明治から平成を駈けた女 第22章 

 船のマストに付けられた赤十字の旗は、イクの誇りを一層かきたてた。

 イクは、いよいよ私の出番が来た、早く従軍看護婦として外地へ行きたいものだとはやる気持ちで命令を待っていた。男の有利さの中で、女と生れて絶えず劣等感を持っていたイクだった。が、今は、従軍看護婦という女として最も名誉ある仕事で、心は沸き立っていた。
 出発するまでの間、イク達は訓練と実習も兼ねて広島にある軍の病院で勤務をした。待つ事、数日。寒風吹きすさぶ日であったが、イク達一行が出発する事が決まった。張り詰めた気持ちで、身体中に熱い血をたぎらせながら、イクは瞳を凛々しく輝かせ、頭をきっと上げて颯爽と勇ましく船のタラップを登っていた。
 船の甲板に足を下ろした時、イクの目にマストに掲げられた赤十字のマークが飛び込んできた。印象的な白地に赤い旗は、イクの誇りを一層強くした。
 船の行き先は、知らされていなかったが、イクは少しの不安もなかった。その船が着いた所が現在の韓国の釜山であった。釜山に着いたら、又、全員汽車に乗って10日以上も広い大地を走りつづけた。
 窓から見える珍しい景色にも飽きた頃、南京に到着した。お尻もすっかり痺れて痛くなったと同席の看護婦にイクは笑いながら話し、汽車から降りた。しかし、そこが到着点ではなかった。それから、又、揚子江を船で登った。
 船に乗って落ち着いたら、初めてイクは心のゆとりが持てた。それまでは、心がせいていて、早く勤務地に行きたいと考えていたのだが、ここまで来るともう心配はない。だから、あたりの風景にも心が向かったのである。
 日本では揚子江として知られる長江は、中国最長の大河である。岸辺の岩場では男が魚を採っていた。うす曇の空や緑の山々、岸辺の家々がゆっくりと流れていく。濁った河を船は進んでいた。睡眠不足のイクはそれでも物珍しい景色に見入っていた。中国大陸を南北真っ二つに分けて西から東へと流れる大きな河は、滔々と流れ、両岸に中国の農村の穏やかな情景がゆるやかに現れては消えていった。わずかばかりの平地に少数の集落や畑が点在し、河原では子供達が遊んでいる。まだ若い女が清流に足を浸して洗濯をしている。和やかな気持ちになってイクは夢心地になっていた。イクは故郷富山にも似た情景が時折顔を見せたりすると懐かしさでふっとホームシックになったりした。そして、いつまでも眺めていた。時々、イクは、婦人従軍歌を口ずさみながら、これからの勤務を思って心を高揚させていた。
 着いた所が漢口である。
 漢口第一陸軍病院は、揚子江の岸の近くにあった。そこが、イク達の勤務先である。
 漢口は、現在の中国の湖北省東部、武漢市の北部地区で、揚子江に支流の漢水が流れ込む合流点にあたり、水陸ともに交通が便利な所であった。1937(昭和12)年夏、蘆溝橋事変が起こり、日本軍は早期解決を図るため、中華民国の重要な土地といわれた漢口を陥落させた。これで蒋介石は降伏するだろうと参謀本部が考えていたが、蒋介石が姿を消し事変は終結しなかった。この漢口作戦の成功によって北京と広東間の鉄道が利用され、物資や兵力を運ぶことができた。蘆溝橋の事変は、その後の交渉によって現地で停戦協定が結ばれ、解決の兆しが見え始めた。しかし、日本の近衛内閣が強硬に出た結果、事態は一挙に悪化し、満州北部地方への派兵を決定した。国民党政府は、共産党と共に日本と全面戦争することを宣言した。そして、国民党の蒋介石は、共産党との間に中国国内での内戦の停止と日本と戦う抗日の団結を約束した。このため、事変といっていた言葉が戦争という言葉に変わったのだった。

