明治から平成を駈けた女 第12章 

 イクは、母親の協力を得て、東京に行くことにした。

 イクは、今で言う北朝鮮から帰国すると、まっすぐ郷里の富山に向かった。イクは家に着いて、早速、元気な父に会った。坂田染二は、イクの想像以上に厳しい顔でイクを迎えた。
「お前は坂田家の跡取だという自覚を持ってるがか。」お帰りもなく最初の言葉は、大きな声でイクを叱責した言葉であった。
「……」イクもただいまと言う言葉も言わず、黙って突っ立っていた。
「わしは、お前に今まで好きなようにさせすぎたと思うとる。今後は、家を出る事は罷りならんぞ。」父親は、声高に言った。本当に怒っている事はイクの心にも響いてきた。
「何で、家に居らんといかんがやね。」とイクは抗議した。
「当たり前や。跡取が、何時までもふらふらしとる事は、許さんぞ。そろそろ落ち着いて婿を取らにゃ、ならんだろ。」と、何を分りきった事を聞くのかとばかりに、イクを睨みつけた。
「わし、跡取なんかならんからね。」イクも負けじと、父親を睨みつけた。二人は、そのまま睨み合っていた。
「あんたはんも、今、そんな事を言われんな。イクも、今、富山に着いたばかりで疲れとんがいね。その話は、また今度にして…。」と、母親はその場を何とか収めようとした。母親の心の中には、イクの婿になるような男は、この村どころか、あの大きな街の富山でも金の草鞋を履いて探しても居ないと見抜いていた。だから、跡取は、二人の妹のどちらかにしたかった。しかし、それを言うのは、憚れた。一番良いのは、イクがこの家から自発的に出て行くことだと思って、それをずっと以前から望んでいた。

 イクの家は、約300坪の土地に建坪100坪、前庭は50坪、裏庭150坪あった。2階には、6畳4つと4畳半2つの部屋があり、階下には8畳2つに6畳2つと4畳半の部屋が1つの合計12部屋があった。商売のかたわら、父親の染二は裏庭で野菜を作り、又、菊を愛し育てていた。100個程の鉢に大輪の菊づくりに夢中であった。早朝からの肥料の調整に、水遣りに、天候と睨めっこしながら菊の世話に余念がなかった。
「朝寝坊の人間には菊を育てられない。」という父の言葉を幼い頃からイクは良く聞かせられた。前庭には、一重咲きの桜と八重咲きの桜が、大木で2本植えてあった。娘時代は、その見事な夜桜を二階の窓を開いて家族と眺めて楽しんだものである。その桜は、今はもう無くなっていた。父親が今度新しく始める商売のため切り倒したという。忘れられない懐かしい思い出は、久しぶりに帰ったイクの心からも切り取られた桜のように思い出も消えていくようだった。
 跡取であるイクに商売見習も含め、看護婦と言う仕事をやめて、家に入るように父親が執拗に毎日説得した。イクは商売には全くの興味はなく、才能もないから諦めるように頑固に断り続けた。それから暫くして、イクは一計を案じた。商売の資金が足りないとこぼしていた父に、朝鮮で働いて稼いだ1000円の半分を渡した。警察官の給料が45円の時代であったから、父親はこの大金に喜んだ。
 その後、父親もイクに対して後継ぎの事を余り言わなくなった。イクからの500円で、商売の計画に夢中になった事も大きい理由でもあった。その後、父親は、地の利を生かして料亭兼旅館を営んだ。特に大きい料亭とはいえなかったが、それでも、その後、中堅の有名な料亭としてその地に根づいていった。料亭の名は、千紅楼と言った。近くには、料亭は6軒もあり、最も大きい料亭があったが、それは高校の先生が経営する料亭で、庭の山水は豪華な高級料亭であった。千紅楼は料理の他、酌婦を置いてあったので客は多かった。

