明治から平成を駈けた女 第10章 

 イクは、幌馬車に揺られながら初めて見る外地の風景に心が奪われていた。

 清津港には、病院から須藤看護婦長が来ていて、イクを出迎えた。会った瞬間、婦長は、目をきらりとさせた。イクは婦長の目が自分の身体全体を見ながら何を考えているのか分からなかった。しかし、後で分かったことだが、胸郭の薄い娘だ。果たして外地での激務に適応できるのだろうか。ひょっとすると、胸部の方が弱いのではないだろうか、と心配していたということであった。しかし、今更、内地に返すことは出来なので、とりあえず、病院に向かうしかないと思ったそうである。
 2月の寒い空気の中、2人は、すぐ幌馬車に乗って羅南の病院に向かった。まもなく製鉄所が見え、その景色がしばらく続くと清津の街に入った。清津港は、明治36年の1908年に日本と中国の交通連絡の拠点として開港して以来、日本海の貿易に大きな役割を果たしてきた。旅客・貿易とも日本との関係が最も深い朝鮮北部の港である。
 イクは目的地に着いた興奮で空腹を感じなかった。私の憧れた場所は、このような土地であったのか、ここが私の希望の場所であったのかとホッとした感じを持ちながら穏やかな風景に見入っていた。幌馬車からあちこち眺めると、朝霧の中、無数の家の煙突から朝餉の煙がたちのぼっているのが見えた。町の中に入ったようであった。
「この清津の街には製鋼所、造船所、セメント工業など多くの工場があるのですよ。」きょろきょろしているイクに向かって婦長は胸を張りながらにこりともしないで言った。
「そうですか。」イクもそっけなく言葉を返した。
「貴女が降りた清津港には最初、東港だけだったけれども、その後しばらくして輸城川河口にある漁港を挟んだ西側にも西港ができたのです。」婦長の声は、ますます義務的になりながらイクに言った。
「……」イクは婦長の言葉に応える気も失せ、黙っていた。清津港は、日本の大陸進出の兵站基地として製鉄、油脂工場があり、東満州に直通する鉄道が敷かれているという事や、茂山鉄山から精選された鉄鉱石を輸送管で受け、製鉄、製鋼、特殊鋼などの製品を産出している事等、婦長の言葉は、教科書を読んでいるのではないかと思うほど滑らかで無機質的な物言いであった。
「ここの鉄工所は、内地からの援助で朝鮮の中でも一番大きな製鉄所になったんですよ。」という須藤看護婦長の言葉も耳に流しながら、あまり人の姿が見えないのが気になった。多分、まだ朝早いからなのであろうと、イクは勝手に想像しながら自分で納得していた。幌馬車はどんどん街の中を通り過ぎ、いつのまにか、街はずれに来ていた。
「あの山が天馬山で、ず〜と向こうに行くと大きくて有名な川が豆満江、あ、ここからは見えませんよ。その川の近くで大きな街の羅津は、清津の向こう側にあってこれから行く羅南の街の反対方向にあるんですよ。」羅津は、朝鮮最北部の港で、三面が山に囲まれた羅津湾に位置していて、港は大草島、小草島が湾口を狭めて防波堤となり、天然の良港となっている事や、タラやサバなどが獲れる豊かな漁場がある事、近海漁業の根拠地であり、沿岸航路の寄港地でもある事。羅津は元々は漁村にすぎなかったが、日本の統治になって大陸進出の最短距離の地として築港された等の講釈を聞き流しながらイクは、婦長はお喋りが好きなのか、と改めて思っていた。婦長は、久しぶりに日本からやってきた日本の女性との日本語のお喋りができて、実は浮き浮きしていることなど、イクには分かりようもなかった。家が殆どなくなってきていた。イクは清津の郊外の景色を眺めながら、やるぞという新鮮な気持ちが盛り上がってきた。工業の清津の街を通り過ぎると、空は何処までも青く澄み渡り、見渡す限り静かな冬景色であった。その中を幌馬車はイク達をのせてノンビリと走った。
 幌馬車はかなりの時間走った。
 幌馬車に揺られながら、病院の官舎に入った。ここがイクのこれからの生活の場所なのだという感慨と共に、新しい職場での気概で何処もが綺麗に清潔に輝いて見えた。官舎の食堂には朝食が準備されて、イクたちは、遅い朝食を食べた。イクの外地での看護生活の始まりは、初めて食すキムチから始まった。この後からイクの軽快で元気一杯な看護業務が始まるのであった。

