明治から平成を駈けた女 第15章 

 昭和5年の暮、神戸市内に感冒が大流行した。

 日赤兵庫県支部看護婦外勤部からイクの手元に手紙が舞い込んだ。「流感のため赤十字会員の派遣が多忙である。そのため、日赤の看護婦経験者は、現在家庭にある人でも子供の居ない人は外勤部に協力をするように」という内容の手紙であった。イクの心は躍った。私には金沢で外勤の経験がある。それが今、生かせる。矢助の許可を取る必要がないと考えたが、形だけでも手紙を見せて有無を言わさず実行する事を矢助に宣言した。矢助はイクの行動について余り興味を示さなかった。そんな事にはお構いなしに、イクは喜び勇んで日赤兵庫県支部に向かった。
 日赤兵庫県支部は神戸赤十字病院に隣接していて、神戸市中央区の元町より山手側、県庁や兵庫県警のすぐ近くに位置していた。赤十字病院というと、大阪や京都のような巨大な総合病院をイメージされやすいのだが、この頃はそんなに大きな規模ではなかった。内科と外科があるくらいのこじんまりした病院であった。
 元町は、神戸開港とともに生まれ、明治の初期に居留していた多くの外国人の影響もあり、ハイカラで明るい街であった。しかし、今は不況の時代で生活に追われていたイクの目には、憧れていた神戸への夢は遥か彼方の夢のような現実味のない色あせた場所となっていた。かって感じた感動はすっかり消えて、何を見ても心が動かなかった。今でも流行っているカンカン帽を被っている男性の姿や、大正ロマンそのものの雰囲気が満ちている元町の建物等を見ても、不況の最中の街には生活苦のイクの目にはただ薄汚れた人や町にしか見えなかった。山手と海手側に東西に並んでいる商店街を通り過ぎながら、日赤の支部を目指して一心に歩くだけであった。
 イクは、手紙を持って外勤部に到着しすると共に、待ったなしに、すぐ訪問看護婦として派遣先に行くようにと命令を受けた。訪問看護は、看護婦が家庭訪問して、病気や障害のために支援が必要とされる人の看護を行う仕事である。主治医の治療方針やケアプランに沿って、他のサービスと連携しながら看護を行い、家庭で安心して療養生活が続けられるのが良いとされていた。イクの派遣先は、須磨市にある阿部という屋敷である。患者は急性肺炎の3歳の幼児であった。

 須磨は、江戸時代、幕府の直轄地であり、風光明媚な場所であった。松尾芭蕉をはじめ多くの文人墨客が訪れ、句や歌を残している。明治初期には廃藩置県によって兵庫県の一部となり、大正9年には激しい賛否の論争の末、神戸市と合併した。明治30年頃から、須磨の風光明媚で温暖な土地を愛した華族や財界人によって、西須磨の地に別荘が建てられた。鉄道の開通、第1次世界大戦による好景気によって、さらに別荘建築に拍車がかかった。その中の高級別荘の1つが、イクの目的の家である。須磨海岸は、静かであちこちには小魚が干してあった。時折、子供たちが現れて、その干した魚をひとつかみ口に入れたり、もうひとつかみをポケットに入れてたりしながら、走り回っていた。海からの風は、寒かったが、イクの心を和ましていた。
 イクが阿部氏の大邸宅の家に到着した時は、昼をかなり過ぎていた。大きな門を通って広い玄関先で案内を乞うた。まだ若い女中がイクの声に反応して奥から出てきた。
「今度、日赤から派遣された坂田イクと言う看護婦でございます。ご主人様か、奥様にお会いしたいのです。」イクは、門構えや玄関の豪華さや大きさに圧倒されながら、大きな声で話した。
「少々お待ちください。」イクの声に思わず微笑みながら若い女中は、奥に入った。
 イクは、最初はじっと大人しく玄関で待っていた。大きな玄関には、イクが見たこともないような立派な壷が飾られてあった。好奇心の強いイクはその壷が気になっていた。イクの身長よりも大きいので、壷の上の方を眺めたり、近づいて壷の表面を触ってみたりしてみた。少々待てと言った女中は、なかなか戻ってこなかった。待ち焦がれたイクは、玄関の中をうろうろと歩きながら、又、物珍しそうにあたりをきょろきょろしながら、家の奥を覗いてみたりした。どうしたのだろう、あの女中はちゃんと主人に私が来た事を話したのだろうか、それとも忘れてしまったのだろうか、と心配していた。しかし、イクの心配は、間もなく解消された。