 イクが生れた村は、富山県のほぼ中央にあった。東の富山と西に高岡、そして北には新湊と大きな町の真中にあった。村の北側は平らな地であり、南側は丘になっている。村には下条川が流れて、富山湾に流れ込んでいる。その下条川沿いには、遺跡が多く、大昔、縄文時代には人が住んでいたと言い伝えがある。江戸時代には、加賀藩の宿駅ともなっていたと村のお年寄りからイクは聞いた事があった。又、南の方の丘には、多くの溜池が点在している。ひっそりとたたずむ小さな溜池から、大きな堂々とした溜池まで、周囲に多くの木々を従えて溜池は無数に存在していた。江戸時代、水不足に悩む人々が、川をせき止め、造りあげてきた人工の池であると言う。
 イクは家に着いた翌日、この溜池の周りに散歩に出た。イクの家に近い溜池は、男池と女池があり、夏になると子供達は水泳をして遊ぶ場所である。昔、イクの好きだった場所の一つである。久しぶりに帰ってきたイクの心を世の雑念から払い落としてくれると共に、幼い頃の思い出が彷彿と湧き上がって来た。池の周りには、赤松や小楢等の木が繁り、自然が豊かであった。その綺麗な水と豊かな緑に野鳥や水鳥達がやってくる。水面を心地良さそうに泳ぎ、羽ばたく。鳴き声は静かな空気に溶け込んでいき、見ているイクにも楽しそうに感じられる。空には初夏の青い空と白い雲があった。爽やかな風がイクの頬を撫でていた。イクは、高い空に浮かぶ雲を見ながら、自分のこれからの人生を考えていた。あの青い空の中に浮かんでいる雲が自分の人生であるかのように思った。これからの私の人生は、輝いた青空の中の真っ白な雲のように希望に満ち溢れていると確信していた。
 イクの家の周りや村には、梅、こぶしや桜、連翹にアセビの花など四季色とりどりの花に囲まれている。今も藤の花や躑躅が盛んに咲いていた。イクは、5月で26歳になっていた。この年齢は、当時の結婚適齢期から見ると大きく遅れていたが、イクには同期生16人中未婚の人は3人も居たので、心強く思っていた。その上、イクは、結婚とは世の風習とは関係なく、自分の結婚したい時が適齢だという考えもあり、年齢に対しては余り世間並みの思惑はなかった。しかし、遊んでいるわけにもいかない。白い躑躅の花を見ながら、この村にいつまでも居るわけにはいかないと決心した。

 イクは、知人を頼って金沢で働く決心をした。

 金沢には、金沢衛戍病院に勤務している同じ独身で頑張っている同期の山崎まついが居た。
 金沢衛戍病院は、金沢城や兼六園の近くに位置し、豊かな自然環境の中にあった。北陸における中心的な病院の1つである。近くには、文化施設も多く、自然と文化に恵まれた閑静な場所にあった。
 この病院の院長は、イクが千葉で働いていた時の病院の院長であった。その偶然にイクは驚いた。イクの我儘で千葉の病院を勝手に退職し、朝鮮へ行った事で、ちょっと院長に会いづらい感じはあったが、まついの勧めと仲介で院長に会うことになった。イクの村は桃の産地であった。丁度、桃の最盛期のこの時期に、イクは、桃のお土産を持って院長を訪問した。
「その節は、ご迷惑をお掛けしました。我侭な事を致しまして…。」とイクは深く頭を下げた。
「いやいや…。良く来てくれた。元気のようで良かったよ。」院長は、腹の大きい所を示すように、顔一杯の笑顔でイクを迎えた。
「申し訳ありませんでした。これは、ほんのお詫びのしるしです。」と恐縮して、イクは桃の包みを院長に差し出した。
「これはこれは…、いやあ、桃はわしの大好物だよ。」と、昔の事を忘れたように、イクと桃の登場を歓迎した。
「千葉ではご迷惑をかけた上、今日は又厚かましく就職のお願いに参りました。よろしくお願いします。」と再び深々と頭を下げてお願いをした。暫く朝鮮での話や朝鮮から帰った理由等色々な近況報告した。イクの話を聞いた後、院長は、少し声を潜めてイクに言った。
「山崎看護婦の事だけど、彼女は、心臓が悪いので看護業務はきついようだ。」と言う。突然、話題が山崎看護婦の事になって、イクはきょとんとした。イクは院長の意図が分からなかった。
「そんなように見受けられませんでした。」とイクは、吃驚した目で院長を見た。
「いや、余り大きな声で言うのも、何だが、看護婦の仕事は適当でないとわしは思っている。本人の為にお茶かお花の先生でもしたほうが良いと考えているのだが…。」と言う。
「……」イクは、こんな事を平気で言い切る院長が、何だか急に信用できないような気になってきた。
「色んなことを考えると、山崎看護婦よりも元気な坂田さんに、この病院で働いて欲しいと思うのだが…。」と院長は話す。
「ありがとうございます。」イクは、自分を認めてくれる院長に感謝の言葉を述べた。しかし、院長の言葉の中に素直に喜べないものを感じていた。何か理由を見つけて断る事を速断した。
「当病院は、日赤の石川支部生だけが勤めるようになっていると聞いているのですが…」と、イクは院長に言った。
「そんな事は心配要らないよ。私の権限で何とでもなるよ。その代わり、山崎看護婦の後と言う事で了解して欲しいのだが。」と言った後、大きな声で笑った。イクは、院長の言葉に益々他の思惑がある事を確信した。そして、その場できっぱりと断って、頭を下げると相手の顔も見ずにすぐ部屋を出た。

