2人称の呼称に不自由を感じるのは、私だけか
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                                       August 18th,2002
小さい園児の息子さんが、まだ小さいのに、友だちには「俺(おれ)」を使い、家では「僕」を使っているという話には、いじらしささえ感じて、感動しました。小さいのに、見事に「俺」と「僕」を使い分けているじゃないですか。
私は自分のそのぐらいの時の記憶がありませんので、中学、高校時代を思い出していました。確かに、友だちには「俺」と言っていましたね。家では両親にはさすがに「私」は使えなかった。両親がただ単に私の目上の存在であるなら、話は別かも知れませんが、親と子供という関係の中で、私はか弱くて、庇護(ひご)の対象である必要がありました。無意識のうちにといいますか、本能的にそのような存在としてふさわしい「僕」を演じていたわけです。自分のことを「僕」などというのは、自己防衛本能かもしれません。
英語なら、自分を表現する1人称は「I」、目の前にいる2人称を表現する言葉は「you」だけですが(古い英語には外に表現もありますが)、日本語の場合、暇なときに一度数えてみればわかりますが、英語を話す人たちが本当にビックリするほど、1人称や2人称の呼称はたくさんあります。中には、当然今は使われていない、朕(ちん)とか余(よ)とか、拙者(せっしゃ)とかいう表現もあります。(もっとも、小説などの世界では使いますが)
日本人は、自分と他者の関係を表すのに、自分や相手の置かれている身分や上下の序列や位の中で、さまざまな呼称を生みだし、長い伝統の中で、そのような呼称を培い、他者を呼称で選別することに、営々と神経を使ってきたわけですね。その神経は、よく言えば、繊細。悪く言えば封建的だと言わざるを得ません。
例えば、英語のbrotherは「兄弟、兄、弟」という訳がありますが、brother には本来上下の概念、つまり「長幼の序」という考え方がありません。英語で「彼は私のbrotherです」と言うとき、兄とか、弟ということに全く触れていないのです。だから意識的に、上下関係をあらわすのに、例えば、older brother とか、big brother と言わなければならないのです。
日本語と違って、英語には、家父長制やだれが家を継承するかということに、固定的な考え方がないのです。日本語に戻りますと、二人兄弟の場合、「兄」とか「弟」というのはその言葉の中に、見事に「身分」が表現されています。「兄」は本家を継ぐ人「弟」は分家する人という意味を暗黙に内包しています。英語の brother とは本質的に違うのです。英語のbrotherは無色ですが、日本語の「兄」「弟」には色が付いているという言い方ができます。
このように、長幼の序を表す名詞が発達している、つまり英語の older というような形容詞をつけないで、一つの単語(名詞)だけで身分が表現できるということは、そういう「身分文化」が発達しているという証拠なのです。
外の例で言えば、肉食中心の食文化を持つ欧米人には、「牛」の肉の呼称にはたくさんあり、肩とか、ももとか、脚とかの肉に逐一簡単な名詞で表現できる名称を持っています。これなど、農耕文化の伝統がある日本人には一つの驚きであるわけです。私は、いまだに牛の肉の名称を覚えることができません。
「兄」とか「弟」のような言葉自体がそんなに簡単に無くなるとは思いませんが「長男だから」とか「次男だから」とかいう言い方といいますか、考え方と言ってもいいですが、それは徐々に無くなり、実態はだんだん変化していくのではないでしょうか。
例えば、神社やお寺の跡継ぎがなくなるとか、必ずしも長男が家の跡を継がなくなるとか、家を継ぐという発想が無くなるとか、墓もお互いに同じ墓に入りたくないとか、自分には墓は不要だとか、散骨にして海や山にまくとか、考え方が多種多様になってくるように思います。死後も墓を中心に集合するという考え方は、徐々に無くなっていくでしょう。
従来、日本では、亡骸(なきがら)を土葬にする習慣があった関係で、親族の墓石がスペースの関係で散在することもありましたが、それも保健衛生上、荼毘(だび)に付すことになって、親族の墓石が一つにまとまるという傾向が出てきていました。しかしそれも、今度は逆に、お墓そのものを不要としたりする考えが出てくるようになっているのです。
私たち夫婦は、自分たちの墓地をどこにするかということを考えるようになり、墓石の石材店の営業マンといろいろ話をする中で、石材店の営業は近年ますます苦しくなってきていることを知りました。あと、5年ぐらいしか持たないとまで言い切っていました。中小の石材店は、当然淘汰(とうた)される時代がやってきます。いま、墓石は驚くほど値を下げてきています。墓石が高値だったころの半額以下でしょうか。
従来の家父長を中心とした家族への支配権はがたがたと崩れてくるように思います。私の兄は先祖の墓を私に預けて、養子に行きました。私のすぐ上の二人の姉は、一人は主人がいて、一人は主人に先立たれていますが、二人とも散骨の会に入会しています。