「お待ちしてましたよ。」と、爽やかな声の初老の婦人が、イクの後方から突然現れた。家の奥を覗き込んでいたイクは吃驚して後ろを向いた。上品な初老の女性が、さっきの女中に箒を手渡してから襷を外しながら静かに近づいてきた。
「は、はい。私が日赤兵庫県支部看護婦外勤部から派遣されました坂田イクと申します。」玄関の上がりがまちに膝を突いて覗き込んでいたイクは、乱れた着物の裾にも気が付かず慌てて直立の姿勢をとった。その様子を見て、若い女中は、又、顔を綻ばせていた。
「そうですか。では、坂田さん、どうぞ此方へご一緒に。」と、イクの居た玄関の横のひと回り小さな、しかし、普通の家の玄関よりも大きな入口へ向かった。大きな木に囲まれていて、その入口は、目立たない所にあった。
「坂田さん、今度からは、この玄関から出入りしてください。」初老の上品な女性はきっぱりと言った。
「はい、分かりました。」イクは大きな声で応えた。
「詳しい事は、このハナが教えてくれます。後ほどゆっくりとお話しましょう。ハナ、坂田看護婦を私の部屋へ案内してくださいね。」ゆっくりと言いながら、奥の方へと消えていった。
「今の方が、奥様ですか。」イクは、その女主人に深々と頭を下げて見送りながら、ハナといわれた女中に向かってにっこりと笑みを浮かべながら聞いた。
「はい、あのお方が大奥様です。大奥様がお家の事を取り仕切っていらっしゃいます。」ハナと言われた女中は、今度は緊張した様子で応えた。それからイクに外から家に入る時はあの大きな玄関から入らないように、あの玄関は、重要な人しか入ってはならないのだと言うことを教えた。また、イクの履物の入れる所を指摘すると、大奥様の部屋まで連れて行った。広い廊下に幾つ部屋があるか分からないほど暫く歩いて大奥様の部屋に到着した。途中、イクは余りの広さと物珍しさのためにきょろきょろしながら歩いていたため、ハナから遅れるので、気の良いハナもうんざりの顔であった。一際大きな部屋の前に来た時、ハナは緊張した面持ちでイクをゆっくり観察しながら、髪を撫でて直すように、とか、もっと帯を上のほうに引っ張り上げるように仕草で教えた。イクは、すぐに理解できなかったが、ハナの優しい忠告と分かって髪を撫で、衣服を整えてハナの後に従った。
「只今、坂田看護婦をお連れしました。」ハナの澄んだ若々しい声が廊下に響いた。
「お入り・・・」大奥様のゆったりとした抑揚のない声が応えた。
「入ります。」と声を掛けたハナは、静かに戸を開けた。
「・・・・・・」イクは、何と言って入ったらよいのか分からなかったので、黙ったままハナの後から部屋の中に入った。部屋の中には、多くの調度品があり、どれも高価そうであった。イクが見たこともないようなものが多く、又、きょろきょろしそうで我慢しながら大奥様の方をじっと見つめていた。大奥様は、ハナを下がるように言って、イクと向かい合った。
「これが日赤兵庫県支部看護婦外勤部からの書類です。」イクは何枚かの書類の入った大きな紙袋を大奥様に直接手渡しながら言った。大奥様は、書類を読んでいる時、イクの目は、部屋の珍しい調度品に注がれていた。あれは何に使うのだろう、面白い物があるなあ、随分高価なもののように見える、これもとても綺麗だと目があちこちに散歩していた。
「坂田看護婦は、日赤の本社出身ではないのですね。」と、念を押すように大奥様は言った。
「はい、その通りです。」イクは、少しむくれながら言った。もっと、何か言いたかったけれども、それ以上の事は言わなかった。
「日赤で聞いていらっしたように、我が家の大事な跡取の正臣が、今3歳ですが、急性肺炎で寝込んでいます。主治医は、有名な小児科専門医の吉成博士でいらっしゃいます。吉成先生は、毎日午前9時には往診にいらっしゃいますので、その指示を受けて正臣の看護をお願いします。」大奥様の話は、それからも色々続いた。吉成医師は、神戸の中山手3丁目に開業している素晴らしい先生である事。いつも高級車で往診してもらっている事。大奥様の旦那様の阿部氏は日本郵船会社の常務をしている事。その上、工学博士である事等であった。その中でもイクの心に強い印象を残した大奥様の言葉があった。それは食事についての質問であった。
