長江の流るる果てに

1・微睡み

 穏やかな日差しが開け放たれた窓から薄暗いこの部屋に差し込んでくる。
「……の林に五十の伏兵を置きます……」
 机に広げられた地図。その地図のある地点を指し示す細く白い指先。しかし日差しはそこまで届かない。
「敵がすべて通り過ぎてから討って出て、その退路を塞ぐのです……」
 澄んだ声が部屋に響く。ぱさりと音を立てる真っ白な羽。日の光は背の高いその青年にだけ当たっている。
「敵をおびき出すのは……」
 白い指が別の地点を示す。その動きに合わせ、長い袖もそっとはためいた。
「子龍殿が一騎でここに立ち、敵の大将を……」
 青年は地図から顔を上げた。窓辺に立つ青年の顔は逆光で見えない。しかしそれがかえって神々しくさえ感じられ……

「子龍殿?」
「え? は、はい」
彼は名を呼ばれ我に返った。会議室にいるもの全てが不思議そうに彼を見ている。
「どうしたのだ、子龍。ぼうっとするなんてお前らしくないではないか」
「どこか具合でも悪いのですか?」
不意に青年が顔を近づけた。
「熱があるようですね、顔が赤いですよ。なれない気候で体調を崩したのでしたら、今度の桂陽攻めは別の人に……」
 慌てて彼は弁解した。
「えっ、ああ、某は元気です。毎日体を鍛えて降りますのでこれくらいで体調など壊したりは……えっと、ここに伏兵がいて某はここで敵を誘導するんですよね。任せてください」
 どん、と胸を叩いて見せる。鎧の胸当てがガシャっとそれに応えるような音を立てた。
「本当にどこも悪くないのですね」
「もちろん。この趙雲子龍、必ずや期待に応えてみせます」
 みんなどこか解せないという表情ながらも納得したようだ。実際彼が今まで期待に背いたことなどただの一度もないのだから。
「まあよい。よし、それでは出陣だ。子龍、頼んだぞ」
「畏まりました」

 穏やかな春の光が彼の銀色の鎧に当たってまぶしく光った。
建安十四年初春。荊州の南にある零陵での出来事だった。




2・孤虎、孤龍

 西暦209年、劉備、字は玄徳は漢王朝復興の志大きく、中国の荊州と呼ばれる地域にいた。荊州は中央を長江が流れ、気候も暖かい豊かな土地であった。前の年、隣の国『呉』と結び、赤壁にて北の大国『魏』を破った劉備軍は、この荊州を基盤とすべく南方の平定に乗り出したのであった。

 本拠地の公安を守るのは劉備の義弟の関羽、字を雲長。武陵を攻める事になっているのが同じく張飛、字を翼徳。そしてこれから桂陽を攻めるのが、劉備に絶対の忠誠を誓っている若武者、趙雲字子龍である。

「将軍、桂陽の太守、趙範よりの使者です。趙範は降伏すると言っています」
「よし、その使者を奥に通して丁重にもてなしてやりなさい。我々は城に向かう」
「はっ」



「子龍、此度の働き、ご苦労であった」
「はっ、ありがたきお言葉なれど、某は何もしておりません。向こうから降伏し、我々の傘下につくと言ってきたのでございます」
 相変わらずのその謙虚な言葉に、劉備は小さく笑った。
「しかしそれもそなたが軍を進めたからであろう。お前はいつもそうだ、もっと自分の手柄を認めたっていいのだぞ」
「ご自分の非は、まあそう滅多に見ませんが、すぐに認めるのですけどね」
 趙雲は赤くなってうつむいている。

 場所は再び零陵。今、趙雲は劉備に無事桂陽を取ったことを報告していたのである。
「……ところで子龍」
劉備はさっきまでとは打って変わった声を出した。
「そなた、桂陽で趙範殿の嫂との縁組を断ったというではないか」
 趙雲の様子が明らかにうろたえた。
「だ、だ、誰がそのような事を……」
「お前の部下たちがみんな噂しちるぞ。趙将軍は堅物だ、いや、武将中の武将だ、さまざまにな」

