「生きざま」や「死にざま」の「ざま」は
「ざまあみろ」の「ざま」か

ikizama1.htm
                                                                                   2002年10月19日

                                             このコラムを読まれる方は、
                                    このページの最後にある《嫌いな言葉》を
                    まず先にざっと目を通されると、状況がわかりやすくなると思います。
このコラムのタイトル、「『生きざま』や『死にざま』の『ざま』は、『ざまあみろ』の『ざま』か?」というのは、大類雅敏(おおるいまさとし)著、『文章表現・表記おもしろ事典』の中の「〜ざま」というタイトルの文章から引用したものです。タイトルに疑問符がついているのは、『新明解国語辞典』と同様に、私が同氏の見解を疑問に思いますので、疑問符を付しています。何はさておき次の引用(1),(2)の補足説明から、引用(1)引用(2)へと読み進んでください。

引用(1)の補足説明

引用(1)は、『新明解国語辞典』の「生きざま」という見出しの定義の説明文です。実は、私のホームページの中の「プロフィール」という自己紹介文に、「嫌いな言葉」として「生きざま」を載せようと思いましたが、その前に念のために「生きざま」の意味をチェックしておこうと思いました。果たして見出し語に「生きざま」がありました。ちょっとした驚きでした。おまけに、『新明解国語辞典』特有の、ざん新で、しゃれていて、軽妙なタッチの定義文でした。


引用(2)の補足説明

引用(2)は、パソコンを修理中に暇をもてあまして、図書館で句読点の資料を探しているときに見つけた本からのものです。はじめにご紹介した、大類氏著の句読点などを内容とした随筆的なタッチの本です。実は、この引用文が、私にとっては「ギョッと」する大発見でした。
                                              引用(1)

『新明解 国語辞典(三省堂 金田一京助)』の見出し語「生きざま」から
                                                   (1991年12 月25日第7刷発行)
   

    「生きざま」・・・その人の、人間性をまざまざと示した生活態度。
    「ざま」は、「様」の連濁現象によるもので、「ざまを見ろ」の「ざま」
    とは意味が違い、悪い寓意(ぐうい)は全く無い。一部の人が、上記の
    理由で、この語をいやがるのは、全く謂(いわ)れがない。

                                              引用文(2)

 『文章表現・表記おもしろ事典』(一光社・大類雅敏著)タイトル「〜ざま」から
                                                                             
(1991年5月10日第1刷)

 もう10年以上も前になるが、「生きざま」とか「死にざま」とかの言葉を聞いて、驚いたことがある。もともと、この「ざま」は「ざまあみろ」の「ざま」で、軽視・侮蔑・からかい等の意味が込められていて決してよい言葉ではないのである。「死にざま」などといわれたら、死者は立場がない。「あんな死に方をしやがって、ざまあみろ」といわれているわけだから。やはり、「生き方」「死に方」と表現するべきだ。


――とまあ、こんなことを考えていたら、『上毛新聞』(平成元年6月7日付)に格好の例があった。紹介したい。この記事は、『若き獅子マスタード』(写真集)を刊行した長倉洋海(カメラマン)の談話として、アフガン戦争に何故こだわるのか、という問いに対しての解答の部分である。


(引用文中の引用)

 
「物質的豊かさの中で、日本人は生きざまにしても、表情にしても迫力がなくなってきている気がします。アフガンで戦っている彼らは、今の日本には見い出せない生き方の誠実さを持っている。それが僕をひきつけるんです」

  
(注:下線部は筆者。原文では文字の上に「点」が付されている)


 見事な使いわけであり、現在の日本人の「生き方」に対する、鋭い批判がここにはある。豊かでなくても”誠実”に生きる、反政府ゲリラの、一人の指導者への共感が伝わってくる。


 言葉というものは、このように用いてこそ生きてくるわけだ。正しく使いたいものである。他人が使うから右へならえ・・・・・・というのは、感心しない。


 「生きざま」「死にざま」などという流行語は、全く無神経であり、死に絶えることを願望する。人はそれぞれの時代を、それぞれに生きているわけであり、「ざまあみろ」といわれる理由はない。


 最近、書棚を整理していたら、もう古本というような、かび臭い書物に「生き様」と書いた文章に出会った。これだと「生き方」に少し近いが、「生きている様子」の意味になる。ニュアンスが違う。「ざま」と読ませるつもりでも、やはり、長倉洋海に及ばない。語源の問題なのである。
引用(1)に関する、私の感想について