 漢口の冬は寒かった。風や雪は激しく何度もイクの看護の手を休めさせるほどだった。寒さで凍えた手をさすりさすり、看護作業をした。しかし、イクはこんな事で音を上げる事はなかった。防寒のために毛布を各人に3枚支給されたが、木炭を焚き、3枚の毛布を身にまとって寝ていても寒さが身体の芯まで伝わってくる。この寒さにもイクは耐えた。寒さは厳しくともイクは平気だった。
 風邪も蔓延していた。感冒、胸膜炎、発熱、気管支炎などが多くの患者に広がって、身体の頑丈だと思っていたイクにも喉の痛みや寒さはかなりきつかった。いつもうがいや手洗い等厳しく行っていたので何とか軽い風邪ぐらいで収まった。風邪の他、戦場の病気には、胃腸病等色んな病気があった。その上、漢口には、有名な軍人慰安所が2カ所もあったため、性病もあった。
 漢口の野戦病院はレンガ造りで、立派な建物が何棟もあった。イクの働いている病棟はその一つであった。その建物と建物の間の地面には、寒い中にも、細々と野菜が栽培されていた。ほかに豚や山羊、アヒルが飼われていて、暖かい日にはよたよた歩き回わっていた。
 イク達の仕事は、看護ばかりではなかった。寒い風や雪の中、民間人のための井戸水の検査等もした。食用の菜っ葉やお茶代用の葉を集める事も仕事の内だった。炊事の手伝いをしたり、演芸会も行われたり、ゲームのカード造りまでしたりして忙しい毎日であった。どんな雑用でも、イクは嬉々としてこなした。
 寒かった季節は少しずつだが確実に過ぎていった。

 ここに来てから、イクは空をゆっくり見ることはなかった。

 揚子江のほとりにある陸軍病院の多忙さに関係なく、静かな風景の中に時はゆったりと流れていた。イクはふっとした瞬間に、その風景で慰められたが、あまりにも多い仕事はその手を休ませる事はなかった。だから、ゆっくり漢口の空を見るゆとりもなかった。そのため、後に漢口の空はどうだったのか等、思い出す事はなかった。

 夏は暑かった。漢口の夏は、猛暑で有名である。高温で多湿であるため、北陸育ちのイクの身体にはきつかった。
 今日の病室の風通しは悪くないはずである。窓や扉は網戸で遮られていたが、なぜか病室の中は蒸し暑く、蚊が音を立てて飛び交っていた。汗でべたつく身体に、蚊は鬱陶しかった。蚊ばかりでなく、ベッドのマットの下や鉄製の寝台の間に南京虫が気味が悪い位、沢山住みついていた。南京虫は、昼間は床板や壁のすきま、ベッドや家具の下などに集まって隠れ、夜間にあらわれて吸血する。一度に2か所も刺すから、非常に痒い。
 病院での処置は、初歩的な看護のみで内地のような充分な手当てができなかった。そのため、心細がっている患者に看護婦達は優しい声で励まして、少しでも安心させるように心を配った。何とか死線を越えた患者には薄い粥が与えられるが、その粥も喉を通らない事もある。イクはどんどん痩せ細っていく傷病兵や患者を診るのが辛かった。きちんとした治療が出来ないかと思ったが、それは医師達が決める仕事で、イク達看護婦は、医師の言うがままに動くしかなかった。その医師達が思うような治療ができるほどの医薬品もない事位イクも分かっていた。

 そして、季節は過ぎて、何度目かの春がやって来た。

 どんなに寒い冬でも、春は、勿論の事、季節も確実に巡っていた。四季折々の花が咲き、美しい河の風景は、ほんの暫くの時間であってもイクの心を慰めてくれた。イクは色鮮やかな桃の花と千代紙で手作りのお雛様を作って傷病兵達の病室を飾った。殺風景な病室もその時は明るくなり、患者達は、喜んでくれた。それを見た寝たきりの重症患者は、大きな涙をボロボロと流していた。イクは、母や子供達を思い出して涙が流れるのだろうと胸が締め付けられる思いだった。患者は増えるばかりで、医療品などの物資は、反比例してどんどん不足していった。

 後にイクは思った事がある。この漢口の土地では、同僚の看護婦とお喋りらしいお喋りをした思い出がない。話す言葉は、治療のための注意や患者への励ましの言葉だけであった。仲間の看護婦ともゆっくり話をする余裕などない程の忙しさであった。余りの忙しさだったため、勤務以外の時間が少しでもあれば、身体を労わって休んでいるか、包帯や病衣を洗濯しているなどの雑用に追われていた。イクだけでなく、全ての医師、看護婦や衛生兵なども同じだった。

 漢口には、美しい風景が多くあった。しかし、こんな美しい自然の中で、人間同士が殺しあうという殺伐とした戦争がある不条理を、イクは考える暇はなかった。傷病兵が余りにも多く転送されてくるからであった。手術や、治療・看護の効もなかったりして死んでいく事にイクは、初め、たまらなく腹が立っていた。彼らの苦しみを考えると、誰に腹を立てるというわけではないが、彼らの多くの死は自分達の努力が否定されるようで無性に苛立っていた。しかし、イクの心とは関係なく、現実は厳しかった。日夜、患者の収容に追われていたため、その様な苛立ちもいつの間にか慣れてきて、考える事もしなくなり、事務的に処理するようになっていった。一人一人の患者への思いやりや心遣いで心が痛む事は、初めの内だけで、今では心がささくれだって、少しでも眠りたい、少しでも食べたいという気持ちの方が強まっていたからであった。