 半ばうんざりと、しかしきっぱりと趙雲は言った。
「まだこの荊州に落ちついたばかりで人心も安定しないこのときに、一武将たる某ひとり女にうつつを抜かすつもりはございません。また趙範殿は某と同じ趙の姓を持つ人物、いくら未亡人と言えど同じ姓の女性を妻にするなどとは道義に反します」

 後にした会議室の中で劉備が「まったくあいつは堅物だよ、絵に描いたような正論ばかり…」などとつぶやいていたが、その声は趙雲には届いていない。
 会議室を出ると誰かが追ってくる気配がした。振り向くとそこに背の高い青年が羽扇を手に立っていた。
「あ、軍師殿]
「子龍殿、少しよろしいですか」

 青年は諸葛亮、字を孔明という。『伏龍』有りといわれたその才はどの国からも求められたが、彼は自分の庵に三度も自ら足を運んでくれた劉備のもとについたのである。

「子龍殿、さっきの話は……」
「軍師殿までそんな……」
趙雲は苦笑した。
「なぜあなたはそこまで妻を娶るのを拒まれるのですか。今回だけではないでしょう、今までだって何度も」
「今まで言ってきた通り、某は武人です。いざと言うときは主公(との)のためにこの命を投げ出すことだって惜しくはない。しかし、もし妻がいたら肝心なときに命を惜しみ敵に背を向けてしまうかもしれない。そんな武人として恥ずべきことはしたくないのです」
 孔明はかぶりを振った。

「でも子龍殿、こうは考えられませんか。妻がいるから戦でどんな危機になっても生き延びようとすることができる、大切な人を悲しませないようどんな死の淵からも帰ってこれる、と」
「大切な人を、悲しませないよう……」

趙雲ははっと顔を上げた。いまの言葉を口の中で繰り返してみる。彼の顔は諸葛亮を向いていた。しかしその視線ははるか遠くを見つめている。

 そのあまりに顕著な反応に諸葛亮はかえって驚いてしまった。
「あ、もし差し出がましいことを言ったのでしたらすみません」

遠くにあった視線はだんだん近づいてきて、趙雲は真っ直ぐに目の前の背の高い文官を見つめた。

「いや、そんなことは。……ただ今の軍師殿のことばで気づいたことがあったものですから」
「それなら良かった。……ではこれで私は失礼します」
 去っていく諸葛亮の後ろ姿を、趙雲はただじっと眺めていた。

 軍師殿、確かに某の命は我が君・玄徳様にあるかもしれません。しかし戦場でどんなに命の危険に晒されようとこうして戻ってくることができるのは、あなたがいるからなのです。あなたが某を信じて用いてくれるから絶対に戻ってこなければならない。死んでしまったら某を信じてくれたあなたを裏切ることになってしまうから。あなたを悲しませることになってしまうから……




3・幼子

 荊州に限らず、今、中国全土は束の間の平和が訪れていた。いや、平和というよりは嵐の前の静けさと言った方がいいのだろうか。ともかく戦のないわずかな時間を人々は味わっていた。

「子龍、これ子龍、どこへ行った」
 劉備の声が荊州城にこだまする。しかし本来ならすぐに応えるはずの若武者の声は今回はない。
「主公、どうなされました」
「相変わらず子龍はこういう話になると逃げ足が速いと思ってな」
「こういう話とは……?」
「子龍の縁組の話だ。街の郷士の娘でな、ぜひ趙将軍の嫁にもらってやってくれと頼まれてしまったのだ」
 劉備と諸葛亮は顔を見合わせ、どちらからともなく笑いあった。
「それは始めから結果が分かっていたことでは……」
「わしもそう言ったのだが……」



 その頃話題の趙雲は、城下の見回りと称して城を出ていた。
 最近自分の縁談は雰囲気で察するようになっていた。そしてやばそうだ、と思ったらすぐに逃げ出すようになっていたのだ。いくら主公のたのみでもこればっかりは……