「副食品で嗜好物はありますか。又、食べ物で好き嫌いはありますか。」と聞かれたことであった。
「私には食べ物で好き嫌いは、全くありません。」とイクはきっぱり応えたのである。
「今までの使用人には、色々好き嫌いを言う人が多く、白身の刺身でなくてはなりません。とか、味は濃いとか薄いとか、等と言う人が多かったのですよ。あなたのように、何でも良いと言う人は、珍しいですね。」と感心された。イクは、共同生活における個人の嗜好も大事な事であると言うのを教えられた気がした。

 長い話が終わった。ハナはイクにあてがわれた部屋を案内した。その部屋へ行く途中、イクはハナから家族は、老夫婦と若夫婦、それに3歳の正臣と言う坊ちゃんの5人家族である事を聞かされた。その他の使用人は、女中がそれぞれの家族に1人ずつ付き添っている事。又、奥と台所、運転手にそれぞれ1人、合計8人の使用人が居ると言う。ご主人の阿部氏は朝5時には起床して、広い庭の掃除をするのが日課でもあるという。なぜこんなにも多くの使用人が居るのにお金持のご主人が庭の掃除をするのか、イクは分からなかった。訝しげな顔をしているイクの様子を見て、ハナは、健康のためだと言った。そう言われてもイクは、すぐに合点出来なかった。しかし、ハナは、そんな主人を自慢げにどんな日もこの日課を欠かした事はないのだと話した。
 イクは、よく考えてみると、自分の健康管理のため、毎朝早く起きて頑張るというまだ会っていない主人に何となく好感を持った。翌朝早朝、イクは広い庭を掃き清めているご主人の阿部氏の姿を見ることになったのである。
「ここが貴女の部屋ですよ。」ハナの言葉にイクはおずおずと暗い部屋に入った。そこは小さいけれども清潔に掃除が行き届いた部屋であった。窓のカーテンと観音開きのガラス戸と板戸を開けると、広い庭が見えた。
「うわあ、素敵な部屋ですねぇ。」イクは、思わず歓声を上げた。部屋の中にはベッドと小さな箪笥があるだけで、他に家具らしいものがなかったが、とても気に入った。無邪気に喜ぶイクの姿を見て、ハナは微笑んでいた。
「荷物を置いたら、次はお坊ちゃまのお部屋に参ります。この時間は、若奥様が、お坊ちゃまのご看護をなすっていらっしゃいます。」ハナの言葉にイクは自分の仕事を思い出した。あ、私はお坊ちゃまの看護に来たんだった。イクの心は、すぐ仕事への準備に取り掛かった。白衣を着て、帽子を被り、きりりと厳しい顔でハナに向かった。
「さあ、参ります。お坊ちゃまの所へ案内してください。」イクの向かう先は、病室という戦場であった。ハナは、それまでのイクの様子と違う有様に気持ちを引き締めながら、真剣な様子で大きく頷いた。
 又、長い廊下を通り、階段を登った。2階の奥まった部屋がお坊ちゃまの部屋であった。ハナが部屋の扉を静かにノックした。その音が小さかったので、イクは中の人に聞こえるかどうか心配するほどであった。しかし、扉はすぐに開かれた。正臣お坊ちゃまの部屋は、南向きの明るい大きな部屋であった。ドアを開けたのは、中年の女中であった。いつもドアの側に居るらしくノックと共に扉が開いた。子供用としては豪華で大きなベッドが部屋の真ん中にあり、そのベッドの横にお坊ちゃまの母親と思われる若い婦人がいた。正臣お坊ちゃまは、3歳児との事であったが、ベッドが大きすぎるためか、ベッドに居るようには見えなかった。イク達が入ってきても、その婦人はじっとベッドに目を向けたままであった。ドアを開けた中年の女中がふかふかの絨毯を滑るようにそっと歩いて、婦人の側に行くと、小声でイクの来訪を告げた。それを聞いても、婦人はイクの方をすぐには見ることなく、暫くベッドを覗き込んでいた。考え事をしているようでもあり、又、放心しているかのようでもあった。数分経って、ゆっくりとイクの方を見た。その顔は、青ざめていた。きちんと化粧をしていた為か、映画の中の女優のように美しかった。イクは、黙って頭を下げた。それを見た女優のような人も、又、小声で何か言ったようだった。そして、小指を立てながら額に手を当てると、暫く考えていた。その仕草は、何か映画で見たようだとイクの記憶がゆっくりと動き出した。しかし、何の映画だったか思い出す前に、中年の女中がイク達を隣の部屋へ連れて行った。
