明治から平成を駈けた女 第11章 

 朝鮮に永住したいとの手紙を出したイクに、「チチビョウキスグカエレ」という電報が届いた。

 イクの通勤途中に、院長の官舎があった。朝の出勤の時、院長は庭で諸肌を脱いで弓の練習をしているのが見えた。体を鍛えるためだとの院長の弁である。時折、庭に姿を見せる院長夫人は料理の先生だそうだ。
 その夫人の料理に拘るエピソードの1つに、漬物があると院長は言う。夕食後に明日の朝食の為に漬物を漬け込むのだが、院長が「長く漬かりすぎて味が濃い」と注意すると、午前2時頃そっと起きて漬け込むという。「その味の美味しい事は格別の味である。」と院長が時に触れ折に触れ、イク達看護婦を相手に自慢する。この頃は、毎日の食事は、外食の風習もなく、また出来合い等も売っていない時代であったから、殆どが奥さんの料理の腕と心遣いで作られていた。だから、美味しい食事を作るという事は、女の大きな自慢になったものである。そして、最後に「君達も料理の稽古をしなさい。」と言う。しかし、院長の家で料理を習うなどということは、恐れ多く、心安く行こうという気になれなかった。しかし、イクは女性である限り、料理は最も心を砕く重要な仕事だと言うことも理解し、勉強すべきだとも思っていた。官舎での仕事や家事はすべておばさんの仕事と決めてあるので、手が出せない。しかし、イクは何とか、おばさんの指導を受け、中華料理の一つでも憶えようと考えて台所に入ったが、お互い遠慮があり思うように進まなかった。あまりにも身近な関係でありすぎて教えるとか教わるという事は、無理なのだろう。
 外地の官舎住まいの看護婦達は内地の看護婦より恵まれていて、休みも充分あるため時間を持て余すという贅沢な身分であった。
 ある日、看護婦達は、その時間をどう使おうかと語り合った。最初に、口を切ったのは、婦長であった。
「生活に夢を持たせるよう、お互い好きなものをお稽古しましょう。」
「でも、何処で先生を探せばよいのでしょう。」と村田看護婦は言った。
「そうねえ。先生を探す良い方法はあるかしら。」婦長は思案顔でみんなの顔を見渡した。
「瀬戸さんなら、朝鮮語も中国語も良く話せるので、この地のお友達に調べてもらったら…。」とイク。
「駄目ですよ。私の知っているここの人は、お稽古事なんてやるような人はいません。」ときっぱり瀬戸看護婦の言葉。
「仕方がないわね。では、こうしましょう。自分がやりたいと考えているものを、それぞれ稽古する。その先生は、自分で調べて探し、他の人に報告する…という事にしましょう。」婦長の言葉に、今度は反対する人はいなかった。
 その結果、お互い思い思いの先生を懸命に捜して、その情報を検討し、お稽古を始める事になった。
 謡曲を選んだのは、松島・村田看護婦、三味線はお淑やかな松浦看護婦、内田・瀬戸看護婦は気に入ったお稽古事がなく、読書に明け暮れするという事になった。イクは、千葉で稽古していたマンドリンを続けたかった。しかし、この地には、洋楽を教える指導者はいなかった。イクは仕方なしに筑前琵琶と生花を習うことにした。それぞれの思いで、それぞれの女性達は余暇を趣味の生活に勤しんだ。