 羅南という街は、擂鉢を逆さまにしたような地形であるためか、到着早々イクはその寒さに震えた。冬の凍てつくような寒さで、時には氷点下30度も超すこともあると言う。そのため、この時節に部屋にはペチカが赤々と燃えていた。食堂には、オンドルという暖房があって暖かだった。ペチカは暖炉と同じだが、熱を長持ちさせるために暖炉やストーブに比べて大きな箱型でレンガで造られていた。焚き口から曲がりくねった長い煙の道があって、暖かい煙が長い道を通ることでレンガを暖め、そのレンガが家の中をゆっくりと暖める構造である事を婦長が食事をしながらイクに言った。また、オンドルという床暖房が朝鮮では一般的で、台所で煮炊きをした熱を、家の床下に通し部屋を暖め、床がホカホカと暖かくなるのだとも話した。病院は官舎から1キロほど離れた所にある。イクは歩いて病院へ通う事にしたが、それより遠い人は、冬は、スケートで通勤すると言う。
イク達の官舎は、佐官階級の官舎が多く並んでいる中にあった。この場所は殆どが陸軍官舎ばかりのためか、商店はなかった。元は連隊長官舎で、あったそうだが、さすが連隊長官舎であるだけに立派であった。家の周りには、林檎やポプラの木があり、日当たりのいい後庭には野菜が植えてあった。間取りも10畳1間と、8畳が2部屋、6畳1部屋、4畳半はオンドルの部屋になっていて食堂であった。それに玄関は3畳の広さがあり、台所はとても広く、台所の横に浴場があった。裏の出入り口の近くに大きな燃料小屋があり、1人1日3銭支給される7人分の燃料は山積みとなっていた。そのため、入浴は朝早くからいつでも入る事ができ、オンドルは勿論の事、1日中ペチカも燃えていた。これだけ使っていても配給されるだけの燃料は使い切れないほどであった。内地の千葉の病院のことを思うと、イクは心が痛みながらこの地での豊かさを満喫していた。
 軍医部から派遣された使用人のおばさんがイク達の面倒を見てくれた。朝鮮の人で、片言の日本語を話した。おばさんの最大の得意なことは、料理にあった。朝鮮料理ばかりか、中国料理もベテランであり、その美味しさは、年を重ねた後も忘れる事がなかった。庭で栽培された新鮮な野菜で作られた朝食に舌鼓を打つ時の喜びは一入であった。朝鮮の魚の不味さには、辟易した。朝鮮鰈や朝鮮鯖等といったら、言葉で表現できないほどの味であった。しかし、おばさんは12時かっきりに昼食を出す。その時間と共に副食の焼きたての魚が必ずついてきた。
 食堂のオンドルのお陰で真冬の極寒零下30度であっても、夏のワンピース1枚でもすら汗が出るほどであった。食後は、蜜柑の小箱を5人で毎晩空にするほどであった。全員で7人の看護婦が一緒に住んでいたが、2人は宿直で、いつもは5人で夕御飯を食した。オンドルの食堂での食事やデザートは贅沢で楽しいものであった。イクは、朝鮮の勤務生活は非常に心豊かであった。特に映画等といった楽しみはなかったし、欲しいものの買い物に出られなかった上、遊ぶ場所もない生活であったが、充分満足する生活がスタートした。

 翌日からイクは早速勤務に入った。早朝、イクは通勤途中スケートをしながら横を追い越していく人々を羨ましく思いながら、「おはようございます。」と日本語で大きな声を掛けると朝鮮の人はビックリしてひっくり返った。羅南の病院は、広大な敷地の中にあった。小高い山を背景に鉄筋の建物であった。病院の玄関を左側に建物に沿って行くと、大きな温室があった。ここもイクのお気に入りの場所になった。およそ50坪もある広さで、この中には多くの草花が栽培されていた。その中で、最も圧巻に感じたのが朝鮮菊で、日本ではエゾ菊といい、イクは可憐で好きな花であった。しかし、ここの朝鮮菊は、内地の花の3倍以上背丈もあり、大きな花弁でもあった。そして、その花々を世話をしているのが、中国人であった。病室や広い廊下には、色々な花が飾られていた。
 病室は完備され、大広間に続いて娯楽室があって、そこには内地では考えられないほどの立派な備品ばかりである。冬の間は、24時間石炭で暖房している上、窓ガラスは二重になっていて零下30度の時でも病院は4月の頃の気候に感じられ、仕事は非常に軽快そのものであった。千葉の病院では、暖炉の火をつけるにも薪がなく、近くの林へ独歩患者と枯れ枝を探しにうろついた事を思い出し、この病院も官舎と同様、恵まれていることに驚いていた。患者は、兵隊が多かった。特に将校病室はいつもベットが空いている事はなく、満杯だという。寒い所なので呼吸器関係の患者が多いのではないかと想像していたのだが、結核や肺炎患者は少なかった。しかし、患者はいくら兵隊でも、故郷を遠く離れているので寂しいだろうと考えイクなりの心を使わなければならないと感じた。イクは、日赤の看護学校出身ということで将校病室勤務に決まった。将官、佐官、尉官等との接触には多くの事を学んだ。