 何時か誰かに言われたことがある。命をかけて主人に尽くすのは武将としての務めだ。しかし、妻を娶り後継ぎをもうけ家を存続させることは人としての務めである。
 確かにそれは正しい。後継ぎ、家。これはこの時代の最も大切で守るべき道だ。しかし、そこまで言われてもなお、趙雲は結婚など考えられなかった。
 武将としてやるべきこと、戦に備えること……これが今の彼のすべてだった。

 城下は表面的には賑わっていた。しかし一歩裏に入れば貧しいものたちが苦しい生活を強いられていた。趙雲はそのようなところを中心に見て回った。後で劉備に報告し、人々がよりよく暮らせるようにしてもらうためである。

 彼は一軒の民家の前で足を止めた。中から赤ん坊の泣き声が聞こえる。しかしそれをあやす母親の気配はない。不信に思い中を覗いてみた。
「! ……これは……」
 中年女が天井から吊るした縄で首を括っていた。傍らの机の上では籠に入れられた赤ん坊が疲れきったように泣いている。
 女は赤ん坊の母親だろう。夫が戦死して絶望し、死を選んだようだった。別段珍しいことでもない。

「しかし残されたこの子はどうなる……」
 趙雲は赤ん坊を抱き上げ低くつぶやいた。彼は戦によって何の関係もない街の人が苦しんでるのを見るのが辛かった。子供や赤ん坊が苦しむのは身を切られる様痛かった。これは彼自身、少年の頃戦によって両親を無くし、幼い弟妹と苦労を重ねてきたことと関係があるのだろう。
 彼は戦袍(ひたたれ)を脱ぐと赤ん坊をそれにくるみ、鎧の胸当てを緩めた中へ入れた。

「まるで長坂橋での阿斗さまのようだ…」



「そうか、街はそんなに酷い状態だったか」
 劉備は眉をしかめた。趙雲のもたらした街の様子は思っていたよりもずっと傷つき、回復にはまだまだ時間がかかるようだった。
「しばらくはここで街の傷が癒えるのを待つしかないのであろうな」
「そう思います」
「…………ところで子龍、ずっと気になっているのだが、その胸に入れているものは何なのだ?」
「あ、そうでした。このことも主公に申し上げなくては」
 彼は胸当てにいれておいた赤ん坊を取り出し、劉備に見せた。
「この子の親はすでに首を括っておりました。そこで今日からはこの子を某の養子にしようと思います」
「なるほど、それはよい。…して、名は?」
「統、にしようと思います。
「趙統か、良い名じゃ」

 諸葛亮はその間ずっと黙っていた。ただ二言三言、街の政策についての意見を求められるままに述べただけだった。
 そして趙雲が部屋を出るとその後を追いかけ声をかけた。

「子龍殿、養子とは考えましたね」
「何のことですか」
「ふふ、子龍殿の考えくらい分からぬこの私とお思いですか。つまりこうでしょう、後継ぎさえ決めてしまえばもうしつこく縁談を持ち込まれないで済むというわけです」
「べ、別にそんなことは……」
「子龍殿は子供がお好きですからね、結婚せずに子供だけ手に入れるには養子がいいと思ったのでしょう」

 羽扇を口元に当て、くすりと笑うこの年若い軍師殿には誰も勝てないことは良く知っている。
 しょうがなく趙雲は曖昧に笑って見せた。




4・船上の月

「では孔明、仲謀殿によろしくな。さぞお力落としのことだろう」
「分かりました」
「子龍、孔明の護衛は任せたぞ」
「お任せください」

 建安十五年冬。西暦210年。

 諸葛亮、趙雲を乗せた船は静かに長江を下り出した。
行く先は『呉』。呉の大都督、周瑜、字は公瑾が亡くなりその弔問に行くのである。

 周瑜は何かにつけ諸葛亮を敵視していた。かの赤壁の戦いでも彼は何度も諸葛亮の命を狙った。しかしその諸葛亮は、周瑜とは戦のない世界で友として出会いたかった、と思っていたのだ。

 こたびの周瑜の死は、元来病気がちな上、仕事での心労が重なったものだった。しかし呉の人間の中には、周瑜が諸葛亮に出し抜かれ、そのために憤死した、と考える向きもあった。当然諸葛亮のことを快く思っているわけがない。
 趙雲はそのための護衛なのだ。



