明治から平成を駈けた女 第3章 

 関東大震災の日、救護班が編成された。

 大正12年9月1日、富山県は時計の針が止まったぐらいであった。しかし、病院は大変な騒ぎであった。関東への救護にいち早く駈け付ける事になったからである。イク達3年生の生徒16名と主任看護婦5名、婦長に薬剤師と医師がそれぞれ1名で、合計24名の救護班として出発する事になった。
 突然、出発する事になった事情を家族へ電報や電話で連絡する一方、食料袋の準備に大童であった。白木綿の袋の中には、麦粉・鰹節・ビスケット・梅干など入れて、出発の準備は2時間で完了した。
 イクは、生まれて初めて富山という土地を離れる事にワクワクしていた。
 病院の人々や家族の見送りを受けて、午後3時に上野駅に向けて富山駅を出発した。警察官も同車した。窓側の席は女性には危ないという事で、イク達のような若い女性は中央の通路側の席に座らせられた。途中、特に事件もなく無事に赤羽駅に到着した時、上野駅は混雑がひどいという事で下車することになった。しかし、宿泊所などないほどひどい状態であったため、駅の近くで野宿する事になった。その時の食事は、赤羽駅の駅員から玄米のご飯を湯のみ茶碗1杯貰っただけであった。それを貰って食べた。食べたというよりも無理に飲み込んだ。勿論、空腹であったため、皆飛びついて食べたのだが、富山は有名な米所であり、いつもおいしいご飯を食べていたイク達には、とても食べれるものではなかった。余りのまずさに皆顔を見合わせてしばらく無言であった。空腹だったら、どんなものでも食べれるというが、この時のご飯はなかなか喉を通らなかった。という事は、イク達の空腹は本当の意味での空腹から程遠かったのかもしれない。しかし、明日の救護の事を思って、何とか腹の中に収め、夜明けの近づいた空を眺めていた。

