のことを言って恨みでもかったら、嫌である。

 

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