誤解 イエス伝
 
 私が生涯気になる人
 
聖書については過去有名人だけでも数えきれない人が書いています。
 クリスチャン(毎週教会に通っている人、またその会派が会員として必要条件として信じ行動する約束事を守っている人とした場合)でも無く学者でもない小市民の私が聖書について何か書くと言うことは僭越なことでその世界の人たちから眉をひそめられることと覚悟しております。
 でも、時には学者でもなく人格者でも無いそんじょそこらにいる欠点の多い人間が聖書についてしゃべってもいいじゃないですか。イエスがこの世にいた当時イエスの話しを聞いた人たちが家に帰り家族や友人にその人なりに話したように。
たった一冊の聖書について解説はあまりに多すぎ違いすぎます。偉大なる書物である故に様々な誤読がまた素晴らしい、とついに匙を投げた有名な人がいます。聖書は仏典と異なり誰でも分かる口語体で書いてある為文体の易しさが、逆に大変な暗号となっていると思います。だから悩んでいる人を見つけると、「これを読みなさい」といきなり聖書を風邪薬のように投げ与えるのは無責任で怖い事だという気がしています。といって「聖書については解説の専門家である牧師さんに聞きなさい」というのも問題だと思っています。聖書にこう書いてある、「私が言うのは私の声でなく神の声だ」と言っても歴史上そして今も世界中で意味合いがかなり違うからです。専門家であればあるほど何方もこれは個人的見解だがとは言いません。
 外国の事情はよく知りませんが日本においてキリスト教会に集う人たちには明らかに偏りがあります。女性が過半数を越えること、職業的には教員、公務員が多く商工業、漁業、農業の人が少ない事です。初期のキリスト時代の人たちが少ないことです。それは日本人のレベルが低いとか国民性に依るものだとかいう事で片ずく問題ではないという気がします。
 これから書くのは私の個人的見解です。よくいう個人的独断と偏見、好みです。私の身の回りで読んでくれそうな方10人以内の方への私信です。いろいろ読みかじり興味あるところを借用し、それにエライ人では気が付かない俗人である私の角度から気ずいたものです。聖書の解釈については学識経験において私の百倍以上ある人同士がそのひとの個人的何かで百八十度違ってくるのです。同じ医者で「失楽園」を書いた渡辺純一とシュバイツアーではどうして世界観に基本的差がでてしまうのでしょうか。
 「黙っていれば石が叫ぶだろう」 という言葉が聖書そのものにあります。特定の意見を解説する人、主張する人は全てそれに都合の良い所をあげていくものです。以降私もそれに習います


  
 
   私が書きたい事はおよそ次のような事になると思います。

 
1 処女生誕と長い系図にはこだわりたくない理由
2 もしイエスと言う人物が存在しなかったとしても
3 「在る」ということについて
4 聖書逆さま言葉
5 誰か罪なきもの
6 こころのなかにあるということについて
7 言葉を失ってしまういくつか
8 この人は何なんだろう
9 汚い事実より美しい嘘がいい 
 
 
 処女生誕とか長い系図のことにはこだわりたく無い理由

 
 現在生物科学のあらゆる分野が進歩して半世紀前では考えられない状態になっています。クローン生物も現実問題となっていますし、卵子一つを取り出し人工的刺激で個体として成長させることができるかもしれません。ですからそのようなことがあり得ないとは言えないかもしれませんが聖書が、そのことについて頑なにこだわるのはのは本質的問題でなく神のような人は男女の性的交わりによって生まれてもらいたくないという庶民の願望でしかないと思えるのです。
 それに釈迦のように王族の王子でなくわざわざ「人の子」として貧しい大工の息子としてこのひとの世に生まれさせたのなら生誕に関するその部分だけ何故人並みではいけなかったのでしょうか。
 このことは系図の問題でもあります。マタイ伝の冒頭のアブラハムから始まりマリアの婚約者のヨセフに至るまでの膨大な系図は日本の天皇の系図どころではありません。仮にそうだったとしてその時点では貧しい大工である一庶民ヨセフ家が何でそのような系図を辿れたのか不思議です。もうひとつの考え方として其処まで辿るとその部落のどこの家でも同じ系図にたどり着くのだということかもしれません。神話からすれば人類はアダムとイブを先祖とするので私もあなたも由緒正しい人間です。
 オカシイのは処女生誕と系図のこの二つは論理的に矛盾してしまうことです。マリアの婚約者のヨセフは名誉あるアブラハムの子孫だとしてマリアと性的関係がなかった以前にイエスが生まれたのなら系図はイエスの弟たちには引き継がれてもイエス本人には関係なくなります。それにそんなにも処女生誕にこだわるならマリアも処女生誕で生まれて欲しかったしヨセフと結婚後弟たちはどうして生まれたかということです。長男だけで後は人並みでいいのだ。というのは何かオカシイです。人類はこの例外をのぞいて処女生誕ではありません。男女の性的関係の結果悪人は代々限りなく大挙して生誕していますが希に神のような人も生れます。その人達は処女生誕でありませんがそれによってその人の人格がいささかも損なわれるものではありません。処女生誕と系図のこの二つのことはどうもイスラエル民族が本人の意向にはお構いなくイエスを黄金の牛として神格化するため担ぎ上げたものではないかと思えてなりません。イエスのそばに近ずく為このようなことを信じることが不可欠なこととされることは私にとってはかえって障害になっています。
 こういうと「不信心な君はイエス・キリストを人間の位置まで引き下げようというのか」と聖壇の上から怖い声が飛んできそうです。
 そうでないことはイエスご自身自が知っているはずです。
 この人はあるとき「あなた方は私の友である」といっています。友である厳しい条件は私の考えることを考え、私のやりたい事をやる人とあり「でもどうせそういうことはできないだろうからいうのだ」と言うよくある狡猾な世才氏の表現法ではないはずです。驚くべき事にその人は本当にそう思っていた形跡があります。その条件を満たした人は歴史上大勢いたと思います。しかし、その人達のうち一人として「さあ、これで同等だ、おい君」などとイエスに言うでしょうか。言わない。絶対に言わない。