 いつのまにか夜が明けていた。
 これから行く場所は誰も知らない。イクは、心細さよりも未知の土地にやってきた事で心が躍っていた。救護班の班長が、何処で救護するかを相談に出かけていって、まだ帰ってこない。その班長が帰ってくるまで、イクは東京の青空が濃くなっていく様子を見ていた。まわりの悲惨な光景には余り興味がなかった。それよりも初めての県外が東京で、その東京の被害の酷さを今は見たくなかった。これから嫌やでも見なければならない現実よりも、イクには東京というロマン溢れる世界を心の中で感じていたかった。明治34年に与謝野晶子が発表した『みだれ髪』を思い出していた。といっても、イクは決して文学少女ではなかったが、若い女特有の甘酸っぱい感傷に浸りたかった。
 班長が帰ってきて、日暮里にある小学校で救護所を開設する事を話し、一行は日暮里第4小学校に向かった。「日本赤十字社富山支部救護所」と書いた看板を出してから、イク達の仕事は大変であった。救護所の業務分担は、救護所内に収容されている患者の看護と炊事当番、巡回診療、家庭訪問でこれを3班に分けて、交代しながらやった。
 イク達の班は、まず家庭訪問の班になった。近くの焼けなかった家を見つけて、家庭での患者を看護する事である。多くの家を巡り歩いた。一人暮らしの病人、傷ついている母親にすがり付いて泣いている子ども、大怪我をしてぐったりとしている多くの人々を、次々に看護して歩いた。特に小さな子どもが泣きつかれて涙も涸れてくしゃくしゃの顔で体をヒクヒクしている様子を見た時、気の強いイクも涙がこぼれた。いろいろなケガ人を見ているうちに、何度胸が痛くなっただろう。その辛さにイクは、寝る事が出来ないほど切ない思いを幾夜も重ねた。あの子はもう助からないかもしれない、あのご老人はきっと今頃は楽になって天国にいったのかもしれない、等と思わないようにしながらも、ついつい考えてしまう毎日だった。しかし、きつい仕事と毎日同じように多くの傷ついた人々を見ているうちに、流石のイクもいつのまにか慣れてきたのだろう。床に入ると、すぐぐっすり眠るようになったのは、それから間もない事であった。
 巡回診療班になった時は、上野の山や駅など毎日8キロは歩き続けた。この年の9月は、特に暑かった。その炎天下、焼け付くような日中など、ひどく口が乾いて堪らなく水が欲しくなる。井戸を見つけると、(やれ嬉しや、水だ、水だ。)と走り、近づくと張り紙がしてある。
「この井戸には、毒薬が投げ込まれている恐れあるので、注意」とあっては、飲む事もできず恨めしい思いで、次々に飲み水を求めながら歩いた。水は飲むばかりでなく、傷の治療にも必要なため、このような事をした人間への憤りは激しかった。救護班の全員はほとんど疲れきっていた。その中で最も元気であったイクすらも、今ではすっかり焦燥しきっていた。
 歩き疲れて夕闇が近づく頃、空腹を抱えて救護所に到着した頃には、イクはもう何もかも嫌やになってしまうのであった。食堂になっている教室に、6尺の腰掛に夕食が準備されていた。食事は、飯盒にご飯とその蓋に粗末なおかずが並べてある。その並んでいる飯盒を一通り眺め、少しでも盛りが良いのをさがしてその前に急いで座った。空腹には耐えられないため、恥も外聞もなかった。イクはもはや前の様に食事が不味いなどという感覚は全くなくなっていた。とにかく少しでも多く食べたいと考えていた。食欲は、イクの辛い心を慰めてくれた。
 食後の後は、身体中一杯の汗を清拭するのだが、これも洗面器一杯の水を頂くだけである。この時の水は有難く、本当に頂くという気持ちであった。その洗面器の中の水をこぼさない様に、そおっと学校の3階まで運んでいって、暗闇の中で絞った手ぬぐいで身体を拭くというだけであったが、暑かった身体に心地よく、食事に次いでの楽しみでもあった。すべての勤務が終えると、夜は学校の廊下に毛布を1枚を敷いて5・6人がその上に着の身着のままで横になって休んだ。毛布1枚の寝床は背中が痛くても、疲労の極地であるイクは何時の間にか熟睡をしていた。

 多くの患者がこの救護所にやってきた。そのままこの救護所に残って治療を続ければならないほど重い人、手当をしただけで帰っていく軽い人など引きもせず多くの人々がやってきた。患者の中には、朝鮮人やインド人など外国人を加えて100人近くの人がこの救護所で治療を受けていた。病名はほとんどが火傷患者であったが、悪性の腸カタルで下痢のひどい人もいた。その中で、イクの心に今も思い出すのは、火傷で動く事もできない幼児が母を求めて泣き叫ぶ声であった。70年経った今にしても、思い出すと胸が痛むのである。

 学校の2階には何人かの朝鮮人が収容されていた。その患者を見舞いに来た朝鮮人の大学生は、思いつめた声で切々と訴えていた。
「不逞鮮人鮮人と言われるが、我々はその様な行動はとっておりません。」
 イクは、この大学生の真剣そのものの態度と言葉に、それまでの半信半疑であった世の中の風聞を深く考えさせられた。
 これは、関東大震災が発生した直後の9月1日午後3時以降、東京や横浜などで社会主義者や朝鮮人たちが放火などの暴動のため多くの日本人が殺されたと言うデマが広がっていた事をさす。デマの出所の一部は、警察や軍隊であったと現在では分かっている。しかし、当時恐怖に陥った被災者達はこの悪質なデマに惑わされて、各地で自警団を組織し、多数の朝鮮人や中国人を虐殺した。当時の内務省警保局の調べによると、朝鮮人231名、中国人3名、日本人59名であったと言う。当時の政治学者であり、思想家であった吉野作造の調査によると、2613名であると言うが、実際では約6000名の人が虐殺されたと後に推定されている。

