明治から平成を駈けた女 第5章 

 病院は四街道にあり、千葉駅から汽車で約7分のところにあった。

 この四街道には、陸軍飛行機学校、野戦銃砲連隊に下静ケ原には演習場があり、その一部分は民間人の馬術の練習にも使用されている。非常に広大な練習場でもあった。
 四街道は鳥が非常に多い。鳶、鷹から梟も見ることができた。ひよどり、鶫、四十雀、目白、鶯や雀など、数え上げればきりがなかった。病院の窓から見える庭の木に名も分からない多くの鳥がやってきて、郷愁を忘れさせてくれた。空は見渡す限り広く青くずっと遠くまで見ることができた。四街道の生活は、イクにとって生活するのに最適な環境と思えた。
 四街道の町は、まだ小さな町で商店もほとんど無かった。兵隊さんだけの小さな町であった。だから、イクのような若い娘が欲しがるような品物を売る店は全くといってほど無かった。だから、若い娘達は買い物をする時、千葉の街まで出かけなければならなかった。
 到着した翌日には初出勤であったが、イクは充分楽しかった。多分、男だったら口笛を吹きながら闊歩したであろうと思うほどの心弾む思いであった。この小さな町の真中にある病院へ向かう朝、イクは若い兵隊さんを横目で見ながら、思わず口元を綻ばしていた。決して美しいとはいえないイクであったが、19歳と言う年齢はお化粧をしなくても十分魅力的であった。途中の道すがら若い男性からの物言いたげな視線は、充分イクをエキサイトさせたのであった。
 イクは病院に着くと、庶務主任の田山軍医少佐に挨拶をした。庶務室付けの看護長は2名居て、1人は大島と言い、もう1人は鳥越と言い、その1人に病院を案内してもらった。病室付けには、衛生下士官が3名、衛生兵が5名、看護婦長が1人、この看護婦長は下士官待遇であった。看護婦は5人であった。それに院長を入れると総勢18人になった。院長は、軍医中佐の中山右十郎と言った。その他には軍医が2名、連隊と病院を兼務していた。
 イクは着任早々、庶務主任の田山軍医少佐から陸軍の軍属としての心構えの訓辞を厳しく受けた。
「陸軍病院の看護婦も軍人である。軍人たるもの……」の根本精神から始まって、日常身辺の注意に至るまで微に入っての話であった。細かな話を聞いていて、自由時間を見つけることは完璧なほどないのではないかと思われるほどだった。忠節、礼儀、武勇、信義、質素の5か条を軍人の守るべきことや、これらを誠心をもって実行するよう求められた。そして、天皇が兵馬の大権を掌握し、忠節を第一の軍人の徳目とし、上官の命に服従することは天皇の命令に服従することであることを繰り返し強調した。そればかりか、服装についても細かく規定された。
 この訓示の中で、特に強く感じたのは、男女関係であった。
「噂だけでも処置をするから、そのつもりで行動に気をつけることだ。」
「ハイ!」
「例え、噂が立って調査して、その結果がどのような結果になろうとも退職させると考えよ。」
「ハイ!」
 イクはこのような話を聞いても驚かなかった。このようなことは、日赤の精神教育で十分受けてきたことであり、当然だと考えていたからだ。そして、軍律も看護婦の規律も共通の中で行われていると考えて満足していたのであった。
「なお、月給は48円である。その他、通勤費として5円が支給される。看護婦は清潔を保つように特別洗濯料が支給される。3円50銭である。すべて合わせると、56円50銭である。病院のある地元に居住している営外の衛生下士官の月給については、42円である。それを考えると、君達は一人暮らしであるのに、家庭持ちよりも高給である。どんな贅沢も出来るから色々と非難されないように、心して生活することだな。」
 この頃の総理大臣の給料は、1000円であった。国家公務員は75円、警察官の初任給は巡査で45円、大学を出た銀行員の初任給は80円。物価は、米10キロで3円12銭、入浴料は5銭、映画入場料で50銭。このような時代に、若い娘が警察官以上の月給をもらえるのは、珍しいことであった。それも陸軍病院という特殊なところであった事情を考えると当然なのであろう。しかし、イクは余り高給だという考えは湧かなかった。しかし、結婚するときは安月給の人のところにはいきたくないなあと考えたりもした。
 その後のイクは、息つく暇もない超過密な日課が続いたのである。