  
2 もしイエスと言う人物が存在しなかったとしても


 ともかく約二千年前の異国の出来事です。どこまで本当のことか確認のしようがありません。事実というのは変化しやすく一年どころかウチのような小さな会社の出来事でさえ一日も経過しないうちに私の言ったことが逆に伝わっているようなことは珍しくないのです。
 最近分かってきたことですが「信長の本能寺の変」にしても明智光秀が謀反を企て、すかさず忠臣の秀吉が主君の仇を撃ったというのは出来過ぎでかなり怪しげです。明智光秀は権謀術策に長けた秀吉にうまく踊らされたというほうが真実のようです。
 戦国の世に身分もなく容貌もさえない小柄な男がみるみる出世街道を驀進した裏には目的のためには何でもありで手段を選ばなかった男の姿浮かびます。ともあれ世の常として正義は勝者にあります。破れたほうは幾つもの汚名を着ることになります。権力を持ったものは自分に都合の悪いものは隠蔽し、必要とあれば都合の良い伝説をつくることさえ出来ます。
 四福音書ができるまでには一世紀前後の時間経過があります。現在の日本の例でいうと新しいもので約50年前の第2次事大戦の話しです。空襲、疎開、千人針、防空壕、特攻隊、原爆。戦後の闇一、進駐軍、このあたりから始まります。さてこのあたりはまだ生存者がいて自分の見聞を伝えられますが四福音書となると80年から120年経ってから編集されたものということです。じつに西南戦争のあった明治初期にあった事をまとめたものだといいます。当時は写真もビデオテープもありません。
 聖書は神の霊によって書かれたものなので一字一句間違いない事実である。ということについてはコメントを控えさせていただきたくなります。
 しかし、ここに描かれているイエスという人物像は強烈です。釈迦の伝説に個性はありませんがイエスについては感情の振幅が生々しく生きている人物として伝わってきます。仮にイエスという人物が存在しなかったとしてもそのようなキャクラターの人物が存在したということになります。イエスと言う名前は今までこそ世界中たった一人の人物を指しますが当時 それほど珍しい名前ではなかったはずです。言うまでもなくイエス、キリストというのは名前と苗字ではありません。キリストというのは救い主の意味でありイエスというのは鈴木・太郎という姓名のうちのどちらかで確か太郎のほうです。
 そもそも村の貧しい大工の倅れが「五条文麻呂」などというカッコいい目立った名前ではなかったはずです。
 私は教会員ではないのでイエス様というのにはテレるだけでなく私の風情にははなはだそぐわないものがありますので個人名称を越えて更に大きな敬称込めてイエスということに致します。
 