 その後も暫くイクの仕事は決まらなかった。話はいくつかあった。婦長と言う話もあった。婦長と言う地位の話にかなり魅力は感じたが、場所が悪かった。市立の結核療養所だというのである。慢性伝染病であるという事が気になった。看護婦になった時から結核だけには関係ないようにしろという親の反対もあったので、この婦長になれるチャンスを諦めた。
 病院勤務ばかりを考えていると、なかなか決まらない。日赤出身と言う経歴も良いのか悪いのかも分からない話もあった。悩んだ末、イクは少し視点を変えて、病院勤務に拘らないで、色んな看護の勉強をしてみるのも良いかもしれないと考えた。その結果、イクは、外勤の経験をしてみようという気持ちになった。家庭で療養する患者や、又、その患者を世話をする家族の気持ちなどの人間関係を知りたいと考えた。その様な中での看護は、普通の病院看護よりももっと大きな魅力があるように感じ始めた。
 外勤看護になるため、北陸衛生会に入会し、イクは正式に外勤看護への道を進む事にした。
 北陸衛生会は、近くに犀川が流れ、美しい山々を望む場所の金沢市南町にあった。金沢駅から歩いて30分であるが、途中金沢城址や兼六園を通っていく道すがらも気に入っていた。帰りはちょっと外れれば、香林坊に寄れる。香林坊は金沢で最も大きな繁華街であった。お店を覗きながら帰るのも、イクの楽しみの一つとなった。
 会員の看護婦制度は、等級に分かれており、イクは初めてであったが、日赤出身と言う事もあり、又、病院経験が多いという事もあって、特等看護婦の証を与えられた。仕事はすぐ決まった。