 9月も終わりに近づくと、各県からの婦人会から慰問の品が届けられるようになった。当時は牛缶がとても貴重だったのだが、この時なぜか牛缶がとても多く届けられて、最初は副食として大変嬉しかったのだが、今日も明日も、又その次の日も牛缶だと、いくら肉の好きなイクにしても、毎日の牛缶攻めには牛缶を見るのも聞くのも嫌やになってしまった。
 10月の上旬になると、第2班の救護班が富山から到着した。イク達の第1班は1ヶ月余りの救護活動が終わりとなった。1ヶ月間の看護衣や帽子は、いつも着けていたため真っ白なはずがベージュ色と変化した。帽子の赤十字だけは取れない様に糸で縫い付けていた。この赤十字のマークは色鮮やかに残っていた。いよいよ東京を出発して富山に帰るのかと考えると、東京の惨状に心が動いた。何も出来ないイクのような若い娘には、ただ心から早く病が治るようにと一人一人に対して心をこめて最後の看護に当たるしかなかった。

 イクは窓から飛び乗って、やっと汽車に乗れた。

 富山に帰るために、避難民で列車は一杯だった。通路には人がひしめき合い、立錐の余地はなく、列車の屋根の上にも避難民で溢れていた。イクは、どうしてもこの列車に乗らなければならなかった。イクは若い娘ではあったが、普通の若い女性の常の様に羞恥心が多少、いや、ほんの少し、少なかっただけである。そして、早く富山に帰りたかっただけである。それ故に、どうしてもこの列車に乗らなければならなかった。列車に乗らなければ富山に帰る事ができなかったのである。この事だけでイクは女性として、当時の大和撫子の恥じらいをしっかりと発揮する事を忘れてしまっていた。
 やっとの思いで列車の窓に飛びついて、少しの隙間から身体を差し込んだ。イクの勇気を面白がった列車の中にいた若い男性が、無理にイクの身体を抱え込んで入れてくれた。一緒に富山に帰るはずの他の同僚達は、イクの勇気を呆然と見ていた。イクは得意げに列車の人となって、ホームに残っている同僚達に手を振って、他の人達より先に帰る事に心が躍っていた。

 その心躍る思いも、それまでの疲れと何とか乗れたと言う安堵の思いで列車の通路に座り込むと頭の中が真っ白になり、何時の間にか居眠りをしていた。どれだけ眠り呆けていたのだろうか、吐き捨てるような青年の声で目が醒めた。
「なんだ!看護婦が居眠りしている!その上、何と言うひどい匂いをしているのだ。とても不潔な匂いで、我慢ならない!」
 その声があまりにも大きかったので、車内の人々の視線がイクに注がれた。イクはとても悲しかった。(看護婦が疲れてウトウトしただけで、こんなに言われなければならないなんて)心の中でその青年の言葉がとても辛かった。
 最初の頃、看護婦は今日のような立派な職業として人々の尊敬を集めるようなものではなかった。世間の看護婦を見る目が低く、看護をする人を排泄物や膿のような汚いものを始末してお金を貰っている人間として馬鹿にしていた時代があった。しかし、日赤の登場によって看護婦に対する認識が変わった。変わったと言っても、この時の看護婦教育として、上の人には絶対服従する事が要求されていた。看護婦は言いたい事も言わずじっと耐えて仕事をする事を要求されていた。戦地での看護の働きを目指す為には、どんな苦しい事にも負けない心を作るのが第一であった。それ故に、軍隊の規律に準じた忍耐の教育が必要と考えられていた時代であった。これは、太平洋戦争が終了するまで看護婦達に課されていたのである。だから、看護婦として召集令状が来ると、乳飲み子が泣き叫んでいても、母親の心を捨てて戦地に赴かなくてはならない辛い仕事であった。イクはその耐える教育を受けてきたので、言いたい事も言えずじっと歯を噛んでその青年を睨んでいるしかなかった。一言言いたかったが、どの様に言い返したら良いか、言葉が出なかったのである。それを良い事に、その青年は大きな声でイクに向かって言いたい事を言い続けていた。