3「在る」ということについて


「 在る」と言うことで日常的に分かりやすいのは石とか岩です。そして水とか川ということでしょう。ところで石はどこから岩と呼ばれ水はどこから川と呼ばれるのでしょうか。同じものでも量が変わると名前が違って別の存在となってしまうのを哲学用語で「量質転換」というのだと読んだ記憶があります。私は蓮田市民であり埼玉県民であり日本国民、日本民族であります。6万人の蓮田市民が突然死ぬと蓮田市民はいなくなりますが日本民族は存在します。私一人死んでも蓮田市民は存在しますが私は消滅します。
 私が返事をするのは私の名前を呼ばれたときだけです
 椅子というものが存在します。木製がありスチール製があり石でできたものもあります。石や木を存在の下部構造とすると椅子は上部構造です。心を揺さぶる名曲があります。名曲の下部構造は音波です。バイオリンは馬の尻尾で造られ、太鼓は牛の皮で三味線は猫の皮で出来ていますが馬の尻尾や猫の皮をいくら調べても名曲の秘密は解けない筈です。心とか魂とかいうものが細胞またはその下部構造からなっているとした場合、心はかなりの上部構造です
 昔心を支える下部構造は心臓かと考え心のシンボルマークとして心臓が選ばれました。一方東洋では心はヘソのあたりに在ると考えられていました。今は全身にあると考えられているようです。
 細胞の上部構造である心とは何か、近年生命の根元である遺伝子の秘密が次第に解明されてきました。全ての生命はあらゆる手段をこうじて自分の種族の増大と継続を盲目的に第一の目的としています。
 マージャンなら4人で足ります。野球は9人、サッカーは11人、第9交響曲の合唱も100人いればいいのではないでしょうか。千人も万人も必要なのは選挙と戦争です。種はどのくらい増殖しいつまで存続したらいいのか、ところでそれから何をするのでしょう。造物主は何を目的としたのでしょうか、その目的は遺伝子には書き込まれていないようです。微生物から高生物そして人間のあらゆる部族は無目的なそのためにせっせと戦ってきたと言っていいようです。
 その結果天地創造以来造られた生物はセッセと増え続けたかというとトキばかりでなく膨大な種が滅び続けましました。始祖鳥や恐竜やアマノカリスや翼のある蛇など博物館に入りきれません。生物の目的はその最終にあるのではなくそのプロセスに在るのではないでしょうか。
 聖なる書物とされる旧約聖書は素直に読んでみるとただただ己の部族の存続繁栄のための戦争物語です。そこの守護神は癇癪持ちの王様のように家来を試したり、罰を下したり敵国の女子供や年寄りなどは容赦なく殺せというお告げを何度もくだしています。もし同情して何人か助けていたりすると後で激しく祟るのです。部族の存続の大儀のまえには少数の犠牲は無視され残虐行為が認められています。
 奇怪なことはこの旧約の伝統のなかで予言されてこの世界に出現した「神の子」は生物の自然現象といえる基本原理に全く逆らった原理を述べます。
「99匹の羊を捨てても1匹の羊を救え」というのです。これでは種族は滅びてしまいます。
 その人は種族という生物の世界から「こころ」「魂」という存在の次元の異なった世界に視点をかえてしまっているのです。
 さてこの世界はどのようにして存在するのでしょうか。
   
 
 
4 聖書逆さま言葉

 聖書を否定する人が好んで使う言葉があります。「右の頬を撃たれたら左の頬も出しなさい」とか「上着を取られたら下着も与えなさい」とか「汝の敵を許せ」という言葉です。
「そんなことはとても無理だ。現実離れしている」と嘲笑的反発を受けることになります。
 一般的にあるものの価値判断において予め感情的傾きがある場合、否定したい人はそれに都合良い例を拾い出します。肯定したい人また同じです。同一人物でも言葉は状況によって違って来ます。
 徹底した無抵抗を唱えるイエスは別の場面では声を荒下げ「ここは商売の場所ではない。出ていけ」と神社で露店を開いていた商人に鞭まで振ったりしています。また、空腹時にイチジクの木をのぞいたら実がなっていないのを見て腹を立て「枯れてしまえ」と怒鳴ったりしてます。それはイチジクに言ったのではなく、実のないことをしているあるグループの人達に対して怒りを爆発させたのだ。という弁護を聞いたことがあります。それまで耐えに耐えていたのでついに耐え切れなったのでしょうか。それにしてもイチジクまであたらなくても良いのものを、と思います。
 「救われるにはどうしたらいいのでしょう」と尋ねた人に財産を捨てろとか、心を尽くし精神をツクシ云々と条件を縷々上げて素直そうな金持ちを困らせたかと思うとそれまで弟子でも何でもない重罪人に「履歴書も保証人も要らない、洗礼も入会金も要らない。今日中に私の高弟達同様天国の仲間にしよう」
 と言っています。
「 神様、神様というだけでは助けてやらない。実行が伴わなければダメだ。天国と言うところはそんなに甘いもんじゃないのだ」と釘を指したかと思うと
「私の名を呼ぶものはそれだけで助けてやるよ」といっています。
 一つの言葉だけ取り上げるとまるで矛盾してますが全て特定の状況の中で言った言葉で
す。違っていていいのだと思います。これに比べて法律用語は一定です。死んだ言葉だからです。
 
 
 