 イクの戦いは、患者の看護ばかりでなかった。夏の猛暑、冬の酷寒との戦いもあった。冬の寒さや夏の暑さの中の看護は辛かった。2年目の夏の酷暑の中、前線に伝染病が多数発生した事があった。多くの辛い勤務の中で、その時の勤務が特にしんどかった。6ヶ月交代で、最初、イクの班が伝染病患者を看護する事になった。伝染病棟へ出かけたのは9月だった。今までの病棟からかなり離れた所で、淋しい人の居ない場所にあった。受け持った患者は300人余りである。その人々を10人ほどのスタッフで見なければならない。
 次々に送り込まれてくる傷病兵は、重症患者ばかりであった。包帯を開けると、中は蛆虫がうごめいて、取っても取っても次々に増えていた。前線は悲惨な状況であった。精神を病んだ患者も多く、何も言わずじっとしている無気力な患者、暴れまわって余りの凶暴さでカギのかかった部屋に閉じ込められた患者等、イクは見るに耐えないと思ったが、どうしようもなかった。
 看護は、今までにない想像を越えた忙しさであった。目を離す事ができないような重篤な状況の患者達のため、1日おきの不寝番もあった。2日に8時間の睡眠を取れればまだ良い方だった。ほんの少しの仮眠の合間に患者達の間を走り回った。伝染病棟は多忙をきわめ、イクは、注射に汚物処理に、その忙しさに目が回った。
 昼ばかりでなく、夜間には非常呼集があり、患者の受け入れも忙しかった。軍関係者ばかりでなく、市内の一般の人々も受け入れていたのでイク達は大変だった。昼となく夜となく食事の時もカルテを見ながら、医師の命令を受けながらであったため、何もかも忘れて、熟睡と腹いっぱい食事がしたいと毎日思っていた。白衣の看護衣は汚れて真っ黒になっても、簡単に消毒するだけで時間をかけて洗濯する事もできなかった。
 9月も過ぎ、冬がくると、厳しい寒さのため、軍の部隊から兵隊用の軍衣袴を借りて寒さを凌いだ。勿論、その上からエプロンでそれを隠しながらの勤務であった。
 6ヵ月の伝染病棟の勤務が終り、3月にもとの病棟勤務になった。前線から送られてくる患者は益々増え続け、それも重傷者が増えてきた。病棟は勿論、手術室も連日忙しく、夜も寝に帰る暇もなくなって、病室の片隅などでまどろむだけの毎日になった。しかし、全員不平を言う人もいないというより、言う暇もない状況であった。不思議とこのような状況は、お互い一致団結協力し、夢中に勤務の遂行にあたったのであった。

 あちこちで日本軍の玉砕のニュースは、イク達の耳にも入っていた。
 ある日、若い少年飛行隊員が負傷して入院してきた。若すぎる少年兵は瞳を輝かせて、イクに戦争の手柄話をしてくれた。敵機を何機打ち落としたか、自分の話を聞いた親たちはきっと自分の事を誇りに思っているだろうと、声をあげてイクに語った。イクはこんな幼い少年兵まで戦争に駆り出されるとは、と言葉を失って少年兵に賛辞の言葉をかけることまで気がまわらなかった。それでも日本は、戦争に負けるとは考えてもいなかった。

 昭和20年に入ってから揚子江に敵機の空襲が激しさを増していた。

 物資はすべて不足し、重傷者の湯たんぽの湯を沸かす燃料もなかった。燃料用の枯れ木を拾いに行く仕事も増えた。医療品は、底を尽き、食事も1日に2回と決められた。
 自分達を守ってくれていた砲兵隊は、姿が見えなくなった事もイクの心を不安にしていた。
 毎晩の空襲は、漢口の空を赤く染め、アメリカのB29が何十機もの編隊で我が物顔に夜空を闊歩していた。探照灯や照明弾で赤く光り、空中戦は止む事がなかった。日本本土にも敵機の空襲があったらしいと、皆が話しているのを聞いてイクの心は悲しくなった。自分は親や子や日本を守るためにここに居るのにと恨めしげに赤く染まる夜空を眺めていた。
 そのうち、病棟の屋根に赤十字があろうが、赤十字の旗が見えようが無視して、夜昼なく、病院にも多くの爆弾が投下されたり、機銃掃射をされたりした。
 病院も戦場となった。多くのけが人も出るため、空襲がある度に、患者を防空壕に連れ出した。しかし、動けない重症の患者を連れて行けず、病室に残り、病院の屋根に触れんばかりに近づいた敵機からの爆撃に身をすくませて患者の手を握りながら腰を抜かした事もあった。
 敵の攻撃は、空ばかりとは限らない。看護婦も白衣では目立つという事で、軍服に着替えた。青酸カリも全員に致死量が与えられた。このような状況に、部隊本部から看護婦全員に遺書と遺髪を提出するようにとの連絡があった。遺髪を切り、遺書を書いた時、死の恐怖が消えたように感じた。
 4月に入って、イク達の病棟から離れた所にある弾薬庫が爆破された。その時の爆発音は余りの大きさで、恐怖で身がすくんで動けないほどひどいものであった。毎日、空襲で慣れていたはずであったが、この時ばかりは、イクは母を呼び、救いを求めた。轟音と共に火柱があがり、あたりは火焔で一杯だった。もうもうとした煙がイクを包んで何も見えなくなった。これで終りだとイクは覚悟した。火の雨のように落ちる焼夷弾やあちこちに炸裂する爆弾でイクの目にする所全てが炎に包まれ、多くの患者や看護婦が炎の中に苦しみながらのたうち回っているのを見ても、イクは自分の身を守るのがやっとで、他人の事を構う事はできなかった。その地獄から脱出して揚子江の水辺に辿り着いた時、これが地獄というものだと思った。水の中で人心地になった時、神風の到来を祈り、願った。しかし、神風はあらわれなかった。
 