 女3人の共同生活が始まり、イク達は1ヶ月の30日を3つに分けて、10日ごとに食事の当番を決めた。かかった経費は3つに分けて支払っていた。病院での昼の食事は、1斤13銭の食パンを3人で分け、1合5銭の牛乳は各自1本、バターも35銭で買い、たっぷりつけて食べた。1人の昼食代は、21銭であった。21銭という昼食費を計算しているところへ、営外下士官の1人がやってきて覗き込んで言った。
「おや、21銭の昼食とは、贅沢だな〜」
「これでも我慢しているのです。」
「いや、家内は木炭や味噌などがどこそこの店が1銭でも安いと聞くと、飛んでいって買い、やりくりに必死だ。我々よりも高給取りの君達の生活が羨ましいよ。」
「そんなこと無いです。」
「いやいや、21銭の昼食なんて我々には考えられないよ。」
「………」
「昼でこのようだから、夜はさぞ、豪華なご馳走なんだろうねえ」
「………」イク達は言葉が見つからず、無言で顔を合わせていた。
 そこへ、
「君たちは贅沢だよ。僕たちは、5銭のうどん1杯だよ。」と横から軍医の田山少佐が口を出した。
 イクは、経済的な豊かさは大切だと考えていないわけではないが、大の男が金銭的に細かく言う事を軽蔑した。性格的にも金銭感覚は他の女性と違っていたので、細かく深くは考えることは無かった。1銭や2銭の違いが生活に大きな影響を与えるとは考えていなかった。人間、元気に働けば、どんなことでも生活できるという信念を持っていた。あまる程多くの金を欲しいとは思わないが、元気で楽しく働ければそれで満足だと考えていたのである。

 イクがこの病院に来て、まもなく一ヶ月も経った頃だった。夏の夜はなかなか薄暗くならなかった。それでも家々には電灯が点り始めた頃、家路についた。一日中、雲一つなかった空も濃い紫色のカーテンが下り出すと、イクの心に微かな痛みがよぎった。昨日、届いた手紙のことを思い出したからであった。
 千葉に来て、昨日まで毎日毎日朝早くから夜まで病院へ行って、仕事をして帰って食事をするということの繰り返しだったが、その繰り返しが身に染みてきて、朝起きる事にも勢い良くキチンと起きれるようになって、イクは毎日が楽しかった。その生活を乱すものをイクは快く思っていなかった。いや快く思わないというよりも、堪らなく許せない思いであった。それに、この第四高等学校の学生の大江純一という青年の顔は、もう忘れてしまっていた。この学生は金沢の塩町医院に入院していて、イクとはほんの少しだが文学や人生について話し合った思い出は確かにあった。しかし、このような思いつめた手紙を貰うほどの仲ではなかった。その手紙が大江純一の身体の調子の悪さもさる事ながら、思いつめたような様子でイクに会いたいとの文が綿々と書き綴ってあった。「花を相手に一生を送りたかった」などと手紙に書くような女々しい男は、イクにとって受け入れる事ができないものであった。又、そんな男に魅力も感じなかった。
「これは、恋文じゃないやろか。」恋文どころか、それらしい話もした事もないイクにとって、心が熱くなるよりも、今の仕事の邪魔にしか思えないものであった。こんな男の相手はできないときっぱり心で拒否をしたものの、何となく後ろめたかった。イクは「私には関係のない人やから」と無視する事にして、返事を出さないでいた。そして、この話がこれで終わりになれば、そのままイクの心からいつかは消えていってしまうのであっただろう。
 しかし、それから余り日も経たない7月も過ぎ、8月に入った頃、大江純一という青年の両親からの手紙が届いた。純一の死亡と初盆がもうすぐ行われるという事、また、貴方の事を死ぬ間際に話していて会いたがっていた事などが書き綴られていた。最後に、「もし貴方様が、当地に御出での折がありましら、是非共に純一の墓参りをしてやってください」と結んであった。この様に男性からの思いをその両親からとは言え聞かされても、イクの心は一向に動かなかった。本当は19歳という年齢は女として成熟しているのだろうが、イクには女としての心も体も男性の思いを受け入れる事ができるほどには十分用意ができていなかったのだろう。迷惑には感じていても、イクはけんもほろろの手紙は書けなかった。しかし、金沢には友達も住んでいるので休暇の時、金沢に出かけた時でも訪ねる事にしようと考えた。雪が降る北陸で、病院の窓から何人かの病人の最後を送った経験のあるイクには、他の若い女のような感傷が薄かったけれども、それでもこの大江という青年の死は老後にまで心の隅に小さな位置を占めていた。

