5千年前に僕はいる

A
バン崎の褶曲岩を見て来た。
とは言えそれがナニモノかを知っている人は少ないだろう。
ウチナーンチュとは言え、地元以外ではどれだけ知っている人がいるだろう。
それを見に行く観光客は稀有だろうし、よっぽどの物好きに違いない。
でも僕はそんな物好きな自分を気に入っている。

もしその岩の存在を知らなかったなら、僕はきっと今年沖縄を訪れてなかったはずだ。
それがたまたま世界中の「聖なる岩」を求めて旅して周っている須田さんという人が、バン崎の
褶曲岩を紹介している記事を読んで、無性にこの眼でその岩を見たいと思うようになった。

その岩の情報はほとんどない。
本島北部のバン崎のどこかにあるということだが、バン崎自体の詳しい情報もない。
観光スポットではないのだから当然だ。
後は干潮の時でないと行くことはできないということは分かっていた。
僕は一番車で近付けそうな場所の辺りを付けて、お昼時に辿り着けるように車を走らせた。

天仁屋の海岸に車を止めてバン崎方面へ歩いて行く。
辺りには誰もいない。
人工的なものも何一つ見えない。
岩場あり砂浜ありゴロゴロの石ころありの道程だ。
右は岩壁、左は海。
もし頭上から岩でも降って来たらひとたまりもない。
僕は誰にも気付かれる事なく潮が満ちるとともに海へと消えて行くのだ。
そして魚やカニの餌になるのがオチだ。
「死して屍拾う者無し」だ。


褶曲岩を目指して歩く


でも、誰一人いない、辺り一面自然だけの景色の中を歩くのは、なんて気持ちの良いことだろ
う。
大昔の人間と同じ風景を見ているのだ。
同じ想いを味わうことだって心持ち一つでできる。
未来の人間の想いもまた同じだ。
これが一人旅の醍醐味には違いない。

あの角を曲がればきっと…、あの角を曲がれば今度こそきっと…。
それを三回ばかり繰り返して、三十分程歩いた結果、ようやく写真で見たのと同じ景色に辿り
着いた。
岩が練り飴のようにグニャグニャに折れ曲がっているのだ。
地球が5000万年もの昔に造り上げた作品だ。
ただただ地球の圧倒的な強さに感服せずにはいられなかった。
岩の奇妙な形を知り、地球の偉大さを知ったのだ。


バン崎の褶曲岩



昔の人が岩や山に神を見たのは、当然だと思った。
人々は岩や山そのものではなく、その後ろで存在を知らしめる地球そのものを畏れていたの
だ。
もちろん災いを寄越さず、豊かな収穫をもたらして欲しいという願いから自然崇拝は起こった
のかも知れないが、僕には自分達を含めて地球上のありとあらゆるものを産んだ偉大なる母
を神と見たに違いないと思えたのだ。

そうしてみると、世界の三大宗教よりも自然崇拝の方が本質的なような気がして来る。
キリストもブッダもマホメットも地球が産んだのだから。
地球の声(力)こそが真理なんじゃないだろうか。
それなのに人類は人類が思い付いたことの方が真理だと思うようになってしまったのだ。
それは人類が地球よりも素晴らしいものを作れると思い込むようになってしまったからである。
つまりはバベルの塔だ。

褶曲岩に出会うことで、古代人の想いを知り、自然崇拝の本質的な意味を知った気がした。
それだけでも沖縄に来た甲斐があったというものだ。


Bへ続く


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