 静かな街に華やいだ女性達の稽古の声や音色が、時間も忘れてゆっくりと流れていった。広い屋敷と緑の多い庭、寂とした空気の中に優雅なひとときを送る贅沢な世界であった。気がつくとそれぞれの女性達の音声はしっくりと溶け込み、豊かで美しい音色を奏でていた。内地の大都会では考えられない程の自由で気侭な時間と、お隣に遠慮の必要のない大きな音や声を思いっきり出せる良さ。1つの部屋で三味線を弾くと、その隣で負けじと大きな声で謡、その又隣では琵琶をかき鳴らしながらの日曜日の稽古風景であった。他の人の稽古の音声は決して邪魔ではなく、却って競争心を高めるものらしい。他の人が上手くなった様を聞いて感心するという効果もあり、又、自分の上達の様を認識して欲しいとの思いもある。イクも他の看護婦達も負けじと稽古に励み、時間の経つのも忘れるほどであった。そのため、イクの琵琶は思いがけなく上達が早かった。内地でのマンドリンの時のように、練習時間も余りなかった上に、演奏以外の楽しみの方が多かったため、なかなか上達しなかったが、ここでは純粋に琵琶の練習に専念し、確実に上達していた。又、その上達が見えるため、イクは、又、練習に専念するという循環作用もあった。

 イクの先生は、亀川旭鈴という70歳の熊本出身の女性の先生であった。亀川旭鈴先生は、他に琴や三味線も教えている。その息子も琵琶の先生をしていた。この長男が琵琶の先生になった裏には、大きな悲劇があった。元々、彼は鉄道員であり、この琵琶の道とは関係がなかった。しかし、ある日、鉄道の連結作業中に誤って右足の大腿部から切断するという大怪我をした。そのため、仕事を続ける事ができず、その後、座業に転職しなければならなかった。死に物狂いの修行で琵琶師になり、京城で教授所を開くまでになった。彼の琵琶の真剣な教授法と真摯な振る舞いで生徒の人望も厚く、生徒が非常に増えて、母親もその手伝いのため、息子から琵琶を習ったという。そして、息子の協力という事で、羅南に教習所を受け持った訳であった。
 亀川旭鈴先生は、本来、琴と三味線の免許は持っていたが、琵琶の免許は持っていなかった。そのため、先生は、自分の息子に指導を受けたのであった。同じ稽古を受けていた人達の話から聞くところによると、亀川旭鈴先生は我が子に手をついて挨拶し、教えを受けたと言う。亀川先生とあろう人が息子に手をついて教えを請うなんて、と言う声の中に批判めいた空気が感じられたり、又、いや、そこが先生の素晴らしい所である、と言うほめる声もあった。イクは正直言って不思議であった。息子と親は、当然、親が偉いものと考えていたので、この疑問を先生にぶつけて見る事にした。
「先生、先生はどうして自分のお子さんに手をついてまでして、教えを受けられるのですか。親の方が子よりも偉いのではありませんか。」と聞いた。
「相手が誰であれ、教えを受ける時、私は生徒なのです。生徒が先生に挨拶をする事は当然でしょう。」と、イクの質問に対して事も無げに答えた。イクは、成る程、教育における師弟関係は親子関係以上のものなのだと納得し、襟を正し、より一層の尊敬を先生に持った。
 亀川先生親子は、京城と羅南に別居して、同じ芸術の道に精進していた。その後、先生は、尊敬の眼差しを注ぐイクに琵琶の事以外にも、思い出話や世間話に花を咲かせたのであった。その話の中に、息子夫婦との同居時代の話もあった。
 イクは先生の話の中で最も印象に残った話に、息子の嫁の話がある。1日に1度は、嫁に対して誉め言葉を必ず言う事にしていたと言う。又、嫁の欠点に対してそれを非難するのではなく、相手の気持ちを考えて言葉を選んで話すとも言う。例をあげると、お嫁さんの髪がだらしないのでとても気になり、もっと上に挙げたら良いと注意するのに躊躇していた。しかし、髪の批判をする事は簡単だが、その後が難しくなると考えて、「昨日の髪より今日はとても素敵ですよ。」と言葉を工夫して言ったという。そして、「今日の髪が美しいのは結び方が上の方に揚ったからでしょうか。」等と本当は変わっていないのに、誉めたそうだ。その結果、先生は「私の思うような髪になりました。」と微笑んで話すのである。先生の頭の良さには、イクは感心すると共に、良い勉強になると考えた。