 隣の部屋も広く心地良い部屋であった。暖炉は赤々と石炭が焚かれて春の陽気のような部屋であった。こんな所で働いている女中達をイクは羨ましかった。外は冬のためいくら太陽が出ていても暖かさはない。窓から見える外の庭の木々も寒そうだ。部屋にある調度品も素晴らしいものが揃えてあった。ゆったりとした長椅子、大きくどっしりとした机、ぎっしりと詰まった書物棚、床はふかふかの絨毯、天井には豪華なシャンデリア、どれもイクは初めて目にするものが多く好奇心の目できょろきょろ眺め渡していた。昼からシャンデリアに電気がつけられて光り輝いていた。これだけでもイクの心は圧倒されていた。その上、書物棚の本には、金文字で横文字の英語のスペルが書いてあり、本が好きなイクの心を惹きつけた。先ほどの中年の女中が側に居なかったら、イクは書物棚の本や調度品を手に触って確かめていただろう。しかし、イクのそんな気持ちを知っているかのように中年の女中は、難しい顔をしながら硬い表情でイクの側から離れずに、じっと視線を水平に空中の1点に固定していた。イクも真似をしながら身体は固定して、目だけはあちこちに浮遊させていた。見ているだけでも楽しく、待つ時間は苦にならなかった。若奥様はなかなか現れなかった。
 どんな暇な奥様でも雇い人を待たせるのが、金持のステータスと思っているのだろう。イクが若奥様に直接会って話かけて貰うのに時間が必要だった。先ほど病室で見た若奥様は、雰囲気を変えて登場したのは、随分経っていた。最初、イクは若奥様と分からなかったのは、衣装を替えてきたからである。一瞬、別人だと思った。若奥様は華やいだ若い女性になっていた。
「若奥様がいらっしゃいました。頭を下げてください。」中年の女中の言葉に、その美しい華やかさに見惚れていたイクは反射的に頭を下げた。ゆったりと足音も立てず部屋に入ってきた若奥様は、優雅に大きな背凭れ椅子に座った。この椅子もこの部屋の中で最も豪華な彫刻や装飾が施されていた。又、若奥様は素晴らしい椅子と不思議な調和と雰囲気を醸し出していた。まるで一幅の絵画のようであった。
「正臣の事、よろしく。」暫く若奥様は、絵画の中に浸った後、小さな声でイクに声を掛けると「松、詳しい事を教えてやってください。」と中年の女中に命じただけで姿を消した。これだけのために衣装を替え、イクを待たせたのだった。
 イクはこの女中が松と言う名前であることを知って、松の方を見た。松は若奥様が消えた扉の方を頭を下げたままで、暫く微動だにしなかった。
「若奥様は、もう部屋にはいらっしゃいませんよ。」とイクはその姿が可笑しかったので笑いを堪えながら松に言った。松は、きっとした目をしながら、イクを睨みつけながら厳しい声で言った。
「ご主人様のご家族の方のどなたにも、お部屋から出られても暫くは頭を下げて置くように。」イクは暫く唖然としたが、特に何も言わなかった。何か言ってもこの松と言う女中は受け入れるはずもないことはイクにも分かったからである。その後、松の容赦のない厳しい注文が次から次へとイクに押し付けられた。その中でも特にイクの気持ちに引っかかったのが、看護婦と言う職業は、女中に準じているらしいという話であった。それを松は遠まわしに言い、勝手な振る舞いをしないように、すべて大奥様の意向を聞いてから、と言うことを繰り返し述べていた。イクは、松の話を聞きながら、この阿部邸での仕事は前途多難である事に少しずつ感じた。しかし、今は、どうしても仕事が欲しかった。生活が緊迫していたからである。

