更新日:2015.1.6・・・ 作成日 : 2011.9.2

   
 『生きることの虚しさと、死の不安におびえるあなたへ』


   The most serious Problem on Life: 


   Fear of Death and Vanity of Life


    




死の不安と、生きる虚しさに包まれがら、宗教にも哲学にも、

精神医学や心理学にも救いを見出せず、それでも、光を求めて

あがいでおられるかたに! 

たとえ、底無しの虚しさと死の不安を追い払うためであっても、

どんな都合のよい信仰や確信にも身をゆだねることができず、

「真実を生きたい」と望まずにはいられないひとのために!

この文から、あなたが、最後の光を見出せますように。


この文章は、私自身の長く苦しい体験から、底なし暗やみに落

ちてゆくような、恐ろしい問いを思索するものです。

すでに何らかの仕方で、たとえば、宗教や哲学や芸術体験、生

活体験などから、このような底無しの問いが心に起こるのを防

いでいるひとも、もし、たといどんなに恐ろしくても、まやか

しの慰めを脱けだしたい、真実を生きたいと望まれるかたは、

お読みください。

無意味と、絶望が、生あるものの真実なのではないか、と考え ずにはいられない、真の勇気と誠実さをもつ人に! ただ、事柄の深刻さと困難さのゆえに、人類はこれまで、あら ゆる知恵を尽くして、この恐ろしい問いを発するのを防いできま した。 ですから、ご自分の情緒をコントロールするのが難しいかたは、 危険ですので、お読みにならないように!! 私は、溺れた人が必死に藁をつかむのを、笑おうなどと思いま せん。たとえ、目をつぶり何も考えずに溺れ死んでゆくとしても、 襲いくる不安や恐怖を、ただ今の一瞬だけでも、防ぎ止めるこ とができるなら、それは意味のあることですから。 そして、情念や衝動が暴走する危険が和らぎ、思考を静かに進 めることができる状態になりましたら、どうぞお読みください。 まったく、ただ一人の旅に出かけるのです。