 最初の外勤に行った家庭は、慢性気管支炎の患者で、元朝鮮銀行頭取であった。イクが溜息の出るような瀟洒な大邸宅であり、女中1名の3家族同居であった。3畳の薬部屋もあり、普段使用する普通薬は勿論、色々な医薬品が備えてあった。主人の頭取を中心に、息子夫婦と娘夫婦が同居していた。息子の嫁が中心になって看護に当っていた。時々、嫁の忙しい時や外出時には娘が手伝うといった様子である。
 慢性気管支炎の最も多い原因はタバコと言われているが、主人もその例に漏れず、煙草好きだったと言う。主な症状としては、痰を伴う咳が特徴で、白っぽい痰が出ていたが、今では膿が混じって痰の量が増えて息切れも激しくなっていると言う。慢性気管支炎は完治しづらく10年、20年と続き、進行すると不治の病となり、結果的に肺炎や心不全などで死亡するとイクは習っていた。十分に水分をとるなど、タンがからまないようにし、乾燥を避けるために換気等イクは、充分気をつけていた。イクは甲斐甲斐しく看護した。嫁もイクが来てから楽になったため、暗い顔も次第に明るくなり、何かとイクに心遣いを見せるようになった。
 患者は寝たきりであった。
「義父は、排尿が大変で、見ていても気の毒でならんのやわ。何か良い方法は、あるやろか。」と、嫁の彩の言葉であった。
「どんなやり方なんですか。」と、イクは多少義務的に聞いた。
「これだけは、義母がやっているんですが、」と、排尿の世話の様子を話した。その方法は、ガラス製品のロート型の器に太いゴム管をつけて、そのゴム管の先に尿器を入れての排尿をさせると言う。
「分かりました。それでは、患者は非常に排尿に対して苦痛であると思います。良い方法を考えましょう。」イクは、すぐ方法を変えた。大便用の便器を利用して心安く排尿する方法を工夫した。これは楽で良いと患者から非常に喜ばれた。何とか、イクは、介護の家族の負担を軽く、そして、患者の心地よい療養を考えて奮闘した。彩も、イクと年齢が近い所為もあり、又、患者の看護と言う立場も同じで、お互い理解しあい、イクにとって大きな勉強となった。いつの間にか、イクも彩も親友のような気持ちで、多くの話をした。彩は文学乙女で、将来、樋口一葉や与謝野晶子のような文学者になれたらと夢を見ていた時代もあったと言う。イクは彩との時間を非常に大切に感じながら、仕事はきっちりとこなしていった。少しずつ患者の様態も良くなってきたように感じたある日、突然、頭取は沢山の血を吐いた。
 それはイクが来てから1ヶ月過ぎた頃だった。まもなく、看護の甲斐もなくこの主人は死亡した。その時の死亡診断書を見ると、肺結核と記入してあったのでイクは非常に吃驚した。慢性の気管支炎とイクが聞いてきた話は偽りであった。現在と違って、医師の命令を聞くだけの看護婦だった時代である。勿論、当時は公衆衛生も口にできず、忌み嫌われていた時代であった。イクが初めて患者の介護するにあっては主治医よりの注意のあるべきものがなかった。色んな事が放任の状態であり、イクは残念に思った。話があった衛生会にもイクは質問したが、これもまた不明瞭な回答であった。開放性の結核の患者かどうかも分からず、又、どちらにしても結核と聞いた時にはイクは看護を断っていたのにと後悔した。肺結核は慢性気管支炎によく似た症状であり、咳やクシャミから感染する。薬による治療だけでなく、日常生活への注意も重要で、体力を消耗する病気でもあり、安静にし、栄養バランスの良い食事や十分な睡眠が必要で、水分を補給しなければならない。結核患者が咳やクシャミをしたときに飛び散るしぶきの中の結核菌を吸い込むことによって他人に感染するので、イクは当時の人間と同様、結核には近寄らないようにしていた。感染したとしても、免疫力が強ければ発病しない事もイクは分かっていた。当時は効果的な薬がなかったため、長期の入院が必要だが、中には、この家の患者のように自宅で治療する人も多かった。イクは、彩が知っていても肝心の病名については何もいわないことに腹を立てていた。
 この家に来て、初めて医師に会った時、直接質問もしなかったイクは、外勤に対しての不慣れさがあった事は認めなければならない。だから、患者の主治医と最初に出会った時の質問は、必ず詳しくキチンとするべきだと肝に銘じた。看護者にとって重要な知識でもあったと知った時、イクは悔しい思いを持った。慢性的に進行して確実に死をもたらす病としての結核は、現在のような時代と違って、イクのような看護婦ですら恐怖に近い気持ちを持つ病であった。結核は絶望的な病であると同時に、患者やその家族に対して、終生消えることのない社会的刻印をも与えた病でもあった。イクは、個人的にも家族と親しくなりすぎた事を反省しながら、その家を退出した。

 その後、イクは、重症の神経症お年よりの看護にあたった。心因に基づいて発症する身体の器質的異常のない心身の機能障害であるのが神経症であった。、簡単に言うと、精神的ストレスが原因となって、胃痛、頭痛、吐気、めまい、耳鳴り、動悸など人により様々な痛みや不快感が現れ、また不安や緊張などの精神症状を伴い、一方で体の組織には異常はない状態である。発症については、性格などの患者側の要因と家族・職場など環境側の要因とのバランスが失われた一種の適応障害ととらえられるのが、現代の医学であるが、当時はその様な事はまるで分かっていなかった。神経症は身体的異常がないことが原則であるが、自律神経系の不安定をしばしば伴うことがあるため、当時の治療法はマッサージが多かった。
 家族は老夫婦2人とお手伝いの3人であった。金沢の街の真ん中で手広く商売をしていると言う。しかし、夫人の病気のため、お店は他の人に任して治療に専念しているのだと言う。
 毎日の治療は、マッサージが中心である。按摩師による全身マッサージや電気マッサージ等であった。イクの仕事は、左上肢マッサージと関節運動を毎日10分間、行う事であった。その甲斐あってか、夫人は疼痛がなくなったと喜ばれた。
 20日続いた結果、全治したという事で、帰る事になった。しかし、夫人は、今暫くこのまま居て欲しいと請われたが、イクの手を待つ重症の病人の事を考えて、イクはそれを断って家を出た。