 イクは、外勤看護の難しさとその家庭での看護婦の立場の弱さを痛感した。

 看護婦の中には、上流家庭に派遣されて看護を行うものが多かった。需要は高く、派遣看護婦として社会の信頼を得ていたが、裕福な人々の身分として女中とともに看護婦も求められていた時代であった。明治24年、日本で初めての派遣看護婦会が、当時は派出看護婦会と言うのだが、出来た。当時最高の技術を持った看護婦が家庭や病院に派出した。派出サービスには、等級が設けられて、最高等級の看護婦は、1日最高70銭であった。病院勤めの看護婦の日給が5銭、どんなに良くても17銭と言われていたので、1日70銭の日当は大きな魅力であった。
 派遣看護婦は、家族とともに病人のための治療と健康に向かって努力するための環境作り等、さまざまな疾病や障害とあらゆる健康問題に関わるものである。また、高度な医療に対応する看護技術から人間の日常生活に関連する生活援助技術の提供、相談指導及び健康教育・管理までをも広く包含するものである。特に看護婦と言う職業は、軍人と同様、国を守るように人間の命を守るものと言う自負が大きかった。だから、イクの思いは誰にも負けなかったし、単なる女中と同じと言う松に対して、心は穏やかではなかった。
 イクは、看護婦としての心構えは、職業意識の誇りと共に、大きな自信を持っていた。すべて私にお任せくださいという気持ちで松の後に従いながら病人の看護に向かった。正臣お坊ちゃまは小さくてとても3歳の子供見えず、うっかりするとまだ乳児と間違えそうである。
 イクは、それから看護婦としての仕事を始めた。時間を確認して体温計で熱を測って記録をしたり、病室の空気が乾燥しすぎていないか、いつでも熱を下げるための手拭を氷水を入れた洗面器に入れたり、汗をかきすぎて下着が汗でぬれていないかをチェックした。仕事は多くあった。しかし、殆どは充分すぎるほど用意されてあった。
 イクが来てから1週間ほどで患者の熱も平熱になり、この調子だとイクはここではもう用事はなくなるだろうと覚悟し、いつお暇するか、いつ帰っても良いといわれるかと考えていた。

 イクはベッドから夜明け前の空が見たくて観音開きの窓を開けた。この時空は曇っていた。その後、空は徐々に明るくなり、起きて顔を洗おうと洗面所に行った時には青空が少し見え始めていた。昭和5年も間もなく終わろうとていた。庭の木々の葉がすっかり落ち、綺麗に掃き清められた庭には、透明な大気がゆっくりと木々の間を散歩していた。人気のない庭の空気に触ってみたくなって窓を少し開いた。やはり朝の空気はガラスのように張りつめていて、イクの洗面途中の手を鋭く突き刺すようだった。天邪鬼なイクは、暫く窓を開けたまま空を眺め、透明な空気に刺されながら朝のひとときを楽しんでた。
 まだ午前7時になっていない。昨夜も真夜中もお坊ちゃまの熱は、体温36度で平熱であった。もうすっかり大丈夫だと言うことがイクの心を明るくしていた。そろそろ朝食前の検温にいかなくてはならないと考えて、窓の戸を閉めようとした時に、玄関の方から車の音が聞こえてきた。車の音は、神戸からいつも診察に来る主治医の吉成博士のものであることをイクはすぐに理解できた。その事に驚いてお坊ちゃまの病室に飛んでいった。なぜ博士が来たのか、訳が分からなかった。
 若奥様が子供のベットの側に立っていた。
「子供が高熱で苦しんでいます。」と相変わらず女優のような顔で素晴らしい高級なドレスを着て眉を顰めながら言う。
「……」吉成博士は何も言わず、聴診器をお坊ちゃまの胸に当てていた。
「昨夜の9時と真夜中の3時に私が検査した時には、全く異常はありませんでした。」とイクは言った。しかし、測定の間違いだったかもしれないと考えて、再度検査した。しかし、36度。前回の時と変わらない。
「湯たんぽの横にでも落ちていたのではないでしょうか。」とイクが吉成博士に言ったが、
「……」博士はやはり何も言わなかった。
「せめて先生の診断を聞かせていただけませんか。」イクは責任を感じて、繰り返し強く迫ったが、返事の言葉は一つもなかった。