まず最初の私の驚きは、多くの辞書が「生きざま」を見出し語として載せていない中
で、小さな『明解国語辞典』が載せていたことです。また、『新明解国語辞典』独特の、しゃれた定義文にも改めて感心しました。


「生きざま」や「死にざま」の「ざま」という表現を、理由はともかくとして、忌み嫌う人が私以外にいたというこが大きな驚きでした。嫌っているのは、私だけだと思っていましたから。(1980年代の「ざま見ろ論争」も知らずに、世間の狭い感覚でした)


「生きざま」の定義、「その人の、人間性をまざまざと示した生活態度」というのが、私の予想通りの定義で、やはり好きになれないことが確認できました。「まざまざ」の定義は、同辞典によると「確かに眼前に見えてきたり、身近に聞こえてきたりなどするように思われることを表わす」とありますから、個性が強いとか、自己主張が強いとか、自己顕示欲が旺盛というようなときに自然に感じてしまうものなんでしょうか。


例えが悪いですが、においで言えば、悪いにおい(臭い)でも、良いにおい(匂い)でも、とにかくぷんぷんにおってくるようなものでしょうか。香水をつけて雑踏を闊歩(かっぽ)している人、私は好きではないのです。香水をつけるのは、勝手だといわれそうですが、人を巻き添えにしているのです。自分の心の中にだけつけてほしいと思います。


人を巻き込むと言えば、三島由紀夫のせい惨な死にざまはどんなものですか。同じ死ぬにも、あのような、普通の人なら考えもしないパフォーマンスを演じて死ぬのは、私には「ちょっと大げさで迷惑」という感じなのです。あれ以後私は当分気分がさえませんでした。人の勝手という見方もあるでしょうが、あの事件も人を巻き添えにしたもので、「人の勝手」では済まされないものです。


自衛隊の偉い人の部屋の中で、その人を椅子にくくりつけて、その眼前で三島は自分の私設軍隊の部下の手による介錯(かいしゃく)で、切腹を決行します。自衛隊のその偉い人は、どんな思いだったでしょう。「生きざま」とか「死にざま」というのは、三島由紀夫のために用意された言葉のように思えて仕方がありません。「三島由紀夫の壮絶なる生きざまと死にざま」。


自ら命を絶つ人は多い。しかし、多くの人がこっそりと死んでいきます。生まれて、生きて、苦しんで、耐えて、耐えられなくなって、死んでいきます。そのような人だけでなく、多くの良識ある人たちは、三島の死を「壮絶」という形容詞で修飾したくないと思う人は少なくないのではないでしょうか。特に「生きざま」は悪い意味から、良い意味に転じて使われるようになって、「三島の壮絶な生きざま」という表現には少なからず抵抗を感じます。



「死にざま」や「生きざま」の「ざま」は連濁(れんだく)現象によるもので、「ざま見ろ」の「ざま」とは意味が違うことを明確にしているところが説得力があると思いました。連濁現象とは、日本語の国語学の用語で、(ある条件下で)二つの語が結合して複合語になる場合、下に来る語の頭(第1音節)の清音が濁音になることを言います。

  例. 「あめ+かさ→あまがさ」、「やま+さくら→やまざくら」、「さん+かい(階)→さんがい」
    「いきる+さま→いきざま」、「しぬ+さま→しにざま」など


「ざまみろ」の「ざま」は複合語ではなく、それ自体、一つの意味を持っている。
                                                                     (広辞苑、新明解国語辞典など)

     「ざま」は「さま(様)」の変化。(ぶかっこうな)様子
               なんてざまだ。ざまぁ見やがれ。ざまは無い。=体裁が悪い
               年がいもなくかっとなったりしてざまも無い。=だらしがない


 したがって、「死にざま」や「生きざま」の「ざま」は連濁現象によるもので、特に「死にざま」には悪い含意がないということと、「生きざま」はいい意味で使われるようになっています。(正にそれ故に私は「生きざま」を忌み嫌うことになるのです。)このように、『新明解国語事典』は私には、非常に説得力があると思われます。