 3回目に担当したのは、異常妊娠5ヶ月の患者であった。金沢市の郊外にある産婦人科医院の入院患者の付き添い看護であった。日赤の学生時代、産婦人科の実習をやったという事以外、婦人科には全くの知識はなかった。イクの経験は外科と内科だけで、このような命にかかわるような重大な仕事には、少し怖気があった。
 病院の看護婦は、先生の診察の時、側に居て観察しているだけで良いとの事で、イクは深く考えずに来てしまった。しかし、付き添ってみて自分の知識のない事に不安になり、事故でもあろうものなら大変だと心は落ち着かず悩んでいた。
 ある日、医師が帰った夜になって、イクは、患者の不整脈拍に気が付いた。普通状態が変化し、患者は胸内苦悶等を訴え始めた。早速、イクは医師宅に連絡して、救急処置に取り掛かった。身体の保温や強心剤の注射の用意、患者の安静等に心を配った。医師はすぐに現れ、それと共に手術の手配等を指示した。すべて準備を完了していたので、イクの仕事は早かった。患者の様子を見た医師はすぐさま手術に取り掛かった。
 結果は異常妊娠の葡萄状奇胎であった。処置が早かったため、妊婦の命には異常はなかった。葡萄状奇胎とは、胎児を包む卵膜や胎盤をつくる絨毛が病的に異常増殖して、子宮内に充満して胞状奇胎になったものである。その状態は、ちょうど子宮の中が葡萄の房のようになるので、この名前がついた。すべての処置が終わった時、イクは医師に連絡と処置の速さを褒められて、感謝された。イクは産婦人科に自信を持っていなかっただけに、今度の患者に対して、失敗のなかった事で安堵すると共に看護の道の厳しさを思い知った。一歩間違えると、人の命にかかわる事に恐れに似た気持ちを抱いたのである。それだけではなかった。イクはお産に初めて経験したのが異常妊娠であったため、子供を産むのが恐ろしいと思った。そのため、結婚はしたくないと言う気持ちになった。

 1年間の外勤で様々な患者と家族の人間関係を見たイクは、病院看護とは違った家族の中の看護からの勉強をした。特に病人を暖かく家族で労わると言う助け合いの姿を見て、日本の家族制度はなんと嬉しいものなのかと感じた。しかし、患者が重症の場合、家族が神経質になり、異常状態になる事もあった。その様な状態の時、イクは若さ故のため、言葉の未熟さを強く思い悩まされた。看護に対する論理的な勉強の貧しさなのかも知れないと悩んだ。家族の命に関わるので、異常に張り詰めた空気で一歩間違えると大変な結果になる。そのような中で看護者は正しい冷静な気持ちを失わないようにしなければならないと心を遣った。
 又、見舞い客の多弁も心にかかるものの一つである。イクのような看護婦は単なる医師の補助と言う位にしか認められていない。だから、見舞い客への看護婦の注意も無視しての騒がしさは、イクには我慢がならなかった。患者への責任は医者だけではなく看護婦にも責任を与える必要があるのではないだろうか、ともイクは考えた。キチンと看護婦にも医者と同じような責任を持たせ、見舞い客にも厳しい注意を与える事ができればと考えた。
 見舞い客の中には、看護婦に神経の昂ぶりを感じさせる感情的な非難、又、褒め言葉等もイクは好まなかった。
(私の価値は、そんなに簡単に貴方達に決められるものではない。)と、見舞い客の批判を受ける度、イクは心の中でいつも叫んでいた。

 夜桜の綺麗な兼六公園を歩きながら、イクは何時になく心重く悩んでいた。一生懸命、綺麗に咲いた桜の花は、褒められようとして咲いているわけではない。この桜は、文句一つ言わずこんなに見事に咲いているではないか。私は何の為にこんなに一生懸命頑張っているのだろう、とイクは桜の花に問い掛けた。私はもっと他の所で自分の力を発揮できる所があるのではないだろうか。こんな田舎のちっぽけな街の中で満足しているわけには行かないのではないか、と考えていた。
 その桜も散り、八重桜が咲き、杜若も咲き、イクの大好きな藤の花の最盛期の時、イクは、外勤を退職した。そして、富山の実家に帰って将来をキチンと設計しなおそうと考えた。