 家族の不安な気持ちにも博士は、やはり一言の弁もなく帰っていった。かなりご機嫌を悪くしているようであった。確かに朝早くに叩き起こされて、神戸から車を飛ばしてすっ飛んできたら全く病が平穏で急変したわけでもない。金持の我儘に付き合わされていい加減うんざりしているのかもしれない。しかし、このような態度ではいくら医者が偉いと言っても許されるはずはない。せめて専門の看護婦にきちんと説明しても良いのではなかろうか、と思った。家族は病に対しては素人であるのだから、仕方がない。若奥様も若奥様である。高いお金をかけて看護婦を雇っているのなら、その看護婦に相談すべきであろうのに。この若奥様は、女中に話し掛けるようで看護婦とは話したくないと言うつもりなのだろうか。色々考えていると、イクの心は、不快な気持ちで一杯になった。
 いくら有名な開業医でも、又、社会的に地位の高い家庭にしても人間として許せる問題ではないと考えた。総合病院での患者に対する医師と看護婦は、常に仕事について連絡は密で、このように看護婦に一言もない医師ということは、考えられなかったのである。こんな仕打ちを受けたイクはこんな所に外勤の特異性を感じた。
 若奥様の独断の電話で医者を呼んだのは、看護婦であるイクを決して信用している訳ではないと言うことだ。又、大切な家族の看護を願うのであればその看護婦を信用し家族共々協力して看護にあたらなければならないのではないか。そう言えば、イクがここに来る時、幾人かの看護婦が依頼を受けて派遣された看護婦が途中で帰会したという話を思い出した。それがこのような問題なのかもしれないとイクは合点した。そこまで考えた時、イクは、この阿部邸に留まる気持ちはなくなった。辞めるのは今だとイクは決断した。いつものようにイクの行動は早かった。
 朝御飯を終えると、イクは荷物を片付け、来た時と同じ服装になると、大奥様にお目通りを願い出た。松は、勝手に決断と行動をするイクに驚いた。批判の目で松はイクを睨んだ。自分から大奥様に面接を申し込むイクの行動を許しがたいと考えたからだ。しかし、イクの只ならぬ様子に押されるように、大奥様との面談を取り付けてくれた。
「何事ですか。朝、早くから」大奥様はイクの様子を見ながら、何かあると感じたらしく訝しげに聞いた。
「ハイ、お坊ちゃまのお熱も下がり、お元気になられました。私の仕事は、終わりましたので、帰らせていただきます。」言いたい事は、多くあったが、イクは敢えて言わなかった。
「今朝の事は、分かっておりますよ。」大奥様は、静かに微笑みながら言った。
「若奥様は、子供の事になると、何も分からなくなってしまうので、さぞ、貴女も驚いたことでしょうね。」
「私は、……。」イクは言葉に詰まった。ここまで理解してくれていると思うと、もう何も言うことはないと覚悟した。そして、
「確かに……。しかし、私がやる仕事はなくなりました。お坊ちゃまは、すっかりお元気でいらっしゃいます。」イクは、大奥様に微笑を返しながら、きっぱりと言った。
「それはそれ。で、もう少し、他の人の健康の事もありますので、もう少し、のんびりとここに居て欲しいのですよ。」大奥様の優しい言葉であった。イクの心に暖かい空気が動きはじめたので、その言葉に従いたくなった。しかし、患者は全快したので、看護者の必要がなくなった事を思い出した。
「大奥様のお言葉はとても嬉しく思いますが、私の仕事は終わったと思います。これ以上、こちらで私の仕事はないように思いますので、今日限りでお暇させていただきます。」もう少し、この大奥様の側に居たいような気持ちであったが、看護婦は女中に順ずると言う松の言葉を思い出し、又、若奥様の不愉快な行動に耐えられないと感じたイクは、きっぱりと断った。
 イクの頑なな様子に大奥様も何か感じたのであろう。それ以上の言葉はなかった。少し待たせられたイクは大奥様から過分な気持ちをお金で表現してもらった。お金のための仕事であったため、イクは非常に喜んだ。病院の中であったら、決してもらってはいけないお礼であったが、今日は気持ち良く貰って帰ることにした。すぐに中身を見たかったが、心を鬼にして懐にしっかりねじ込んで退室した。心も身体もすっかり温かくなったのは、大奥様の部屋の暖房のせいばかりではなかった。これで少しは生活がしのげると言うイクの安堵の気持ちが大きかった。
