過ちは改めるにやぶさかに非ず

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                                                          2003年 3月10日 



言葉の問題を扱っている、あるホームページに投稿した複数の人が、「じゅうふく」(重複)のことや、「だいがえ」(代替案の代替)や「舌づつみ」(舌鼓)のことについて、コメントしていました。いずれも、これらの読み方は間違いだとして、かなり非難している感じのコメントです。


例えば、「・・・と読む人が多いのに閉口している」とか「・・・と発音する人間がいる」とか「・・・と発音するなんて、あんまりじゃないか」のように、かなり激しい響きのある口調です。誤字と人の人格はあまり関係がない、と思いますが、こういう言い方に、人の人格までを否定せんばかりの勢いみたいなものを、感じてしまいます。

さきほど、誤りだとして指摘されている読み方で、「重」には「じゅう」と「ちょう」の両方の「音」があるし、手元の辞書のすべてが、「じゅうふく」と「ちょうふく」の両方を載せている。また「じゅうふく」を「新語形」と定義する辞書もある。「だいがえ」は、「音訓」の順序になっている、いわゆる「重箱読み」で、日本で作られた和製語である。「代替え地」という言葉もある。「したづつみ」と同じく、口語的表現として、市民権を得ているものです。《(注)→「湯桶(ゆとう)読み」》


上の非難は、みな若い人が書いたものか、それらの表現を過ちだと断定して、一刀両断している感じ。人に対する、何かやさしさみたいなものが、少し不足している、という感じがします。それは結果として、自分に対するやさしさをも喪失するのじゃないか。回り回って自分の身に返ってくるという意味で。「・・・する人間がいる」とか「・・・はあんまりじゃないか」とか「・・・には閉口している」とか、少し言い過ぎの感じがしました。(^o^)


日本語って不思議ですね。「・・・と言う人間がいる」のように、「人間」を使うと、「人」より厳しく、きつく感じませんか。なにか、人の人格までが非難されている感じがするのです。この表現を「何かやさしさみたいなものが不足しているもの」としてここに上げたのは、そのような理由からです。この「人間と人の関係」のことですが、私の直感が正しいのかどうか、よくわからないのです。このように感じるのは、多分、私だけかも。


「人間と人の関係」を考えるとき、やはり引いてみようと思うのは、『新明解国語辞典』ですね。それによると人間=【もと、人と人との間柄の意】(他の人間とともになんらかのかかわりを持ちながら社会を構成し、なにほどかの寄与をすることが期待されているものとしての)人、(第4版、第7刷発行)と、あります。明らかに、「人間」のほうが「人」より上位の関係(位置)がある、という感じの定義をしています。このあたりが、厳しい印象をあたえるのかな、と自分で納得したりしています。



日本人は、欧米人に比べれば、覚えなければならない漢字や仮名も含めて、言葉が多すぎると思うのです。単に語彙(ごい)だけじゃなく、文章の構成要因である主語の欠落で、意味があいまいになることも多々あります。私などは、日常会話で、話し相手に主語の確認をすること、しょっちゅうあります。こういう意味で、非常に厳しい言語環境に置かれていると思う。お互いにそのような認識ができるかどうか、ですね。


人の、言葉の誤用を、もっとさらりと指摘できて、そして、さらりとそれを修正することが出来れば、もっと住みよい言語環境になるんじゃないかな、と思います。(^o^) 過つは、人の常、ですから。


始めに紹介した人たちは、自分の過ちがわかったときに、どのような精神状態になるんでしょうか。実は、少し不安があります。あまり人の過ちのことで、きついことを言っていると、自分の過ちがわかったときに、素直になれないのじゃないかとも思うのですが、どんなもんでしょうか。過ちをするのは、人の人格と関係ないとは思いますが、「過ちを改めるにやぶさかでない」ということでないと、それこそ人格をも疑われてしまうかも。