海でも山にでもいいから散骨してほしい、と考えています。墓参りみたいなものは、もういいと考えている。二人とも子供や孫がいますが、彼らがいつまで自分たちの墓をお参りしてくれるのか、確信がもてないでいるのです。
市民社会の真の民主主義というのは、いつまでも「家」というものに執着し、それを固守することではなく、人間みな死して、早晩、無縁仏になるという一種、諦念(ていねん)のようなものが、その根底になくてはならないと私は思っています。
人称の呼称の問題も、それが1人称であれ、2人称であれ、やがて日本人が解決しなければならない厄介な問題です。1人称の「私」や「わたし」や「あたし」、それに「おれ」や「僕」など、みな少しずつ色がついていますが、とくに言い難いこともないので、2人称と比べて問題は少ないのではないかと、私は思います。 
「あたし」は一部の男性も使うようですが、私は使いません。「私(わたくし)」は目上の人や、改まった席上で、使います。「わたし」は少し砕けた、雰囲気の中で同輩や目上の人に使います。「僕」は目下の者や生徒や卒業生に、そして砕けた雰囲気の中で使います。

「俺(おれ)」は家内や息子に使います。このような使い分けは、いかがなものでしょう?いじらしいと言うか、馬かげていると言うか。何というエネルギーの浪費でしょうか。女性はたいてい、「わたし」や「私」ですむのでしょうか。
2人称には、「あなた」、「お宅」、「あんた」、「自分」、「君」、「汝」、「お前」、「貴様」のようにたくさんある割に、それぞれみな特有の色が強く、無色透明な英語の「you」のことをどれほどうらやましく思うことでしょうか。子供のころよく使った「自分」という言い方は2人称としては、奇妙な言い方で、正式とは言えないでしょう。若い人が少し目上の者に対して、「先輩」と呼んだり、夫が妻に「お母さん」というたぐいの呼称だと思います。2人称の正式な呼称ではありません。
1人称と比べて2人称のわずらわしさというのは、いったい、どこからきているのでしょうか。それは日本語の構造から来ているように思う。いにしえの昔から、2人称の代名詞を適当に定めて、ずっと、それを使う習慣があったのであれば、別に問題はなかったのだと思います。


ところが日本語は主語の「私」や「おれ」を省略しても、文意が成り立つのはもちろんのこと、目の前にいる相手のことに触れなくても文意が通じてしまうところに問題が潜んでいるように思われます。時として、二人の話し合いの中で、「だれが?」とか、「だれの?」とか、「だれに?」ということが問題になり、それが暗に相手のことを指している場合に、私の場合とたんに2人称の不自由さを感じてしまうのです。
相手が家内以外の女性の場合、私は「あなた」を使いますが、相手が男性の場合2人称として使えるのは、せいぜい「あんた」と「お宅」ぐらいいです。それも目上の人には、「あんた」は遠慮します。


アクセントを「あ」に置くと少し丁寧になりますが。私は使いません。すると「お宅」ぐらいですか。たくさんありますが、それほど使えないのです。男性に対していくら目上でも「あなた」を使いません。
大学のころ、同級生はほぼ同じ年ごろでしたが、かなり年配の人もいましたから「君」は使い難かったですね。「あんた」はいかにも方言くさいし、少し先輩なら、使いにくい。挙げ句のはてにどうしたかというと、みなお互いに相手を「you」で片づけました。これは便利でした。相手のことを「you」ですますようになったということは、皆同じように不自由さを感じ、暗黙の合意ができていたのです。
2人称の呼称の煩わしさは、夫婦の間にもありませんか。お互いを、それぞれの名前で呼び合い、「おまえ」とか「あなた」とか「あんた」とか言い合っている場合は、いいでしょうがお互いを「お父さん」とか「お母さん」とかで呼び合って、しかも「あなた」とも「あんた」とも「お前」とも言っていない夫婦の場合は、ある種不自由さがあるのではないでしょうか。私の家内は私を名前で呼ばないし、「あなた」とも「あんた」とも言わなくて、「パパ」と呼んでいるものですから、2人称の呼称には  (悩んではいないでしょうが)不自由を感じていると思います。
こんなふうに考えるのは、すこし神経質過ぎると考える人も当然あると思います。それより、日本語が本来持っている語いの豊かさは便利でいいし、そのことを楽しめばいいと考えている人もいることでしょう。そういう考えは、比較的若い人に多いのではないでしょうか。


私のような発想は、もちろん少ないと思われます。なぜならば、このようなタイトルで、何か文章を書いている人を、私は知りません。これまでに、新聞、雑誌、小説随想、その他の定期刊行物でお目にかかったことがありません。いや、このような考えをどこかで読んだという人は教えてくだされば、ありがたいと思います。

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