 病人の1人に、主計中尉で池田三郎という患者がいた。細菌性赤痢患者で6ヵ月以上も入院していた。6ヵ月の入院生活は、気が滅入るものであったが池田中尉は、明るくいつもイクを笑わせた。
「毎月頂く給料は、病気で使うこともないので、入院中にお金持ちになったよ。病気になるのも悪くないね。」などと言ってイクを笑わせた。イクは、毎日日課として腸洗浄を医師からの命令で行っていた。そのように毎日の顔合わせと治療が池田中尉に心親しく感じさせたのであろう。2人の会話は、楽しいものであった。
「今日も石鹸で手を頻回に丹念に洗うことをなさいましたか。」とイクが聞くと、
「閣下、爪の下もよく洗いました。勿論、食事の前には、必ず手を洗う事も実行しております。看護閣下!」とふざけて敬礼しながら言う。
「よろしい。では、中尉殿、アルコール綿で身体を拭いて消毒して差し上げましょうか。」等とイクも声を上げて一緒にふざけて言う。
「患者は、浴槽につからず、シャワー又はかけ湯を使っているだけですので、大変不潔であります。勿論、他の人と一緒に入裕することもできません。ですから、とても寂しい毎日であります。看護閣下だけが、私の唯一の友人ですから何でも言うことは聴きますので、ご命令ください。」
「よろしい、では消毒を始めます。」という風にイクも池田中尉に合わせて笑い転げながらも、看護の仕事はキチンと遂行していた。
 ある時、中尉殿はイクに自分のズボン下の修理を依頼した。深い考えはあるとは考えず、イクは忙しさにかまけて綺麗には修理できなかった。心のこもらない一時的でいい加減な修理の様子に池田中尉はかなり剥れていた。
「もっと綺麗に修理してくれないのですかね。」修理個所を点検しながら、冷たい声で言った。
「修理材料がなかったので、大らかな修理で済ませました。」とイクもけろりとした声で言った。
「私のことをどのように思ってこんないい加減な修理で済ませたのですかね。」かなりのトゲが含まれている事にイクも気が付いた。
「……」敢えてイクは言い訳をしなかった。
「私のお嫁さんにと考えていたのに、これでは考え直さないといけないね。和裁ができないお嫁さんでは困るからね。」という。和裁には、自信のあったイクはムッとして声を上げそうになったが、ここはこのまま黙っていようと決めた。無理な言い訳は相手にどのような考えを持たせるか分からなかったからである。和裁ができるといったぐらいで嫁の条件にするのは、イクの心情では許せなかったのである。

 また、その他、重症将校の看護についた時の事であった。重症将校の夜間の看護は、羅南市の看護婦会の看護婦を依頼する事になっている。しかし、時々、重要な人の場合は、庶務主任の心遣いで直接病院の看護婦に依頼する事があった。イクは、昼の勤務の後、頼まれて引き続き夜間の勤務もする事になった。真夜中の高熱は、気を許す事ができず、一晩中寝ずの番であった。朝になって高熱が下がると、患者とともにホッとする。患者と共に喜んでいる所に家族の見舞いがあり、昨夜の様子を聞くかとイクは緊張して控えていたが、病気の心配は全くなく、夫婦で夢中になって話している。病人の感謝もなければ、妻のイクへの労いの言葉もない。それどころか、気を使えとばかりの妻の目付きにイクは堪らなくなって病室を出た。イクに対して「ありがとう」というたった一言の言葉でも喜ぶのにと思い、言葉知らずの嫌な人たちと思った。
 心の中でブツブツ文句をいいながら、お隣の師団長の病室を訪ねると、師団長の丁重な挨拶と奥様の優しい労いの言葉で気分がすっかり良くなった。そして、実れば実るほど下がる稲穂かな…等と小さな声で言葉にして師団長の病室を出た。