 8月14日夕刻、集合がかかり、停戦詔書の伝達があった。なぜか終戦、敗戦の言葉を避けて停戦という言葉を使っていた。戦地にいる部隊も、戦争が終われば無用の存在となる。だが、イク達の看護婦は逆に大きな活躍の場になる。昭和20年8月15日、日本の無条件降伏を知らせる玉音放送が流れた。

 イクは、信じる事ができなかった。悔しかった。悲しかった。自分が頑張ってきたこれまでの努力は何だったのか。皆、肩を抱き合って泣いた。イクも泣いた。お国のため、日本が勝つためとどんな辛い事も辛抱できたのに、今は何をどう考えて良いのか、この後どう行動すれば良いかわからなかった。皆、呆然としながら泣いていた。日本から遠く離れて、帰るにはどうすればよいのか不安であった。絶対、日本は勝つと信じていたのに。茫然自失の後は、いつまでも泣く事しかなかった。泣けて泣けていつまでも涙がこぼれた。今までどんなに辛くても涙一つなかったのが、それまで5年間の涙が溜まりに溜まっていたように、どんなに泣いても枯れる事がないようだった。
 イクは、自分の子供のことを考えた。子供達は、無事だろうか。夫や両親は元気でいるだろうか。自分がここで頑張っているのは、全て子供や肉親の事、日本と言う祖国のために働いてきたのではないか。祖国の日本が、まさか空襲にあっているとは想像しなかったが、やはり心配だった。今は、とにかく日本に帰りたかった。美しい祖国の故郷はきっと緑豊かでイクの傷ついた心を癒してくれるに違いないと思った。矢もたてもたまらなく、早く日本に帰りたかった。
 それからのイクは、どう考えてよいか分からなかったが、とにかく一途に日本に帰る事ばかりを考えた。
 中国兵がやってきて、病棟全てが占領された。イクの胸には、捕虜231号と胸に札が付けられた。中国人の兵隊には、敬礼を強要された。イク達にぺこぺこして治療してもらい、感謝していた近くの住民も中国兵と共に威張りだして、イクの持ち物を取り上げたり、気に入らないと小突いたりした。しかし、日本人である限り、決して抵抗する事は出来なかった。イクは歯を食いしばるしかなかった。
 日本人の病棟は、近くの日本人中学校に割り当てられたが、戦争が終わっても、前線からどんどん送られてくる患者で溢れんばかりであった。どの兵隊も栄養失調と病気や怪我で、顔は腫れ、手や足も痩せ細り歩くのもやっとという有様であった。そんな身体にも虱が一杯たかっていても蚤を取るどころか、掻く事もままならなかった。見るも無残であった。病魔と栄養失調で体力の落ちた傷病兵達が、必死に生きようと努力してもろうそくの火が消えていくように、毎日、数十人の命が消えていった。
 看護婦を呼ぶ気力のないため、誰も気がつかないままに死んでいく兵隊が多かった。死んでいった彼らがどんなに淋しかったかと思うと、又も涙が止まらなかった。もう少しで、日本に帰える事ができるのに、どうしてこんな淋しく死んでしまうのかと思って、又、イクは泣いた。薬もなく包帯もない、何もしてやれないのが辛く、又、涙をこぼした。昨日は1人、今日も2人とイクの担当した患者が死んでいった。私もいつかこの兵隊と同じようにここで死ぬのかもしれないと絶望的になって、声を殺して泣いた。何を見ても何を考えても、涙がこぼれてきた。誰も何も話さないし、目も合わす事もしなかった。絶望的な事しか考える事ができなかったからだ。
 死んだ人達は、防空壕の中に埋葬したが、すぐに一杯になった。外に遺体を放置しておくと、凍ってしまう。その凍った遺体もまとめて雪の降り積もった酷寒の地に埋められた。死んだ人々が、日本に帰りたいと泣きすさんでいる声が木枯らしとなって天空を吹き荒れているようにイクは思った。そのうち雪も吹き荒れて吹雪になると、白い衣を来た死者達が、なぜ私を助けてくれなかったのかと一晩中イクを責め苛んでいるように思われて仕方がなかった。そんな時はどんなに疲れていても、イクは眠れず、一晩中、うめいていた。
 大陸の冬までも、厳しくイクを攻め立てた。外に出て息を吐くと、息の形の氷ができ、そのまま地面に落ちるかと思う程であった。また、鼻も凍って今にもバリバリと音がしてもげるかと感じるほどの厳しい寒さであった。その寒さを防ぐために兵隊の着る大きな防寒具を自分の防寒具の上から着ながらイクは仕事をした。あれほど辛いと思わなかった仕事が辛くて、嫌になっていた。この仕事を今すぐ放り出して、日本に帰りたかった。なぜ私はここに来たのだろうと、後悔の念で、誰を恨むことも出来ず、自分を責め立てていた。