Answer to The most radical Question

  on   Life   of   All   Mankind




  ■■■ 死の不安、人生の虚しさを乗り越える ■■■ 1 これから述べることは、ぼくの本当に恐ろしく、苦しい体験に 基づいています。
[ここで述べることには、小学三年生の頃、夜の暗闇のなかで、
突然、自分は何時かは死ぬのだ、誰にも助けてはもらえないのだ、
自分だけではない、誰もが死に、すべてのものが消えてゆくのだ、
という考えに捕らえられ、どうしようもない不安に呑み込まれ、毎
晩のように、ひとり涙を流すようになって以来、59才になるまで
のおよそ50年間、死の不安と、生きることの虚しさの思いの中にあ
って、様々な哲学や宗教や学説に、解決を求めてあがいできたとい
う背景があります。しかし、それらについては、ここでは触れず、直ち
に、最も核心的な体験について、簡潔に述べることに致します。
それは、もしあなたが今、やがて消えてゆく自分の虚しさに怯えて
おられるなら、私自身の体験から、一分でも早く、すぐに支えてく
れるものを求めておられると思うからです。]
2 地下の暗い穴に閉じ込められたように、人生が、全世界が、真っ
暗闇になり、一筋の明かりも見出せず、ただ恐怖のうちに死を待つ
だけで、発狂しそうになり、しかも、それでも、死のうと思うと、
それはもっと怖くて、自殺することもできない・・・。
そんな極限状態から、1年半が過ぎ、やっと、この文章がかけるよ
うになりました。
3 死。それは、すべての人が最後に直面する、情け容赦のない、最
も恐ろしい問題。
4 ぼくのその体験は、夢から始まりました。
5 その夢・・・ぼくに子供ができるのですが、その子は、盲目なの
です。ところが、次のシーンでは、その盲目の子は、ぼく自身にな
っていました。
ぼくは、これから真っ暗闇の人生を生きていかなければならないこ
とに、どうしようもない恐怖と不安を感じ、自殺しようと考えます。
しかし、自殺しようとすると、それは、暗闇の中を生きていくより
も、もっと恐ろしいのです。
自分が無になる、自分の無を直(じか)に感じることが、どんなに
恐ろしいことかを知りました。
ぼくは、床に就いて2時間も経っていないのに、大きな悲鳴をあげ
て、目を醒ましました。
6 しかし、目が覚めても、不安と恐怖は去りませんでした。
7 なぜなら、盲目と死は、いつかは必ず、自分がそうなるのであり、
ただの夢ではなく、自分の避けられない運命であることは、明らか
なことだからです。
それはまた、もちろん、すべての人間の、さらに、すべての命ある
ものの運命でもあります。
ぼくの愛する家族も、すべていつかは死んでゆくのだと思うと、悲
しくて、苦しくて・・・。
もしかして、気を紛らわすことができるかと、祭りでにぎわう街を
歩いていても、以前に、祭りの時に、小さかった子供をここに連れ
てきて、一緒にたこ焼きを食べたことを思い出し、あんなに喜んで
いた子供も、いつかは死ななければならない運命にあるのだと思う
と、つらくて、悲しくて、こらえきれなくなり、大声を挙げて、泣
き崩れ、路上にうずくまったことがありました。
8 「万物は流転する」、「諸行無常」というのは、それを実感する
ときには、まったく、全世界、全宇宙が、永遠に真っ暗になるとい
う、完全な恐怖と絶望の体験です。
9 ブッダが、青年のころ、老人や病人や死人を見て、もはや生きる
喜びを見出せなくなり、ふたつの城と妻子と、王子の身分を棄てて、
きびしい修行にでたのは、この気持ちからなのだ、と思いました。
10 しかし、それでも、ぼくは神や仏にすがるようなことはできませ
んでした。
仏教も、キリスト教も、西洋の哲学や心理学も、これまで何十年も
救いを求めて学んできましたが、どれも、根本的に、気休めであり、
自分を慰めるための幻想であり、自己欺瞞としか、思えなかったか
らです。
11 ぼくは、とにかくまず、この恐ろしい考えを、ストップさせなけ
ればならない、そうしないと、ストレスで、脳が破壊されてしまう、
と思いました。
12 実際、頭が石を詰められたように重く、夜の暗闇には、自分を
待ち受けている死を感じて、不安が起こりました。
13 しかし、部屋の中にいると、どうしても、死を考えてしまうのです。
14 また、コーヒーや、濃いお茶や、カフェインの入った栄養ドリン
クも、不安な心理を引き起こすことに気づき、避けるようにしまし
た。
15 不思議なことに、外を歩いていると、死に関係ないことが頭に浮
かぶのに気づきました。
これは、救いでした。
16 ほくは、絶望して自殺しようと考えていたトルストイが、散歩
している時に、不思議に生きる力がよみがえってきた、と書いてい
たことを、これまで何度も思い出し、考えてきました。
全世界が、永延に真っ暗闇だというのに、不思議なことですが、道
端の朝顔の美しさに驚嘆したり、公園の森の松の木の一本一本に、
生きようとする意志を、じかに感じるような心になっていたのです。
17 2時間ほどしか眠れない、恐ろしい不安に覆われた毎日が、続き
ました。
18 脳を締めつけられるような、重苦しい圧迫感に加えて、やがて耳
鳴りがするようになり、「ピーン」という高音が、目覚めている間
は、一秒間も切れ目なく、頭の中で鳴り続けるようになりました。
19 脳梗塞か、アルツハイマー病の初期症状かもしれない、と考え、
おそるおそる精神科や耳鼻科を訪ねましたが、ストレスと、年齢の
せいだろうと言われました。
20 頭が不安で一杯になった時は、いつでも、夜中でも近所を散歩
し続けました。ひとり家の中にいると、とても危険な状態になるから
です。
21 ぼくの「生きることの虚しさ」の思いは、ただの気分や挫折感な
どではなく、
「何をやっても、結局は同じだ、すべては、過ぎ去ってゆく」
という、生命そのもの、宇宙そのものの在り方に根ざした意識なの
で、医学や、心理学で治せるようなものではなかったのです。
22 意外なことに、このような生きることそのもの、宇宙そのものの
底無しの無意味さを、本当に体験し、理解していると思われる人は、
実際は非常に少なく、世の中で「人生の達人」とか、賢者や偉人と
讃えられている人たちの言葉も、ぼくの不安の前では、気休めに
安住しているように思われ、まったく無力でした。
23 ただ、死の恐怖と、生きることの虚しさを極限まで経験し、そこ
から抜け出すことができたと思われる人の言葉だけが、

「自分にも、救いの道があるかもしれない」

というかすかな望みを抱かせてくれました。
名を挙げると、若い日に、結核で生死の間をさまよい、信仰によって、
生と死を同時に受け入れられるようになった、という清沢満之の言葉
は、ぼくは、そのまま受け入れることはできませんでしたが、それでも、
この虚しさを経験し、それを乗り越えた人がいたのだ、ということを知って、

