明治から平成を駈けた女 第24章 

 富山の海には、七つの不思議がある。

 海は、天気の悪い日には暗い闇色となり、又、天気の良い日は、深い藍色となる。その色は、見る者の心を打たずにはおれない物想いの色となる。

 昔、その海の底には、竜宮城があると信じられていた。今も、竜宮城の使いがよく氷見の海岸に打ち上げられると言う。それが、大きな亀である。その大亀が海からやってくると、人々は竜宮城からやってきたとして亀に酒を飲ませ、海に帰している。竜宮城の言い伝えが、本当かもしれないと感じてしまうほどの深い、神秘な色を見せる。海の色が深いのは、深さが1,300メートルあるといわれるためなのかもしれない。富山湾の深さは、日本の沿岸随一である。

 富山湾の不思議は、七つに限らない。しかし、あえて七つに絞り込んでみた。
 最初に蜃気楼である。今では、すっかり風物詩となってテレビや新聞、ネットにも蜃気楼予報が出るほど人々の関心を集めている。
 次は、入善沖の海底林である。この海中林は、水深20〜40メートルの海底にあり、約一万年前の世界最古の森林跡で、立ち木のような状況で現存しているが、世界でここ一箇所しか存在していない。しかし、海底へ行かないと見れないのが残念である。
 三つ目の埋没林だが、これは約二千年前の森林の育成場所が地下に密閉されていたもので、魚津の水族館で見る事ができる。
 さて、最も神秘の極みであるホタルイカを四つ目にあげたい。夜になると、深海の谷間から渚近くに浮上し、夕凪の海の暗闇に青緑色の光を発する。青い宝石を思わせる、その美しさに人々は思わず息を飲む。富山湾の神秘と人々が言うのも頷ける。
 そして、富山湾の宝石と言われるシロエビは、ピンクの水晶のように透きとおった上品なエビである。ここ富山湾が、世界唯一の漁場となっている。
 宝石と言えば、宮崎海岸で運がよければ拾う事ができると言われるヒスイがある。滴るような濃緑、溶けそうな半透明、しっとりとした重さ等、これも海からの贈り物と説明する人がいる。
 最後の7つ目に、富山湾の大きな特徴である藍瓶をあげよう。富山湾は浅瀬が少ない。岩瀬浜で泳いだ時に感じた事だが、海水浴場になっているにもかかわらず、海に入るとすぐ深みになり、溺れそうになった事がある。日本で最も深い湾であり、海底は、深い谷、すなわち海底谷が数多くある。この海底谷が、海岸近くまで迫っているため、沿岸からすでに深くなっていたのである。その急激な深さゆえに、海の青さが太平洋側と違って濃い藍色となる。アイガメとか、フケと呼ばれる。藍瓶は富山湾の美しい海の色の原因になると共に、豊富な資源をもたらしてくれる。

 富山湾の神秘はこの他に、海から出現した神仏が在る。魚津の先手観音像、氷見の恵比寿・大黒、入善の土人形と狛犬、朝日の恵比寿、水橋の大黒、黒部の観音等は、まだ良いが、中には、八尾の法華経曼荼羅図等とちょっと吃驚するものまでが海中に光っていたと言う話もある。

 富山湾の西の方に小さな島がある。その小さな虻が島には、南方系の植物と北方系の植物が共生している。これも珍しいといわれるが、海流の所為で、このような風景になったのであろう。
 多くの不思議や神秘のほかに、富山には、世界に誇る素晴らしい景色がある。氷見海岸から富山湾に浮かぶ立山連峰が、世界でも珍しい風景である。普通、3,000メートル以上の山脈は、海からは見えないといわれる。又、標高3,000メートル級の北アルプスから続く急峻な斜面が深さ1,000メートルという海の底まで一気に到達すると言うのも、世界的にも珍しい力強い男性的な地形で、海の中にまでアルプスが続いている。その海の中には、世界最大級の湧水があり、その真水を飲む魚が棲むという。この立山連峰は、能登半島の珠洲市まで、天候のよい時には海越しに一望することができる。
 この立山連峰には、登山家の登山意欲を掻き立てる剣岳を擁し、冬には、その厳しさで人々を拒否している。しかし、立山黒部アルペンルートが建設されて標高2450mの室堂までバスで行くことができ、立山登山も手軽に行えるようになった。富山市から見える雄大な弥陀ヶ原は、高山植物の宝庫で、ハイキング気分で多くの人々が楽しんでいる。
 多くの神秘を抱えた富山湾である。