 昭和21年、春になって、厳しかった冬が去った。野山にも知らない草花が色々咲く頃には、何千人もいた患者は、数十人になっていた。イク達の看護婦も彼らと同じ運命にあった者も少なくなかった。イクも他の看護婦も何も話さなかった。口を開くと、きっと気が狂ってしまうかもしれないという思いがあり、唇を噛みしめていた。イクは栄養失調に罹りながらも、激務と過労と戦っていた。
 イクは何人もの死亡した看護婦の遺体から手首を切り取った。その手首を焼き、遺髪とともに名前を記して、残った看護婦に分けた。これだけいる仲間の内、誰か1人位生き残り、帰国できたら、それを遺族に届ける事を約束しあった。イクは、日本に帰れるのかと考えたが、それでも黙って死んだ仲間の遺品を幾つも大事にしまった。
 帰還命令が出た。
 イクの心に希望が出てきたが、それでも悲観的であった。必ず無事帰れるという保障はない。しかし、一歩でも日本に近づきたかった。
 伝染病患者を残し、上海に向けて出発した。残した患者にイクの心は残らなかった。何とか、無事に日本に帰れるとの保障はないが、それでも少しは日本に近くなるのが嬉しかった。もう他の人間の事等どうでも良いという考えだった。
 揚子江を船で上海に向かう事になった。船の上でも多くの傷病者が死んだ。一人、又、一人と揚子江に遺体を船から水葬される人を見るに、イクは、ただ滂沱の涙を流すだけであった。5年前、この揚子江を船でのぼった時と比べ、今のイクの境遇の何と落ちぶれた事だと、イクは止めどない涙を流しつづけた。

 船は、上海に到着した。上海は、1824年の開港以来、西洋文明をもっとも早く吸収し発展した町であった。戦後までは、日本初め、英仏も国威を競っていたため、建物や公園は当時としては世界の最先端を行くものになっていて、政治経済、文化の中心都市として発展していた。イクは、上海で、偶然、石井すえに会った。すえはイクが日赤の看護婦養成所時代に1つ上級の先輩であった。思いがけず懐かしい顔を見つけ、イクはすえにしがみついていつまでも泣き続けていた。まるで赤子が母親から離れないように抱きついていた。
「こんな事ぐらいで、泣いてはダメ。」と厳しい声ですえはイクを叱った。「心をしっかり持たなくてはなりませんよ。」それでもイクはダダッコのようにいやいやしながら長い事離れなかった。