  誰か罪なものまず石を撃て

 
 ヨハネ伝だけにある有名な言葉です。姦淫の現行犯で捕まえられた一人の女を(律法学者やパリサイ人)が引っ張ってきて「先生この女はモーゼの教えによれば石打ちの極刑にあたるがどうする?」と詰め寄られた場面でイエスが言われた言葉です。
「あなた方のうちで誰れか罪のない者がまず石を投げつけるがよい」
 これを聞くと年寄りから順にひとりびとりでていった。とあります。
 誰でも思い返せば一つくらい悪いことをしていない者はいないので一人去り二人去り誰もいなくなった。
 というのが普通の解釈です。はじめ私もそう思いましたが人生後半を迎えるにあたりそれだけの解釈で済まされないことを感じました。
 悪事をした者があるときめざめハラハラと涙を流し真人間にたち帰る。というのは安物の時代劇でのお話で現実にはほとんどあり得ないことです。悪事というのは被害者から見た場合のことで悪事を働くものの多くは悪事とは思っていないのです。悪いどころか正しいと思っているのです。そもそも引っ張ってこられた女が本当に悪いことをしたのかという問題があります。まず相手の男はどうしたのでしょう?
 なぜそのようなことがあったのか。前後関係の事情があります。最大の罪とされる殺人にしてもピンからキリまであります。英雄が賞賛されるのは多くの場合殺人です。敵国の人間をいかに多く殺したかではないでしょうか。この場合は表現が殺人でなく征伐、討伐、掃討、粛正、天誅、手柄など色々あります。仇討ちはかって美徳でした。長い間虐げられていた者があるとき思いあまって相手を殺したというような場合もなくはありません。もう忘れかけた時代のお話ですがシベリヤ抑留生活の中でサデイズムの権化のような看守を殺してしまいそのあと自殺してしまった人のことが書いてあります。
 アメリカの古典にホーソンという作家が「緋文字」という実話を元にして書いたた小説があります。形の上では同じく姦淫の罪を犯した女性の物語りです。終生罪人の印である赤いAマークをつけられて生きた女性に比べてこの女性を宗教的権威を借りて非難し憎しみ嘲った人たち、特に井戸端のおばさんたちの品性の悪さは現在の悪しきマスコミと酷似しています。
 イエスはそんなことはお見通しだったので表面上は正しく心の冷たい人や意地の悪いひとや品性の卑しい人が嫌いでした。そういう人を「白く塗りたる墓」と言っています。その類の人に対して時にはもっと激しい言葉で「首に大きな石臼をつけて海の深みに沈められた方がその人のためになる」いっています。
 一人去り二人去り誰もいなくなった。とはありますがもし途中でその場を去っていたら誰かが石を投げていたと思います。このような場合石を投げる人種がいます。大別すると元々粗野で残忍なことの好きな人です。集団になると狼に変身してしまう普通人です。ローマのコロシアムでキリスト教徒をライオンに食わせるたのはひとり暴君ネロだけではなく見物にきた大勢の老若男女がいたはずです。
 権威をもってそこにイエスがいたので全員引き上げたのだと思います
 モーセの律法は集団統治のための外側からの蓋然的方法論であり、イエスは人の内側からの原理を述べたものと思います。イエスにとっての律法は「愛」であり「罪」は愛のないことであったと思います。
 今もイエスの前にいた人は全員揃っています。名前と服装が違うだけでパリサイ人がいま
す。律法学者がいます。石打ちの刑に群がる人がいます。さまざまな石打の刑が行われています。
 
 
6 心の中にあるということについて

 
 さて心という上部構造の存在はいつごろから現象化したものなのでしょうか。
 人間が猿人から別れた後の頃からなのでしょうか。ある時人類世界に椅子ができたように心が生まれたのでしょうか。
 よく物知り顔に神とか仏とかいうのは「こころのなかにあるのだ 」ということを物知り顔に言う人がいます。このことはいいかえれば「 気の持ちようで現実には無いのだ 」ということで哲学的思惟の結論ではありません。
  聖書でいう永遠の生命という意味とはかなり違います。といって永遠の命というのはどういうことでしょうか。どこかの地球類似の場所で映画「コクーン」のように肉体が何万年も何億年も生き続けるということなのでしょうか。
 少なくも原始福音時代の素朴な信徒たちはそのように考えていた筈です。そこでどういう生活をするのか。具体的スケジュールは特に考えませんでした。日々の生活があまりに苦痛に満ちている人に取ってパラダイスはスケジュールに満ちた観光地へいくようなものではなく、とりあえず苦痛がないことでした。それだけで充分でした。このことはキリスト教だけでなく仏教も同じです。
 やがて科学が進歩し青い空の向こうは成層圏で更にその向こうは黒い空間が果てもなく広がる宇宙空間であることが否応なく分かるとこの素朴な考えは修正を余儀なくされました。そこで考えられたのが異次元の世界です。異次元となると数学的には理解出来ますが感覚的には分からないものになります。
 ところで人間として最大最終の願いは無限に生きていく事でしょうか。生きていくことが快楽に満ちている人の場合と、苦痛に満ちている人では違ってきます。苦痛に満ちた生き方をしている人は残余の生を更に短くしたいと思っています。苦痛ではなくてもある状況によってはかけがえのない自分の命より価値あるものと判断するもののために命を捨てます。愛するものためには一つしかない(仮に二つあったらどうでしょう?せめて4つくらいあるといいのですが)としても自分の生命と交換してしまう人がいます。不老不死を願う人には考えられないことです。死を越えるものは愛だけではありません。名誉や復讐のためにも一つしかない永遠に一度だけの命と交換してもよいと思う場合があります。この様な価値観は何処から来るのでしょうか。
 心などというこころもとないものでなく自分の存在を石像に託したり巨大なモニュメントを造った王侯達がいます。一方ピラミットのような「物」としては残っていませんが伝える人がいる限り感動として残っている人の行為や言葉があります。でもそれは何時か伝える人が絶えた場合は完全に消滅してしまうかというとそうとばかりは言えない気がします。
 空間が人の意志である程度移動できるように時間を移動出来た場合
(黙示録は遠い未来時間にいって見てきた物語であり、民間伝説やSF小説では珍しくありません。時間の移動は科学理論として絶対あり得ない事では無さそうです。私自身生前の聖徳太子と逢ってます。但し自作の短編)
 時間を遡りその時点にまでいくと森の動物が土の中に隠した木の実のように、あるいは灰のなかに深く埋めておいた種火のように其処に何時までも残っているとも考えられないでしょう
か。ビデヲテープを再現するように見ることができるのかもしません。
 在るということを現在においてのみ考えるとき人間の存在は石や金属と比べてはかないものです。しかし現在という時そのものが一時も安定しない過去から未来に連続する帯の移動する小さな一点に過ぎない事を思うとき膨大な過去の時間が単に無になったということも出来ないのではないでしょうか。
 一つの石ころの場合、時間を現在と言うことに限って考れば分かりやすい問題ですが存在と言うことを人のこころについて考えるとき難しい問題です。
 黄金の像を何千年も後世に残し名前だけ知られても
「生きているときはずいぶん威張っていたんだろうな。ずいぶんと人を困らせただろうな」
とさらし者になるだけです。このひとに誰も親しみを込めて
「あら ツタちゃんじゃない。しばらくねえ」
と言う人はいないはずです。