 陸軍病院では、内地と同様、年1回の衛生査閲という大検査があり、所属師団の軍医部長をはじめ随員十名程度の係官の検査を受ける。病室を隈なく巡回し、患者直接に質問などをする。当時の結核患者に対して現在の癌患者のように病名は本人には知らさないでの治療であった。
「君の病名は、何かね。」部長はつかつかと患者のベットに近づき質問した。しかし、患者は結核であることは知らされていなかった。
「……」無言のままで、質問には答えなかった。
「自分の病気の名前も知らないで病気が治せるのか。」と言って、大きな声で叱った。
 イクは成る程この言葉は尤もであると思った。しかし、患者の心理的な面を思うとどちらが良いか分からない、とも考えさせられた。この部長は外科専門であると言うことで、内科の事情を良く理解していなかった。専攻部門からの意見であり、それぞれ各々の考えもあり、イクには医療の奥深さを感じ、心を引き締めた。

 須藤看護婦長が退職し、後任に広島の陸軍病院から外科勤務に長年の経験を持つ松岡婦長が着任した。長年の外科の看護婦長としての威厳は、行くが見ても立派できびきびとして仕事も出来そうだった。
「松岡君、あの患者は手術をしても良いと思うかね。」と、脇田軍医は、遠慮深そうに小声で松岡婦長の意見を聞く。
「いいえ、軍医殿、あの患者は駄目です。」と冷たく言い放つ。
「どうしてかね。私は良いと思ったのだが……」と訝しげに聞く。
「あの患者は、 T.B.であります。手術はいけません。」イクはどちらが医者なのだろうと、おかしくもあった。 T.B.とは、重症の結核患者で手術は難しいとされた。又、このような淡々とした生の言葉のやりとりは、内地では聞かれないことでもあり、見たことない状態であった。外科看護に長い経験を持つ松岡婦長と学校卒業後臨床経験の殆どなかった脇田軍医との会話であった。脇田軍医は、医学大学ではトップの成績で入学し、卒業時には劣等生であったという。低空飛行も大変だよと大きな声で笑いながらイクに話したものであった。

 広島の陸軍病院から松浦看護婦、村田看護婦が、松岡婦長と一緒に赴任してきた。3人の看護婦の登場はイクにとって何となく心が騒いだ。3人で一緒になって、自分をのけ者にするのではないだろうか、広島のやり方で今までのやり方を変えてしまうのではないだろうか、等とイクは落ち着かなかったのである。しかし、イクの心配は杞憂に終わった。暖かい松岡婦長の思いやりを受け、イクは心から婦長に尊敬の気持ちを持った。イクは寂しい自分の気持ちが恥じられた。それは次のような事があったからである。
 イクの官舎のすぐ前にある連隊長官舎に住んでいる連隊長夫人が、いくつか大島紬の反物を抱えてやって来た。大島に住む知人から大島紬を沢山取り寄せたので、いくつか譲るとの事であった。皆、大喜びであった。イクは2反も戴いた。手にすると、早速、着物に仕上げたくなった。夕食を済むや否やオンドルのある部屋で針を手にした。
「坂田さん、もう着物に仕上げるのですか。」松岡婦長が、吃驚して声をかけた。
「ハイ、どうしても今日中に仕上げたくなったのです。」イクは、目をきらきらして答えた。
「でも、もう夜ですよ。これから一晩中にがんばるのですか。」という。
「何とか、頑張ってみます。」イクの勢いに婦長も反対する理由もなく、言った。
「分かりましたよ。私が側にいて、終わるまで本を読んでいましょう。」
「いえ、それでは申し訳ありませんので…」とイクが恐縮して言うと、
「折角、縫い上げようと決心したですから、最後まで頑張ってね。眠くなってはいけないから、私が近くにおりましょう。」と言う。こちらからお願いしたことではなく、婦長の自発的な行動はイクを痛く感激させた。急ぎの縫い物でもなく、時間も構わない、思いついたら他人の迷惑も考えないイクの勝手な行動であった。が、イクの側で本を読んで側に居てくれるという姿に、イクはその思いやりの暖かさが身に沁みた。
 午前3時に、着物は仕上がった。その間、イクは、婦長と時々おしゃべりをしながら縫い物に専念した。