 後に、イクは、すえから何人かの看護婦の話を聞いた。その中でも、イクは特に心を打たれた話があった。若い看護婦が残したという遺書をすえがイクに見せた時だった。
 その遺書には次のような事が書かれてあった。
『自分の手で生命を断ちます事をお許しください。婦長様さぞかしご迷惑とお詫び申し上げます。私達は敗れましたが、敵国人に犯されるよりは死を選びます。』
「この看護婦の自殺は、青酸カリだったんです。私が発見した時は、完全に事切れていました。大変苦しそうな表情でした。彼女は、赤十字の制服制帽姿で、誇り高く死んでいました。」苦しそうにすえはイクに話した。話を聞いたイクにも苦しい断末魔の有様がしのばれ、思わず息を呑んだ。「その事を考えると、あなたは、まだ幸せですよ。」
 すえは、まだ他にも辛い話があると、イクに詳しく話してくれた。終戦直後、すえが病院を出ようとしてドアを開けると、すえに倒れかかった者があった。それは傷だらけの蒼白な顔をした若い看護婦であった。体中到るところに無数の銃撃を受けて血だらけになっていた。急いで抱きかかえたが、脈拍にも結滞があり、危険は刻々と迫っている事が分かった。ほとんど意識を失いかけていたが、すえが揺すぶっては起こし、話を聞いた。彼女はすえの腕に抱かれながら、看護婦達の惨状を途切れ途切れに語った。
「私たちは、ソ連の病院に看護婦にと頼まれて行った筈です。でも、あちらで看護婦の仕事をさせられているのではありません。行った日から病院の仕事は全然しないで、ソ連将校の慰みものにされているのです。最初行きました3人に、ほとんど毎晩何人もの将校が代わる代わるやって来て、私達を慰みものにするのです。いやだと言った看護婦は、その場で殺されました。次々に同僚の看護婦がここから応援を名目にやって来るのを見て、何とかして知らせなければと考え、厳重な監視の目を盗んで脱走してきたのです。」脱走した時、後ろから撃たれ、又、背中に鉄条網の下をくぐって来たため、かすり傷が何ヶ所もあったという。
「婦長さん。もう後から看護婦を送ってダメです。」という言葉を最後に、その夜、その看護婦は息をひきとったという。亡くなった看護婦を満州のしきたりに倣って土葬をしてきたとイクにすえは暗い目で話した。そして、その看護婦の遺髪だけを持って、すぐに残った看護婦を連れて逃げてきたと話した。すえは、明日はわが身かもしれないと思ったとイクに話した。
 すえの話は、そこで終りではなかった。
 すえを初め、残った看護婦一行がやっとの思いで列車に乗り込み、この上海に向かっている列車は、時々、臨時停車した。そのたびに中国兵が列車に乗り込んできて貴重品などを強奪していった。中でも若い女と見ると彼女らは兵士に列車から引き降ろされて、中国兵のために慰め者にするため連れて行かれたという。看護婦ばかりでなく、大勢の若い日本女性が殴られ、無理やり拉致されていったが、誰も助ける事ができなかった、とすえは言った。すえは、助ける事ができない自分にも腹を立てながら、また、多くの日本人の男性がいても何も出来ないのをどれだけ情けないと思ったことだろうと言った。
 イクは、その他にも多くの残酷な話をすえから聞き、自分はどんなに幸運であったかを改めて知った。

 イクとすえが話をしていると、すぐ横にいた少女が重い口を開いた。心にある重い経験を話したら、少しでも心は軽くなると考えたのかも知れなかった。
「私は、国策で大陸に渡り、五族協和、東洋平和のため、国のため、軍国少女として胸を張って中国に渡りました。お国のためと、家族と一緒に力を合わせて働いたのです。そして、去年の夏でした。毎日、戦車の音や飛行機の爆音、銃声の音が響いていました。毎日、とても恐ろしくて震えていました。日本が戦争に負けたと言ってお母さんが泣いていました。開拓団の団長さんの決心で、開拓地から日本に帰ることになりました。それから、私達はつらい旅が始まったのです。」その時の事を思い出して、言葉を詰まらせた。
「大きい台車の音や子ども達の叫び声の中を、着の身着のままで列をつくって、長春に向かいました。途中、盗賊の襲撃に会いましたが、武器もないため、荷物は奪われるままでした。それで、ほとんどの荷物は無くなってしまいましたが、歩くことより方法がないので、歩きました。中には、病気の母親を捨てていったり、足手まといの子どもが殺されたり、そうでなかったら、そのまま道傍に置いて行かれました。置いていかれる人達の悲しい叫び声や泣き声が聞こえましたが、皆、無視して黙々と歩きました。お産する女の人もいましたが、産まれたらそのままお母さんも赤ちゃんも死にました。いつも襲撃されるので、昼は畑や野山で休み、夜、歩きました。でも、夜になっても盗賊団がやってきて、多くの人が殺されたり、少なくなった荷物も奪われました。母親の乳が出ないので泣くから他の人からうるさいから殺せといわれ、子どもの首を絞めて殺し自殺したお母さんや、泣く子を殺せないお母さんは道に置き去りにしました。」すえが涙ながらに話す少女をしっかりと抱きしめながら、大きく頷いていた。イクは何も言えず、何もできなかったので、黙って聞いていた。
「歩きつかれてしまった私は、途中で開拓団の人達と離れてしまいました。お母さん達も見えなくなったので、心細くて泣きながら、多分皆行った方向をとぼとぼ歩いていきました。開拓団の人達の死体の山が目に入り、びっくりしました。隠れて震えて見ていると、ソ連のトラックが走ってきて、新しい死体をその山に放り投げていたのです。」大きく息を吸って、その少女は思い出したのか、暫くしゃくりあげた。イクは、少女の背中を撫でながら流れる涙をそっと拭いてやった。
「夜になって、やっとソ連の兵隊さんが遠ざかって行きました。そろそろと歩き始めた時です。遠くで助けてという日本人の女の人の声が聞こえました。泣き叫ぶセーラー服の女学生や若い女の人がソ連軍のトラックで大勢無理やり連れていかれました。中には、反抗した女の人や助けようとした男の人は、その場ですぐに射殺されました。よく見ると、トラックの上で何人かのソ連の兵隊に日本人の女の人がレイプされていました。暫くの間、乱暴した後、ソ連兵はその女の人を真っ裸のまま地面に放り出して、車で轢いていったのです。車の上で乱暴されて死んだように動かなくなってやっと息をしている女の人をソ連の兵隊達が大きな声で笑いながら轢いていくのです。」恐ろしそうに少女は震えながらその光景を話した。イクは言葉を挟む事ができなかった。こんな大人になりきらない少女が、何と言う残酷な恐怖の体験をしてきたのだろう。
「残った開拓団の人達は、収容所に入れられました。私も捕まって収容所に入れられました。発疹チフスにかかって死んだり、人身売買で売られたりしてどんどん人が減っていきました。時々、ソ連兵がやってきて女と見ると若くても歳を取っていても連れていかれました。私達は、頭を坊主にしていたので、男と見られていて何とか連れて行かれなかったのです。でも、沢山の人が死にました。とても沢山の人が死んだのです。母も病気で間もなく死にました。最後の姉も、昨日、病気で亡くなりました。」最後に姉の事を話すと、少女は憑き物がおりたように、大きく息をして、声もなく涙をこぼしていた。イクは何度も何度も息を殺して、その話を聞き、又、自分の幸運を知ったのである。
 3人の女達は、自分の経験した事を話し終えるとお互い硬く手を結んだ。何があっても日本に帰る決意を確認したのである。

