八百八町は逢魔が刻

 第五章

 どきどきどきどきどき。
 大きく息を吸って、すぅー、吐いて、はぁー。
 手のひらに「人」の字を三回書いて飲み込んでみよう。ごっくん。
「あの夏之進殿」
「あっ、はい」
「もう少しおとなしくできませんか。なんだかさっきから落ち着きがない」
「すみません、でもあたし、もーすっごい緊張しちゃってもー超やってらんないって感じで」
 頬のふっくらした可愛い少女はちょっと窮屈そうに着物の帯を引っ張った。
 そんな様子を見て老人は嘆いた。
「夏之進殿、確かに女らしく振る舞うようには言いましたが、そのような下々の若い娘の言葉遣いは教えておりません」
 少女は一瞬きょとんとした後、ぽんと手を叩いてうなずいた。

 その場にいるものたちはしかし、この少女を信じられない思いで見ていた。この大名家の娘の着物を着ている少女と普段は前髪の若侍の格好で剣術をしている少年が同一人物だとはどうしても信じられないのである。
 この少女――少年と言うべきか――の名は如月夏之進。鈴代藩の跡取り、唯姫の身代わりとしてこれから見合いをするのである。

「そうでした。やっぱりおれは女言葉ってつかえないよ。どうしても変になってしまう」
「それはそうでしょう、男なのですから」
「ん? ま、まあそうなんだけどさ」
 あまり派手ではないが良い造りの女物の籠を中心に一行は進んでいた。大店の娘が芝居見物にでもいくような、そんな見た目にしてある。むろんこれは何時どこで敵の目が光っているかわからないからであった。
 がたん。籠はとある高級そうな料亭の前で止まった。
「さ、姫。着きました」
 ここに夏之進の緊張は大いに高まった。ええい、こうなったらもうなるようになれだ。とにかく今おれは唯姫なんだ。

☆     ☆

 ちょうどその頃の如月道場は。
「あらあなた、なにを探しておいでですか」
 茶を乗せたお盆を持ったまま、小笛はへやのすみでがさごそやっている夫に声をかけた。
「よいしょっと」
 霜十郎は棚から古い書類を引っ張り出した。どれもみな埃が積もっている。
「すまんな小笛、ちょっと障子を開けてもらえないか」
 彼はぱたぱたと埃を落としながらその書類に目を通し始めた。
「これは?」
「ああこれはこの道場に関するものだ。うちと鈴代藩が一体どのような関わりがあるのかを調べようと思ってな」
 二冊目の門下生名簿を脇に置き、次に手を伸ばし掛けた。ふっとその手がある書状の上で止まる。
「これは………?」
 宛先が「二科清太夫殿」となっている。
「清太夫って確かお義父上の………でも二科って?」
 裏をみると差出人は神崎庄左衛門だ。彼は鈴代藩の江戸留守居役だった人物で、唯姫たちにこの道場を紹介している。霜十郎はその書状にざっと目を通すと少し唇をかみしめた。
「やっぱり……な」
「やっぱりって何がです?」
「ここと鈴代藩の関係が、だよ。少し予想はしていたがやっぱりそうだったか…………父上はむかし鈴代藩士だった」
 小笛は何も言わず次の言葉を待っている。
「何か訳があって父上は脱藩したらしい。しかも……」
 ここで霜十郎は少し言葉を止め、思案するような表情になった。心なしかこわばっている。
「しかも、そのことと今度の騒ぎは関係があるのかもしれない。でもまさか………」

