明治から平成を駈けた女 第17章 

 

 2時間後、イクは負傷兵の塩井上等兵を迎えに行った。

 塩井上等兵は、その家の門の中ではあったが、玄関先に居た。塩井は元気がなく無言で、只、イクに黙って頭を下げた。イクの介添えを受けながら塩井が車に乗っても、その家からは、誰も出てこなかった。イクは、家の人に挨拶をしようとしたが、塩井は、厳しい目で断った。塩井はひどく落ち込んでいた。詳しい事は分からなかったが、その落胆振りを見るのは忍びなかった。
 イクは、唇を一文字に結びながら、慰めの言葉を失っていた。いや、いい加減な言葉を出すのは、かえって心を傷つけるという事位、分かっていた。2人は、黙って車を病院に走らせていた。
 病院に着いて、塩井はイクに深々と頭を下げ、ベットに横たわった。イクは訳が分からなかったが、蒲団の上から軽く手を当てると黙って離れた。手術を終えた倉石軍医が、イクの顔を見ながらどうだったと言うように無言で聞いた。イクは、言葉にはしないで黙って首を横に振った。
 イクは、何度か倉石軍医に話を聞こうかとも思ったが、黙っていた。本当の事を言ってイクは、塩井の行動について何も分っていなかった。手足の切断に至る原因も聞いていないし、手術の経緯も何の為に今日出かけて行ったのか、なぜこのようにひどく落胆しているのか、分からなかった。又、特に安静であるべき術後の大事な静養を無視して出かけていかなければならない程の重要な用事も分からなかった。只、倉石軍医がすべての事を合点していてイクに行かせた事だけが分かっていた。倉石軍医に詳しい話を聞きたかったが、聞けずにその日が終わった。

 清々しい晴れた朝なのに、何かすっきりしない気持ちをイクは持て余していた。
「塩井上等兵のような患者には、体の一部を失う喪失感に加え、先が見えない病気や生活への不安もあり、患者の精神的な重圧は大きいものがあるもんだ。」と、翌日の朝の打ち合わせが済んだ時、倉石軍医はイクに言った。「塩井上等兵の病気を深刻にとらえないで、普通のように生活指導をしてやって欲しい。」
「……」イクは、すぐに返事が出るほどの外科の臨床的経験を積んでいなかった。
「入院中の患者にとって、看護婦の存在は大きな励ましになるもんなんだよ。」倉石軍医は、イクに身体の一部を失った患者への看護について話した。「患者にとって現在の状況は大変辛いが、手足を失った患者はその辛さを克服した分、将来、精神的に強くなれるはずだ。だから、今がとても大切な時期と考えて看護してやって欲しい。プラスの方向に行くように考えて行動するように……。」
「……」イクは、益々、返事ができなかった。できなかったというより、どうしてよいか分からず戸惑っていた。
「両足切断後の生活は、医師では伝えきれない患者の気持ちを看護婦がきめ細かに考えてやってもらいたいという事だよ。余り深刻に考え込まない事が重要なんだ。でも、高井看護婦ならきっと出来るよ。」倉石軍医は最後にポツリと呟いた。「手足を失った人を自然に受け入れる社会環境も必要だなあ。」
 イクの活躍が始まった。詳しい事は分からなかったが、イクはそんな事よりも倉石軍医にきっと出来るといわれた事が大きな励みになり、何とかして深く落ち込んで生きる力を無くした塩井を支えたかった。支える等と言う思い上がりではなく、少しでも力になれる事があったらと考えていた。

 朝、あんなに綺麗に晴れていたのに、夕方になると今にも土砂降りの雨が来そうであった。イクは、いつものように空を見上げながら、蒸し暑い病室の空気を考えて少し外の風でも入るようにと窓の戸を少しあけておいた。きっと来ると思ったように、間もなく激しい雨が降り始めた。窓のカーテンが、風に遊ばれながら窓ガラスをハタハタと叩いていた。少し開けてあった窓の戸を急いで閉めた。イクは、蒸し暑い夏の夜を患者達に少しでも気持ち良く過ごしてもらうための方法を考えていた。扇風機が足りないので、氷枕でも持って来ようか、等と考えていた。
 氷枕を抱えながら塩井達の病室の前に来た時、一人の若い女が立っていた。イクは、その女の横を通って病室に入り、塩井達の頭の下にそれを差し込んで部屋を出ようとした。入れ替えにその若い女が静かに部屋に入った。