 父も母も亡くし、たった一人の姉も昨日死んだという少女の名前は、山田ユキと名乗った。彼女は、自分の上海までの道のりを話した。
 家族は、両親と姉と弟の3人兄弟であった。両親は開拓団で満州に来て開拓していたが、戦争が激しくなった昨年の1月に父親は軍隊に召集された。そして、終戦直前に戦死したという知らせが入った。終戦と共に街も生活も一変した。学校への道の途中には、中国人の子ども達から石を投げられたり、殴られたりした。仲の良かった友達の中国人から文房具を取り上げらて、怒ると中国人の級友が集まって殴る蹴るされた。配給もなくなり、生活は苦しくなって、母親は早く日本へ帰ろうと3人の子供達と相談していた。
 戦争に負けた8月の末、開拓団の団長が団員全員で日本に帰ることを決めて、ユキ達は開拓地を離れることになった。母親は幼い弟を背負い、ユキは、自分の少ない学用品をリュックサックに入れ、その上から皆の衣類を風呂敷に包んで背負った。最初は、皆歩いて日本への遠い道を歩くことになった。長い道程を歩いて、随分歩いて、どれだけ歩いた頃だろうか。母親が負ぶっていた弟を背中から下ろしたちょっとした隙に小さい弟が居なくなった。遠くへ行けるほどの子供ではないので、誰かが連れ去ったのだろう。いつまでも見えなくなった弟を捜しているわけには行かない。開拓団の人達が歩き始めたからだ。母は諦めて、残った2人の子供とそこを離れなければならなかった。弟がいないといって泣き出したユキを人攫いにあったのだろうとユキに捜す事の難しさを話した。いつ飢えで死ぬかもしれないよりも人攫いに攫われるのは、その子を誰かがが必要とされているから連れて行ったのだろうとも話した。話したというよりも母親は自分に言い聞かせていたのかもしれない。姉は初めから諦めていたのか、ユキほどには泣く事はなかった。多くの辛い旅の日々を過ごして、上海の収容所についた時、母親は病気になり、すぐに息を引き取った。まだ大人になりきらない姉妹は、どうしていいか分からずぼんやりしている内に、栄養失調で姉も母親の後を追うように死んだというのであった。ユキは、天涯孤児になったのである。

 本当に日本に帰れるのか、3人は何日間も不安な気持ちで過ごした。何日か待って、上海港から高砂丸に乗船する事が決まった。高砂丸が、日本に向かって動き出した時の気持ちをイクは忘れる事ができなかった。