 1週間前の須磨の穏やかな海と違って、今日の海岸は荒れていた。どこにも子供の姿はなく、魚も干している様子はなかった。強い風と暗い海原、三角波が海の機嫌の悪さを表していた。時折、砂を伴った強い風がイクの着物の裾や袂を引っ張っていた。イクは別珍の襟巻きをしっかり握り、それに顔をうずめながら足元を見つめながら歩いていた。やはり暖かい外套を買いたいと思いながら、腰に入れたカイロの暖かさをなぞっていた。お礼のお金で買えると良いなあ、いくら入っているのだろう。後でがっかりするかもしれないが、わからない方が色々考えられて楽しい。イクはあれもこれも買おう等と思いながら急ぎ足で駅に向かった。

 外勤部に寄ってから家に帰ると、すっかり夜になっていた。久しぶりに帰ったイクは、思ったより多い大奥様の心付けで、気を良くしてすき焼にしようと材料を抱えていた。その様子を見ても、矢助は相変わらず興味のない顔でお帰りとも言わず、酒を飲んでいた。イクはそんな矢助を横目で見ながら、すき焼の準備をしていた。美味しい夕餉の香りはイクばかりか、矢助すら心和ませたようである。
「美味しそうな匂いだ。どうしてこんなご馳走なんだ。」決してイクと口をきくまいとしていた矢助は、食べ物に釣られてつい口を開いた。1週間ぶりに帰ってきたイクに対して労うと言う気持ちもなくても本能には叶わなかったのであろう。
「大奥様の心付けが思ったよりも多く戴いたので、思い切って大ご馳走することにしたんですよ。」イクも大好きなお肉の香りで強い空腹感を感じながら、今日だけは矢助と楽しい食事が出来そうで嬉しかった。
「それは良かった。こんな美味しいご馳走なら、酒も美味しく飲めると言うもんだ。」自分の言葉に矢助は、少し照れながら、イクの食事の支度を手伝っていた。イクは、初めて矢助の優しさに触れたようで心が和んでいった。
 冬の夜の空は冷たく寂しかったが、今、イクはこうして少しずつ他人同士が、心を寄せ合うようになっていくのかな、と思っていた。決してお互い好きで一緒になったわけでもなく、下手をすると矢助をイクの我儘と勝手な行動で傷つけたのかもしれないが、イクの生きる道は、この方法しかなかったから仕方がないんだと時々言い訳をしながら、しかし、矢助には申し訳ないという考えはなかった。
 その夜のすき焼の美味しさは、イク共々矢助も暫く忘れる事がないほどであった。

 翌日、イクは日赤外勤部からの電報を受け取った。

 何事かとイクは驚いて日赤外勤部に出かけた。引き続き須磨の派遣を依頼されたのである。外勤部にイクを家庭看護婦として勤務してもらいたいとの話が阿部邸からあったという。イクは、はっきり理由を言って断ったが、今度は別の問題だと言う。多くの心付けを大奥様から戴いたイクは、無下に断れなかった。
 聞く所によると、ご主人の慢性疾患だと言う。イクは一週間阿部邸に居た時、気になった事があった。大奥様や女中達のひどい貧血症状である。このような健康状態では、この家庭での看護に従事する心になれずそのまま苦しい理由をつけて断った。これで外勤部の協力も終わったと思った。もう仕事は来ないだろうと考えた。
 しかし、外勤部から須磨の阿部邸より再三の電話連絡があり、外勤部では困惑しているとの事であった。イクを家庭看護婦としてどうしても勤めてもらいたいと言うのである。イクは、私には家庭があり、それは出来ないと言うと、住み込みが出来なければ、通勤でも良いからと強く要望された。イクの心は、どんなに要請させても前回の仕打ちが頭からはなれず、快く引き受ける気にはならなかった。そこで、外勤部では、イクに直接阿部邸へ行ってもらい、そこできちんと断ってきて欲しいと依頼されたのであった。ここまでイクを要請する阿部邸の人々への気持ちを汲んで、イクがきちんと話せばわかってもらえると言う気持ちとひょっとしてイクがその気になって勤める気になるかもしれないと言う外勤部と阿部邸の大奥様の思いがあった。頑固なイクは、そんな人々の思いのままになるはずがなかった。

