テープ起こしの、5つの仮説

                               tapenokasetu.htm
                                                                        2002年10月20日
                        

                                           テープ起こしの仮説(1)

                                      
テープ起こしのネーミングを統一する
                                                                                                                                                                                                                                    


ある人の情報によると、T社の「原音再生型」は「ベタ起こし」に相当するようです。
「生(なま)起こし」は「全く手を加えないパターン」と「話し言葉をそのまま生かすパターン」があると聞きます。これがまた、実際は「〜じゃないんですか」を「〜ではないのですか」と直したりするそうです。一つのネーミングに実態が二つ、三つあるとなると、それはその会社独自のものであり、対外的に汎(はん)用性はありません。この混乱ぶりには、少なからず驚きました。


このように「ベタ起こし」「素起こし」「生起こし」のそれぞれの、「ペタ」や「素」や「生(なま)」が、本来の意味から乖離(かいり)して使われている実態が象徴するように、この業界は本当に混乱の極みじゃないか、と思います。忙しすぎて改善の暇も無いということでしょうか。こういうことは、この業界の発展途上の象徴的な存在とでも言えるでしょう。


テープ起こしの「営業」と「通信講座」の両方を営業しているのは、T社とG社以外に、もう1社あると聞きましたが、定かではありません。いずれにせよ、両者ともテープ起こしの研修修了生をどんどん社会に送り出しているわけですから、社会的な責任があります。


ところで、こういう場合の社会的責任とは何でしょうか。部品の物作りで言えば、規格を統一して、汎用性を高めるということでしょう。規格が統一されて、私たちがその利便性の恩恵を受けていることは、いくらでもあります。ネジや電球のソケットの口径、水道のじゃ口のパッキング・・・。いわゆるジスマーク(JISマーク)というものです。素人の私が上げるまでもなく、際限がないほどあります。その統一規格は、単なる利便性だけでなく、経済性のためでもあります。


テープ起こしの業界で、規格の統一というのは何でしょうか。それはまず、ネーミングの統一でしょう。ネーミングを整理する過程で、当然、中身も吟味されることになります。とにかくネーミングが混乱していますから、こちらが先決です。そのためには、T社が自社の登録商標について、ある程度譲歩されたらどうでしょうか。T社は、この業界の先駆者であるわけですが、フロンティアとしての責務というのは、まず、そういうことではないのでしょうか。


まず「テープ・リライター」とか「テープ・リライト」という用語を解き放つのはいかがでしょうか。それができなければ、この二つの歩み寄りは、非常に厳しいと思います。いずれ、早晩、テープみたいなものは、姿を消すことでしょうから、少し早めに、例えば、「トランスクライバー株式会社」などという名前に改名する気持ちでもあれば、少し光明が見えてくるだろうと思います。それには、一種「ゆとり」のようなものがないとダメなのではないでしょうか。がつがつ金儲けに走るだけでは詮方(せんかた)ない。


次に、テープ起こしの分類を解き放つことです。原音再生、逐語書き、標準、1次リライト、2次リライトのネーミングのことです。このネーミングのすばらしさは、おそらく用語が混とんと入り乱れている中で、多くの人が認めるところではないでしょうか。よく考えられた分類だと思います。T社の卒業生のなかで、そのように思われる人がきっとたくさん、おられるのじゃないでしょうか。後発の会社はおそらく、これ以上のネーミングはできないだろうと思います。


T社は、もっとも注文の多いケースを基本にして、それを「標準型」とし、その前後に「原音再生型」と要約の「2次リライト型」などを設定しています。T社の「標準」に見合うのがG社の「1次テープライト」です。しかし、このネーミングには、後発であるが故の悩みといいますか、迷いというようなものが感じられます。「1次テープライト」はいかにも苦しいネーミングです。名前を聞いて、内容がイメージできないという、苦し紛れのネーミングという感があります。そのように感じるのは、私だけでしょうか。


「原音再生」と、「ベタ起こし」や「生起こし」や「素起こし」を単に横並びにするだけで、「原音再生」という用語は内容を規定する厳密性を持っており、勝手な想像や解釈を許していないということがわかると思います。それに対して、例に挙げた、ほかの三つはどうでしょうか。すべて同じよう見えますが、みなばらばらです。


                                    テープ起こしの仮説 (2)