☆     ☆

 さて今度は少し時間をさかのぼる。夏之進たち一行が料亭にいく前、まだ鈴代藩の下屋敷にいるころ。
 夏之進の用心棒として付いていった蛍志郎は表の座敷に通された。ある程度自由にしてていいと言われたので彼は屋敷の中を、怪しいことがないか調べるつもりで歩いて回った。 そのうち彼は妙なことに気付いた。彼が何の気なしに、異常がないか声をかけるとその女中たちはきゃあと逃げて行ってしまうのである。そしてこそこそと集まってたいていは両手を頬に当てながら、こちらを上目遣いに見ている。
「一体私に何かあるのでしょうか」
 彼はちゃんと答えてくれた中年の女中頭に尋ねた。
「ここの女中たちは若い殿方に余り面識がありませんから。なにしろあの子たちはたいてい奥におります。若い藩士は表のほうで仕事をしているだけであまり顔を合わせる機会などありません。そんな所へ若く男前のあなたがくるからああして逃げてしまうのでしょう」
などと言われても、蛍志郎には実感としてわかない。
「は、はあ」
と歯切れ悪くうなずくだけにしておいた。
「ああ、そう言えば一人だけ気軽に奥のほうへくる若者がおりました。本多左内という家老の一人息子ですが、やはりこれがいい男で憧れるものもいるようですよ。もっとも、遠くで囁きあうくらいですがね」
 彼女は結構な情報通らしかった。しかも、それを言いたくて言いたくてたまらない、そんな感じの中年女だ。そこで蛍志郎はそれとなく今度の事を聞いてみることにした。
「そう言えば唯姫様は一人っ子なんですか」
「そうですが、なぜそんなことを?」
「あっ、いえね、もし側室に男の子がいた場合跡継ぎ問題が起こるだろうと思ったものですから」
「側室は二人ほどおられますよ。でもいずれも子宝に恵まれていません。正室にようやく授かった女の子で、これ以上は多分望めないと言うので『唯』と名付けられたそうです」
「ふーむ」
「あ、そう言えば確か………」
 女中頭は何か昔の事を思い出したようだった。言うべきかどうか迷っていたみたいだが、蛍志郎がそっと握らせた「心づけ」で気を良くし、絶対に他言無用と前置きしてから話し出した。
「もうずっと前、私がまだ奉公に上がったばかりの頃だから二十年ほどになるかも知れません、やはり同じ頃奉公に上がった奥女中がおりました………」

 彼女は行儀見習いのために一年のつもりで奉公に上がった。しかし仕えてまもなく彼女は殿様の目に止まったのだ。もちろん初めはひどく拒んだ。がしかし、父の地位の昇格などを持ち出されて拒めるものなどいない。。
 しかし二、三か月後、里帰りした彼女はもう二度と城に戻らなかった。家族も彼女が病気だと言って使者に逢わせようともしなかったらしい。
「その後私達の間でお京さん、そういう名前だったのですが、彼女は身籠もっていたらしいと噂になりましてね。また、すでに将来を誓いあった人がいたから、たとえ相手が殿様でもあんなに拒んだのだとか。まあなにぶんにも憶測だけですから」
 女中頭の話は以上だった。しかしこれでは今回のことと関係があるのかないのか、判断は難しかった。
 そこでとりあえず今は夏之進の身辺警護のことだけを考えていることにした。

第六章

 彼は少々暇を持て余していた。前に座っている老人――小野寺兵馬はじっと座ったきりである。なんでこんな事になっているんだろう………朝之助は少し思い返してみた。

 先程この料亭にきてこの姿にさせられてから、彼はせめてこれから自分が演じなければならない人物のことを小野寺に尋ねた。まず、これから自分はその人の代わりに鈴代藩の唯姫と見合いをするのである。つまりその人は鈴代藩に養子に行き、そこの次期藩主になるのである。日向藩というやはり小さな藩の三男、奥寺実継というのが名前だった。
「つまりあの流太郎ってのがその実継だったわけだろ。くそっ、あんの野郎。こっそり抜け出してお忍び気分を楽しんでたんだろうが。これだからお坊ちゃんってやつはよー。しっかし流太郎の奴に、会うのはどこの誰かちゃんと聞いておけばこんな事にはならなかったのに………でなきゃ唯姫の見合い相手の名前を聞いておくとか……」
 自分にしか聞こえないように朝之助は愚痴をこぼしている。なにしろこれから見合いをするのは唯姫でなく、その替え玉である夏之進なのである。このことを小野寺に言うかいうまいか彼は少し悩んだが、結局言わないことにした。
「どっちにしたっておんなじだぜ」
 とりあえず見合いのことよりも襲われた時のことを心配することにした。そのために朝之助は、そして夏之進も、身代わりになっているのだから。

☆     ☆

 すーっと襖が開けられた。お付きの侍女に手を引かれ中に入る。足がふわふわして本当に地についているのか分からない。
 今自分はどんな風に見えているだろう。ごちゃごちゃかんざしをくっつけられた頭、変になってないよな。何かいま地面が傾いたぞ、地震か? 違う、自分の体のほうが傾いたんだよかった、ってよくないぞ。ああこんな事を考えてどうする。ん、何? あっ、ここに座るんだな。何か料理が並んでるけどとてもじゃないけど食べらんないよ。