 この病院には、常時70人から80人の患者がいた。内科と外科の患者で、その患者の区分も独歩、護送、担送の3つに分かれていた。移動時に介護を要せずひとりで歩いて入院生活が出来る患者のことを独歩患者といった。独歩患者は軽症であるため、衛生部員の指示による軽い作業が課せられていた。彼らの主な作業は、大体が病院の庭の草取りや掃除といった作業である。護送患者とは、移動時に介護を要する患者をいい、看護婦が付き添っていた。担送患者については、移動時に、自分で歩けない患者や歩いてはいけない患者などを検査や治療・手術の目的で、患者の状態に合わせて輸送車(ストレッチャー)や車椅子、担架などで運ぶ患者のことを言った。
 重症患者は、個室に収容されていた。この重症患者も常時5人から6人は居た。この病院に居る患者は、全国から集まっていた。そのため、重症患者についても、家族の見舞いもほとんどなく、看護の手伝いも全くあてにできない状態であった。そこで衛生兵と看護婦で半夜交代の夜勤という看護であった。普通、衛生兵は各軍の兵隊の人数10人につき1人の割合で衛生兵を任命されていた。そして、衛生兵は赤十字の腕章等を着用し、他の兵隊との区別をしていたのであった。
 病院の近くには、飛行学校があったため、飛行機の騒音で軍医の診察はいつも邪魔され診察が中止された。また、演習などの後の疲労のためか、両手両足の神経症の患者が多かった。本当に神経症なのかどうかの診察方法として試験管にお湯と水を入れて、皮膚に接触させて判断検査をしたりした。このやり方は、軍の病院らしいやり方だったとイクは後になって思い出していた。
 内科の患者のほとんどは神経質な人が多く、余り外へ散歩に出るということは無かった。ほとんどの人はベットの上に座って、読書をしていることが多かった。イクは彼らの侘しい様子をみて、少しでも慰めになればと思って、兵倉の前に咲いていた白いコスモスを一輪手折り各部屋の花瓶に差した。
「手折られて 差されし花の 白寂し」
 イクは、歌を貰った。吉田絃二郎の新刊書の随筆集『小鳥の来る日』という本の間に紙切れが挟んであった。「挨拶をしたく思っていたが、廊下を走っていかれましたので出来ず、残念です。斉藤」という言葉が走り書きして挟んでイクの机の上に置いてあった。この随筆集の作者の吉田絃二郎は、小説家であり、随筆家や戯曲家でもあった。自然や人生を感傷的に表現する思索的な作品を書き、文学青年や文学少女を中心に多くの愛読者が居た。多感な病弱な文学青年の斉藤が、イクのような元気な娘に心ひかれたことは容易に推察できた。見習い士官の斉藤は、このメモでイクへの思いを伝えただけで終わったが、その他にも何人かの初年兵の兵隊から恋文が自宅に届いていた。病院に居るときは、規律が厳しいことを知っているので知らん振りをしていても、退院すれば何をしても自由なので恋文を自宅に送ってくるものと見える。特に野戦重砲連隊の初年兵の鈴木にはイクのような者も、ほとほと困り抜いたのであった。隔日に分厚い手紙が郵送されてきたからである。勿論、規律厳しいイクの心得として封を切ること決して無かったが、確実に増えていく手紙の処置に困っていた。
「こんなに溜まった手紙をどうしたらいいが?」イクは先輩のさわに話し掛けた。
「そうねぇ。困ったわね。」さわも聞かれて頭を抱えた。
「かわいそうだけど、捨てたら。」きっぱりとカツは言った。
「え〜、可愛そうや。」イクは、顔も覚えていない鈴木と言う初年兵のことを思いやった。
「でも、読む気は無いのでしょう。」冷ややかにカツは言った。
「そやけど、故郷を遠くはなれて軍隊に入って慣れない生活の愚痴が書いてあるだけのものだと思うけど、捨てるのはちょっと可愛そうだと思うがやけど…」イクは下を向きながらもじもじしながら言った。
「それくらいのものだったら読んだっていいのではないのかしら。」さわは迷いながら言った。
「でも、読んで会いたいといってきたら?」カツは、鋭く切り込んできた。
「困る…困る。そんながになったら、どうしらいいか分からんが…」イクは心細そうに言った。
「そうよねえ。軍隊に入って慣れない生活で、だからと言って、何を私たちに何を求めてくるのかしらねぇ。何を私たちに訴えたいのかしら。」以前、イクと同じように手紙を貰ったことのあるさわは優しい口調で言った。
「いくら可愛らしい初年兵でも、所詮は男よ。求めてくることは分かっているでしょう。私たちは女なのよ。」厳しい口調で言うカツは、まだそのような手紙を受け取ったことは無かった。
 男と女の求めていることの本質については、イクもおぼろげながら理解できているので煩わしい噂に巻き込まれては迷惑だと思った。陸軍看護婦の心構えの訓示はいつも心の中にしっかりと刻んであった。