 家には、親戚中の本家や分家の世帯主達が集まっていた。イクが帰ったので久しぶりに親族会議を開いたのであった。いよいよイクのお婿さん探しが始まる事になっていた。イクの考えや気持ちは全く関係ない所で話が進んでいった。本家の坂田染一が中心になって親族会議を仕切っていた。
「イクは、今年何歳になるがや。」と大きな声で染二に聞いた。
「27だが。」と染二が小さい声で言った。現在の年齢で言うと、誕生日が過ぎて26である。
「なんだと、27だと。嫁になるにゃ、遅いねかぁ。染二、お前は何をしとったがや、今まで。」染一は、又、声を荒げた。
「イクは、お国の為に今まで良く働いてきたんだから、文句言われへん。」染二も負けずに大きな声で、答えた。
「しかし、どんなに立派にお国のために働いたからって、こんな歳では、婿の来てはないねかぁ。捜すの難しいがいね。」染一の女房が、溜息混じりに言った。
「……」ツユは黙っていた。誰か、イクの代わりに妹の事を話してくれないだろうかと、気をヤキモキしていた。だが、ツユはこの事を話す訳にはいかなかった。
「せめてキクやヨシみたいイクも可愛かったらねぇ。」染一の女房が、又、溜息つきながら言った。
 その後、何処そこの村の某かの息子はどうだの、いや、町には嫁に先だたれた寡を知っているが、それには子供が居るから後々大変だろうなぁ等とお互い勝手な事を言っていた。イクは親族会議の人々を白い目で見ながら、全く無視していた。そして、今後の自分の身の振り方を考えるため、今まで貰った知人の手紙やハガキを引っ張り出して見ていた。
「とにかく、イクにはキチンと跡取としての自覚を教えて置かなければならん。イク、ちょっとこっちへ来い。」という染一の言葉で、イクは、親族会議に呼ばれた。
 色んな人から跡取の心構えについて説教が始まった。イクは、変に抵抗するのも親の手前悪いと考えて初めは黙っていた。
「あんたは、ただでさえ、歳を取っている上、2人の妹のように可愛くないし美人でもない。そんな愛嬌のない女なんかに婿に来る男を捜すのは、わしら、大変な思いで捜さならん。そこの所を考えて、これから、わしらの言うことをちゃんと聞かれや。」と、言った。この染一の女房の言葉にイクの気持ちはぷつりと切れた。
「結構です。わしは、この家の跡取にならんければ良いんやろ。この家を出るから、心配しられんな。」と、叫んでいた。自分の意見を言ってすっきりした。皆は目を丸くした。当時の考えではこのような自分の意見をはっきり言う女は、殆ど居ないと考えられたからだ。
「何言うとんが。跡取は跡取や。それに年の順に嫁に行かんと、あんたがどこか身体に欠陥があると、世間に思われるがいね。」と、当時の決まり事を皆が口を揃えて、イクに言って攻めた。
 その後、食事になった時も、イクの反抗的な態度は、今後の婿探しには徹底的な難問になると言う話題に終始していた。イクの跡取については、考え直さなければならないと言う意見も出てきたようであった。
 イクがずっと後になって聞いた事に、AB型の血液型は結婚下手と言われると言う。イクの血液型は、ABであった。その時、イクは成る程と思ったものである。結婚を急ぐまでもないと考えるイクであった。皆が帰り、父親も寝入った時、イクは、母親に家督相続人は2人の妹のどちらかに譲ると言った。そして、明日の朝早く、こっそりと家を出て行きたい事を話し、協力してもらうように頼んだ。イクとの血のつながりのないツユは、心の中ではホッとしながらも、黙って出て行くと後で夫に叱られると考えてイクを一応は引き止めた。しかし、一度決めたら頑として決心を変えない事も知っているツユは無理には引き止めずイクの言いなりに準備をした。後で何か夫に言われたら引き止めたけど出て行ったと言えばよいと考えた。
 次の朝、イクは500円を持って母に見送られながら、夏の太陽が登る前に、汽車に乗った。