 一緒に住んでいる看護婦の1人に瀬戸ふみが居た。40歳になる岡山県出身の看護婦であった。満鉄病院に勤務した後、この羅南病院に来た人である。ふみはおしゃべりが好きで、新しい同居者が来ると必ず自分の不幸な境遇を話したがった。
「私ほど不幸な人間は居ないんですよ。」同情を引くように小さな哀しげな声で話す。
「どんな事があったのですか。」とイクならずとも、こんな声で話し掛けられると、女はつい相手のペースに乗って聞いてしまう。
「色んな結婚話を見送って、一生懸命働いて、兄弟達の学費を送ってやったんですよ。」と重大な話のようにひそひそと言う。
「まあ、随分偉いですねぇ。私には真似ができませんね。」等というものなら、すぐに大きな声になって話す。
「そうでしょう。私の楽しい青春時代を忘れて、兄弟の高等教育のために尽くす事に集中してきたのに……」悔しそうに話す。
「……」ここまで来ると、誰でも大体話の内容が分かってくる。
「でもね、その結果、私の恩を忘れて自分ひとりで大学を出たように言い張るのですよ。悔しくったら、どうして良いか分からない程よ。」涙声になってくる。
「そう、大変ね〜。」やっとのことで相槌を打つ。
「親の面倒は見ない、私の老後の責任も関係ない、自分は結婚して家を出て行くので後を頼む、なんて言うのですよ。」この言葉の時は、涙が流れてくるが、言葉は饒舌である。
「苦労なさっているんですね。」と、同情の言葉を言うものなら、ここぞとばかり、
「本当よ、その当時ショックを受けて辛かったですよ。そればかりか、今も当時の悲しみを思い出すと非常に悲しくなります。」と涙と共に語り続ける。
 看護婦には、兄弟の面倒見型が多い。そして、そのような人は、結婚を見送っている事が多い。その哀しい気持ちは理解できるとしても、イクはまだ20代初めの若さであり、そのためか、あまり強い悲しみの心境に引き込まれなかった。それよりも理解できない部分が多かったと言ったほうが正しいのかもしれない。
 家族制度とか、血縁意識と言う気持ちからの強さから来た行動なのかもしれない。いくら兄弟に対する愛情からの行為だとしても、又、ふみの高等教育に対する高い評価と憧れのため、ふみ自身が大きな夢を持って必死になって学費を送っていたのだとしても、それはそれで自己満足としてよいのではなかろうかとも思った。また、ふみの行動が兄弟一人一人にふみの思ったように期待されていなかったとしても、これは仕方のないことではないかとも考えた。