 平成14年から、大宮から富山に行く事が何度かあった。

 大宮駅から電車に乗り、上越新幹線の越後湯沢駅で乗り換える。乗り換えて、暫くすると、海が見えてくる。新潟の海は、穏やかだ。ささくれた心が、癒される。穏やかな海を見ていると、まったりとした平和な時間が過ぎる。
 突然、トンネルに入る。不親知が近づいた証拠である。なんとなく心がざわつき始める。不安な時間が加速されると、時折、トンネルが切れて、ちらちらと海が見え隠れする。
 富山に近づくにつれて、海の色が、どんどん濃い色になってくる。それを見つめていて、心が海の色にすっかり染まった頃に、富山駅に着く。
 富山駅には、昔のままの富山駅が迎えてくれる。決して近代的ではないが、かといって、古ぼけてはいない。3階の富山駅の中に、ステーションデパートがある。そこには、京都や金沢には負けない美味しい和菓子が並んでいて、和菓子が大好きな友人の心を捉えて放さない。日本中の菓子を色々食している友人が、感動した三大和菓子のひとつにこの富山の和菓子を上げるほどだ。だから、いつも富山の和菓子を買って帰る。勿論、海や河からの贈り物も忘れない。だから、富山駅を出る時は、いつも大きな荷物になって、帰り道を難儀する。

 さて、話を元に戻そう。


 イクは、新湊の海に立っていた。偶々、友人の病の相談を受けて新湊に来ていたのである。イクは、富山の海について詳しい事は分かっていなかったし、興味もなかった。だが、海の蒼さが、痛いほど心に染み入った。戦死した多くの兵隊や友人達を思い出して、彼らの無駄死にを思い、歯を食いしばって海を眺めていた。この海の向こうに満州がある。辛かった生活があった。目を海から空に向けた。空には、鳥一羽もいなかった。その目を渚に向けた。
 波が打ち寄せていた。何度も何度も打ち寄せては返していた。打ち寄せる波の中に、多くの兵隊や看護婦達の叫び声を聞いた。助けを呼ぶ患者達の悲鳴を聞いた。イクは、じっと、その声を聞いていた。その叫び声や悲鳴を胸の内に押し込んだ。鎮魂の歌を無言のまま歌った。

 海ゆかば 水漬く屍 山ゆかば 草むす屍 大君の辺にこそ死ねめ かへりみはせじ

 私は、負けない。イクは、富山湾の沖合いを睨みつけて、それから踵を変え、富山湾に背を向けて、大地をゆっくり一歩一歩踏みしめながら歩いた。


 これまでの生活の基盤であった神戸の家は、すっかり全焼してしまって、何もかも灰になっていた。矢助は、着の身着のままの無一物になって子供の所にいた。イクは、戦地から命からがら日本に帰ってきた。何とか、生き延びた命を無駄にはしたくなかった。無念の思いで死んでいった兵隊や友人の分もイクは貪欲に生きていこうと決心した。これからの人生に、涙はいらなかった。


 父親は、家を出るイク達一家を哀れと思ったのか、米を持たせてくれた。暫くは、これで食い繋げるとイクは思った。生活用品は、衣類を入れた柳行李が2つとみかん箱1つ。引越しは簡単に済んだ。
 何もない生活の中での唯一の贅沢品が、すぐチェーンが外れたり、パンクしたりする古い自転車があった。この自転車には、いわくがある。末妹のヨシの夫である婿が自転車が欲しいと言うので、イクの父親がすぐに新しい自転車を買ってやった。それを見た矢助が欲しがったため、イクは知り合いから壊れて使えない自転車を貰い受けた。古自転車を矢助が整備して何とか使えるようにしたものである。2台の自転車は、いつも広い玄関先に並んで置いてあった。みすぼらしい自転車は、新品の自転車と並んで、その家でのイク達一家の存在の象徴のようであった。イクは、その婿が自分の自転車を玄関から出す時、矢助の自転車を蹴飛ばしているのを偶然見た。心が煮えたぎる思いであった。
 馬鹿にしている!