                                     話し言葉を書き言葉化するときに、


        「必ず修正するもの」「ある程度修正するもの」「できるだけ修正しないもの」



G社の通信教育で教えているテープ起こしの基本として、「話し言葉と書き言葉の違いに注意して、極力テープに忠実に起こしていくこと」が最もいい起こし方じゃないかと私は思います。この命題にそって、厳密に定義するとすればどういうことになるか考えてみます。まず、「話し言葉と書き言葉の違い」については、T社の教科書から、その概略をまとめます。次の区分は私の提案です。中身はT社とG社の両方を使っています。


                 《必ず修正するもの》(削除・修正・補正・調整するもの)


明らかな「言い直し」の、直前の言葉(削除)

言葉の重複(削除、ただし強調によるものは除く)

   
*果たして、強調のための重複だ、と認識できるかどうか

主語を必要な箇所に補う(補正)

助詞(てにをは)の誤り(修正)

長いセンテンスの短小化(調整)

長い段落の短小化(調整)

同音異義語の間違い(修正)

(後で思いついて)倒置された言葉(調整)

   
*強調による倒置は除くが、果たして、強調によ倒置だ、と認識できるかどうか

聴衆の視覚の助けを借りている表現(修正)

    
(例:「これは、あれより大きい」の「これ」とか「あれ」を具体的な名詞にする)

                         る程度 修正するもの》

「あー、えー」などのケバ


                         《できるだけ修正しないもの》


強調のための倒置、感動を率直に表わすような倒置

(例:「で、ついに私はそこへ行ったんですよ、そのあとすぐ、みんなといっしょに」では
   「私はそこへ行った」が強調されている。(話し言葉では、強調したい表現は先にのべられる)

    

話し手が著名であろうとなかろうと、極めて口語的で軽快な話し口調

文末で使われる間投助詞、「〜さ、〜ね、〜よ、〜な」など

  
間投助詞=語調を整え、語勢を加え、感動を添えるもの
  
T社では、これをケバとして扱っている。全面的に削除するように指導される。


上の《書き言葉で絶対修正するもの》を実行するだけでも、話し言葉の欠点が修正されて読みやすくなり書き言葉化すると思います。


                                            テープ起こしの仮説(3)

                                   
「〜じゃないんじゃないんですか」を
                   「〜ではないのではないですか」に変えて失われるもの


私がT社でテープ起こしを習い始めるようになって初めて、テープ起こしの書き言葉には私がそれまで知らなかった、独特のジャンルがあるということを知りました。それも簡単にわかったのではなく、なかなか理解できませんでした。


当初、書き言葉に対する私の理解は「かた苦しい、〜である体の、文語的な文章」ぐらいの認識でした。そういう理解の仕方が私には長年の一つの常識でした。


だから、軽快で、非常に口語的な話し言葉を、できるだけ「である体」あるいは「です・ます体」に直していたのは言うまでもありません。課題レポートにどうして赤がたくさん入れられているのか、最初はなかなかわかりませんでした。


                             ■
担当の添削者は・・・


「自分の文章を作ってはいけません」

「テープ・リライト文は書き言葉化すると言っても完全にはなりません。いわゆる『テープリライト文』とでも言う文体が、この業界では許容されていますから、文体や言葉遣いを完全に文語体にするようなことはありません」

「違和感があると言って、ライター主導で言い換えないのが基本です。例えば『〜といいますか』を『〜というか』ぐらいにはしますが、カットしてしまうことは ありません」 のようにいろいろ指導していました。


私は、ほとんど「である体」とか「です・ます体」にまとめていたように思います。「〜じゃないんじゃないんですか」は「〜ではないのではないか(ですか)」という調子です。書き言葉というものは、そういうものだと信じていました。


それがどういうわけか、有名、無名に関係なくいろいろな人の感動的な講演やシンポジウムのテープを起こすなかで、「〜じゃないんじゃないんですか」を、なぜ「〜ではないのではないですか」に書き直すのか、疑問に思うようになりました。その理由は極めて明白です。軽快な口語調の言葉を書き言葉に変換する過程で、失われるものが大きいと感じるようになったのです。


講演会などで、講師が淡々と退屈な話をして、聴衆がトイレに行ったり、退席したり、私語したりするような雰囲気では、私もこだわりはありません。講師の、インパクトがある、中身のある話と軽快な語り口調が、すっかり聴衆の心をつかんでいるときは、会場は、一種独特な、張りつめた雰囲気に包まれます。


笑いが一杯の会場には、講師への掛け声とおぼしき声までが聞こえることがあります。そのような独特な雰囲気までとうてい文章に起こすことはできないとしても、ここはやはり話し言葉をそのまま移植して、できるだけ読者に情報を伝えて、雰囲気をわかってもらいたい衝動にかられるのです。そうでもしないと、原稿に起こしながら、生理的な欲求不満とでも言えるようなものを、私はどうしても感じてしまいます。