「こちらが鈴代堀田家の唯様。そしてこちらが日向奥寺家の実継様」

 やっぱり食べようかな。でも変な食べかたして相手に悪い印象与えちゃいけないし。ああんもう、やだっ。

「………唯様? 唯様っ」

 だれか呼ばれてるみたいだ、でもこっちに向かって言われてるのは気のせい? ………唯? ああっ、そうだ、唯って自分のことだ。
 ここでようやく夏之進は顔を上げた。

「……………!?」

 ここで叫ばなかった夏之進を褒めてあげるべきだろう。顔を上げた先――見合い相手のいる場所にいたのは自分の兄、朝之助だったのだから。

☆     ☆

「後は若い者同士で………」
 お決まりの台詞で二人は庭に出された。
 もう夏之進はさっきまでの緊張などとっくに無くなっている。
「どういう事だよ、朝兄さん」
 二人にしか聞こえないくらいの声で夏之進は低く囁く。
「俺だってさっき初めて知ったんだよ。昨日人に頼まれてさ、ただ女にあってくれっていうから引き受けたんだ。まさかその相手がおまえだとは思わなかったからな」
「悪かったな、期待どうりの女じゃ無くって」
「ふん、なかなかどうして良い女に見えるぜ、夏」
「! 兄さん、あんたは兄弟にまで手を出すのか」
 あわてて夏之進がこう言ったのは、朝之助が不意に手をつかんで引っ張り寄せたからである。
「しっ。静かにしろ。お出でになったようだぜ」
 朝之助に言われて初めて夏之進は気付いた。庭の大きな木の影、塀の向こう、屋根の上などから消そうとしても消しきれない殺気がしてくる。
 彼は反省した。本来なら見合いの席に入ったときから警戒しなくてはいけなかったのだ。しかし「見合い」と言う事だけに気を取られ、何のために自分が身代わりになっているのかすっかり忘れていたのである。
「準備はいいか」
「あ、待って兄さん。その脇差し貸してよ」
「おまえ懐刀持ってるんだろ」
「こんな短いの、おれ慣れてないよ」
「ったく」
 さり気なく夏之進は朝之助の左に回った。そして脇差しを鞘ごと抜き取る。朝之助も刀の柄に手を掛け、カチャリ、と鯉口を切る。

 その瞬間。
 物陰にいたものたちが一斉に襲ってきた。

☆     ☆

 襲ってきたのは全部で十人ほどだった。みんな覆面で顔を隠している。浪人のようだがなかなかの使い手ばかりだ。
 朝之助は瞬く間に二人を斬ってしまっていた。しかし複数で一度に掛かってこられるとそれ以上は「瞬く間に」という訳にはいかなかった。
 しかし夏之進はもっと苦戦を強いられていた。決して夏之進の腕が劣っているわけではない。普段ならもっと楽に倒すことができるだろう。でも普段と違い脇差しで、しかも袖が長く動きにくいお姫さまの着物なのである。あまりにも勝手が違い過ぎていた。
 少しずつ刺客たちのほうが有利になってきたように見えた。と、その時、夏之進を取り囲んでいた敵の一人が前のめりに倒れた。
「すまない、表のほうを見張ってて遅くなった」
 蛍志郎である。
「蛍兄さん、もう、遅いよ。でもこれで助かった」
 形勢逆転と思われた。
 しかし……
「あっ夏、後ろっ」
その夏之進に蛍志郎が叫ぶ。
「え?」
 ズキュン。
 夏之進が振り向くのと銃声がするのがほとんど同時だった。
「わっ」
 反射的に夏之進は身をかわした。しかし動きにくいせいもあり体が大きく傾いた。そこに襲いかかる刺客が二人。
 一人の刃はなんとか受け止めたが………
「はうっ」
「あ、なつーっ。……てめえ、よくも」

 さっきまでとは朝之助の動きがまったく変わった。苦戦していた相手をほとんど力任せに斬り倒し、いま夏之進を襲った二人に突進すると相手に反撃する暇を与えず刀を打ち込んだ。
 一方蛍志郎は、夏之進が銃で狙われた直後、さっと刀の小柄を引き抜くとその男に投げた。男は再び夏之進を狙っていたがその腕に小柄がささる。銃口はあさっての方向を向いて火を噴いた。
「待てっ」
 追いかけようとしたが、さっと木陰に隠れた。今までいた場所に銃弾が打ち込まれる。再び追いかけようとしたとき、男の姿はもう無かった。

「夏、おい夏」
 朝之助は夏之進を抱き起こした。その手にべっとりと血が付く。
 すでに他の刺客たちも朝之助の手に掛かっていた。しかし彼はそいつらには見向きもせず夏之進のところへ走り寄ったのであった。
「蛍志郎兄さん、夏が、夏乃が……」
「落ち着んだ。とにかくすぐうちに運べ。大丈夫だから」


