(10)
「女の口からは言いにくいのですけれど……」
 青年は呆気にとられていた。梨華は何のために現れたのか。
「あたしを抱いてくれませんか」
 青年は、娘の父親が娘を眼の中に入れても痛くないほどにかわいがっているのを知っていたから、
「とんでもない」
 とかたくなにこれを拒んだ。
「お父さまに怒られますよ」
「あなたとでしたら、父も喜ぶと思います」
「お姉さんが見ていますよ」
「姉をまだ想っていらっしゃるんですね。うれしい。でも、姉はあなたがいつまでもおひとりでいられ
ることは願っていないはずです」
 娘はあきらめずに彼に迫りつづける。

(11)
 こんなやり取りが一刻ばかり続いただろうか。やがて娘は顔を赤らめ、怒って云った。
「父はあなたのことをわが子同然に思って、あなたをここに置いてお世話しておりますのに、そのあな
たが夜更けにあたしをこんな場所に誘い出し、いったい何をなさるおつもりですか。あたしは父にこの
ことを話してお上に訴え出てもらい、けっしてあなたを許しはしないわ」
 青年はこわくなり、しかたなく梨華のいうとおりになった。夜更けとともに彼女は去って行った。
 それからというもの、夜になると人目を忍んでやってきて、朝こっそり帰って行く。こうして門の脇
の小部屋通いは一月半余りも続いた。

(12)
 ある夜、梨華は青年にこう云った。
「あたしは邸の奥の部屋で暮らし、あなたはこの外の離れにいらっしゃいます。この二人がこうしてお
遭いしていることは、幸いに誰にも気づかれていません。でも好事魔多し、月にむら雲花に風、などと
言います。もしも、事が漏れてしまったなら、両親から責められ、籠に閉じ込められます。あたしは甘
んじて罰を受けるのももとより覚悟の上ですけれど、あなたのお顔に泥を塗るようなことになったら大
変です。ここは事が発覚する前に先手を打ち、大切な宝物を持って逃げるのが一番です。どこかの田舎
に逃げるのもいいし、他の国に行って行方をくらますのもいいでしょう。そして二人で共白髪まで離れ
ることなく添い遂げましょう」
 青年もなるほど梨華の云うとおりだと思い、
「あなたのおっしゃることはもっともだ。ぼくもそう思っていたところです」
 と答えた。

(13)
 とはいうものの、ひとりぼっちで、親戚も友達もないわが身を思うと、逃げるとしてもいったいどこ
へ逃げたらいいだろう。と思案するうちに、ふと思いついたのは以前父親の言った言葉。昔使っていた
使用人の保田というひと、実直な人柄で、故郷の上総の国に帰っているはず、訪ねて行ったならば、無
下に断られることもあるまい、こう思って、その翌日の夜明けを告げる鐘の音とともに、梨華と二人、
とりあえず身の回りのものだけを持って旅に出た。船をやとって矢切の渡しを経由してその上総の村に
着き、村人に尋ねると、はたして保田という者がおり、家はなかなか裕福だとのことだった。青年はすっ
かり嬉しくなっていちもくさんにその家に向かった。はじめは誰だかわからなかったが、青年が父の
姓名、役職、住所、それに自分の幼名などを告げると、はたと思い当たり、主人の位牌をまつって泣い
て弔い、彼を上座にすえて、
「わたしの若旦那さまだ」
 と云った。青年が一部始終を語ると、母屋をあけてそこに住まわせ、もとの主人に仕えたのと同様に
仕え、着る物食べる物、至れり尽くせりの世話をしてくれた。

(14)
 こうして青年たちが保田の家に落ち着いてから一年の月日がたとうとしていたある日、梨華が青年に
云った。
「はじめは、両親にとがめられるのがこわくて、あなたと二人で逃げました。あの時は、ああするより
しかたがなかったのですから。でも、光陰矢のごとし、一年がたとうとしています。それに、わが子が
憎い親はありませんもの、今あたしたちのほうから帰ってきたなら、きっと喜んで会ってくれ、そして
罪を許してくれることでしょう。生みの親の恩はなにものよりも大きく、断ち切れるわけがありません。
会いに帰りましょうよ」
 青年もその通りだと思い、二人で帰った。家の近くまで来ると、梨華は青年に云った。
「駆け落ちしてから一年、いまいきなりあなたといっしょに帰って行ったら、父は腹を立てるかもしれ
ません。ここはひとまずあなたひとりで先に行って様子を見てください。あたしはここで待っています
から」
 そして行こうとする青年を呼び止め、例のかんざしを渡し、
「もし信じてもらえないようでしたら、これを出して見せればいいでしょう」
 と云った。