 その婿は、矢助ばかりを馬鹿にしているのではなかった。子供達にも、辛く当たっていた。
 特に、太郎は体が弱いので、家で横になっている事が多かった。しかし、小さいから家の中を動き回っていた。時々、婿と鉢合わせする事があり、いつも小突かれていた。大人より小さな体の太郎は、婿に軽く押されて、転んだ瞬間をイクが見た時があった。その時、婿がにやりと笑った。その様子を見たイクは、婿に抗議した。
「小さな子を後から押して…!虐められんな。」イクの声は、乾いていた。
 婿は、見られた事を恥じるまでもなく、イクの抗議にも全く無視して返事もしなかった。イクは、又、同じ事を大きな声で繰り返した。
「わしの前なんか、ちょろちょろと歩くからや。わしが歩く前を邪魔をするが、悪いんや。わしの邪魔なんか、したら許さんちゃ。嫌だったら、この家を出て行かれ。」悪びれず、婿は、大声で返した。
 イクは息を飲んだ。この男が、我々一家を邪魔にしていたんだ。妹ヨシの娘の桂子も「出て行け」と叫ぶのも許さないが、この男はもっと許せない。

 登美子は、可愛い子だった。登美子の可愛さをイクは自慢していた。だから、当然、皆に可愛がられていると思っていた。しかし、婿には、3人の娘がいた。そのため、登美子に対して特に悪感情を持っていた。大柄な桂子は、気が強く、いつもイク達に「出ていけ」と言うだけでは済まないらしく、小柄なおっとりした登美子を何かにつけて虐めていた。登美子は、のんびりした朗らかな性格のため、虐められていると言う感覚もなく、遊んでもらっていると言う気持ちでいたいたようだった。
 太郎は、小さいながら婿の三番目の娘の子守りをさせられていた。太郎は体が弱いと言っても、病気で寝込むほどではなかったので、二番目の娘の遊び相手もさせられていた。二人の婿の娘の世話をさせられていたにもかかわらず、その親の婿は、イク一家を疎ましく思っていたのである。機会があれば、小さな子供だろうが、イク一家には辛く当たっていた。イクの両親は、そんな様子に気付いていても、婿には何も言わなかった。

 それどころか、この家を出るようにとの父親の話で、イク達の引越しが決まった。

 自分の親や妹たちの物質的に豊かな生活を見ていたイクの心には、大きなわだかまりが、膨らんできた。その上、戦災にあわない人達の生活は豊かで、イク達にとっては、高嶺の花であった。イク達一家は、物ばかりか、精神的な哀しみの方が、多かったため、イクにとって、それ以降の人生は、人間らしい素直な優しい心を忘れてしまった。
 今後の生活には、親はいないと思う事にした。夫に頼る事も出来ないとイクは思った。夫の矢助は、いまだに職探しに行く様子も見受けられない。イクの所為で富山に来たから、イクが生活の事を考えろとばかり、一日中ごろごろしていた。生活は、イク一人の肩にかかっていた。イクは、気持ちを引き締めた。米はあっても、野菜はない。やっとの思いで実家からこっそり持ってきた大根が何本かあるだけだ。これから、食料の調達と矢助の仕事探しをしなければならない。大きな大きな溜息がイクの口から漏れた。

