もしも…


「……奥方さまは自ら井戸に身を投げられ……若君は………」
 少し言葉を止める。
「……若君は先程まで泣いておられましたがいまは音もせず………」
 そう、このまま死んでしまえばいい、この赤ん坊は。
 趙雲は心の中でそう思っていた。私が見失ったばかりに………


 そのとき彼はただ一騎、再び戦場の中に馬を走らせていた。主君・劉備の第一夫人で幼君・阿斗の生母である甘夫人は無事助け出した。次は第二夫人の糜夫人と阿斗様を見つけなければならない。
 後ろから巨大な軍が追いかけてくる。逃げる戦乱の中ではぐれてしまったのだ。

「奥方さまぁ、阿斗さまぁ」

 逃亡中の農民が向こうで高貴な女性と赤ん坊を見たと教えてくれた。
「どこにおわせられます、奥方様」
「―― ここです、趙雲殿」
 か細い声が彼に答えた。
「あっ、そこにおられましたか、奥方様」
 彼は馬を降りて糜夫人に近付いた。彼女は赤ん坊を抱いて物陰に座っていた。――― 二人の赤ん坊を。
「阿斗様は………あれ、そちらの子は?」

「この子は親に死なれて泣いていたんです。だから私……」
 それまでずっとうつむいたままの彼女は顔を上げた。泣いているようだった。

「阿斗様は死んでしまったのです、趙雲殿。この戦の中で」
「えっ」
「そのときこの子が泣いていました。ちょうど年格好も同じ男の子が。ですから趙雲殿………」
 彼女は死んだ子の服を脱がせ、手早く泣いている子に着せた。
「趙雲殿、この子を ―― 主公の御子として ――」
「そっ、それはなりません、奥方様」
「主公はこの戦いで住む所も我が子もなくされたとすれば、きっと気落ちなされます。せめて将来の希望である子供がいれば……赤ん坊にはしっかりとした教育を受けさせれば良いのです。さあ、趙雲殿」
 
夫人は赤ん坊を彼に手渡した。


「そうか、息絶えたか……」
 劉備が少し涙ぐみ、呟いた。
 申し訳ありません、主公。でもそのほうがよいのです――

 と、そのとき。

「おぎゃあ、おぎゃあ」
 趙雲の腕の中で赤ん坊が泣き出した。
「おお、生きておったか」
「……はい、そのようで……」

 彼は思った。こうなってしまった以上、この子は阿斗様だ。この子を劉備様の跡継ぎとして立派に育てなければならない。

 そしてこのことは私だけの秘密……

〈了〉



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