とくに、T社のように、話し手が有名であれば、そのまま起こし、無名であればできるだけ文章を書き言葉に変えていくという起こし方には組するわけにはいきません。無名な人の講演を起こした原稿でも、読む人がその話し手の癖とか、個性的な口調を知っておれば、その起こされた原稿を読んで、やはり違和感を感じるのは、想像に難くありません。


無名な人の話を原稿に起こすときにその無名な人を知る人が少ないという理由で、より書き言葉に傾斜した方向で起こすという考え方は、説得力に欠けます。かりに、その無名の人が、例えば、非常にユーモアに富む、中身のある、ものすごいおもしろい話を、軽快な、極めて口語的な口調で語り、聴衆の心をしっかりつかんだとすればどうなるのでしょうか。


それでも、やはり無名の枠の中に入れて、特別扱いするのでしょうか。著名でない人の中にも、独特な話し方で、ムードを醸し出し、聴衆の心をつかむような話をする人はたくさんいると思います。その逆もあります。したがって、有名・無名で分けるには、どうしても無理があると考えられます。

うではなくて、話の内容に注目して、非常に個性的な人柄で、独特のムードで聴衆を話の中に引き込むことができる人は、有名・無名を問わず、それなりにその雰囲気をできるだけ伝える起こし方をすればいいのじゃないんじゃないんですか。


そのように考えて、私は「〜じゃないんじゃないんですか」は「〜ではないのではないですか」にする必要がまったく無いと思うようになりました。


第一、軽快で口語的なほうが読みやすいと思います。小文字の「ゃ」とか「ないん」が含まれる文章のほうが、「視野を広くして読む」ことができます。余談ですが、このことを、英語では、「eyespan(アイスパン)が広い」と言いますが、日本語では「eyespan」を「視範囲」などと、難しい用語に翻訳しているところを見ると 「アイスパンを広くして読む」ということが、日本語の文章を読むときに、指導の目標になって無いんじゃないんでしょうか。事実、私が受けた小学校から高校までの国語教育のなかで、速読教育というものが、無縁であったことは間違いありません。


読みやすければ、それをあえて、かたい書き言葉にする必然性が無くなると思っております。


(注)eyespan= 視範囲(一目で把握できる視覚対象の範囲)《『リーダーズ英和辞典』)
 例えば、「温故知新」という4字熟語は、多くの人は、一目で読み、意味を認識するでしょう。「一目で」というのは、眼球を4回も動かして、温・故・知・新と読まないで、1回の、目の動きで読めることを言っています。英語のような横文字言葉の場合、いかにアイスパンを広くして、読むことができるか、ということが読むスピードを上げるのに大切なこととして、よく問題になります。



                    テープ起こしの仮説(4)

                      
 講演会の聴衆はなぜ寛大なのか?
                      起こし原稿の読者はなぜ厳しいか?

          
講演会の講師が置かれる厳しい状況


話しながら、話の内容を推敲(すいこう)する時間的余裕があまりありません。

話しながら、その時々に思いつく、複数の言葉や単語を瞬時に選択して、時には修正を加えながらしゃべり続けるわけですから、話をやめてゆっくり考えることはできません。

聴衆を退屈させないで、最後まで引きつけるために、話に起承転結をつけて、ジョークを交えながら、声の強弱や話のテンポや適当なスピードも考えて、じっと聴衆の方に目を据えて話さなければなりません。(聴衆の顔を正視しないでしゃべる話し手には、しばしば魅力が欠けることがあります)

時間配分を考えながら、適当に脱線話をすることも効果的ですから、取り入れることがあります。

たたみこむようにしゃべるわけですから、発言に間違いがあっても謝っている暇などありません。訂正は言い直しでごまかします。(聴衆はごまかしたなどと思いません)

 しかし話者が置かれる、このような厳しい環境にも大きな救いがあります。聴衆は話し手に魅力を感じさえすれば、非常に寛大であるということです。(この寛大さはどこからくるのでしょうか)


                           
聴衆の寛大さは、どこから来るか―


ケバがあっても、聞き苦しいほど多くない限り許してくれます。

 
 
このケバは聴衆の周波数が話者に同調するという役目もあるようです。話者がのんびりとケバを使えば聴衆は話者のそのテンポに自然に同調していきます。ケバというのは、話者には言葉を探す時間ですが、聴衆には次に何を話すか、予測したり期待し たりする時間でもあります。