 数日後、農家に買出しに出かけた。

 夫の矢助が農家で出来る仕事を頼みながら、食料を調達するために、農家を一軒一軒、回っていた。

「あんた、覚えとらんかも知れんけど、今のあんたを見て、やっと、わしの胸がすっとしたわ。」と、豊かな農家の主婦に声をかけた時、突然、イクの顔を見ながら、その主婦が言った。
「何の事がやね。」とイクは、遠慮がちに聞いた。この主婦を怒らせると、野菜を売ってもらえないかもしれないと思ったからだ。
「昔の事ながやけど、あんた、日赤の救護班で東京へ行ったやろ。あん時、あんた、偉そうにしとったねか。あんたは、覚えとらんやろが、それ見た、わしは、どんなにか惨めだったか・・・、」しばらく遠い目になった農家の主婦は、続けた。「そん時の農婦姿の自分がどんなに悲しかったか、分からんやろね。」
 イクは何も言えなかった。
「・・・・・・」イクは黙っていた。何を言っているのか、何のためにこんな事を言うのか、分からなかった。
「今のあんたの惨めな姿を見たら、可哀想になったから、野菜でも米でも恵んであげるわいね。わしの気持ちは、昔のあんたの事を考えると、嬉してならんわ。」戦地の爆弾の音も空襲の爆撃の音も耳にした事もない、平和な世界の中で自分の事だけを考えて生きてきた女の言葉であった。
 家の奥から萎びた野菜を持ってきて、イクに放り投げた。
「金なんか、家にいっぱいあるから、なーん、いらん。これ、持って行かれ。恵んであげっから。」うすら笑いをしながら、女は言った。
 イクは、唖然としてした。この戦争がどうして起こったのか。多くの都会生活者が、どうして罹災者になったのか。世の中の事を全く解っていない人間にイクは驚いていた。しかし、自分の事をまるで乞食か何かのように扱うことは許せなかった。例え、萎びた野菜でも欲しかったが、イクは、それをどうしても拾って帰る事はできなかった。
「お金を払ってなら頂きますよ。でも、ただの物は、乞食でないので貰う訳には行きません。」イクはきっぱり言った。
「へえー、困っとんがやろ。だから、物乞いしとるがやないがけ。格好つけんと拾って持って行かれ。」嫌味たっぷりに、言った。
「結構です。お邪魔しました。」イクは、慇懃無礼に深々と礼をしながらそこを立ち去った。
 イクの目には、怒りで溢れていた。親兄弟に邪険にされたばかりか、全く関係のない人間にまで馬鹿にされた事に、激しい憤りを覚えた。ここまで馬鹿にされるいわれはない。許せないと思った。しっかりとその女の家の名前を記憶しておいた。その名前を地獄の炎で、焼きこがそうとするばかりに・・・。

 8月の太陽は、イクの心まで焼き尽くしていた。

 汗拭き用の手拭いと日を遮る為の手拭として持ってきた2枚の手拭は、汗ですっかり濡れていた。こんな事なら、母も妹も持っていた日傘をこっそりとでも一本貰って置くのだったと後悔した。イクは、これからの生活を考えていた。
 今日の予定の食材は、まだ手に入っていない。何とかして、手に入れなければならない。米や野菜等と交換するための着物5枚は、汚れないように気をつけて抱えていた。どの農家も嫌な顔をしながら、話すらも聞いてもらえなかった。邪険に帰れと手を振りながら、時には、犬に吠えられながら、玄関払いであった。
 何十軒も回っているうちに、羽呉町まで来ていた。この町で、何とか、5枚の着物は2升の米になった。着物と米を交換する時、何か野菜も欲しいというと、米を引っ込められたので、米だけでもと思って、諦めて帰る事にした。
 帰り道は、疲労と空腹で足も前に出なくなった。米が手に入った事で、ほっとしたのもあったのだろう。太陽は、西に傾いたといえ、まだまだ暑い。少し、休もう。木陰を求めた。這うように、木の下に倒れこんだ。

 羽呉町は、梨の産地である。
 イクは、非常に疲れていた。イクは、とても空腹であった。そして、頭は、夏の暑さで思考力を失っていた。だから、理性や道徳の心も朧であった。
 突然、目の前に大きな梨の実が現れた。イクの食欲に火がついた。何も考えられなかった。梨の実に手が伸びた。
「泥棒!泥棒!梨泥棒!」大きな声が、すぐ後ろから聞こえてきた。棒を持った梨畑の持ち主がものすごい形相で走ってきた。
「堪忍してったはれ。堪忍してよ。」と、イクは大声で謝った。
「コン畜生!泥棒め!今日こそ許さん!」梨畑の主は、近づいてきて、棒を振り上げた。
「なーん、わしは、今日、始めて来たがや。」イクは、疲れた体をやっと起こして、梨畑の主を見た。
「何や、女や。」拍子抜けしたように、梨畑の主は、声を落としながら、言った。
「初めて、ここに来たがや。だから、この梨畑の事も知らんかったがや。」イクは、哀れっぽく言った。
「でも、今、取ろうとしたやろ。」又、畑の主は、声を荒げた。
「朝、食べてから、今まで何も食べとらんから、お腹が減って、お腹が減って、悪い事と思いながら、ごめんなさい。堪忍してたはれ。」深く頭を下げた。頭がくらくらするほど辛かった。「お願いですから、梨を一個で良いから、売ってたはれ。死にそうなほどお腹が空いとるがや。」
「何、言ってるがや。今、黙ってとろうとした人間に、情けは、無用じゃ。殴られなかっただけでも、感謝して、帰れ。」畑の主は、冷たく言い切った。黙って、梨の実を取ろうとした行為が祟って、どんなに謝っても、懇願しても、梨の実は、売ってはくれなかった。