 その若い女の熱い想いが部屋に広がっていた。

 暫くイクは躊躇った後、病室を後にした。気になったが、忙しさもあって他の事に気が取られ、そのうちに塩井の事が意識から離れた。どれだけの時が経っていたのだろうか。他の看護婦が、イクに声をひそめながら塩井の病室を指差して行けと言った。何事があったのだろうか。イクは塩井の病室に急いだ。入口で足が止まった。病室に入ろうとした時、若い女の声が耳に入った。
「二人で将来を見つめて進みたいのです。」思いつめた女の声が入口にまで聞こえてきた。他の患者達は、遠慮して部屋を出たらしく塩井以外のベットには誰も居なかった。「どんな言葉で話せば貴方の心に届くのでしょうか。どうして私は何もできないのでしょうか。貴方のために何かしたいのです。その力を、私の力を受け止めてください。」
「僕は貴方を幸せに出来ない。こんな身体だから無理だと何度も言っているだろう。」ふて腐れたような、だが、少し甘えたような塩井の声が聞こえた。「こんな身体になって生きていたくなかったんだ。」
「何をおっしゃるの。どんな身体になっても生きていて下さって、私は感謝しているのです。だから、そんな悲しい事は言わないで下さい。」女の声は切々として訴えていた。「もし、貴方がなくなってらしたら、私は生きていかれない。」
「……」暫く二人の声は、途切れた。イクの足は、病室の入口から動けなくなっていた。雨は止む事なくまだ激しく窓を叩いていた。風も収まりそうにもなかった。真夏の天気は気まぐれだ。しかし、イクは風や雨の音にも気がつかず、二人の様子に心を奪われていた。
「約束したでしょう。貴方のお帰りをいつまでも待っていると……」大分経って女の声がした。すがるように切ない思いの声であった。「怪我をしようが、手足が無くなろうが、貴方は貴方なんです。貴方と一緒に苦労をしたいのです。貴方さえ生きていてくだされば、どんな苦労も頑張れます。」
「僕は君のご両親と約束しました。君とは二度と会わないと……」低いがきりりとした塩井の声がした。「だから、君はここへ来てはいけない。」
「いいえ、親が何と言おうとも私は……私の人生は、私が決めるのです。親のための人生ではないのですから……」女の声は爽やかで決意のあられたきっぱりした声であった。「どんな事があっても、私には貴方でなくては駄目なのです。」
 イクはようやく事情が分りかけてきた。病室の中は薄暗くなってきたが、二人の様子は明るく、イクの心を晴れやかにした。足音を忍ばせながら、塩井の病室を離れた。

 塩井が少しずつ心を開いて、イクに話をするようになった。満州で負傷したときの様子を話してくれた。爆弾が目の前で破裂して気を失っていた事。他の兵に声を掛けられて気がついた事など。
「何がなんだか分からなかった。立とうとしたが立てなかったので、右の足を見ると、骨が飛び出ていた。左の足を見ると、足首から先がなくなっていた。」淡々と塩井は語った。「周りの兵達が、近くの木を足に括りつけて野戦病院に運び込んでくれた。」
「……」イクは息をつめて聞いていた。
「軍医が両足を切断すると言われた時、目の前が真っ暗になりました。しかし、切った後も、感染したので大急ぎで内地へ送られ、この病院でもう一度両足切断ですよ。」と、思い出すようにしんみりと言った。
「でもそれで生き返ったのですものね。」イクは、優しく微笑みながら言った。「あの方のためにも頑張ってくださらなくてはね。」
「余りからかわないで下さい。」塩井は、少しはにかみながら言った。「まだ両親の許可を貰っていないのですから……」
「ここまで来ると、もう大丈夫ですよ。」とイクは、安心させようと自信有り気に満面の笑顔で言った。「女の人は、男の人が考えているほど気が弱くありません。一度決心すると、それはそれは心強いものなんです。」

 見舞いに来る恋人は、最善を尽くした後の行動と思ったためか、にこやかであった。明るく積極的に一緒に生きようと塩井に色んな意味で気合いを入れるため毎日現れた。
 運とは出会いである。人生の旅で多くの運に恵まれる事は、多くの人との関わりを持つことであろう。イクはその関わりを大切にした。今のイクがあるのも、その運であり、関わりである。この2人の恋人の出会いも、運命であると思った。だから、イクは塩井に女の気持ちを大切にするようにと話した。出会いを大切にすべきだと説得した。人生の旅は止める事も立ち止まる事もできない。長い人生で出会った運を大切にするべきだと諭した。イクはまだ26歳であったが、この頃の26歳は充分分別をわきまえた大人として認められていた。その大人の話に20歳を過ぎたばかりの塩井は素直に話を受け入れていた。
 イクは、普通に生きる事を好まなかったが、この時代の女達は、男に頼り男に寄生するしか仕方の無い時代であった。そんな女でも、自分の事より相手のことに一生懸命になると強くなる。相手が、恋人であれ、夫であれ、子供であれ、ここぞと決心すると、夢中になって自分の身を粉にして働くものなのだ。