        
引用(2)に関する、私の感想について

大類氏は、「生きさま」と「死にざま」を対立する概念としてあげながら、「死にざま」のみ説明して「生きざま」は説明していないのです。つまり、「死にざま」の「ざま」は「ざまぁ見ろ」の「ざま」であるという論理を、「生きざま」に当てはめて説明することができていません。なんと言っても、このことが、大類氏の説明に論理の統一性が欠如しているゆえんでしょう。


考えられる理由として、「ざま」という言葉が持っている軽視・侮蔑・からかい等の意味を「生きざま」に当てはめて説明できないのではないでしょうか。発生的には最初は、「死にざま」が存在してそのあと「生きざま」が「死にざま」をなぞって作られたことは、『旺文社国語辞典』に記述があります


同辞書によれば、「生きざま」は当初、「みっともない生きざま」のように悪い含意がありましたがやがて良い意味に転じて、「偉人の生きざまを範とする」のように使われるようになりました。その他の例として、「すさまじいまでのいきざま(大辞林)」とか「すさまじい生きざま(広辞苑)、「りっぱな生きざま」などの例があります。


そのような理由で、多くの辞書が「死にざま」を見出し語として載せても、「生きざま」は載せていないのでしょう。それに、反意語としても説明していません。また、東京堂出版の『反対語対照語辞典』にも、「生きざま」と「死にざま」は反意語として扱かわれていません。このように、大類氏のは、「死にざま」を説明したことで、「生きざま」も説明したかのような印象を与えていますが、実際は、「生きざま」の説明は、「死にざま」と同じ論理では、不可能なのです。


また、「ざま」という言葉には単独で用いられる用法があって、その場合の「ざま(様)」は悪い含意があります。「ようす、なりふり、状態などをののしって言う語。「そのざまはなんだ」というように(旺文社国語辞典)。大類氏の説明はどうもこれとの混同ともとれます。「死にざま」という言葉には、今のところ、悪い含意は見つかりません。

   ここはやはり『新明解国語事典』の連濁現象に軍配を上げなければならない、と思います。

   大類さんの『文章表現・表記おもしろ事典』、それに三省堂の『新明解国語辞典』から引用させていただき、ありがとうございました。

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                                                       私のホームページの目次の二つ目にある
                                              「私のプロフィール」に載せているコラムです。

《嫌いな言葉》



「生きざま」

理由:こなれていない

なぜか
この言葉を聞くと
全身、身の毛がよだつ

                                                                                                 

               



     この原稿を書きながら、念のため辞書で「生きざま」を調べた。
              
ビックリした。のっていた。     



                                                                                                                                                                                              『新明解 国語辞典(三省堂 金田一京助)』による
 (1991年12 月25日第7刷発行)

   
    
 「生きざま」・・・その人の人間性をまざまざと示した生活態度。
       「ざま」は「様」の連濁現象によるもので、「ざまを見ろ」の「ざま」
       とは違い、悪い寓意(ぐうい)は全く無い。一部の人が、上記の
     理由で、この語をいやがるのは、全くいわれがない。
 
         

 アレー、いやがる人が一部にいたのか。全く知らなかった。
私は自分だけだと思っていた。

お言葉ですが、「生きざま」を聞いて私は「ざま見ろ」の「ざま」を連想などしない。

私の場合、理由は外にある。

 人間、生きるときの様子が、何となく人に壮絶(そうぜつ)感を覚えさせるようで、
イヤなだけである。
 
これはひょっとして、私だけかも。

「壮絶な戦」の「壮絶」である。

(注)
(壮絶な=他に比べもののないほど・勇ましく(おごそかで)、
見たり聞いたりする人の襟を正さしめる様子
(同上辞典より引用)
 

もっと堪え忍んで、 外面はさらりと生きて、内面に壮絶感を自分で感じればいい。
「壮絶な生き様」のように、「壮絶な」という形容詞は「生きざま」と結びつくのか、
と想像するだけで、もう鼻持ちならない。
これは私の考え過ぎかな。

     
(鼻持ちならない=言動がきざで、見聞きするのも不愉快)

 人間は、ほとんど、苦しいときも、悲しいときも、寂しいときも、耐えて生きているのでは・・・。
たいがい、みな、そうなのでは・・・

「その人の人間性をまざまざと示した生活態度」って、なに・・・?


 こんな言葉は、私はもう、dead language (死語)にしてほしい。






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