 今日は、なんと言う日なんだろうと、イクは嘆いた。乞食や泥棒と間違えられて、イクの気持ちは、徹底的に傷つけられた。そして、世の中の人間、すべてを呪った。呪いの言葉を呟きながら、心の底から自己嫌悪で一杯になった。腹を立てたためか、イクは疲れた身体を何とか立ち上がらせた。そして、一歩一歩、足を引きずりながら、歩き出した。
引っ越したばかりのお寺の二階の部屋に着いたのは、夜、深い、真夜中に近かった。
 夫の矢助は、心配している様子もなく、高鼾で寝入っていた。


 昔、イクは、予防医学を学ぼうとした事があった。

 羅南の病院に在職していた時、赤十字本社病院から社会看護婦の生徒採用の規則書が送られてきた事があった。そこで、社会看護婦生徒採用の規則書送付方の依頼書を出した。しかし、本社からは、上海事変及び日支事変後は、社会看護婦の教育は中止しているとの返信を受けた。
 イクは、とても残念に思った。学校がなければ、独自での勉強と思ったが、参考とする本が分からない。しかし、向学の気持ちだけは、持ち続けていた。

 社会看護婦の養成とは、大正10年に第10回赤十字国際会議がジュネーブで開催された。その時の決議に基づいて、看護婦養成教育の中に社会的看護事業の教科が加わった。このため、日本赤十字社は公衆衛生看護事業に従事する優れた看護婦を養成する目的で、昭和3年2月に「日本赤十字社社会看護婦養成規則」を制定した。これは救護看護婦生徒の課程を終了した者に、さらに1年間の専門教育を行うというのであった。すなわち、保健婦教育の草分けであった。
 社会看護婦生徒の養成は、日赤本社病院で開始した。教科目は、公衆看護、個人衛生、集団衛生、社会的疾病の予防、社会事業、赤十字事業、看護歴史などのほかに、家政学、心理学、経済学、統計、法規、写真術などの教養科目があり、日赤救護部長、本社病院治療主幹、救護員養成部教員と、内務省衛生局予防課長、東京帝国大学教授などの専門家が講師になったという。昭和3年から昭和12年まで9回にわたり、114人が学んだが、日華事変の勃発によって中止された。


 今、イクは、浪人生活である。イクは、将来の事を考えていた。何とか、看護の仕事に戻る方法はないだろうかと考えていた。今のままでは、乞食や泥棒と間違えられる生活にならないと言い切れないのではないか。これでは、自分のプライドが許さない。

 時折、イクを訪ねてくる村の人々が居た。健康相談だった。
 この近くの村々は、無医村地区で、医者は居なかった。やっと医院がある村が見つかっても、戦争中、医者は応召されて、まだ戻ってきていなかった。イクの周りには、医療に関して、全くの暗黒地域だったといっても過言ではなかった。そのため、イクの存在が、地区の人々から少しずつクチコミによって、広がっていった。
 依頼を受けて、訪問した家のほとんどは、感冒・外傷・火傷・急性肺炎状態の患者であった。看護婦として出来る限りの簡単な応急処置を済ませると、患者の状態を観察した。保健婦の必要性を感じていた。
 イクは、勝手に治療も出来ないので、遠いが、しかし、町に居る医師に連絡を取って、看護や保健指導をした。
 当時の農家は、どの家も採光が悪く、薄暗い部屋であったため、衛生的ではなかった。そのような中で寝ている患者が多かったので、保健的な面での指導の不足を痛感していた。
 家庭訪問時間は、午後2時から8時までと決めていた。しかし、患者の状態によっては、夜の10時過ぎる事も珍しい事ではなかった。患者も1日に10人以上になる事もあった。
 温湿布のお湯の具合や患者の安静等の指導のため、患者の家族に多くの時間が費やされた。特に、火傷や怪我によるガーゼ消毒の指導に困難を見た。このガーゼは品不足のため、代理品の布の説明等、苦労が絶えなかった。ガーゼばかりではなかった。医療や衛生材料の入手も戦後の品不足のため、なかなか手に入らなかった。