7 言葉を失ってしまういくつかのドラマ

 
 新約聖書を仏典と比べてみる時著しく違うのは哲学書と詩文との相違です。
イエスが活動した時間は釈迦とくらべて著しく短く3年くらいです。それと80歳近く生きた釈迦と比べてイエスは30才そこそこの青年です。感情を剥き出しにした釈迦というのは思いあたりませんがイエスはしばしば怒り、悲しみ、人を愛した激情の人です。
 奇跡ということが本当にあったかどうかは信じられる人、信じられない人それぞれいるわけですが、この人の一言が奇跡によって病が癒えた人、目が見えた人、歩けるようになった人よりも大きな感動を与えたろうと思われる場面が幾つもあります。
 一つは最後の晩餐の時身内の弟子たちの集まりの中に香炉をもってやってきたみすぼらしいマリアという女のことです。その女がイエスの足に香油を塗る有名な場面があります。
 高弟だけが集った最後の晩餐という深刻な場面に断りもなく入り込み高価な香油をもってイエスの足下に跪いた女がいました。
「ことわりもなく何の用だ。それにそんなに高価なものを勿体ないことをするな。食い物でも買って貧乏人に施すべきだった」
と女をなじる弟子を制してイエスが言いました。
「この女は有り金をはたいて私のともらいに来たのだ。この女のしたことは代々限りなく伝えられるであろう」
 その言葉の後のその場の沈黙が思い浮かびます。女が何を答えたか伝えられておりませんが泣いていたと思います。
 目をいやされた盲目の人より、歩けるようになった人より、娘を生き返らせて貰った人よりも遙かに大きな感動を受けた筈です。
 私が思い出すもう一つの場面は最後の十字架の上のことです。同じく両サイドに十字架架けられた男の一人がイエスを罵るのを咎め「お前は何を言うのだ。自分たちは当然の報いで仕方ないがこの人は無実なのだ。さんざ悪事を働き今更言えた義理ではないが貴方は普通の人間ではないと思っています。こんなヤクザな私ですが天国へいったらせめて思い出して下さませんか」 
 その男はイエスに従った弟子達の一群のことを知っていたので弟子たちと同列に見て貰えるとは思っていなかったのです。せめて思い出して貰えるだけで結構ですといったのです。
「うん覚えておこう 」
という言葉だけで充分であったと思います。
 その男にイエスが言った言葉は肉体的激痛を一瞬忘れさせるほどの驚くべき言葉でした。
「今日お前は私と一緒にパラダイスにいるであろう」
 おそるおそる金を借りにいったところ
「それでは足りないだろう。倍額あげるからそれで支払いを済ませなさい」
といわれたどころではなかった思います。
 私事ですが30年も以前今の仕事を始めた頃ことです。3百万円くらいの仕事と記憶していますが80%くらい完成していました。当然ながら支払いは完了後です。どうしても200万円くらいの金が必要でした。おそるおそる初取引の方にそのことを頼みにいったのは土曜日でした。いろいろ言われることは覚悟の上です。びっくりしたのは「全額お支払いしましょう。ただここにはないので銀行まで車で連れていって下さい」
 その方はそれ以外のことは一言も言わなかったのです。そのときのことは終生忘れることはないと思います。
 磔つけの激痛がどんなものであるか想像を越えた無惨なものであると思います。日本では極悪人の烙印を押された罪人は打ち首獄門でした。フランスではギロチンがありました。いずれも極刑とされたものでしたが苦痛は一瞬だと思います。
 磔の刑はなかなか死なず長時間苦痛を与えるのが目的の残虐な処刑法です。死に至るまでの言語に絶する苦痛があったと思いますがこのことについて言及することはできません。死ぬ最後の瞬間は朦朧とした意識であったかも知れません。考え方や希望でその痛みが多少はかるくなっただろなどという事は出来ません。
 しかし、片方の男は苦痛の中で暗黒の死を迎えたのに対して片方の男にとって死は暗黒の淵でなく希望の光であったと思います。


