明治から平成を駈けた女 第21章 

 山田美津は、いつも暗い表情をしていた。

 富山の遅い春は、雪解けと共にやって来る。頑固な根雪が消えると、梅の花も桜と一緒に春を謳歌する。イクの病院の窓から見える呉羽山の桜は、一斉に開花していた。遠くから見ると、薄いピンク色のカーテンに覆われているようだった。イクは、こんな春も好きであった。どんなに暗い冬で心が憂鬱になっていても、春が来ると富山の人々は陽気になり、野や山を闊歩する。全てが明るく楽しい気分になる。
 今日の空の青さも格別であった。イクは、いつものように青い空を眺め、それからゆっくり元気に両手を伸ばした。今朝、長男が全快したという手紙を母から届いていたからだった。
 だから、イクは気がかりであった山田美津の事に心を寄せる事ができた。かなり前から、美津の病室を訪ねてくる1人の青年の思いつめた表情が気になっていたからだった。そこで、その夜、訪ねてきたその青年に思い切って声をかけた。
「山田さんは、心臓が悪くて安静が大事なんです。だから、そんなに毎日あらわれて山田さんの心を乱さないで欲しいのです。」イクの言葉は優しかったが、凛とした厳しさを含んでいた。「貴方が帰った後、山田さんはひどく落ち込んでいますからね。治療に支障をきたすような事は、遠慮して欲しいのです。」
「聞いて欲しいのです。」イクに叱られてしょんぼりしていた雪夫は、暫くしてから、きっと目を上げて言った。その言葉は丁寧であった。きっと高等教育を受けたのであろうとイクは思った。「私は、山本雪夫と言います。山田さんとは、中学が一緒でした。その頃から彼女の事が好きだったので、いつも気になっていました。でも……」
「こっちに来てください。」イクは、言いよどんでいる雪夫を廊下の片隅に導いて話をゆっくり聞いてやろうと考えた。「ここなら、ゆっくり話せるでしょう。」
「有難うございます。」暫く、雪夫は心を落ち着かせようと、深く息を吸った。雪夫の浅黒い健康そうな顔と誠実な瞳は、少々厳しく言おうと勢い込んでいたイクの心を和ませていた。「僕は、山田さんが好きでした。会えるだけで幸せな気持ちになっていました。でも、中学を卒業してから、山田さんに会えなくなったのです。諦めていた所、何年か経って怪我をしてこの病院に来ました。その時、偶然、ここで彼女に出会ったのです。」
「……」イクは、青年の必死な面持ちで話す言葉を頷きながら聞いていた。
「声を掛けました。でも、山田さんは、僕の事を覚えてくれていなかったのです。とても哀しいと思いました。辛かったです。」青年は、衒いもせず、目をキチンとイクに向けながら言った。イクの方が少し照れてしまうほどのきっぱりした物言いであった。その物言いの中に若さ故の潔い陶酔感すら見えた。「何度も見舞いに行っているうちに、好きだという気持ちを隠せなくなって、話しました。」
「それで、山田さんはどう答えたの。」イクの心は、雪夫の言葉にすっかり引きずられてしまっていた。
「山田さんは、自分は身体が悪いから、好きになるなと言いました。他の人を好きになった方が良いとも言いました。それは出来ないというと、自分はもうすぐ死ぬというのです。長く生きられない女よりもっと健康な人を好きになった方が幸せになるから、自分の事を忘れてほしいというのです。……そんな事できますか。……もし、僕の言葉に従って、自分も貴方を好きになったら、死ぬのが怖くなってしまう。今、やっと生きる事を諦めかけているのに、と言って泣くのです。だから、誰も好きにならないし、世の中の事にも心を煩わせたくないのだと言うのですよ。本当に山田さんは死ぬのでしょうか。」一気に話すと、雪夫は大きく深呼吸した。イクの目を見ながらまだ言いたそうな顔でイクの返事を待っていた。きっと期待が持てる返事をイクから聞けるかのような風情であった。イクの周りを暖かい情熱と冷たい空気が一瞬駆け抜けるのを感じた。
「貴方は、本当に、山田さんが好きなんですか。」イクは雪夫の真っ直ぐな目を受け止めながら、言った。「どんな事があっても山田さんを好きで居られるのですか。」
「当然です。山田さんは、もう会いに来るなとも言いました。でも会わずにはいられないのです。山田さんは、僕の事を真剣な人間だから、自分が死んだら、何で死んだと言って恨まれるのが怖いって、淋しそうに笑っていました。私は、それを見ると堪らない気持ちになります。何とかならないかと思うのです。看護婦さん、山田さんは、やはり死ぬのでしょうか。生きることは無理なのでしょうか。」キラキラした若い瞳は、イクが間違った事を言ったら、きっと見抜いてしまいそうなほど真剣な瞳であった。「何とか、生きる方法はないのでしょうか。何とか、助かる方法はないのでしょうか。」
「その方法は、絶対ではないけれども、希望をつなぐ方法はあると思うのです。」暫く考えてからイクは言った。雪夫は、明るい光を顔一杯に表しながら、イクの話の先を急がせるように、耳を傾けた。「2つの条件が考えられると思いますよ。1つは、死に負けないように生きたいと患者本人が考える事。もう一つは、病気を治すように真剣に立ち向かう事、この2つが病気克服の条件だと思うのです。」
「有難うございます。何とか、山田さんに話してみようと思います。」山本雪夫はイクの言葉を聞いて、希望を見出したのか、深々と頭を下げた。「だから、毎日、山田さんの所に来る事を許可ください。もっともっと話してみたいと思います。」
 言葉通り、雪夫は、毎日、仕事が終わると病室に現れた。そして、面会時間終了まで説得をしているようであった。