「軍師殿、こちらにおいででしたか」
 その晩。ゆっくりと進む船の上で趙雲は諸葛亮の姿を探した。船旅はまだ始まったばかり、久しぶりに酒でも酌み交わそうかと思ったのである。

 諸葛亮は甲板の手すりに寄りかかっていた。何時も着ている黒い上着は着ていない。
「そんな格好では風邪を引いてしまいます。いくらここはあたたかい南の地といってもこの季節ですから。ほらこちらへ……軍師殿?どうしたのですか」
 諸葛亮は振り向こうとしなかった。趙雲は仕方なくその隣に行くと同じように手すりに身を預けた。

「……子龍殿」
 ようやく諸葛亮は顔を上げた。その表情はどこか愁いを帯びていて、下手に触ると壊れてしまいそうだった。ふと趙雲は、いつか見たことのある『硝子細工』と言うものを思い出した。夜の空、暗い水面を背にした彼の姿は月明かりの下ひどく頼りなげにみえる。

 趙雲は息をのんだ。このような『軍師殿』の姿は今までみたことがない。彼の知っている軍師殿はいつも凛として厳しくて、頼り甲斐のある人物のはずだった。
「呉の人々は私のことをさぞ恨みに思っているでしょうね。公瑾殿を死に追いつめたものとして」
ほとんど独り言のようにつぶやいた。このような台詞も普段の彼からは考えられない。

 趙雲はもう一度傍らに立つ人物を見た。背は高いが体の線は細い。劉備に仕えるまでは農業をやっていた、と聞いた。しかし本当にこの細い腕で鍬などを握っていたのだろうか。……そして本当にこの今にも壊れそうな体で兵馬を何千、何万と動かしてきたのだろうか。

 彼はここにいる人物こそが本当の諸葛孔明の姿だと思った。城で見せるちょっとしたたかな姿は諸葛亮の虚構をはっている仮面の姿だと。
 おそらくこれは劉備の前でさえも見せたことがないだろう。『軍師殿』はいつでも人に指示を与えなければならない。少しでも弱いところを見せてはいけない。

 この人は自分に向けられるたくさんの救いを求める目の重圧にずっと耐えてきたのだろうか。誰の助けも借りず、たった一人で。

 ふわっ。
 ふいに孔明は背中にあたたかいもの感じた。人の体温。傍らの人のぬくもり。
「あ、あの、子龍殿……」
「大丈夫です、孔明殿。某がいますから。某が必ずあなたを守ります。敵の刃から、そしてあなたに課せられた重圧から。……某を信じてください、決して一人で抱え込まないで」
 耳元でささやかれる言葉。
孔明は体重を背中のぬくもりに預けることにした。ここは温かい。今まで一人でずっと抱え込んでいたしがらみがほどけていくような感覚。

「そうですね、子龍殿。私の悪い癖みたいです、誰にも相談しないのは」
 その体勢のままどれほどの時が過ぎただろうか。長いようにも感じたし、それほど経っていないようにも感じられた。
 やがて彼は少し体を起こし、その肩をずっと抱きとめている人に振り向いた。
「痛いです、子龍殿」
「あ、あ、すみません、孔明殿…」
 孔明は微笑んだ。月光の中、思わず趙雲が言葉を失うくらいに。
 その様子をみてさらにもう一度にっこり笑う。するとさっきまでの壊れそうな表情は消え、普段見せる『軍師殿』の顔になった。
「頼みましたよ、子龍殿。あなたがいてくれるから大丈夫でしょう。これからもずっと……」
 最後は自分に言い聞かせるように。

 そして不意に趙雲を見上げた。
「ところでなにか私に用だったのでは?」
「あ、そうでした。軍師殿、まだ呉につくまで日もあることですし久しぶりに酒など……」

 月が映る水面を背に、趙雲は誓った。どんなことがあっても自分はこの人を守る。この人が自分を必要とする限り、自分がこの人を必要とする限り。
 それは時間にして、多分、永遠。

 そんな彼の想いも知らぬげに、長江の流れは依然と悠々として続いている。 

<了>



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