 
8 この人は何だろう

 
 現在日本の政治の世界では30代は「お若い」ということになると思います。
 在る程度は分かっていても外国に行くとものの考え方、感性、習慣の違いにショックを受けるといいます。
 50年前の映画はテンポが緩すぎます。流行の歌は20年も経つと感覚的に分からなくなります。ある世代を狂的させる歌は異なる世代の人とまどわせます。
  翻訳の文章を通して約2000年前の外国人のこの人の言葉は何で今なお生々しく心に響いてくるのでしょう。
 この人は感動すると、まことにまことに といって話しかけます。
 今やキリスト教は全世界に伝わり大きな会堂で、中くらいの会堂で、小さな会堂で高い教育を受けた方が説教をしています。
 そして同じ聖書を語る国同士で戦います。張本人のイエスがこの世にいたときのことを想像します。話していた場所は海辺や丘の上や街角だったようです。其処の集まって耳を傾けていた人は下層階級の人が多かったように思われます。インテリ層や中産階級の人は少なかったと思われます。現在のキリスト教会の信徒よりいわゆる新興宗教の信徒に酷似した人々であったと思います。


9 汚い事実より美しい嘘がいい

青年期の前半、キリスト教にふれ素朴に信じようとし。夢でも幻でもいいから神様を見たい、声を聞きたいと祈りました。
 数年間教会へ通っていたことがありますが、その後思うところあって行かなくなりました。今後も行かないだろうと思います。教会からいうとブドウの枝をはなれ空中に浮かんでいる小枝です。
 何人かの牧師さんの話を聞きました。何人かの信徒と話したことがあります。私なりにいろいろな書物を読みました。最先端といわれる科学書を拾い読みました。宇宙は広大で謎に満ちています。神が存在する証拠は一層無さそうということもできるし、何もない空間に地球が浮かぶ姿をみて「神が存在しないということを信じるのは不可能だ」といった宇宙飛行士の話しも大変気になります。この宇宙神とイエスとどうリンクするのかはよく分かりません。神の子とはいえイエスはあまりにも人の心に深くかかわる存在であるので宇宙の法則や摂理としての関係がどうなっているのかよく分からないところです。
 心霊現象や超上現象を科学的に研究している人もいます。この種の問題は多数決では決められません。はたしてそのようなことがあるかないかと言う調査をし、結果100例のうち99例は嘘で確認できたのは1例に過ぎなかったとします。この場合多数決では「無い」事になりますがこの場合1例で充分です。
 私自身確認したことがないので何とも言えませんがそういうことは在ったほうが無いより遙かにいいと思います。分からないことがいろいろあって残念ながらそのまま人生を終えそうです
が、この世界について多少分かったこともあります。
 この世界は基本的に弱肉強食であること。論理とか倫理というものはあまりはやらないこと、力の原理には特に分が悪いこと。
 この世界を冷静に眺めてみるとき、あってはならないことが多々あり、公然と不正がまかり通ります。この世の帳尻は昔から地獄や極楽がないと合わない所以です。
 人が悪いことをする場合、大半の場合自分が悪いことをしているとは思っていません。自分を正当化するあらゆる自己弁護を持っています。
 それぞれの人間の生き甲斐は何か、と考え周辺を見渡してみます。人生の前半、中頃、後半と分けてみるとき私達後半の人間特に「男」をうごかせているもの何かを食欲、色欲物欲、名誉欲と分けてみるとき名誉欲が物欲を越えているのを感じます。
 かくいう自分はどうかと考える時、私もその全てが在ることを感じます。それらの欲望が在ることは当然ともいえることですが問題はそのあり方です。
 全ての人類を通して共通するものは何かの問いに対して基本事項と思われる定義を読んだことがあります。
 人間は他の動物と違い火を使う。道具を使う。契約をする等いろいろ上げた中で、他の人との関わりの中で自分の存在意義が持てないと生きられない動物、といったような意味をある哲学者だか心理学者が定義していました。さらにこの定義は乞食から聖人まで誰にも該当するであろうと書いて在りました。
 つまり人との関わりにおいて、自分の存在の意義がどうあるかということだと思います。
 聖人といわれる人は他人の役にたつことを生き甲斐としていると思います。その結果として人から自分たちの上にある人間として尊敬されます。一方力を持つ故に人の上に君臨する人がいます。この場合同じ人の上でもまるで違います。力によって君臨するものは人間でなくボスザルがのマウンテングする次元です。
 自己存在を権威によってのみ得ようとする者はサルの伝統に生きるものです。この種族は自意識によってのみ他者とは対等でないのです。
 子鹿のバンビと言う童謡があります。