 看護婦の仕事は、今日の様に世間の人々から尊敬を受けていた職業ではなかったとは言え、この青年のようにひどく罵られるとはイクでも考えていなかったため大層哀しい思いでいた。(看護婦の仕事は人間として見られないのだろうか。睡眠を取らなくても生きられる人種の様に考えられているのだろうか。どんな大変な仕事か、分かっていないなら、黙っていて欲しい。文句は言うな。悔しい!)涙がにじんできた。
 その時であった。辛い思いでじっと下を向いて我慢しているイクの心を慮ってか、年の頃、50歳前後の紳士が、その青年を諭すかのような優しい声で、静かに言った。
「この制服は、日赤の制服だよ。この看護婦さんは、震災の救護班で頑張ってきたのだろう。厳しかった仕事でぐったりしているのだから、もっと感謝の気持ちで静かに休ませてあげるべきなのではないのかね。」
 理解ある優しい紳士の声に、流石のイクも嬉しく涙を流し、感謝の目をその紳士に向けた。(良く理解してくださった。有難うございます。)と、心の中でつぶやきながら、恥ずかしさでそのまま寝たふりをしているうちに、又もや、ぐっすりと寝入ってしまった。
 どんな辛い気持ちも、ひどい疲労には勝てず、そのまま寝入って、気がついた時はすっかり日が沈んでしまい夜になっていた。汽車は富山駅に着いた。駅には病院や家から多くの人々が迎えに来てくれていた。
「第1班の一番厳しい情勢の中での仕事は、大変だったと思います。本当にご苦労様でした。」
 この慰労の言葉を聞いた途端、イクの目から大粒の涙が流れ、止まる事がなかった。止めようとしても、涙は流れて致し方がなかった。白衣や帽子がすっかり色が変わり、白い部分が全くなくなっている事から、その仕事の厳しい様子を察した人々は、すべて目を潤ませていた。涙を浮かべた多くの人々に見つめられて、言葉もなくイクは、赤子の様にいつまでも泣くじゃくっていた。そんな無邪気なイクの青春のひとこまがここにあった。

 人間と言うものは、どのような環境にも順応できる事になっているものらしい。
 イクは、1ヶ月ぶりに寄宿舎に帰ってきた。温かい風呂で1ヶ月分の垢を落とした後の暖かい食事は、イクの心を和ませてくれた。大災害の救護活動の中で、救護所の廊下の硬い床で眠る時お布団なんて贅沢は言わないから、せめて畳の上で横になりたいと思ったことを思い出した。今、その畳の上に座っている。あの時のあこがれた畳がある。手触りが心地良かった。無事に帰って来た事に涙ぐみながら、やはりあればあったで、暖かい布団の中で眠る事を当然の様に考える。そして、そのありがたさもすぐに忘れてしまう。
 関東大震災での救護の大きな仕事は、イクのような若い学生にとって人生に終生忘れられない大きな思い出になった。しかし、この大きな事件の中の辛かった思い出は暗い影を残す事もなく、静かに残りの半年の学生生活が過ぎていった。
 当時、寄宿舎生活を送っているイク達に支給される手当ては、1ヶ月17円50銭であった。食費として11円を支払って、残りの6円50銭は自由になる小遣いであった。教育に関するものはすべて支給されているので、イクはこの小遣いを自由に使う事ができた。映画の入場料が50銭だったので、イクは映画を見る事を楽しみにして、この小遣いで日曜毎に映画館に通って楽しんでいた。残りの小遣いは大切に貯めて、イクは好きな新刊書を買い求めて読み漁った。
 イクが、特に心引かれた文学者に与謝野晶子が居た。その作品よりも、晶子の生き方に心を奪われていたのである。あの情熱的な人生を自分の人生に重ねて、晶子のような生き方をしたいと考えていた。そして、鏡を見ては、大きなため息をついていた。多くの恋愛小説を読みながら、何時の間にかイクも人並みな夢を見る乙女から、卒業を迎えて一人前の看護婦として活躍する大人へとなっていったのであった。

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