 1年ほど琵琶の勉強を続けている内に、イクは自分勝手に上達できたと考えていた。その上、気分を変え三味線もやってみたくなった。琵琶の稽古を三味線に変更しようと先生に気軽に相談して、大目玉を食らった。あっちもこっちも中途半端にするのは駄目だ、一つの物が完成しなくて、2つのものが出来るはずはありませんと厳しい叱責の言葉が飛んだ。イクは、小さくなって、先生の許しを請うた。
 こうして朝鮮での豊かで楽しい日々が過ぎていった。

 ある日、イクは、友人と二人で軍の職員録を見ていた。藤永という名前に指が止まった。あれッ、この名前は聞いた事があるなぁ等と声に出しながら読んでみた。確かに見た事、聞いた事がある。えーと、あれはいつの事だったかしら、確か、そうだ。イクの脳裏に紺飛白の着物に袴姿の20歳前の若者の姿が浮かんできた。彼は、富山からの通勤で、毎日、家の前を通って学校に行っていたっけ。そう、小学校の先生をしていたんだ、とイクは思い出した。ついでに、先生のもみ上げの長い顔も浮かんできた。この先生は、小学校4年生の頃、代用教員で半年間、イクのクラスを受け持っていた事も思い出した。
 イクが思い出した時、側にいた上村上等看護長が言葉を添えた。
「藤永だったら、病院前の騎兵連隊に縫工長として頑張っているよ。会いたいのなら、呼んで上げよう。」とイクの返事も待たず、連絡の小僧を出して藤永先生を呼び出した。
 イクは、ちょっと困ったが、しかし、嬉しかった。こんな外地で昔の知り合いと会えるのは、言葉にならないほど嬉しいものである。伝言を受けた藤永先生はすぐに現れた。しかし、仕事中のこと、藤永先生も多くの話も出来ず、今度の日曜日には、是非家のほうに遊びに来るようにと約束し名刺も渡して、そそくさと仕事に戻った。
 日曜日、イクは名刺にある住所を手がかりに、わくわくしながら小学校時代を思い出しながら先生の家を捜していた。先生と懐かしく昔の事を話し合えると、いそいそと家を出たのである。病院で会った時は看護衣なので、今日は化粧もしっかりしてめかし込んで私服で出かけた。
 先生は玄関に出てきて病院で会った事も忘れたように、暫くは呆然として、沈黙のまま、言葉がなかった。続いてイクの頭から足の先までゆっくりと観察していた。イクは、呆れると共に怒りがこみ上げてきた。しかし、先生にとったら、化粧っけのない無味乾燥の看護衣から、美しく華やいだ私服姿で若い娘が現れたので、30歳過ぎて間もない男性として、見惚れるのは無理からぬ事であった。しかし、イクは、そんな男の気持ちなど、気も付かないので、膨れて立っていた。もう、これ以上失礼な男の前に居るのも癪だったので、帰ろうと考えた時だった。
「あら、貴方、何をなさっているのですか。お客様に対して失礼でしょう。上がって頂いたら…。」綺麗な声がして、家の中から優しいそうな女性が現れた。
「いやあ、参ったなあ。後を頼むよ。」ぼやきながら、助かったと言う風に、その女性と客対応をバトンタッチして、藤永先生は家の奥に入った。
「さ、さ、そんな所に立っていないで、お入りくださいな。うちの人は、本当に困った人ですね。こんな若い綺麗なお嬢さんを玄関で締め出して…ね。」如才なげにイクの手を取って、家の中に招き入れた。
「お邪魔します。」イクは、お嬢さんと言われて、気持ちを良くして、招かれるままに家に入った。
「病院であった時は、何にも思わなかったのに、今日会って、吃驚したよ。」と、頭を掻きながら藤永先生は、ばつの悪そうな顔を綻ばした。
「先生と会った小学校の時は、わし10歳だったもんね。」ふっと富山弁が出た。
「あの時は、10歳かあ。成る程、分からんはずだよ。今はまぶしいほどの娘盛りだもんね。」口元はさっきと違って、すっかり緩んでいた。