子鹿のバンビはやさしいな
今に大きくなったなら
素敵な僕らの王様だ

という詩です。人の上に立つ資格の第1条件を「やさしさ」だとしています。
全く現実離れした論理です。
 どうせヒヨコや兎や小鳥どもを手下にしたママゴトの集団であろう「ふざけるな、一気に蹴散らせてやる」と百獣王ライオンが駆けつけたところ。そこは巨大な王国で家来のなかには価値観の違う象や虎が何百匹もいて子鹿の王様に従っているのを見て驚いていると玄関の掃除をしていたライオンの倍もある灰色グマに「何かご用ですか」といわれてスゴスゴ帰るライオン物語なんて面白いではありませんか。
 これは童謡だから笑って許される私の作り話ですがローマ法王より遙かに偉いはずのイエスが同じこと言っているのです。
 人の上に立つ者は人に仕えるものもののようになりなさい
 どんなに立派な論理が展開できて奇跡さえ起こせる力があったところで愛の心が欠けていれば騒々しくなるドラやタンバリンと同じ騒音にすぎない
 私が考えることを考え、感じ、してあげたいとことをする人は私の友である(私の弟子であるではなく)と言っています。
 私の身の回りには数々の人の上に立つ者がいます。それぞれの組織の上にいます。それぞれの立場の責任を一応果たしています。ただこの様な観点から見るときその位置がその組織の構成員とは同等でなく内容のない自己顕示欲で満たされていることを感じます。
 一段高い席でのマンネリの挨拶を述べること、胸に紋章をつけること、組織の上部にあると思う自分だけの快感、それがその方にとっての大きな生き甲斐である事を感じます。 政治家にとって自分の票を支える人は構成の上位一部が家来であり後は票田です。日本社会の儀礼によりパーテイ、お座敷において酒を注ぎまわる慣例は殿様が小者に賜る杯で平等意識は通常大変少ないものと思われます。
 その他有名人も同じことで下にいる者は、何故かサインをねだるものであり、消費者としての読者であり、観客であり、全て個人ではなく群です。諸君であり、皆さん、臣民、大衆であり○○さん個人はいません。
それにくらべイエスが語りかけ呼びかけているのは
ザアカイよ マリアよ トマスよ ニコデモよ ユダよ
ジョーよ マイケルよ チャンよ 太郎よ 花子よ よしみよ イカ太郎よ ダイザエモンよ 世界中に呼びかけても永遠に一人の人間です。
 どんな偉人にもお墓があります。普通の人は17回忌くらいで終わりますが偉い方は100年忌200年祭と遺徳を偲びます。しかし、この人に限ってお墓がありません。
 死んだ後すぐ生きかえってしまったことになっています。死後いろいろな弟子達に現れています。小さな疑問をいうなら遺体を残して霊として現れたのなら別ですがそのままの肉体で生き返ったのですから生前の全て特徴を備えていたはずです。それなのに生き返ったあと何年もそばにいた弟子達にすぐは分からず何か食べてみたり胸の槍跡を見せたりして本人であることを証明しています。
「 でもなんだか怪しい 」
「 そんなことはない。そんなに疑うなら これを見てみな]
「ほんとだ」
 こういう会話があったような気がします。こういう疑問は教会にいっている信徒には大 変不謹慎なことになるので牧師さんにたずねない筈です。でもそんなことは大したことではありませ
ん。
 ともかく今も世界中で大勢の人が目に見えないだけでイエスが物理学上のエーテルのように存在していると思っています。一方そんなバカなことをと思っている人も大勢います。
 ただそう言う人たちの造る世界が醜く、信じる人たちが多少損しても美しく生きているのを見るとき「いいなあ」と思います。
 木や石で造った美しい美術品があってその秘密を探るべく粉々にして正体はこれです。
といわれても存在の次元がちがいます。
  ある時代ある社会で当然とされた社会的規範、道徳も時代が違い社会が変わると大きく変化してしまいます。
「この世は虚仮にしてただ仏のみ真なり」
 聖徳太子の言葉ですが仏を神に置き換えて同じことです。この場合仏なり神というのは時代や社会において変化しないものということだと思います。
 私がまだ青年期にあったときのことです。手島というカリスマ的な人が聖書をイエスの在世したときと同じように解釈しようと原始福音という一派を興しました。その会はその後どうなったか分かりません。オーソドックスな会派からそのあり方について幾つか非難があったように思います。私自身疑問を感じたことがありますので深くは関わりませんでした。ただその中でその手島というカリスマ的リーダーがある会堂で言ったことは大変印象的でした。
「ここに集まった人たちは互いに何をしてもいい。私が許す。ただし愛が在ればだ」
 人の社会を円滑に運営するために様々な取り決め、法律があります。昔聖徳太子は17条の法律を定めました。イスラエル民族は10の戒律を神から貰いました。今はどこの国でも膨大な社会の取り決めや法律があります。取り決めや法律は多くなっても不正はなくなりません。人と人の間を円滑にする唯一最大の法律は他人に対する思いやりであろうと思います。「愛」という言葉はあまりに安易に使われ手垢がつき過ぎているのでシラフではいいにく言葉です。   
 いつの間にか後半の人生を迎えて思います。人生の前半のときから考え私はとても事業家のタイプではないと思っています。普通の事業家なら考えられないドジなことが多くありました。主に人に関することです。そのくせは還暦を越えてもまだ直りませんがあまりこだわらないようにしています。多少の損はあっても自分がそういう人間でなくてよかったと思うことにしています
 もしかしてイエスと言う人間は神の子などではなく自分がそう思っていただけ生身の人間だったかもしれません。仮にまとめて全部「錯覚、誤解」だったとします。
 美しい音楽や賛美歌集はその誤解と錯覚から生まれました。様々宗教画や彫刻、建築物はその「誤解と錯覚」から生まれました。
 芸術や音楽だけでなくイエスを信じたためにイエスをまねた多くの人間が出ました。何人もの人がその「誤解と錯覚」のために命さえ失いました。
  アウシビッツで他人のために身代わりになったコルベ神父のほかにも有名無名数え切れない人たちがこの「誤解と錯覚」から人間離れしたカッコいい事をしています。生きていると言うことは自分のことだけでも精一杯なのが普通です。ましてやこれらの人々は他人のためです。
すべてこの大いなる「誤解と錯覚」のためです。とても敵わない人たちです。一生頭が上がりません。
 宗教の起こした弊害もあります。宗教戦争、魔女裁判、科学者への迫害等数えられますがそれらは権力都組織をもった者が宗教を利用したものだと思います。
 私の身の回りに多く見られるのは特定の宗教を信奉する人を除いくておよそ次のようなパターンのようです。
… 神などある筈はない。イエスねえ、文学的には興味ある人物だ。いまさら神なんてもはや科学的にあり得ない。君少し宗教史、特に比較宗教学というのを読むといいよ。神を信じられる人は幸せだよハハハ、私は君のように単純にはなれなくてね。宗教を商売にしたら儲かるな。毎年成田さんにはお参りに行っている。ご先祖を大事にすることが一番だと思うね。要は他人に迷惑をかけなければいいんじゃないの。気が弱くなると信心したくなるのと違うかね。忙しくてとくにそう言うことは考えないねえ。その他もろもろ…
 相手により殆どののパターンにその都度同調していますが心の隅で思います。
 《しかし。このような日常論理の何もないところからは何も生まれるものはない。》
 封建時代忠義心は美徳の最たるものでした。変動する社会の中では多くのものは相対体的でやがて変化するものです。身の回りで行われる毀誉褒貶の多くはその意味や心理的メカニズムを洞察するとき大人のまママゴトであり、慰戯であり。まやかしであり、その事にひたすらである人達を見るとおかしくさえなります。
 幸いコインの掴み取りのように運良く近隣最大の財産、名誉を掌一杯得たところでそれはやがて指からこぼれおち老いのなかで全て消滅していきます。
 如何に事実であろうと夢も幻もない日常論理の世界からは人の心をゆさぶるような美しいものは生まれないのです。
 嘘でもいい。美しいものがいいな。
  