「ぼくにも、この恐ろしい不安を、乗り越える道があるかもしれない」

と思えて、大きな支えになりました。
24 冬でしたが、日の出前に、近くの高台にある公園に登り、日の出を
望み、それがすばらしく美しく断えず変化しながら、明るんでゆく天空を
眺めていると、頭がスーッと軽くなり、気分が晴れやかになるのを感じま
した。
25 それは、ぼくを覆い尽くしている暗黒を、さらに突き抜けた、はるか
彼方に、開かれた、無限の世界があることを予感させてくれました。
これは、とても大きな救いでした!
26 360度、空を見渡せるこの公園を、死を想像しないように、常に気
をつけながら、毎日、何時間も、歩き続けました。
27 でも、家に戻ると、どうしても、吸いよせられるように死を考えるよ
うになり、暗闇のなかに閉じ込められるような、重たい気分になります。
28 そんな状態の中で、ぼくは、
「苦しむ」ということの意味を、自分の頭で、最初の第一歩から、徹底的に 考えてみよう
と思いました。
29 まず、あの夢によって引き起こされた、盲目になることの恐怖から、
考えました。

「ぼくは、自分が盲目になることに、恐怖を感じている。なぜだろう?」

30 答。目を大事にさせるためだ!
目は、生きてゆくために、非常に大切なものだから、それを大事にする
ように、僕の命が生まれるのと同時に、視力を失うことに恐怖を感じる
ように、ぼくの心は作られたのだ!
  31 痛みも空腹も、すべての苦しみは、生命の危険に関係しており、
苦しみの強さの程度も、生命への危険の程度に、対応しているではな
いか!
32 逆に、快感や幸福感は、基本的に、生命にとってプラスになるこ
とに対して生れ、その強さの程度も、生命にためになる程度に対応し
ている。
33 ただし、生命はグループの一員として生れ、活動するものだか
ら、快感も苦痛も、グループとしての生命力の増大と減少に対応し
ている。
34 つまり、個人の命よりも、自分のグループの存続の危機の方が、
さらに大きな恐怖と絶望を引き起こすように、私たちの心はできて
いる。
35 要するに

「心は、生きようとする意志の僕(しもべ)なのだ!」。

36 しかし、その体は、ぼくが自分で作ったのではなく、ぼくの自由
にならない。
37 ぼくの体の元は、ぼくの父母と、さらにその、一世代さかのぼる
ごとに倍増してゆく膨大な祖先をさかのぼって、最初の生物にたどり
つくが、しかし、最初の生物もまた、自分で自分を生みだし、生き続
けることはできないから、結局、ぼくの起源は、宇宙そのものに、直
結していることになる!
28 だから、ぼくの命は、自分で生み出したものではないし、また、
神などによって「作られた」のでもない。
39 よく考えると、宇宙そのものの一部が、ぼくの祖先になり、そし
て、ぼく自身の命に、つまり、ぼくの体と心になったのだ。
40 生物となった宇宙そのもののが、一瞬間の途切れもなく、遺伝子
のコピーと再生を繰り返して、直接、今のぼくの体に、息づいてい
る!
41 このことは、どう考えても、否定しようがない。
42 また、生物は、自分だけでは、一瞬間も、命を維持できない。
43 水や、空気や、温度や、重力など、宇宙とピッタリ調和しなけ
れば、すべての生物は、すぐに死滅するのだ。
44 だから、ぼくの生命は、永遠の過去から、現在に至るまで、また、
現在の無限の宇宙の彼方(かなた)まで、まさに、宇宙と直結して
いる!
45 いや、ぼくの体も心の中身も、すべて宇宙そのものなのだ!
46 すると、ぼくの苦しみも喜びも、すべて宇宙が絶えず生み出して
いる、宇宙そのものの営みである、ということになる。
47 ぼくの感情も、意志も、知性も、もとは、ぼくが自分で生み出し
たものではなく、宇宙そのものの現れであるからには、宇宙自身が、
これらの心の働きのすべてとなり、発展してゆく能力をもっているこ
とを、認めないわけにはいかない。
48 そうだとすると、宇宙は、物理学者の考えるような、ただの物質
やエネルギーの運動ではなく、それ自身が、生命活動や、心の活動を
含む活動である、ということになる。
49 こうして、ぼくは、宇宙の全体が、ぼくの体や心ともなった生命
活動であることを、認めざるをえなくなりました。
50 そうすると、「私」という意識は、そもそも個体として生命活動
を維持するためにあるのだから、個体がその生命としての使命を充分
に果たすかぎりでは、苦しみは生れないはずである。
51 そして、死と無は、実は、不安として心の中に宿るだけで、誰も、
どんな生物も、それを体験することはなく、生命個体の最後は、た
だ、個体意識が消え、宇宙の無始無終の生命活動そのものに、つま
り、母なる永遠の生命の胎に、帰ることなのだと、理解しました。
52 このように考えて、ぼくは、生きることは虚しい、結局は、すべ
ては無になるのだ、という不安と恐怖から、解放される希望を見出し
ました。
53 「私」は、自分を「私」として宇宙から切り離して、その中に閉
じこもらないかぎり、もともと、いつでも、そして永遠に、宇宙の生
命そのものなのです!!!
54 しかし、このように頭で考えた結論を、実はぼく自身、まだ完全
に実感してはいません。
それは、この考えが、これまでの生き方、考え方と、大変かけ離れて
いるからです。
55 それを実感できるようになるために、宇宙との一体感を取り戻し、
実感すべく、今、「坐禅」をしています。
56 坐禅は、要するに、ただ何も考えないでいることなのですが、こ
れが実は、ぼくには大変な効果があるのです。
57 何も考えないで、しかも、気持ちを集中させていると、自分の想
像の中に閉じ込められていた心が、開放されて、宇宙とのつながりを
取り戻します。
58 ぼくは、坐禅をするたびに、必ず、心が軽く、晴れやかになり、
澄み切って、元気になってくるのを、実感しています。
59 もし、あなた様が、ぼくと同じように、恐ろしい不安や、恐怖や、
絶望に閉じ込められることがありましたら、どうぞ、このぼくの体験
と思索を、参考になさって下さい。
60 お役に立ちましたら、とても、とても、うれしいです。