「先生、わしも20過ぎたがやぜ。さっきは、ほんとに腹立ったがやちゃ。」とすっかり心安くなったイクは、富山弁でまくし立てた。
「堪忍してたはれ。娘盛りだがやねぇ。はっきり言って、良く憶えていなかった事もあってねェ。」という。
「実家は何という村ながや。」とか「クラスの人にどんな名前の人がおったがけ。」とか、長い時間をかけて、ぽつぽつ質問の矢が飛び出した。最後に、
「やっとこれで、貴方の言う坂田さんである事が分かったし、貴方が坂田イクさん、本人である事が確認できたちゃ…。」と、明るく笑っている。食卓の上には、色んなご馳走が並べてあった。
「主人は、若い頃、学校に勤めていた事があると聞いておりましたが、今日のように本当の生徒さんが実際に現れては信じなくてはなりませんね。」と、爽やかに笑いながら夫人は言う。
 イクは、少しずつ昔の事を思い出していた。イクには、この先生には良い思い出はなかった事を急に脳裏に浮かんできた。あれは、俳句の指導の時間であった。イクが宿題の俳句を提出した時に、それに先生が赤線で修正し、クラス全員の前で指摘し、イクは大きな恥をかいた。その悔しい思いをしたため、その後の人生に俳句への道を閉ざすきっかけになった。この事を思い出した時、教師のほんの些細な言葉にも、人間は幾つになっても思い出し、傷が再燃するものなのだなと久しぶりに会った先生の顔を見ながら思ったのである。しかし、この事は、この時黙っている事にした。

 イクは、亀川先生にどんどん傾倒していった。

 亀川先生の厳しさは言葉だけではなかった。身嗜みにも厳しい人であった。北鮮の酷寒時、零下何十度の気温時でも、毎日、日課のように身体の清潔に心を配っていた。諸肌を脱いで首や襟元の清拭に心していた。琵琶歌の演奏会には聴衆の人々に不快な感じを与えてはならない、特に女性は襟元の清潔が大切だと言う考えが強かった。服装は礼服で演奏するので、襟が白襟のため襟元が人の目を引くものである。だから、襟の清潔は普段の心構えの賜物であるとして、毎日の心がけが大切である、と言うのである。言葉通り、先生の襟元は、お化粧をしなくても何時も清潔で薄化粧しているように艶かしい美しさを保っていた。若いイクの襟元よりも、ずっと綺麗であったたため、イクは見惚れるほどである。
 先生の豊富な知識と繊細な感情により、イクの豊かな精神生活は、多くの知識や豊かな情緒を受け取っていった。生き生きとした前進生活を続ける先生は、70歳と言う年齢を持ちながらも、老化と言う自然現象も先生の所をよけていっているのではないかとイクは思ったほどである。20歳過ぎのイクに70歳の先生が、若いエネルギーを与えているようだった。イクの生涯に、この先生の影響は大きく深く心に刻まれていった。年齢に関係のない身嗜みは重要だと言う思いを、又、イクは深くしたのであった。
 琵琶の教授を受けている時、イクの上達振りを誉めた先生は、羅南の教授所の後継者になってもらいたいと軽い気持ちで話した。その先生の言葉は、イクの心を舞い上がらせた。尊敬する先生と一緒の生活、看護婦の本業を生かしながらの趣味の生活も良いと、思い込んだのである。本当に先生がそのように思ったのかは、定かではないが、少なくとも若いイクは叩き甲斐もあり、将来性を秘めていると先生が考えた事もあろうし、この子なら自分の思いのままに琵琶の才能を伸ばしていくだろう、年齢を重ねてきたので、もうソロソロ引退したい年齢になった、との考えを深くしていた事も考えられる。
 イクは、心躍る気持ちで父親に手紙を送る事にした。ここはとても素敵な所で、ここで永住したい事など自分の気持ちを長々と手紙にしたためて送った。父親の承諾を貰う事がイクにとって重要であり、又、自分の勇気ある行動や素晴らしい生活を親に知らせたかった事もあった。