 
 
 
 
 
    夕焼けの詩 T
 
燃える雲の中に約束の国が見える
巨大な宇宙船が降りてくる
誰かが登ったばかりのヤコブの梯子が雲の端に揺れている
大勢の笑い声が聞こえる
呼び交わす声が聞こえる
無数の光りの矢が放たれ
堕天使が堕ちていく
過ぎたものの全てが甦り
天使達の大合唱がわき上がっている
眩しく雲の峰を輝かせ
次元を超えた世界がこの世界に近づき
雲の端で激しくスパークしている
 
 
 
 
  夕焼けの詩 U
 
持ち主のもとに帰りたいのに
今日も空き地に捨てられたままの自転車
錆びた鉄骨のままの建物
町外れの空き缶やゴミの散らばる川
夕映えが地を染めたのは一時のことでした。
 
ケヤキの長い影が隣の家の畑までのび
泣きじゃくりながら帰る子の長い影
やはり契約がとれなくて帰る人の影
冷たい言葉を思いだして立ち止まっていた女の後ろ姿
嘲りを受けて黙って帰る男の影
疲れて子供の待つ家に帰る母親
今日もまだ灯りがともらない窓
…だいじょうぶかな…
夕日が木立の向うから心配そうに
最後の光を投げかけています
 
日が沈んだあとは夕闇が急に忍びよります
西の空に取り残された一片の雲が
まだ赤く染まっています
…みんなだいじょうぶかな…
沈むまえ夕日がもう一度呟いていたよ
 
 
 
 
    夕焼けの詩 V
 
日が沈んだ後
星が出るまでの一時があります
あたりが暗くなったのに
ケヤキの向こうの空だけがまだ明るくて
風邪を引いた喉の痛みのように
薄く赤い雲が忘れられたように残っています
 
それぞれの巣に鳥が帰ります
獣が帰ります
明日の事を考えても仕方ないので
巣に帰った鳥達は羽に頭を入れてすぐ寝てしまいます
暗い穴に潜り込んだ獣たちも少し考えたあと
すぐ闇の中に解けてしまいます
今日も幸せな家庭に灯りがともります
中くらい幸せな家に灯りがともります
少し幸せな家に灯りがともります
灯りがともっても幸せでない家もあります
やがて
青い空が海のように深くなり
さらに深くなると一番星がでます
ケヤキの枝の間に夜が深まにつれ
宝石のような星が鈴なりになります
今日幸せでなかった人たちへのプレゼントです