第七章

「夏の具合はどうだ」
「大丈夫、傷は深いけど命に別状はありませんよ。うまく急所を外している。あの状況でもとっさによけたんだ、まったく大した奴だよ、夏は。兄上の指導が良かったんだな」
 診療所の入り口で待っていた霜十郎にそう告げると、蛍志郎は真っ直ぐ道場に向かった。
「蛍兄さん、夏は………」
 そこでは朝之助がじっと座っていた。彼は蛍志郎の姿を見ると飛び起きて駆けてきた。蛍志郎は朝之助の問いに大きくうなずいてみせた。
「ま、今夜辺り熱は出るだろうけどな」
「…………くそっ、俺が付いていながら……」
「朝之助?」
「俺が付いていながらあいつに、夏に怪我をさせてしまったんだ。俺のせいだ」
「おい……」
「蛍志郎兄さんもいけないんだ。もっと早く来てくれればこんな事にはならなかったのに……そうだ、そもそも鈴代藩の護衛を引き受けたのがいけないんだ。くそ、そのせいで夏が………」
「いい加減にしないか」
 朝之助は殴られた頬をおさえ呆然と目の前の兄を見た。蛍志郎がこういった暴力を振るうのはおそらくはじめてのことである。
 朝之助は憑き物が落ちたようにその場にへたり込む。

「でも、でも、兄さんはなんとも思わないのか、夏があんな目に遭って」
 どん、と床を叩く。
「俺はどうしようもなくなるよ、夏乃に、俺の大事な妹に何かあったらと思うと」
「朝之助、おまえ………」
「できることならあいつは俺がずっと守ってやりたい。兄さんだって見ただろ、あいつは女の服着てちゃんとすればすごく女らしいんだ。男の振りして剣術師範代なんてやっているけど、やっぱりあいつは女なんだ。………俺が守ってやりたいんだ」
 朝之助はぎゅうっと両手を握り締める。爪が皮膚に食い込み、そこから血が滴ってきた。
「しかし夏はそれを一番いやがるんじゃないのか。誰かの庇護の元にいたくないからああしているんだろ。あいつは誰かにかばわれて生きるよりも自分で精一杯やって死ぬほうを選ぶだろう」
「分かってるよ、そんな事。でも、例えあいつに嫌われたっていい、俺が………!」

☆     ☆

 大きな屋敷の門に人が駆けてきた。さっと辺りを見回してから中に入る。
 その人物は奥の部屋の前で立ち止まると、さっと控えた。
「おお木下か、首尾はどうだった」
「それが……」
 障子の内側から声が掛かる。木下と呼ばれたその男はちょっと言い淀んだ後、言葉を続けた。
「しくじりましてございます」
「何」
「しかも本当の唯姫ではありませんでした。おそらくは日向藩のせがれも……」
「それは一体どういう事だ」
 障子がさっと開いた。五十すぎくらいの少し腹の出ている男が姿を現す。
「おそらくは身代わりを立てていたのでしょう。男は大変腕の立つものでございました。女のほうも只物ではないと思われます」
「ぬう」
「とりあえず女の方には深手を負わせました。部下に後を付けさせているのでどこのものか分かるでしょう。またきっと唯姫もそこにいるに違いございません」
「む、あの小娘ごときにこの藩を渡してなるものか……」