 時折イクは、往復の道すがら歩きながら愛唱歌を口ずさむ。

 火筒の響き遠ざかる 後には虫も声たてず
 吹き立つ風は生臭く 紅染めし草の色
 わきて凄きは敵味方 帽子とびさり袖ちぎれ
 倒れし人の顔色は 野辺の草葉にさもにたり
 やがて十字の旗を立て 天幕をさして荷い行く
 天幕に待つは日の本の 仁と愛とに富む婦人
 真白に細き手をのべて 流るる血しお洗い去り
 巻くや包帯白妙の 衣の袖は紅に染み
 味方の兵の上のみか 言葉も通わぬ敵までも
 いと懇ろに看護する 心の色は赤十字
 あないさましや文明の 母という名を負い持ちて
 いと懇ろに看護する 心の色は赤十字

 明治27年に戦地に赴く従軍看護婦の凛々しい姿を新宿駅駅頭で見て感動し、一夜で格調高いバラードに書き上げたといわれる「婦人従軍歌」は、イクの心に気負いと使命感をカタルシスの中に浸らせるに充分であった。そして、一刻も早く従軍看護婦として戦地に向かいたいものだと考えていた。

 6月の梅雨真っ最中だった。

小島武という歩兵重砲連隊の少将が食中毒の疑いで、伝染病室に収容された。妻が呼び出されて、看護にあたったが、専門の看護婦も必要で、イクが一番若いからという理由で伝染病室勤務を命じられ、小島少将の看護の責任が与えられた。しかし、この小島少将は大変楽しい軍人さんであった。全く病人らしからぬ状況であった。患者だというのに、元気いっぱいで1日どのように過ごせばいいかと身の処し様が無いほどであった。毎朝の髭剃りが仕事という有様であった。
 イクもやるべく仕事もないので、小島少将の髭剃りの様子をぼんやりと眺めていた。
「アメリカでは、朝、歯を磨くと、同時に髭剃りをするのが習慣である。人前に出るときにはそれくらいのエチケットが大切なのですよ。」とイクの視線を感じたのか、小島少将が言った。
「本当にそうですね。」イクは感心して同意した。外出禁止の伝染病室収容の中将がどうして人に会ったり、外出したりできると思っているのだろうか、とも疑問を感じても居た。
「いくら綺麗に髭を剃っても、籠の鳥では意味も無いことだね。」イクの疑問を感じたのだろう。小島少将は朗らかに言いながら、優しく妻の顔を見ながら微笑んだ。
 確かに当時の日本人は、小島少将のように毎朝毎朝髭を剃る習慣は無かった。他人に良い印象を与える小島少将の行為は、イクの生活にも大きな影響を与えた。