 雪夫は、毎夜、美津に会いに来て、熱心に話し合っていた。美津への気持ちを素直に打ち明けると共に、何とか生への執着心を持たせようと語った。
「少しでも生きたいとか、死にたくないとかというみっともない執着心を持ちたくないがや。そんなみっともない姿を山本さんに見せたくないんや。」美津は雪夫に頑固に言い続けていた。
「まだ若いのだから、そんなダラな考え、持ったらいかんが。死ぬ準備なんかしられんな。今、生きとるがやから、死なんかに負けたら駄目ながや。もっと生きたい。死にたくないよ、って、なぜ思えないんがや。病気と闘って、生きられや、もっとやりたい事が一杯あるんやって、思わんといかんがやぜ。2人で病気と闘わんまいけ。死に負けたらあかんねか。僕が、ついっとっから、僕が君の病気を追い払ってやるから、僕は、毎日、君の所にやってきて、そんな詰まらん考え放おり出してやっちゃ。死ぬのは怖い、辛い。死にたくないよって思われ。お婆さんみたいに諦めちゃダメやがね。まだ、若いんだから。」
「なんてひどい事を言うの。私は、怖いのを我慢して生きる事に執着を持たないで、何とか諦めようとしとるがやに。」美津は恨めしそうに言った。「何とか、心穏やかに、静かに死にたいと思ってるがに……」
「でも、そんな淋しい生き方しとったら、生れてきた意味がないねか。もっと生きて、少しでも人生楽しんで、若さを楽しんで、僕と一緒に生きていかんまいけ。1人で、怖がってないフリをするより、2人で死にたくない、生きていきたいと叫ばんまいけ。こんなに僕は君に執着心を持っとんがや。僕の気持ちも考えてほしいんや。」
「私がどんな事を考えているか……健康な貴方には分からんでしょう。人が他人を理解できると思う事が、錯覚なんだと思うがや。なーん、傲慢な行為なんかもしれんね。人間なんて色んな事に縛られている哀れな生き物なんかもしれんね。道徳やら、法律やら、世間体やら、そして、思いやりなんかで、表面は大事そうに思っとる振りをして……。挙句に、必死になって人生の意義やら生甲斐やら。そして、貴方も結局、私がお荷物になると思うがや。そう考えると辛いがや。ものすごく辛いがや。」話した後、美津は大粒の涙をポロポロこぼした。
「何言うとるが。貴女と同じ人生を歩いていきたいがや。2人で年取って泣いたり笑ったりしたいがや。」雪夫は美津に他の人が居るにもかかわらず、叫んでいた。「 貴女は他人じゃない。僕の身内みたいな気がしとるがや。どうしてそんな考えしかできんのや。」美津の涙を雪夫はそっと拭きながら、小さな痩せた美津の手をしっかりと握った。