 昭和3年に済南事件が起こった。この事件を契機に、中国の政策は日本非難への政策に変わってきた。中国の排外運動の主要目標が、従来の英国から日本に移ったのは、この時からだという。この事件は、中国の国民党と共産党の戦いの中で、国民革命軍が山東省済南市に入城した時、国民革命軍の兵士が日本人の経営する商店で略奪行為を行った。治安に当たっていた日本軍と衝突が起こり、日本軍の戦死者が9名、負傷者が32名出た。そして、日本人居留民の惨殺が14名、暴行侮辱が30名余りあって、又、被害戸数は136戸に登り、被害者約400名であったという。こればかりでなく、その他、日本守備隊の10数名が中国軍によって不法拘留される事件などが起こっていた。そして、この年には関東軍や在満日本人の間では、張作霖がだんだん日本に対して尊大になってきたことに不満が鬱積し、張が北京を国民党軍に明け渡して帰る途中、列車を爆破して殺した。
 昭和4年には、中国保安隊に日本兵が射殺され2名死亡、2名重傷を負う等の事件が起こり、昭和5年になると、長沙の日本領事館や日本人家屋の焼失、商店、病院、日本人小学校などの略奪や、商社倉庫や海軍宿舎なども襲撃されていた。共産軍による長沙市での被害総額は7000万ドルを超えたとも言われている。この被害は、現在の貨幣価値にすれば約2000億円近くに相当するそうだ。
 その後、昭和6年になると、商社や商店、また個人が受けた略奪、暴行被害数は200件を超えた。通学児童に対する妨害ないし悪戯は700件に達し、第1次上海事変が起こるという緊迫した状況が生じていた。日本と中国との関係は、益々悪化していた。