 海と山に挟まれた細長い神戸の街を汽車は走っていた。神戸駅から須磨駅まではそんなに時間がかからず、海のすぐそばを走る。立ち並んでいる町工場を過ぎると、突然視界が広がって海が見える。暮れも迫った昼下がり、汽車の窓からさす暖かい陽射しを頬に浴び、汽車に揺れながらイクはどうしても阿部邸での看護の仕事を引き受ける事は出来ないと考えていた。静かな、冬の海はどこまでも広がっていた。須磨駅を降りて、遠くに並んでいる洋館に目をやり、イクは阿部邸に向かいながら、断るための言い訳をあれこれと考えていた。イクは、前回教えられた玄関から案内を乞うた。ハナが現れて、懐かしそうに微笑んだ。
「大奥様に呼ばれてまいりました。取り次いでください。」イクはハナに微笑みながら言った。ハナは大奥様に急いで取り次ぐために姿を消したが、今日はすぐに戻ってきた。
「大奥様がお待ちですよ。会えて嬉しいです。また、暫くここに居てくださるのでしょう。」ハナの天真爛漫な言葉は、イクの心に優しさを与えた。
「いいえ。残念ですが、私はお断りに来たのです。」イクはハナに何となく後ろめたさを感じながら言った。
「まあ、大奥様はがっかりなさると思いますよ。坂田さんが来てくださると良いとあの後も言ってらっしゃいましたから。」本当にがっかりしたようにハナが言う。
「確かに前に来た時は、色々とありましたから……。」何となく誤魔化しながらイクは長い廊下を歩きながら言った。
「大奥様は坂田さんが、また、勤めてくださると喜ばれると思います。」また、同じ事を言うハナの話にイクは困っていた。今日は大奥様に会って、どうしてもきちんと断らなければならない。
「坂田さんをお連れしました。」ハナの言葉にイクは少し緊張しながら部屋に入った。
「相変わらず、頑固に頑張って、私の申し出を断っているようですね。」大奥様の声は優しかったが、イクには心をちくりとさすものがあった。
「申し訳ありません。今日は、どうしても大奥様にお断りしようとやって参りました。」イクは、素直なはっきりとした声で応えた。
「何が原因でそんな風に言うのか分かりませんが、最後にお聞きします。是非、我が家の看護婦になって頂きたいと思っています。あなたが言う条件でしたら、どんな条件でも此方には受け入れる積りです。」と大奥様の言葉である。
「大奥様の条件は勿体無いくらいです。しかし、私には主人が居りますので、家庭を守らなければなりません。はやり、私はこのままここでお勤めすることは主人に叱られます。」と、イクは少し嘘をついた。
「それならば、貴女のご主人もご一緒に来て頂いて、旦那様にお願いして日本郵船の会社に入ってもらいましょう。それで如何ですか。」大奥様の条件はイクにとって大きな魅力であった。高井矢助の報酬も今貰っている給料の倍を出すという。思わずイクは、承諾しそうになった。
「大奥様の条件は、泪が出るほど嬉しく思いますが、私には病院での看護婦の方が性に合っていると思っていますので、どうぞ、お許しください。」イクは頑として大奥様の条件を飲まずに断った。
「どうしたら、貴女が我が家にきてくれるのでしょう。」大奥様は深い溜息をついた。
「勿体無い話で、私ごときに。本当に申し訳ありません。」本当のことは言えないと思っていたイクは、最後までこの良い条件を突っぱねた。どんなに良い条件であっても、松の言った言葉がイクの心に深く突き刺さっていたからであった。

 後に、イクは要請されるまま、阿部邸の一員になっていたら、須磨に住居を構えていただろう。そして、イクの人生も大きく変わっていただろうと思う事があった。須磨は戦災に免れていたからである。戦災に遭った神戸の生活が、親子4人の人生を大きく変化させ、イクの人生も苦労が絶えなかったからである。


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