 90歳過ぎてもイクはキチンとお化粧をするという習慣は、この小島少将の影響が大きかったと振り返って思う。清潔な看護服を着さえすればよいという考え方から、もう少し進んで、私服で出かけるときもイクは清潔ばかりでなく少しでも良い印象を与えるべくお化粧も始めたのであった。お化粧は、濃いとか薄いとかというよりも、どのような化粧が相手に良い印象を与えるかということを研究するようになった。

 外科病棟の患者は、内科の患者と比べると明るく朗らかであった。外科の患者さんは、どこが病気なのであろうかと考えてしまうほど、行動も活発である。病室ばかりか、室外の運動も散歩も自発的に飛び出してゆく。備え付けのピンポン台にも積極的に使用して、声も高らかに笑い、叫んでいる声を聞くと、人間とは本来元気で明朗なのだということを知った。内科での内臓患者は、心というか、体の中からの痛みや辛さが滲んでくるとすべてが暗く辛くなり、人間ばかりか、病棟すべてが陰気な雰囲気になるということを知った。
 陸軍病院であることを改めて認識させられた。
外科病棟にいる患者の元の職種は色々雑多であった。その中に俳優であった嵐徳一郎氏が居た。彼は髭を茫々と生やして、いつも平然として澄まして歩いている。イクは小島少将の言葉を思い出しながら、我慢できなくなって髭を剃って清潔にするように指導しようとした。
「嵐さん、俳優というのに、これではファンの人たちががっかりされるのではないでしょうか。」イクの硬い言葉を聞いて、嵐氏はにっこり笑った。
「なぜ、髭を剃らないのだと思いますか。」なぞなぞをかけるように、聞いた。
「分かりません。でも、俳優さんなら綺麗にしていただきたいのです。私も嵐さんのファンですから…髭を剃っていただきたいのです。」イクは、必死になって清潔にしてもらえるように言った。
「私は、俳優です。」じらすように言う嵐氏の言葉は優しかった。
「知っています。」イクは、少しいらついて言った。
「剃刀を顔に当てると、写真の写りが悪くなるのです。だから、写真を撮る必要の無いときは、出来るだけ剃刀を当てないようにしているのです。」嵐氏は、髭だらけの顔をイクの目の前に近づけて、片目をつぶった。吃驚したイクは言葉を失った。
「俳優は、顔が商品ですよ。」後は飄々として廊下を歩いていった。