 イクは、上野駅についた。4月に上野駅に8台の切符自動販売機が出来たと言う人々の話を車内で聞いていたので、物珍しさも手伝って、多くの人々の間から覗いてみたり、又、東洋で初めての地下商店街が完成しているというので、行ってみた。やはりここも多くの人々が物珍しそうに歩いていた。イクは、すっかり上機嫌であった。自分も都会の人間になれたような気がしていたのであった。
 昭和5年は、労働争議の年であった。世界大恐慌が日本にも押し寄せて、日本は不況の風が吹き荒れていた。前年からの就職難で人々は仕事にあぶれていた。しかし、上野駅には、その様な不況を吹っ飛ばすような活気があった。だからイクも東京に着いても、間借りが決まるまで上野駅近くの旅館に居て、日本の不況を知る事はあまりなかった。
 東京の労働者は、操業短縮や賃金切り下げ、リストラ等受難の時代であった。米の値段も大幅に下がり、昭和元年の米10キロ3円12銭だったものが、昭和5年になると2円15銭となり、翌年には1円台へと暴落していった。その理由に、全国的な豊作や植民地の生産増があった。
 カフェーやバーが増え、ダンスホールやビヤホールとともに、モダンボーイ・モダンガールら男女の集う社交場として賑わう一方、多くのリストラにあった人々が公共職業安定所に殺到した。大学を出ても就職地獄であった。流行語に、当時、ルンペン、銀ブラ、エロ・グロ・ナンセンスがあるが、これは当時の世相を表している。地方はもっと悲惨であった。飢える親は、娘を売ってその日を凌ぐと言う、それが日常化した時代であった。
 世界情勢も不安な状況であった。この年の1月、ロンドン軍縮会議があり、ロンドンで英・米・日・仏・伊の代表が集まって海軍軍縮会議が始まったのである。4月に調印し、艦保有比を、英・米有利に規定したため、フランス・イタリアは協力を拒否した。4月には、インドでガンジー指導の反英運動、第二次非暴力抵抗運動が起こり、インド全土へと拡大していった。9月には、ドイツで総選挙が行われ、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)は、大躍進をとげた。ヒトラーの独裁へのスタートである。外地では、反日民衆行動も始まった。戦争の匂いのする時代だった。
 このような時代にイクは、東京へ1人で生活しようと言うのでやって来た。懐には500円と言う大金を持っていた。これがイクの大きな自信になっていた。仕事は働く気になればいつだってできると言う大きな思い込みは、その後の人生に大きな影響を与える事になるとは考えても居なかった。
 東京に着いたばかりのイクは、関東大震災から7年経って、充分復興した東京の町に満足していた。この年の3月には、帝都復興祭が行われ、『東京行進曲』も流行して東京の賑わいはすっかり元に戻ったようだった。仕事は何とかなるだろうと考え、のんびり捜せば良いと思っていた。今は、少し東京見物を楽しみたかった。
 イクの興味を持ったものの1つに、地下鉄道があった。昭和2年12月に誕生した日本最初の東京地下鉄道は、上野と浅草の2.2qを走っていた。わずか5分足らずの区間ではあったが、物珍しさのため、わざわざ地下鉄道に乗る人が多かった。初日に10万人もの人々が集まり、大変な混雑ぶりだったと上野の旅館の女中に聞いていた。イクは、地下鉄道に乗ってみたかった。モダン都市・東京の新たなシンボルとしての地下鉄道はイクの心を捉えていたのである。東京に着いて上野の旅館に宿を取るとその日は旅の疲れもあってぐっすり眠った。翌日、イクは、地下鉄に乗る為、上野駅に行った。東京地下鉄道では、当時、他の各駅でも意匠を凝らしたデザインの出入口が設計されたが、上野駅の出入口も、一際モダンなデザインであった。曲線状の屋根を持つ出入り口にイクの目は惹きつけられた。恐る恐る地下鉄道に乗る為、地下に下りていった。10銭銅貨を改札に入れ、1人ずつ回しながら通ることができるターンシステムを設置したことも、人気を呼んでいた。地下鉄道は浅草の観音参りの足となり、東京の新名所となっている。イクも浅草へ行こうと、10銭銅貨を投入した。改札口の腕木が回転して通行できるこの自動改札でもたつきながら入った。入ってからもその装置が面白くて、次の人が入ってくる時もじっと見ていた。停車場には、多くの人が集まっていた。鋼鉄の車体は明るい黄色で、屋根はチョコレート色、車内はチーク調に木目柄で、座席は濃緑のモヘアでモダンなデザインであった。自動ドアや自動列車停止装置を装備し、1両編成で運行していた。この頃、東京で最も大きな繁華街は浅草であった。その浅草まで上野からあっという間であったが、イクは、地下を走る電車が珍しく多くの乗客に押されながらも文化の息吹を十分堪能できた。
 初めて浅草に着いて、イクは雷門の巨大な提灯にも驚いて大きな口をあけながら見ていた。浅草寺の正面にある雷門は、正式名称は風神雷神門と言う。向って右に風神像、左に雷神像がある。イクは、ここでも両方の彫刻の像をじっと暫く眺めていた。その後、イクは雷門から仲見世を多くの人々の間を人々にぶつかっては謝り、又、跳ね飛ばされてよろけながら宝蔵門をようやく潜った。小柄なイクは、人込みを歩くのはかなり無理だった。しかし、正面に観音で知られる浅草寺本堂までようやく辿り着いた。浅草は、神社仏閣、名所旧跡、いろいろな店などが数多く点在する独特な雰囲気をもった庶民の街である。映画の好きなイクは、大勝館やその隣の世界館など、多くの日本映画や西洋映画を上映していた。イクは、きょろきょろしながら10以上もある映画館を物色しながら歩いていた。奥の正面には12階の大きな建物がそびえているのもいかにも都会的で嬉しかった。イクは、新しい体験を楽しんでいた。
 結局、イクは題名に惹かれて常磐館に入った。藤森成吉原作の『何が彼女をそうさせたか』を見る事にした。ひとりの少女が悲劇的な運命を盲目的に受け入れるのではなく、時には激しく怒り、反撃する事が斬新で、当時、大評判であった。イクは、この少女に大きな共感を得た。私も世の中の習慣に反抗しながら、生きている事を誇りにさえ思っていた。
 イクは、毎日遊んでばかりいたわけではない。自分の生活の場所を定め、就職のため、時々、病院を訪れたりした。しかし、思うような仕事に就くことは出来なかった。お金は充分あっても、生活の糧を得る事のない生活は、やはり不安でもあった。何とか生活の基盤はキチンとしたかった。不況の東京には、イクが描いたような条件で仕事が出来る場所はなかなか見つからなかった。イクは、今まで貰った手紙やハガキを大事にしまって持ってきていた。困った時、その中から自分の生き方を決めるよすがにしていた。仕事の見つからないイクには時間が多くあった。遊ぶ時は良かったが、雨が降ったりすると、遊びに行く気にならず、ぼんやりと下宿している部屋で物思いにふける時間が多くなっていた。夏から秋へ季節が進もうとしていた。このままでは、本当にどうする事も出来ない。こんなに仕事が決まらないのは、予想外であると悩んだ。仕事が決まらないと、考え方まで暗く、やる気がなくなっていく。イクは働く事をやめようか等と考えるようになった。今までの大きな自信は益々薄れていった。時代が悪いとぼやきながら努力しても、仕事にありつけなかった。かといって、故郷の富山に帰るのも、嫌だった。親の決めた男と結婚して、あの恐ろしい出産を経験するなんて、イクには耐えられなかった。

