私」と「僕」をどのように使い分けるか。
      
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August 14th,2002
NHKや民間のテレビで、政党の政治討論会や座談会のようなものを見ていて、私はかなり前から非常に気になっていることがあります。それが題名にあるタイトル、「私」と「僕」をどう使い分けるか、ということなのです。このように言うと、意識的に使い分けている印象を与えますが、実は
「私」で始まるある文章が、突然途中で「僕」に変わってしまう現象が、非常に気になっていると言いますか、もっと言えば「私」と「僕」の使い分けに全く節度がなく、非常に不愉快な気分にさせられてしまうのです。
年齢的には、どのような人たちでしょうか。野中さんとか、小泉首相など、かなり年配の人はそういうことはないのです。しっかり「私」という言い方で、統一されているのですが、民主党のH氏とか、K氏とか、保守党のN氏とか、自由党のO氏とか、議員辞職したK氏とか、比較的お若い方たちのことです。「私」で始まった文章が途中で、いとも簡単に、無節操に「僕」にかわったり、また
「私」に戻ったりします。ほとんどが「私」なのですが、「僕」が時々顔をのぞかせるという感じです。
一度皆さんも注意して、例えば日曜日のニュースステーションなどで、有名な司会者と対話しているのをご覧になれば、なるほど、とうなずかれるのではないでしょうか。そのとき、節度がなく、不愉快に思われるかどうかは、受けてこられた教育がどうであったかによりますので、必ずしも、節度感がないなどとは、思われないかもしれません。
因果関係はないだろうとは思いますが、1947年(昭和22年)から1949年(昭和24年)に生まれた、かの有名な「団塊の世代」の人たちではないでしょうか。年齢的には、2002年の現在、55歳から57歳までの人たち。戦後の第1次ベビーブームの中で生まれ、好むと好まざるにかかわらず、幼稚園から小学校、中学校、高校、大学、就職と、熾烈な競争の中を生き抜いてきた人たち。女性は自分たちの置かれている劣悪な環境に怒り、人権に目覚め、男性は古い秩序や体制の破壊にエネルギーを使い果たした(?)世代。大学紛争の中心的存在でもあった世代です。
目上の人には、「私」を使い、同輩やそれ以下の者には、「僕」を使うというのは、きょう改めて辞書を調べて、そのようなことが記述されているのを確認しました。(新明解国語辞典、三省堂)
「私」と「僕」の使い分けには、実は「長幼の序(ちょうようのじょ)」という孟子の思想がしっかりと息づいているのです。どちらかと言えば、家父長制を中心とした封建思想を、その根底に置いている、古い考え方ということができるでしょう。
私が小学校3年生の時は戦争中でしたが、第2次世界大戦が終了する直前の年でした。担任の先生が退役軍人で、陸軍将校の軍服を着た厳しい先生でした。軍刀こそ腰にぶら下げてはいませんでしたが、とても威厳のある人でした。その先生が口癖のように私たち3年生に言っていたことは、「学校の先生や父や母と話すときは、『私』を使うようにしなさい。友達や目下の者には、『僕』を使うようにしないといけない。」でした。
これがなかなか実行できませんでした。担任の先生につい「僕」と言おうものなら、教室の壁に掛けてある、あの大きなソロバンの上で正座を命じられました。私も一度、正座させられました。その痛みは今思い出すこともできませんが。
それ以後、長ずるに及んで、父に「私」と言ったことはありませんが、家族以外の初対面の人とかあまり親しくない目上の人には、「私」という言葉が、口をついて出てくるようななりました。間違っても、「僕」などと言ったことはありまん。それは、思想を超越して、習い性となってしまっています。
あの団塊の人たちが、古い封建的なものを破壊したときに、「長幼の序の精神」をどこかで壊してしまったのなら、それでよし。またどこかに置き忘れてしまったのなら、それもよし。どういうことでもないかも知れない。しかし、「私」と「僕」をちゃんぽんに使うのは止めてほしいのです。
 
   ちゃんぽん=ごった煮の中国語チャンホウから来た(新明解国語辞典より)
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