第八章

 目が覚めるとそこは見たことのない部屋だった。
「あれ………ここは?」
「あ、夏さん。気が付いたのね」
「小笛さん、おれ一体…………痛っ」
「まだ動くのは無理ですよ。安静にしていなくては」
 小笛は起き上がろうとした夏之進を止める。
 できたばかりの診療所にはいま小笛と夏之進しかいない。
「そうか、あのとき刺客に襲われて、おれ……」
「待っててね、今蛍志郎さんを呼んできますから。あと何か食べたいものある? 丸二日眠っていたんですもの、おなか空いているでしょう」
 小笛は出ていこうとした。しかし
「待って、行かないで。少しここにいて」
 夏之進の声に彼女は振り返った。そこには今までと違い、泣きそうになっている「夏乃」がいた。
「夏さん……」
「みんなどうしてた? 怒ってた? おれが無様に斬られたりしたから」
「まさかそんなことないわよ、凄く心配してらしたわ。とくに朝之助さんは昨日一睡もしないで付いていたのよ」
 夏之進は何もいわず天井を見つめている。そしてほとんど一人言のように喋り出した。
「おれ、剣術やって今じゃ師範代までやってさ、かなり強いと思ってたんだ。でもその結果がこれだ。別に剣の腕だけの問題じゃなくてもだよ、おれは自分一人でもやって行ける、女だからって男の後ろに隠れてなくてもいいんだって信じてた。………でもそれって結局おれの独りよがりだったんだね」
「………」
 小笛は何も言わなかった。いや、言えなかった。彼女はすでに霜十郎という庇護の元にいる。その彼女が言う事は、今の夏之進にとっては何の慰めにもならないだろう。
「見合いの時さ、おれ、相手のこととか――朝兄さんだったわけだけど、そういう事しか考えてなかったんだ。襲われるかもしれないって事は兄さんに言われるまで思い出せなかった。………なんだかんだ言ったって結局おれの意識って女の子なんだよ。そして女の子は男に守られなきゃだめなんだ」
「それは違うわ」
小笛がさえぎるように話し出した。
「え?」
「確かに夏さんはどう頑張ったって女の子よ。どんなに言葉使いを男っぽくしたって。………でもね、だからって男性に守られなきゃだめっていうのは違うと思うの。もちろん腕力ではかなわないから守ってもらうのがいいでしょう。でも生き方は女の方が強いと思うの。例えば夫婦でどちらか先に死なれたときを考えてみなさいな。妻に先立たれた男はしばしば酒浸りになったりしてもう人生投げているようなところがあるでしょう。でも夫に先立たれた女は気丈に子供を育ててたくましく生きているわ。精神的には絶対女のほうが強いのよ」
 しかし夏之進は納得できないようだ。
「でも小笛さんだって霜十郎兄さんの影で生きているだけじゃないか」
「本当にそう思う?」
 小笛はにこっと笑った。
「え?」
「まあね、他人から見れば私は霜十郎さんの影にしか映らないかもしれないわね。でも私がいるからあの人は道場をやっていけるんだわ。私が支えているからあの人は安心して自分のことに打ち込めるのよ」
 まだ子供のいない小笛ではあったが、母性のかたまりのような穏やかな微笑を夏乃に向ける。
「………これはどうもごちそうさまでした」
 ようやく夏之進の顔に笑みが浮かんだ。さっきとはうってかわって晴れ晴れとしている。
「羨ましいよ、それだけ言い切れる相手がいてさ」
「夏さんにだってそのうち現れるわよ」
「いいよ別に。やっぱりおれには普通の女の子は合わないみたいだ。こうやって男の格好しているほうが性にあってるよ。そうだな、おれより強いやつがいたら、考えてやってもいい」
「あら、霜十郎さんはダメよ」
「いらないよ、兄さんなんか。もっと別なやつだよ」
殺伐とした診療所に、女二人の笑い声が響いていた。

☆     ☆

 その頃道場に来客があった。
「流太郎!」
「や。朝之助。この前はありがとう。迷惑をかけたみたいだな」
「てめえ、迷惑なんてもんじゃ………うちのいもうとが危うく……ふごっ」
 朝之助は後ろから口を塞がれてじたばた暴れた。
「あなたが近江流太郎、いや、日向藩主の三男、奥寺実継殿ですね。私は朝之助の兄、如月霜十郎と申します。どうかお上がりください」
 霜十郎は実継を奥の座敷に通し、鈴代藩の人達を紹介して事情を説明した。
 その事実に実継は驚いたようだ。
「ずいぶんと世間って狭いな」
 また、蛍志郎は実継を見て驚いた。
「あ、あなたは」
「あれ兄さん、知り合い?」
「いや、そういうわけじゃ……確かあなたは品川宿の手前で襲われた籠に乗っていた………」
「どうしてそれを?」
 蛍志郎はそのときの様子を語った。
「あのときあなたが籠の影から逃げたのが見えたから私は手を出さなかったんです。しかし無事だったのならなぜすぐ藩邸に知らせなかったんですか?」
「ああ、一度襲われたからこのままいてはまた襲われると思ったんでな。だから信用のできて腕の立つ奴に身代わりを頼もうと思ってた」
「ふん、そのせいで夏が………ふごっ」
「せっかくだからあなたもこの屋敷に泊まっていてはどうですか。敵の正体が分からない以上藩にいるより安全だと思いますし、ここには唯姫が……あれ、唯姫は?」
「え、夏の見舞いに行ったんじゃ……」
「いや、さっき行ってみたけどいなかった」
 道場は途端に騒然となった。

☆     ☆

 その唯姫はどこにいたかといえば、如月道場をこっそりと抜け出していた。
「わらわのせいじゃ、わらわのせいで夏之進が怪我を………」 彼女は屋敷を出てはいけないという言い付けをすっかり忘れていた。近くにある神社まで一人でやってきてしまったのである。
「夏之進が早く元気になりますように……」
 ずっと祈っていた。祈っていたし、また世間知らずでもあったからそんな自分を見ている目があることなど気が付かなかった。道場を出てからずっと付けてきている目が………


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