 イクは、与謝野晶子に憧れていた。晶子の生き方を真似たいとずっと昔から考えていた。現代では女性の自立や女性の主張も当然認められている事であるが、昔は、自己主張する事は無理であった。だから、晶子のように、女性の立場で艶麗な官能や奔放な情感を表現したり、自分の感情のままに行動する事は、非常にセンセーショナルであった。女学校を卒業後、家事や家の商いを手伝いながら『源氏物語』等の文学作品を読んでいた。晶子は、明治34年、来阪した与謝野鉄幹と出合って、新詩社に加わり、翌年には鉄幹との結婚のため家を捨てる等、私生活に於ける彼女の生き方も作品と同じく情熱的で積極的であった。イクの行動と心の原点は、晶子の作品にあった。彼女の自由奔放な人生に憧れていたし、自分もそうありたかった。自分の生き方は、晶子の人生に重ね合わして晶子ならこの時どうするだろうか等と自問していた。世間に逆らう晶子の生き方を本当に理解していたかどうかは定かではない。しかし、晶子はイクの人生の大きな目標であった事は、確かであった。しかし、いくら1人で頑張っても仕事はなかなかなかった。東京での生活は、無理である事にイクは少しずつ自覚し始めていた。

 東京での生活に失望したイクは、今後、どのような生き方をしたら良いか分からずに悩んでいた。


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