(15)
 青年が家の門に着くと、矢口は喜んで出迎え、矢口の方からあやまって言った。
「あの時は、私のお世話がゆきとどかず、あなたに落ち着いていただくことができず、よそへ行ってし
まわれるようなことになってしまいました。こうなったのもこのおいぼれが至らなかったためです。ど
うかおとがめにならないでください」
 青年の方は地にふれ伏し、顔も上げられず、ただ申しわけないとあやまり続けるばかりだった。矢口
はいぶかしげにたずねた。
「なんの落ち度があってそんなにあやまるのです。どうか私の納得のいくように説明してください」
 青年はやっと身を起こして云った。
「人目をしのぶ惚れた仲、燃えさかる恋の炎を抑えきれず、不義の烙印は覚悟のうえ、私通のおきてを
踏みにじり、親御さまにおことわりもせずに駆け落ちをいたしました。お嬢さまを連れて逃げ、田舎に
かくれたまま、歳月もいつしか過ぎ、すっかりご無沙汰に、お便りもさしあげずにおりました。いかに
夫婦の情が篤いとは申せ、父母の恩を忘れてよかろうはずはありません。いま、お嬢さまを連れてご両
親のごきげんをうかがいに帰ってまいりました。どうか私どもの気持ちをお察しくださり、この重い罪
をお許しいただき、共白髪の末までも添いとげられますよう、おとりはかりいただきたく存じます。父
上にお嬢さまをかわいいと思ってくださるお気持ちさえあれば、私ども夫婦は仲むつまじく幸福に過ご
せるのです。お願いです。どうかあわれみをおかけください」

(16)
 これを聞いた矢口は驚いた。
「うちの娘は病の床に伏したまま、もう一年になろうとしておる。お粥さえ咽喉を通らず、寝返りをう
つにも人の手を借りる始末、どうしてそんなことがあろうか」
 青年は、家門の恥が人の耳にはいるのを恐れて、そんなうそをついているのだと思い、
「いま梨華はあちらの旅籠におります。籠をやって連れてこさせてはいかがでしょうか」
 と云った。矢口は信じかねていたが、それでもともかく下僕をやってたしかめさせた。下僕が行って
みると誰もいない。それを聞いた矢口は青年を、でたらめもいいかげんにしろ、となじった。そこで青
年は袖の中から例のかんざしを取り出し、矢口に手渡した。矢口はそれを見てびっくりして言った。
「これは死んだ真里の棺の中へ入れて埋葬したものだ。それがどうしてここに」

(17)
 事情がのみこめずにいると、そこに梨華が床から起き上がり、まっすぐに広間にやってくると、父に
拝礼して云った。
「真里は幸薄く、早く父上のおそばを離れて、遠くさみしい墓地へ葬られました。でも、芦家の若様と
のご縁が切れることなく続いていました。いまここにまいりましたのは、ほかでもありません。ただか
わいい妹の梨華に後添いになってもらえればと思っています。もしあたしの望みを叶えていただければ、
この病気はすぐにでも治ってしまうでしょう。おききいれいただけなければ、あたしの命はこれまでです」

(18)
 家中の者はあっけにとられていた。娘のからだつきをよくよく見れば梨華だが、話す言葉やしぐさは
真里そのものである。父親は問いつめた。
「おまえはもう死んでしまったはずなのに、どうしてこの世にもどって人を惑わすのだ」
「あたしは死にましたが、冥土のお役人さまはあたしには罪はないからとおっしゃって、捕らわれの身
にはならず、冥土の国のお役所の文書係りをしていました。あたしのこの世の縁はまだ切れておらず、
とくに一年の休暇をちょうだいし、この世にもどって芦さまとのご縁を結びおおせました」
 父親は、その切々たる訴えを聞いて胸をうたれ、これを許した。すると娘の霊はいずまいを正し、拝
礼して感謝し、さらに青年の手を握ってすすり泣き、別れを惜しんだ。
「父も母も許してくれました。あなたはうまいぐあいにお婿さんになれて、新しい奥様ができたからと
いって、古いおいらを忘れてはいやだよ」
 そう云い終わると、身も世もなく泣きくずれると床に倒れた。見るともう死んでいた。あわてて薬を
煎じて飲ませると、やがて息を吹きかえし、病気はけろりと治り、起居振舞いももとどおり、以前のこ
とを尋ねてもまったく知らず、まるで夢から覚めたような調子であった。

(19)
 こうして、吉日を選んで芦の息子と婚礼を挙げた。青年は真里の情に感じ、例のかんざしを売って銭
を得、そのすべてをはたいて線香、蝋燭などを買いととのえ、僧侶をやとって、三昼夜にわたって祈祷
して真里の真情に報いた。すると、真里の霊がまた青年の夢枕に立ち、
「あなたに供養をしていただき、いまでもお情けをおかけくださり、三途の川を挟んではいますけど、
ありがたさ身にしみて感じています。妹は気立てのいい娘、どうかよろしくお願いします」
 と語った。青年ははっと目を覚ました。それきり真里の霊は二度と現れなかったという。さても不思
議な話ではないか。