◆追加◆

☆ この「死の不安」の項を書いてから3年が過ぎました。
自分の体も心も、宇宙そのものの現れ、宇宙の一部であり、自分は
「宇宙の子」
なのだと考えるようになってから、基本的に死の不安は起こらなく
なり、生きることの歓びを実感できるようになりました。
☆ 言葉に囚われ、自分の考えに閉じ込められ、そして結局、自分で
自分を苦しみの洞窟の中に閉じ込めてしまうという「囚われの悪循環」
から脱けだすために、「まったく何も考えない心の状態」を作りだす
坐禅は、たいへん効果があり、今も続けています。
☆ ただし、そのさい、いちばん大事なことは、「何ものにも囚われ
ない心の状態」なのですから、実は、坐禅を組むことも、絶対に必要
なわけではありません。
☆ 私が実際にしたことですが、電車の中でも、デパートのなかで椅
子に腰かけているときでも、あるいは、夜、床に入って寝入る前でも
良いのです。
要するに、いつ、どこでやっても、「何かに囚われない心の状態」を
作りだすようにすれば、心は広々として、澄んできて、晴れやかに
なり、元気になることが分かりました。
☆ でも、静かで落ち着いた場所で、正しい姿勢をとらないと、実際
には、どうしても、次々にわき出てくる想念に押し流されてしまい、
いつの間にか、想念の中にとじこめられてしまいます。
ですから、やっぱり、禅堂で、しびれを我慢して坐禅を組むのが、い
ちばん効果がありました。
ただ、お経を唱えたり、坊さんの説法を聞いたり、菩薩像に礼拝する
などの作法は、バカバカしいと思いながら、我慢しました。
私は、仏陀は、生きることの苦しみから、根本から自分を開放できた
最も偉大な人物だと思い、尊敬していますが、しかし、仏教徒ではあ
りません。
それは、生きようとするかぎり絶対に避けることができない、生き物
どうしの争いと殺し合いを、彼が否定したからです。
これは、決して実際には成り立たない考えであり、欺瞞です。
☆ 「無我の境地」といわれる、囚われから解放された心の状態は、
本当に、深く、澄みきっていて、どこまでも広々としていて、自由
で、素晴らしいものです!
あなた様も、どうぞお試し下さい!
(タダですからね!)


★ さらに詳しく、最も広く最も深い視野のなかで、人類のこれまでの 哲学、科学、宗教の経験と知恵を総動員して、徹底的に問題を考え ぬいてみたいとお考えの方は、どうぞ 『心と自然』(全三編、 キンドル版 沢田泉) を参考になさってください。 ★どうぞお健やかに。ご感想をメール頂けましたらうれしいです★

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2001年01月08日 12時04分15秒


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