 しかし、返事はなかなか来なかった。

 ある日、電報が届いた。突然、父病気すぐ帰れという。
 イクの心は乱れた。その電報を見た婦長は、納得したように苦笑いをした。そして、婦長が院長に実情を報告すると言う。その後、イクは院長室に呼ばれた。その時、同僚の高橋とし枝が先に来ていて、内地に帰るというのであった。2人に向かって「生活が変わるのだから、気をつけて幸せになりなさい。」と院長は優しい言葉をかけてくれた。しかし、イクはその意味がわからなかった。父の病気で私は内地に帰るのに、父の事は何も言わないなあと、思ったくらいである。
 2年以上の外地での生活は、伸びやかにゆったりとした豊かな生活で、イクは心の栄養を沢山受け取って内地に帰ることになった。心は、まだ朝鮮にあったが、父の病気の事が心配であった。

 朝鮮に来る時と違って、内地に帰るのは2人である。心丈夫で楽しい旅になりそうだった。亀川先生や看護婦達の見送りを固く断って、清津駅から汽車に乗って出発した。不思議と涙は出なかった。帰りの途中、京城の衛戍病院を見学しながら、その病院の婦長の官舎で宿泊する事になった。衛戍病院とは、陸軍の駐屯地に置かれた病院のことである。
 下士官官舎である婦長の家は立派であったが、婦長の夫は病院の理髪師である。夫婦が同じ職場である事は、それも軍病院では許されていない事だったので、イクは少なからず驚いた。男女間の問題は、夫婦なら問題ないとも考えられるが、軍の病院であるかぎり許されないはずである。しかし、これも、大陸ならではという大らかさなのかもしれないと、イクは自分で納得せざるを得なかった。
 婦長は、イク同様、日赤の教育を受けたものとしての話が合って、楽しい夜を過ごした。翌日には、婦長じきじきに京城市内の見学も率先して案内した。南大門と東大門は、京城に築かれた城壁の門であり、門の近くには、市場が開かれて朝鮮らしい雰囲気が漂っていた。また、光化門等も見学した。その市場で、イク達への土産に婦長は、産物のツルチック・アメやシロップを買い与えた。イクは、この土産と共に、琵琶の四弦と五弦、マンドリンの3つの楽器に、父への土産にと考えて缶入りの煙草や記念の宝石をボストンバックの中に無造作に入れていた。2年間の生活の後の手荷物は来る時と違って、とても多く大変だった。京城から釜山へも列車の旅であった。
 釜山から船に乗り換える時、携帯品の検査があった。多くの携帯品を細かく調べられて、その中で煙草だけが没収された。その他の宝石などは無事であった。一緒に居た高橋看護婦は、イクの様子でいち早く煙草を自分の帯揚げの中に隠し、無事に煙草を発見されずに通過した。イクは、細かな知恵の動かし方が、大切なのだという事を新たに知った。しかし、イクはそのような知恵が回らないというよりも、要領の良い身の処し方は出来ないとも思うと共に何となく好きになれなかった。しかし、父への土産が没収された事に対して残念な気持ちであった。

 イク達は、大型連絡船「壱岐丸」に乗って下関に向かった。船は、内地に近づくにつれ、イクの心は、朝鮮の生活が薄れると共に、朝鮮への気持ちもどんどん遠のいていった。