たとえ間違っても、言い直せば、聴衆は了解してくれます。間違いを謝罪する必要などありません。聴衆もそんな謝罪を期待しません。そんなことは「無粋」なことです

センテンス(一つの発言内容)を長くしゃべっても、意味は十分わかります。聴衆は別にイライラしません。句点(。)がいつ来るか、読点(、)をどこに打つか、考えながら聞いている聴衆は多分いないでしょう。
 
て、に、を、はの間違いは大きい間違いなのですが、聴衆は案外寛大です。それぞれ自分で勝手に適当に訂正しながら聞いているのです。

話の辻褄(つじつま)が合えば、それでいいのです。だれも「今『てにをは』を間違えたな」などと、文句を言いません。話し手も「今、『に』の使い方を間違えました」などと謝ることはありません。そんなことをすれば、これもまた無粋なことです。


なぜでしょうか。言うにはばかるほど明白なことですが、それはやはり、講演会場で、話し手と聞き手の間に、特別な雰囲気が醸し出されているからだと思います。それは何よりも、話し手の努力によって作られた、「打てば響く」ような雰囲気であり、話し手の厳しい状況を聞き手が、暗黙に良く理解した上で、寛大なムードが作られるのだ、と思います。ところが、退屈な話を淡々としゃべり、おもしろくない場合、聴衆は、私語をしたり、退席したり、トイレに行ったりで、果ては話し手のあら探しをやり始めるかもしれません。


一方、テープを起こした原稿を読まされる読者と、話し手との間には、寛大さのかけらもありません。読み手にとっては、講演会場の、あの一種独特な、話し手と聞き手の良好なムードは、全く無縁のものです。むしろ読者は、初めから、原稿のあら探しでもするようなスタンスで、書き手に臨みます。

また、書かれたものは必ず推敲(すいこう)を経るし、印刷になる原稿は必ず何回も校正を経るという、特別な背景があります。間違いはなくて当たり前という世界です。事実、録音テープの起こし原稿が、人の目に触れるまでにかなり時間が使われます。講演会場での、話し手と聞き手の、リアルタイムな関係は、ここではありません。読み手は、当然、完璧(かんぺき)な原稿や読み物を期待するのです。書かれたものは、完璧でなくてはなりません。

 
                                            
 テープ起こしの仮説(5)

                                                
書き言葉化するとは?


読みやすくするために書き換えたり、修正したりするのですから、口語的な会話文体が初めから読みやすければ、何もわざわざ書き言葉にする必要はない、と思えるようになりました。話し言葉と書き言葉の違いのところで引用したように、絶対修正しなければならないものを修正するだけで、ほとんど書き言葉らしくなります。話し言葉の欠点がほとんど無くなるわけですから、あとは極めて口語的な表現をどうするかという問題です。文末の語尾の調整です。ケバをどうするか、間投助詞の「さ」とか「ね」をどうするか、の問題です。


「話し言葉」を「書き言葉にする」という意味を、私なりに整理しますと、次のようになります。

@話し言葉で発生する、いろいろな不具合、例えば、あとから思いついた言葉の倒置とか、「てにをは」の間違いとか、単なる、言葉の重複とか、主語の欠落とかの問題を修正し、調整する。

A文章の語尾は、全ての話者の、それぞれが持つ、独特の、語り口調や雰囲気を十二分に生かす。

(人それぞれの、個性的な口調というのは、文末に現れることが最も多い)

B間投助詞の、語尾の「ね」「さ」「よ」も、Aのような意味で、削除しない。


C話す内容を探しているときに発声するケバは、ある程度残す。


T社のある指導者が「『テープリライト文体』とでも称する文体が、この業界で認められている」と言いましたが、このことについては教科書に記載がありませんので、定かではありません。一人の社員の個人的な考え方という可能性もあります。「テープリライト文体」というのは、もしあるとすれば、簡単に言えば、多分、「〜だと思う」と「〜だと思いますよ」の中間的な「〜だと思います」ではないでしょうか。「思う」は少しかたいし、「思いますよ」は言ったとおりにしても、くだけ過ぎるということではないでしょうか。


もしそうならば、くだけすぎる文体が活字文体に向いていないと考える人が、その理由を説明しなければなりません。聴衆を前にしゃべったことが、くだけすぎているという理由で活字にするときに、それを修正しなければならない、ということの説明責任が、そのように考えている人にあると思いますが、いかがですか。


                                     あとがき

このコラムを読んでくださる人に、やはり書いておかなければならないことが一つあります。それは、私のスタンスは、あくまで発注者の希望通りに起こすということです。起こし方を任せられれば、十分起こし方を説明して納得していただきたいと考えています。