 同じ部屋になっていた高橋よし看護婦が居た。気が合って何時も一緒に行動していた。折角、朝鮮と言う外地に居るので少しでも多くの見学がしたいというイクの好奇心に賛同して、どこかへ見学することにした。さて、行楽地などの情報が全くない時代であったので、イク達は、色んな人の話を聞いて山東省守備隊見学と会寧の病院見学を計画した。見学の準備も整い、出かけることになった。
 3月下旬の朝早く、羅南の駅を出発し、会寧の駅に降りてからが大変であった。会寧の駅から山東省守備隊に行くには、豆満江を渡らなければならない。そのほうが早いと聞いていた上、この時節は川が凍っているので渡るのも便利だというので、イク達は気楽に考えて来た。氷結した豆満江を渡るのに、遠くから見たときはとても綺麗に感じられ二人は非常にわくわくしていた。しかし、いざ渡るとなると、二人は最初の一歩で挫折した。思いっきり滑ってお尻を打ったのである。立っているのもやっとだった。二人で顔を見合わせながら、止めたいと言う顔を見せた。その顔を見た瞬間、イクは決然として言った。
「絶対行こう。約束を破ることはできない。」への字に結んだイクの顔は並々ならぬ決心があった。
「えー!私は嫌だ。」べそをかきそうになりながらよしは叫んだ。
「私1人でも行く。」イクの決心が簡単に変わらないのをよしは知っていた。しかし、主張した。
「ね、行くのをやめようよ。」よしが止めると言えば言うほどイクは行きたくなった。
「では、貴女はここで待っていて。一人で行ってくるから。」冷たくイクは言い放った。
「いや!それなら一緒に行く。」よしは折れるしか方法がなかった。
 それから、二人は荷物を腰に縛り、近くの枯れた草を縄状に編み、靴に縛ってソロソロと氷の上に下りた。しっかりと二人は腕を組んで、すべる足を震わせながら1歩1歩氷の上を歩み始めた。空は青く、風も吹いていたが、二人は目の前の氷に足を取られないように、冷や冷やした心で進むのが精一杯だった。
 目的地に着いた時の感激は言葉に言い表わせないほどであった。どれだけの時間氷の上を歩いたかは、二人とも記憶にないほど長く長く感じられた。とにかく、怖くて長い時間であったと言う事だけしか感じていなかった。
 守備隊に辿り着くと、門衛に挨拶をするため兵隊を探した。兵隊は肩に鉄砲をかかげながら、犬と戯れている。内地では、軍隊の門衛は、玄関であり、門衛に立つ兵隊は常時緊張した姿勢で直立不動であったことを思い出して、イクは少し驚いた。
 隊長は中国人であった。隊長への面会のため、早速と応接室に案内された。二人が想像していた以上に歓迎されて、イク達は氷結した川の上の恐怖を忘れさせた。
「羅南の病院と言うと、朝鮮語で話しましょう。朝鮮人の兵隊を呼んで通訳させましょうか。」と片言の日本語で言う。
「朝鮮に住んでいますが、病院の患者は日本の兵隊ばかりで、日本語の方が私には嬉しいです。」とイク達が言うと、隊長はノートと鉛筆で筆談することになった。隊長のたどたどしい漢字を並べての会話はまだるっこしかったが、それでも、イク達は充分楽しかった。
 隊長の妻は、ロシア美人で優しそうな人であった。言葉が分からないため、殆ど言葉を発することもなく、次から次へと多くのお菓子をイク達のために用意してくれた。
 帰る時に隊長は、「再度来訪歓迎」のノートの字を読みながら別れた。隊長夫婦の暖かい接待は帰り道の氷も溶かすのではないかと思うほどイク達の心を暖かくした。往復に予想以上に時間もかかり、その日のうちに帰るため、その後に計画していた病院に行くことを中止して、そのまま羅南に帰った。

 ある日曜日に、当直の看護婦を除いた5人で朱乙温泉保養所見学をしようということに話が決まった。見学と言うよりも朱乙温泉で休養することに目的があった。場所は羅南より南の、清津港の反対側の方にあり、列車で行く事になった。早速、朝早くから駅に向かって出かけた。駅に着いた所、ああ、悲しいかな、汽車は汽笛を鳴らして動き出していた。こうなると本領発揮するのはイクの行動である。若いイクは考えもなく、ゆっくり動き出した列車に向かって日本語で叫んだ。
「お願い!止めて!」日本語の分からない朝鮮人の運転手は何事かとイクの方を見た。他の4人の女性もイクに連れられて、一斉に大声でそれぞれ叫んでいた。
「止まってぇ!」と何度でも叫ぶ姿は少し異常であったようだ。5人とも、どうせ汽車は止まってくれないと決めていた。心の中ではどうにもならないと考えていたので、やけくそになって叫んだのである。まさか汽車は止まってくれないはずだ。しかし、そのマサカと思った汽車が止まったのである。イク達5人のうら若い女性達は、一斉に顔を見合わせて、
「止まったヨ。」
「え〜、どうしよう。」
「まさか、止まるとは思わなかったのに…」などときょとんとした顔を見合わせた。
 列車の車掌に急かさせて、飛び乗ったが、イクたちは何か気の抜けたような可笑しさと共に運転手に大いに感謝した。これも日本と違い内地では味わえない外地での大らかさなのかもしれないとイクは変に感心していた。
 この列車の終着駅で降りてきょろきょろしていると1台の乗合幌馬車が見えた。幌馬車に乗って行くと聞いていたので、とにかく5人は乗った。、朱乙温泉保養所の事を聞いたが、良く分からない。何はともあれ、出してもらった。しかし、幌馬車の朝鮮人の御者も良く知らないようだ。行ける所まで行って欲しいと言い、5人は幌馬車に揺られて出発した。
 5人は不安になったのか、皆、黙っていた。何時も饒舌なイクも今日ばかりはしゅんとなっていた。いつしか山の中に入り、人の気配もない外の景色を見ていると、イクはいつもの妄想的世界に入っていった。夢の国に来て、山の中の果てしない道を何処までも何処までも永遠に到着しない童話の世界に居るような心地になった。
 瀬戸ふみは長い満州と朝鮮生活で、5人の中で尤も満州語と朝鮮語が上手かった。同乗の乗客に色々と聞いていた。が、あまり知らないと言う中国人や聞いたことはないという朝鮮人など、益々不安になる5人である。しかし、女5人という数は心強かった。又、イクの放浪的浪漫心は、十分冒険を堪能したようであった。騒がず、うろたえずじっと終着を待った。終着には、そう遠くない場所に間違いなく朱乙温泉があった。
 朝鮮の朱乙温泉は、山のふもとにあり、温泉の真ん中には川が流れていて、日本の温泉のような雰囲気があった。源湯の薬漕で身の疲れをいやし、イク達5人は、冒険のことも忘れて、食卓について空腹を満たすのに夢中であった。