 美津は、雪夫が帰った後、いつもの物思いに耽っていた。古い建物なので、壁は汚れ、所々に黒いシミが広がっている。この部屋でこれまで何人の人が闘病の甲斐も亡くなったのだろうと美津は思った。じっとシミを見ていると、人の顔に見えてくる。自分はどうなるのだろうかとすっかり気弱くなり、いつも寝付かれなかった。
 このまま、自分で歩く事も出来なくなり、他人の介護を受けなければならなくなったら、どんなに自分の事が好きだと言った雪夫でも、きっと後悔するに違いないと思った。今は、まだ良い、と美津は思った。目の前の現実が見えないから……。両親が自分の治療費や看護の事など物陰で小さな声で話しているのを聞いている美津には、雪夫の行為がとても辛かった。自分には、死のみしか残されていない。そんな自分に好意を持つなんて、とんでもない話だ、といつも思っていた。

 イクは、美津のそんな気持ちも理解せず、明るく励ましていた。
「山田さん、今日も良い天気ですよ。桜も綺麗です。少しは、外の景色を見て御覧なさいよ。」
 しかし、美津には、イクの言葉が届いていなかった。今も、病室の白い天井を見ながら、私はいつ死ぬのだろうか、死ぬ瞬間て、どんなだろうか、と真剣に考えていた。死は、誰にでもやって来る。死ぬ時、人はどんな心境になるのだろうか。本当に、このまま死んでいっても後悔はないのだろうか、とも、美津は考えた。私は、まだ死んでいないのだ。生きている限り、まだ死んでいないのだという事を美津はハッキリ認識していた。自分は、間違いなく近い将来死ぬであろう事も分かっているし、実感もしていた。いつもの事ながら、ここで思考が途絶えてしまうのである。どうすればよいのか、どうしたいのか、といった所までは、進まないのであった。

 お節介なイクは、美津が病気に負けていると感じていた。この病気は、美津が考えているほど絶対死ぬという程重篤とも思われなかった。しかし、病状について感想を看護婦が患者に伝えることは出来なかった。何とか美津が生きようという気持ちになって病気と闘う事が必要だという心を持つぐらいは、良いだろうとも考えた。
「山田さんは、何かやりたい事はないのですか。」氏を見つめている美津が、ほかに何か興味を持たせるようにと考えて、イクは美津に話しかけた。美津は、黙って首を横に振った。「こんなに若いのに、本でも読むなりしなさいよ。勿体ないでしょう。何か、考えて持ってきましょう。」
「いいです。何もしたくないですから。」自暴自棄に美津は、言葉を返した。
「最近、読んだ本で、私が感動したものがあるのです。どうせ時間が余っているでしょうから、読んでみて下さい。」イクは、返事を聞かないで、すぐに美津のベッドを離れた。
 イクが、暫くしてから持ってきたのが、谷崎潤一郎の『春琴抄』であった。昭和8年12月に長女を生んだ時に、夫の矢助が本好きなイクのために買ってきてくれたものであった。当時、1円90銭の本は、矢助やイクにとって高価なものであった。この思い出深い大切な本を、イクはこの病院勤務にも持ってきていた。338ページの本は何度も読んでいたため、少々草臥れていたが、イクにとって宝物であった。イクは、和紙のカバーをかけて、美津に渡した。美津は、多少迷惑そうな顔を隠しながらも受け取った。その本に、イクの手製の栞も挟んでおいた。何かの本で読んだ時にメモしておいた歌を書き込んでおいた。「蕾めるものは 花さかむ 花さきたらバ 實とならむ」
 昭和14年といえば、日本が日中戦争から太平洋戦争へとひた走りに走っていた時期であり、そうした時代状況の中で、恋愛等という言葉は、口にする事も憚れる時代であった。だから、イクは心の中で、この歌に込められた意味を美津に訴えたかったのである。
 本を読むのにかなりの時間がかかったが、それでも美津は読んでくれたようであった。感想については何も言わなかったが、イクはかすかな手ごたえを感じていた。もう、これでこの2人は大丈夫だろう。