 東京のお堀に飛行機を墜落させた伊東文夫という患者が居た。
伊東氏は、福岡県出身の民間の2等飛行士であった。しかし、宮城に飛行機を墜落させた理由で、即日飛行免許証を取り上げられた。当時の民間飛行士は、とても人気があった。そのため、飛行士のための後援会もある位であった。伊東氏も例に漏れず後援会があり、その後援会から見舞いの品やお金が多く届いていた。とても朗らかな性格で、免許証を取り上げられたぐらいでもへこたれず、何の屈託もなさそうに飛び回って、見舞いの品々を満足そうに広げ、1つ1つの品を見ながら顔を綻ばせていた。
 その彼の病名は、慢性尿道炎であった。慢性尿道炎は通常は細菌感染または何らかの基礎疾患(尿道狭窄等)を有する場合起こる病気である。慢性尿道炎は女性にも男性にも起こるのだが、慢性尿道炎の主な症状である排尿痛や頻尿があり、特に排尿時の不快感、時には排尿中の尿道灼熱感もあるといわれている。外尿道口からの排膿があれば、下着に血のようなまたはウミのようなシミがつく場合もある。合併症に、感染を長期間治療せずにおくと腎盂腎炎等を併発したり、または尿路の構造にも影響を与えたりすることもあるという。このような病気の彼は、今までに数十回かの入院の経験で入院生活もすっかり慣れていた。外科の治療室に1人で尿道の洗浄をやっている。
「ご家庭の方はいつお見えになられるのですか。」というイクの言葉にも、
「いつもの入院だから、何月何日どこの病院に入院したという事だけ連絡すれば、病名の報告の必要も無い。」と、澄ました顔で言う。
「家族の人が来ないと、寂しいのではないのですか。」と言うイクの言葉に
「家族は家族で、又、いつもの病気で入院かと分かっているから…」と気に止めないような様子である。
「何でしたら、私が家族の方に来てくれるようにお願いしましょうか。」と、いうイクの言葉にも手を振りながら、きっぱりと断った。
 その伊東氏が、病気療養中に急性虫垂突起炎を併発し、手術が行われた。急性虫垂炎とは、一般に盲腸とも言われている。虫垂が化膿している状態で、炎症が強い場合は手術が行われる。虫垂炎の腹痛は突然出現するわけではない。最初はみぞおちの痛み、吐き気などから始まることも多い。痛みは徐々に右下に移動して、押さえると強い痛みを感じるようになる。39℃近い高熱や強い寒気などは重症であるサインで、遅れると敗血症になってしまうこともある。治療は、症状が軽ければ薬物治療だが、基本的には手術する。
 この頃の手術後の療養指導として手術後の1週間は安静が必要とされていた。食事も流動食から始まって、1週間後にやっと普通食になるという段階で指導されていた。その普通食になってから初めて歩行が許されるという時代であった。
 しかし、伊東氏は全くイクの指導にも耳を傾けず、自由気ままに振舞っていた。手術後12時間もたたないうちに、病院の大広間に飛び出していった。
「伊東さん、待ってください。まだ起き上がるのは早いです。すぐベッドに帰ってください。」伊東氏を追いかけながら大きな声で叫んだ。
「じっとしているのが嫌いなんだよ。」にやりとして伊東氏は大広間で社交ダンスのステップを踏んでいた。
「でも、安静にしなければ傷が開きます。すぐベッドに戻ってください。」必死でイクが伊東氏の手を引くと、伊東氏はそのイクの右手を高く上げ、自分の右手でイクの身体を抱えて踊りだした。突然、男性に抱えられたイクは混乱して思いっきり伊東氏の頬をたたいた。後は、後ろも見ずにその場を走り逃げ去った。
 イクは、伊東氏の経過の悪化を心配したが、何ら変化もなく一般どおりの経過をたどり、全治の運びとなった。

 さて、このような中にも1年に1回の衛生査察といい、所属師団の軍医部長の検査があった。部長と随員10名ほどの係官とで一斉の検査がされるのである。病院では検査に備えての準備でテンヤワンヤの状況であった。病室担当の看護長で、非常に草花を愛する人が居た。検査当日の朝、その看護長の思いつきで病院中を鉢植えの花で一杯飾った。
 その一杯の花の中で検査官達を迎えた。検査官たちは、すっかり色とりどりの花に見惚れて心を和ましていた。花を見ながら「綺麗だ。綺麗だ。」と連発し誉め言葉に終始し、「この花の名前は、何と言うのか。」などとその説明に夢中になってしまい、肝心の検査の時間が無くなってしまうと言う一幕があった。病院の管理職は勿論、患者や看護婦達に対して一言の質問も無かった。まるで花の検査のようだったと、病院関係者たちは皆顔を合わせてほっと安堵したものであった。


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