 朝鮮の春は、光が乱れ散り、キラキラと輝いて美しかった。

 冬来たりなば、春遠からじとの言葉の通り、イクが羅南の病院に来てほどなく寒さが緩んできた。近くの小高い丘には土筆が春を告げ、黄色いケナリや可憐なチンダレが咲きはじめる。ケナリは日本ではレンギョウの事で、チンダレはツツジの事だ。韓国の春はケナリとチンダレがいっせいに野山に咲き、韓国の人はこの春の花を特に好んでいた。夕映えに輝くアカシアの白い房花を見てイクは故郷をしのんだ。真っ白い鈴蘭の花も香り高く咲き、爽やかな風に乗ってイクの心を喜ばした。イクは野に咲く小さな花も大好きであった。春になると、毎日のように野山を駆け巡りたい衝動に駆られた。冬が想像以上の寒さのため、春は待ち遠しく、春になると光が乱れ散るようなきららかな春になるのだろう。日本とは又少し異なった初めての春をイクは思う存分楽しんだ。休みの日には、必ず野や山に行きのどかな風光に浸った。野山一杯に風に煽られる花の香を大事にそっと机の上に置いて味わった。又、それらの花を押し花にして、内地の友達への手紙に同封して送って喜ばれた。
 春の豆満江にもイクは行った。朝鮮の北部にあるこの川は、中国とロシアとの国境を流れながら東海(日本海)に注ぐ大河である。中国では図們江と呼んでいるようである。白頭山の天池に源を発し、東方に流れて中国との国境を流れている朝鮮で最大の川であった。イクは、摘んできた沢山の土筆を朝鮮人のおばさんが料理にしてくれた。初めて食する土筆の料理のなんと美味しい事であったか、舌鼓を打って皿一杯の土筆を全部平らげた。
 大自然に恵まれた素晴らしい環境で、広い道路のアカシアの並木道を朝鮮人が長いキセルでタバコをぷかぷかふかして歩く姿など、とても印象的である。その道路で、イク等の看護婦達は下手なテニスに興じていた。打ったボールを探しに行って、珍しい花を見つけてテニスの事を忘れてしまうなど度々であった。大陸的な気分というのであろうか、ともかく非常にノンビリしたものを味わわされた。
 このような中で人間的にも自然的にもイクは充分幸福を感じていたが、文化的な生活には程遠いと感じられた。イクの大好きな映画館はない。時々、人が集まっている大きな建物の中には、オルガンが1つ、ポツンとあるだけであった。それでも1ヶ月に1度位は出し物があり、その時は、チンチンドンドンと寄席なのか、芝居なのか分からないが、人々は集まって楽しんでいるようであった。
 自然の中の喜びの他、イクの楽しみは、病院を訪れて品物を売っている中国人の商人との値段の駆け引きや品定めをしている時が面白かった。品物の中には、宝石や布地などにイクは心ひかれた。しかし、イクは欲しいと思っても買えるほどの値段ではなかった。値段の交渉をしているうちに、時間が経ってしまい買いそびれてしまう。欲しくても買えないのは、最初に付いていた値段が話しているうちにどんどん下げてくるので、本当にこの価格は正しいのか、又、品物が本物なのか不安になってしまう事であった。価格の大きな相違によって、本当の価格を知るのが困難であったため、欲しいが手が出せないというわけである。
 このようにイクの外地での勤務の生活が進んでいった。


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