 この昭和14年には、頭角をあらわしてきた日本に対し、米国は日米通商航海条約破棄を通告した。一方、外国では、ヒットラーがポーランドを侵攻し、第2次世界大戦が勃発していた。軍関係の病院だけに院内の空気は、何処となく落ち着かなかった。

 昭和15年1月、2年間の召集は解除された。

 静かな親子4人の生活が戻ってきた。つかの間の水入らずの温かい家庭の空気に心が休まったが、イクの心はやはり新聞の上にあった。

  少し前、昭和12年、挙国一致をスローガンに内務省は「時局に関する記事取扱方に関する件」を通達し、新聞・通信社への警察の指導を要請した。この通達は、日本軍部の軍事行動に関する記事の差し止めを求め、以後戦争に関する報道はこの枠の中で統制された。
 10月には国民精神総動員強調月間、同11月には国民精神作興習慣、翌13年2月には肇国精神強調月間などが実施され、様々な行事を通して国民統合を強め、戦争協力体制作りに力が注がれていった。
 神社・皇陵の参拝、勅語奉読式、出征兵士・英霊・傷痍軍人の送迎、戦没者慰霊祭、遺族の弔問、建国祭への協力、ラジオ体操の奨励、清掃などの勤労奉仕、国防献金 など、多くの事が行われていた。早起宮城遥拝、神社参拝、一汁一菜、日の丸弁当、禁酒禁煙、料亭・娯楽場の休業、戦争祝賀行事も興亜奉公日の一貫として行われ、南京攻略祝賀提灯行列には40万人、武漢祝賀提灯行列には100万人が参加した。
 国民精神総動員運動では女性の活動が奨励された。国民精神総動員中央連盟に 参加した愛国婦人会、大日本国防婦人会、大日本婦人連合会、大日本女子青年団 の四大官製団体は、国民精神総動員運動の主な推進力であった。慰問袋の発送、軍人留守家族の慰問、出征兵士・英霊・傷痍軍人の送迎、町内会・隣組への参加、廃品回収、金属献納、農繁期託児所・共同炊事への奉仕など、これらの活動は、かつて自分の時間を持ったことの無い婦人の社会進出を促すとして、婦人運動の指導者達は総動員運動に協力していった。
 陸海軍現役軍人の数は、昭和12年に100万人を超え、太平洋戦争開戦の昭和 16年には241万人にもなっていった。新聞でこれらのニュースを聞く度、イクの心は益々おちつかなくなっていた。
 翌、昭和15年には、日独伊三国軍事同盟が締結され、世界は戦雲は急を告げ、イクの近所も落ち着かない空気が漂っていた。日本は、戦いが拡大すると軍需生産を支える資金調達が重要事項となり、政府の監督権が強化される等、国家権力の業界介入が次々に進められた。人々の生活は、次第に窮屈になっていった。
 イクは従軍看護婦の道を模索していた。
 従軍看護婦とは、軍隊構成員である看護婦、赤十字社等の篤志救済団体の職員である看護婦で、武力紛争時に傷病者の看護に従事する者をいう。日本では、日清戦争時の108名、日露戦争時の4,417名、太平洋戦争時の3万1,450名の日赤看護婦が戦地に赴いて傷病兵の看護にあたったといわれている。
 太平洋戦争中、日本赤十字では、約3万人の戦時救護看護婦を戦地に派遣し、戦死者は千名以上、負傷者は5千人近く出したという。しかし、従軍したのは日赤の看護婦だけでなく、陸軍・海軍の応召看護婦、そしてひめゆり学徒隊等、女学生達の犠牲を合わせると、その数は更に膨大な人数なる。しかし、正確な記録は残されていない。