 昭和6年、夏もたけなわの太陽が空高くで輝いている日であった。

 磊落な倉石軍医が、珍しく静かだった。イクは、珍しいものだと思い、冷たい麦茶を軍医の机の前にそっと置いた。
「ああ、有難う」少し投げやりな様子なので、イクは思わず「どうなさったんですか。」と声をかけた。
「僕は、医者の仕事は、病気を治すことだと考えていた。しかし、そうではないのかもしれないね。」倉石軍医は、イクに向かって言った。「確かに医者の仕事は、病気を治すだけが仕事と考えている人間が多い。かく言う自分も、そんな医者が理想で、自分もそうありたいと考えていた。しかし、全部の患者を治す事は不可能だ。もし、そんな医者がいたら、その医者は神になるのだろうね。」
「倉石先生は、素晴らしいお医者様です。私は尊敬しております。」イクは、何とかいつもの陽気な軍医になって欲しくて言った。「どんな重症の患者でも、先生の手にかかると良くなっているではありませんか。」
「しかし、多くの患者を切ったり貼ったりして、自分はいつも死と直面しているから、死ぬ事を否定してきた。患者の死は私にとって敗北を意味していた。ところが、最近、死について否定するばかりではない。もっと死について考えてみる事も必要と思うようになったんだ。死って何だろう。死んだら終わりなのかなってね。多くの死を見つめてきて、最近、気が付いた事があるんだ。それは、医者の仕事は、病気を治すことだけではなく、死について患者と一緒に考え、死は必ず来ると言う自然の条理を納得させる、すなわち、死を静かに受け入れさせる事も大切な医者の仕事なのかもしれないと思うようになったんだよ。」
「でも、穏やかな心で死を迎える人は本当にいるのでしょうか。」イクは聞いた。「もし、私が間もなく死ぬと言われたり、決して治らない病気だと言われたりしたら、きっと気が狂ってしまうかもしれません。」
「いや、死ぬ方が幸せな人間も居るのかも知れないよ。」倉石軍医の声は暗かった。
 青い空が窓から見えた。イクはその空の青さに心ひかれた。イクは、どのように言葉を出して良いか分からなかったので、黙って目を空に向けていた。
「野戦病院では、傷病兵を3日間で治療を済ませ、戦場に戻れるようにする。しかし、症状の重い傷病兵は内地に送られてくる。この病院でもそのような患者を受け入れ、治療している。ここに送られてきた時には、全員治療できる状態にあるわけではない。すなわち、治る可能性のある兵隊は少ない。治療を受けた兵隊のほとんどは、最終的には何かしらの後遺症を持ち、生きていくためには、多くの困難がある。塩井上等兵のように支えてくれる人間がいなければ、生きることも困難な人間がいかに多いことか。」苦しげな倉石軍医の言葉であった。「こんな状況では、本当に治療の意味があるのかと、時々、不安になるんだ。」
「……」イクは言葉は出なかった。倉石軍医は、心の中をすっきりさせたいかのように珍しく饒舌だった。
「私の考えとして、医者は病気を見るもので、人間を見てはいけないと思っていた。医者は、患者を助ける事、治療する事が仕事だと考え、すべて医療に関する事は医者が中心に考え、医者は患者に命令し、医者の言う事を患者が素直に聞く事が大切だとと思っていた。しかし、患者自身が治ろうとする事が重要で、医者は単に患者の協力者に過ぎない事に気がついたんだ。この患者は、もう助からない、死ぬのだという事実が分かった時、その真実を告げる事によって患者の何が変わるのだろうか。どんな意味があるのだろうか、分からない。」
「自分は、患者の家族に貴方の父親は、何日ぐらいしか生きておれない。とか、息子は決して元には戻れないという事を何も考えずに宣告してきた。真実を告げる事が重要だと思っていた。真実を告げる事によって起こる状況や相手の気持ちなど考えた事もなかった。」
「自分は、彼ら患者の家族には、なるべく関わりたくない。生きるか死ぬかは、自分には関係ない事だ。のめり込んだら、何も見えなくなる。自分は他人だ。患者の人生の通りすがりの一瞬の関係者に過ぎない。だから、患者とは決して心を接してはならないと思っていた。絶えず距離を置く事が大切だと考えていた。自分は、患者にもなれなければ、看護婦にもなれない。医者は医者に過ぎない。現実を知って、事実をしっかりと持っている積りであった。ある意味、利己的に徹する事が大切だと考えていた。親子ですら、利己的な関係にあるのに、どうして他人同士がお互いを思いやる事ができると言えるのかと、いつもクールに考えていた。」
 イクは、心を開いて相手を信じる事は、人間の世界ではできないのを十分知っていた。いや、知っている積りであった。倉石軍医の悩みは、分からなかったが、彼の考えは、医者の本質を解明しているのだろうとイクは思った。とはいっても、イクには、深く思考する事が時にはその人を不幸に陥れるのではないかと思えた。ある程度分からない事が、人生には必要なのかもしれない。真剣に物事を考える倉石軍医は、医者という職業についたための因果な思いなのかもしれない。医学と言う世界で命を扱うという仕事は、一見、宗教や道徳とは全く関係ないようであっても、時には宗教に心惹かれていく事もあるのかもしれない。
 人間はいつか死んでいく。死ぬ時の様子や死に方を人間は最後に気にする。どのような死に方をすれば、自分らしいのだろうかとか、無様な死に方は嫌だとか、考える。イクは人生最後の死に方よりも、どのような生き方をしたのかを重要だ考えていた。多くの体の傷ついた若い兵士達を看てきたイクは、苦しみぬいて、うめき、わめき、生へ執着する姿を決して醜いとは思えず、何とか少しでも楽になって欲しいと思っていた。頑張れと父親や母親が息子に叫ぶ言葉もイクは何度も聞いた。頑張れと言う言葉を多く人々は使う。頑張れば何とかなると言う妄想に縛られながら、イクも患者に使ってきた。
 「私を信用してください。」と訴えている患者の恋人を、体が不自由になった患者の兵士が信用していない事をイクは感じた事も多くあった。しかし、イクは人間を冷静には見つめるが、生身だからこそ、時に裏切られても相手を信じたい気持ちが必要なのだろうと倉石軍医の話から何となく考えるようになった。

 病院に来ている患者の妻や恋人を見ていると、夫や親、他人に遠慮して、小さくなって生きている女性の姿は、イクの心をいらつかせた。どうしてもっと堂々と自分の思いを吐露しないのか、自己主張をしないのかと腹が立っていた。遠慮深い、謙遜の心は、日本女性の美徳と言っても、人の生き死ににはもっと感情を出して良いのではないか、とイクは思っていた。だから、塩井上等兵の恋人のような女性が多く現れると、きっとこの病院の患者もどれほど救われるか、と思っていた。

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