 イクは、渡鮮の時と違って、日本と朝鮮半島の間、玄界灘を快適に楽しく航海した。朝、釜山を出発した船は、下関港を経てその日の夜の内に大阪に着いた。下関港は朝鮮半島先端に位置する韓国釜山港に近接している。即ち、下関港は、本州で最も韓国、或いは中国大陸に近い港である。何しろ、下関と釜山との距離は約220キロだ。広島は当時の軍都であり、日清戦争当時、戦争の指揮をとるための最高機関である大本営が設置され、帝国議会も開かれ、広島はあたかも首都であるかのようだった。また、たくさんの兵士が戦場に向けて広島南部の宇品港から出兵して行った。その広島と下関間よりも下関と釜山の方が近い。下関から朝鮮半島への近かさは、日韓のさまざまな歴史の中において常に人と物を運ぶ大動脈の役割を果たす重要な町であった。あれが下関だという言葉を聞いた時、イクはほっとして内地に戻った感激で心が熱くなった。下関に停船してから、又、出発した時はあたりは暗くなっていた。行く時見たあの厳島神社は見えなかった。
 大阪港が近くなり、船の中の人々が下船の準備で慌しくなった。イクは、3つの楽器に多くの荷物に戸惑いながら、しかし、どうにか準備を終えてホッとしながら船が着岸するのを待っていた。一人でこんな大荷物を持って船を下りるのは大変だなあ、と思いながらも、下船する時に、世話になったボーイに挨拶をとイクの心付けを渡した。それが効いたのであろうか、ボーイは、急に態度が変わり、ニコニコしながらイクの沢山の荷物を1人で抱えて船から運び出してくれた。感謝の気持ちを表す挨拶や心付けとは、最初にすべきか、後にすべきか、自分の心の中に割り切れない宿題を持ったまま、ここでもイクは船から降りた。
 富山に連絡を入れておいたため、大阪港には誰が迎えに来ているかしらと考えていた。病気の父が来るはずはないと、心の片隅で考えていた。しかし、もう一方の心には、ひょっとすると父は仮病の可能性もあるかもしれないと言う考えがなかったわけではなかった。しかし、港には、不安そうな顔の母がいた。あ、父の病気はやっぱり本当なのかも知れないと、イクの心は動揺した。高橋看護婦は両親が迎えにきていた。イクは高橋看護婦と早々に別れを言って、母親の所へ飛んでいった。
「おとっちゃんの病気は、どういう状態なんや。」イクは母の腕をつかみながら、言った。
「……」母は、困ったような顔で、どのような返事をしたら良いか分からない。
「病気は、なんなんや。」
「……」
「一体どうなってるんや。病気の名前は…、身体の具合は…。」矢継ぎ早に父の身体の状況を聞き出そうとした。
「……」
 暫く経ってから、やっと本当の事を母が口ごもりながら、話した。
「貴女を、内地に戻したかったのが、とうちゃんの気持ちなんよ。それだけの事や。」と、横を向いてぼそりと言う。
「……」イクは言葉がなかった。
「あんな手紙がきて、朝鮮に永住したいなんて言うから、とうちゃん吃驚したがやわ。」と、父親の気持ちを話してくれた。悪い男に騙されているのではないか、琵琶の先生の後継ぎなどになりたいなどといって自分の家の跡取が何を言うか、と凄く立腹しているという。
「私の言葉を信じる事ができんがや。おとっちゃんもおかっちゃんも…。」イクは絶句した。
「我が子を信じるには、あまりにも遠いねかいね。朝鮮と内地の距離が離れすぎとるねかいね。愛しい我が子を思う親の気持ち分からんと困るがいね。」と母親も鼻声になった。
 イクの心は、この母親が何と言っても、素直に聞けなかった。愛しい我が子という言葉にも何の感動もなかった。まずは何より病気でなかった事にホッとした。
 電報を受け取った時点で、心のどこかにその様な芝居でもあるのではないかしらと言う気持ちがあったのも事実だ。だから、松岡婦長はそのあたりのことも心得てというか、親心も見抜いて、イクの退職理由を結婚という事にしたのかもしれない。院長のわけの分からない言葉も良く理解できると思った。
 今は一刻も早く、父親の顔を見たいものだと一路富山に向かった。



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