 イクは、震える手で赤い封筒を開いた。

 イクが待ちに待った召集令状が、届いたのであった。時は、忠君愛国の時代であった。
 最初に思ったのは、父が常に言っていた言葉であった。自分には、女の子3人で男子が居ない。どれだけ世間に狭い気持ちになっているか。お前達の1人でも男だったらなあ。という言葉であった。だから、自分はこれで父の思いに応えられるし、従軍したら、男子に負けない立派な仕事をし、お国の為に働ける。女だから国を守れないという世間の言葉に対して立派な働きをして見せるという強い気持ちを持った。
 町内会の人たちが集まって、イクの勇姿に、前回のような無言の批判の目はなかった。子供たちも多少大きくなっていた事もあって、今度は素直に頑張ってきてほしいという空気があった。婦人会の人たちが集まって作った千人針と寄せ書きされた日の丸の旗を身につけ、イクは立派にお国のために働いてきますと大きな声で挨拶していた。
 子ども達の顔を見ると、周りが大騒ぎしているためか、不安そうに上目遣いでイクの顔を見ていた。2人の子供達を見てもイクは、特に心が痛む事はなかった。それほどこの召集に誇りを感じていたからである。大人しく母親の顔を見ながら静かに日の丸の旗を振っている2人の子どもに自分と同じように感じてくれていると感じて、イクは子どもの態度が立派だとさえ思われたのである。

 救護班要員として、日本赤十字社富山支部に集結する事になっていた。編成要員は、班長以下12名であった。凍りついた2月の道を支部に向かいながら、イクの心はまだ見ぬ戦地に馳せていた。
 全員集合し、真新しい制服・白衣・外套・雨合羽などの必要物品の支給を受け出発準備は完了した。
 12名の従軍看護婦達は、富山駅に到着し一列になって人々の前に立ち班長が挨拶をした。駅では溢れるばかりの人々の見送りで、母親どころか、夫の矢助や子どもの姿も良く確認できなかった。しかし、万歳の声と沢山の日の丸の波は、イクの心にしっかりと刻み付けられ、胸が痛いほどの感動を与えていた。
 富山駅を列車が出発する時、チラリと子ども達の姿が見えた。息子の太郎は5歳になっていた。夫の矢助の腕に抱えられて、イクの方に手を伸ばしている姿が見えた。7歳の登美子は、祖父の染二の肩車でイクの方を見ていた。口をきっと一文字に結び、母に向かって恨めしそうな表情であった。イクは、思わず「太郎!登美子!」と叫んでいた。この時ばかりは、子どもに対して心が痛んだ。私は、日本の国ばかりではない。この子供達も守るため、従軍看護婦になって行くのだと、改めて心の中で決意した。やがて万歳の声と共に沢山の旗の波の中に子ども達の姿は消えていった。
 列車は、多くの人々と共に、従軍看護婦達を乗せて、広島へと向かっていた。多くの人々からイク達の従軍看護婦に対しての尊敬と慰労の目が注がれていた。無言ではあったが、イク達の一行は、その人々の優しい目によってより一層の心の高揚があった。
 琵琶湖を過ぎると、外の景色もすっかり北陸色から関西の色にと変化していた。列車を乗り継いで、ただひたすら広島へと向かっていた。
 広島に近づくと、イクの頭から子ども達の事も家のこともすっかり消えていた。班長の下、規律を守り、国を守り、兵隊さんのために一生懸命やろうと心を決めていた。広島駅には、多くの人々が、やはり旗を持って迎えに来ていた。旗の波に再び感動し、新たに決意する。イクは、看護婦になってかってないほどの幸福感と充実感を味わっていた。私はこんなに人々に求められ、また、喜ばれているのかと思っていた。
 他県から来た救護班の人々と合流し、広島護国神社で宣誓式に出席した。宣誓式でイクは益々意気盛んになり、引き締まる思いであった。日本という国を私は守るんだ。自分の大切な家族、幼い子供達を守るのだという決心は、なんと崇高で昇華された思想なのだろう。イクはその思いに酔っていた。これで自分の両親、特に父親の染二は、イクの事を自慢に思うだろう。頑張ってくるぞ、人一倍、働くのだと固い決心と感激で一杯だった。
 宣誓式の後、必要な訓示や注意事項を受け、出港命令を待っていた。


 春近い寒さ厳しい日であった。

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