 遠くに日本が見えるとの声にイク達も目を凝らして日本を眺めた。その時の気持ちもイクは忘れる事ができなかった。そして、舞鶴港に高砂丸が入港した。

 3人はやっと日本に着いた。舞鶴援護局検疫所の職員が、入港した船に乗り込んで来た時、イク達は無事に日本に着いた事を確信した。船内の衛生状況をチェックしたり、引揚者への予防接種をしたり、荷物の消毒などを受けた。そのため、暫くは、すぐに上陸できなかった。引揚桟橋では担架を持って待機している職員もいた。ほとんどの引揚者は、何らかの病気に冒されている事が多かったからだ。そうでない人は、栄養失調か、蚤・虱が身体中にたかっていた。親のいない小さな子供達も何人か居たのを見た。ユキと同じ境遇の子供達は、職員が別室に連れて行った。そんな小さな子供達を見て、イクは、誰のせいでこんな幼い子供達まで…と思って、持って行き所のない怒りと悲しみで一杯だった。引揚げ者達は、皆、無言で無表情で桟橋から日本の地に降り立っていった。イクはユキの事を思って心が痛んだが、子どものいないすえは、孤児のユキを連れて故郷の富山に向かうという。ユキの身の上を聞いたすえは、援護局の職員の手にユキを渡せないと言った。ユキを残して行く事は出来なかったのである。イクはすえの優しさがたまらなく嬉しかった。ほんの少し、心が和んだ。


 空襲ですっかり焼け野原になった日本の地面をイクは踏みしめた。

 イクは、日本に帰ってから、無口になった。
 自宅の神戸で粗末な食事を用意しながら何時も従軍看護婦であった時代の事を忘れる事がなかった。夫や子どもが、食事について何か言うと、一言いつも言う言葉がある。
「野戦の事を考えれば、この食事は、どんなご馳走か。文句は言わないで。」イクのこの暗い声で、夫や子供達は静かになった。


 敗戦直後、海外に残留していた軍人や軍属および一般日本人は660万人余りに上り、軍人・軍属と一般人との内訳はそれぞれ半数ずつであったという。送還は軍人や軍属が優先された。引揚者数は、1946年末までに500万人以上に達した。1947年にはさらに74万人余が引き揚げたといわれる。
 開拓団の人々は、もともと日本で貧しい生活をしており、その貧しさから逃れるために大陸へ渡った人が多かった。彼ら、民間人は、各地で築いた財産や土地を全て捨て、体一つで日本へ向かった。掠奪や飢え、拉致等で悲惨な目にあった日本人は数知れない。難民となった日本人は、それ以外にも、病気などで死亡する者が多かった。一体どれほどの日本人が、病気や飢えで死に、又、拉致され殺されていったのだろう。多くの日本人が犠牲になった事は事実である。この重い現実を、残された人々や若い人たちにも知ってもらう事は無駄ではないとイクは、いつも思う。日本本土以外の中国大陸で多くの日本人が死んでいった事実は、事実として声をあげるべきではないのだろうか。中国人や朝鮮人の殺された人数ばかりが報道されるが、日本人の一般の人々が、この戦争によってどれだけ犠牲になったのだろう。この事は、日本人ばかりでなく近隣の国の人々にも知って欲しいとイクは切実に思った。戦争は、どんな理由があろうが、お互いの国に多くの犠牲を出すという事実を確認して欲しいものだ。日本の土を踏めなかった100万人近くもの日本人の戦争犠牲者を忘れてはならないと、イクは心に刻み付けた。

 1941年(昭和16年)4月13日、日本は日ソ中立条約をソ連首相のスターリンとモスクワで調印され、相互不可侵などを定めたものであった。有効期間は5年と決められていたが、終戦直前の1週間前、1945年(昭和20年)8月8日、ソ連はこの条約を一方的に破棄し、日本に宣戦した。条約を破ったソ連軍は、満州に攻め入ったのである。現代の世界の勢力バランスの原型を作ったといわれる第二次世界大戦は、参戦国55ヵ国、戦死者4、000万人、そのうち一般市民は2、500万人であったともいう。7年間にわたった戦争は、未曽有の殺戮戦であった。
 いつの時代でも、どのような戦争であろうとも、いつも犠牲になるのは、力のない女子供が中心である。一般市民である。何十万人殺されたかという議論をするよりも、どうすれば皆仲良く平和に暮らせるかという努力を考えて欲しいとイクは思った。

 この大戦の結果、イギリス、フランスに代表されるヨーロッパの伝統的大国は衰退し、アメリカ、ソ連の2大国による新たな勢力の枠組みが形成されて、冷戦時代を迎える事になった。また、アジア、アフリカ、ラテンアメリカでは、反植民地闘争が激化し、多くの独立国が誕生する事にもなった。

 

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