 隣の村に、3歳の男の子を抱えた母親が、農家の納屋に住んでいた。
 その親子は、元、大阪に住んでいたが、大阪で罹災した。その焼けた大阪から命からがら、やっと夫の実家に夫と3人で、着の身着のまま、たどり着いた。それから、間もなく富山も大空襲となって、夫の両親共々、夫も焼け死んだという。結局、その親子は、自分の実家に転がり込んだのだが、両親も居なくなって、長男夫婦の代であったため、厄介払いの納屋暮らしとなっていた。長男の兄の情けで何とか食べるのがやっとという生活であった。兄は、妻の目を盗んで、少しずつ食料を分け与えていたのだが、兄嫁に感づかれて、いつも針の筵に居るような生活であった。

 ある日、イクの所にその親子が駆け込んできた。
 見ると、泣き叫ぶ子供の手が、真っ赤になっていた。大火傷であった。とにかく、火傷した手の応急手当を始めた。
「どうしたがや。」まず火傷を負った時の状況を聞いた。
「お昼の雑炊を囲炉裏で炊いていた時、ちょっと目を離した隙に、その鍋に手を突っ込んだがです。」と、母親は、おろおろしながら言った。子供の手に巻かれた手拭は、綺麗に洗濯してあったが、擦り切れていた。
「その鍋の中は、沸騰していたがけ。」イクは、鍋の様子を聞いた。沸騰していたならば、少しでも早く医者の手当てに走らなければならないと思ったからだ。
「鍋の中は、どうだったか。良く、覚えとらんです。」動揺した母親は、冷静に思い出せないようであった。
「とにかく、大事にならないように、早く外科に行った方が良いやろね。特に火傷は、時間を置く事は、駄目ながやからね。少しでも早く行って欲しいがや。」イクは、少しでも外科医に見せるように勧めた。
「・・・・・・」母親は、何も言わなかった。じっとして、動かなかった。
「何しとるがかいね。早く行かれんか。」イクの強い叱責に、母親は、涙を溜めた目でイクを見た。そして、ゆっくりと下を向いたまま、やはり動かなかった。
「あっ」と、イクは、声にならない声を上げた。この母親は、医者に払う治療費の事を考えているのだろうと感じた。迂闊だと思った。自分も金がないのに苦労したではないか。この母親は、私よりもっと厳しい中で、辛い生活をしている事に気がついた。
「心配しられんな。あんたの子供の事は、何とかするからね。」イクは、どうするか分からなかったが、とにかく母親を安心させようと考えた。泣き叫んでいた子供の声も弱々しげになっていた。
「医者に行かんでも良いように、何とか、ここで治してたはれ。」か細い声で、やっと母親は言った。「お金がないがです。」
「分かったちゃ。」イクは、疎開してきた罹災者同士の心の痛みが良く分かっていた。そして、物のない焼け出された人間しか分からない気持ちをその母親に伝えたかった。「任して・・・・・・」後の言葉は、飲み込んだ。医者の指示なしの治療行為は、看護婦として許されないと思ったからである。しかし、イクの看護技術で精一杯、出来る限りの処置をしようと決心した。
 イクの毎日の健康相談や治療処置の代金として、米や野菜を持ってくる農家の人が多かったので、それをお金に換えて、この親子のための包帯や火傷の薬を購入した。
 毎日2回、親子は、イクの所へやってきて、包帯交換をした。時々、母親は、ごく少量の野菜や米を治療費代わりにイクに差し出したが、イクは笑って受け取らなかった。
「もっと、子供に栄養をつけてたはれ。これは、貰った事にしとっから。持って帰ってたはれ。わしんとこは、今、十分じゃないけど、親子4人何とか食べれっから。心配しられんな。」反対に、イクは、その親子に米でも何でも渡したかった。しかし、他の農家の人達のように、十分な食糧を持っている訳ではなかったので、せいぜい治療を他の人より丁寧にする位だった。
「ありがとうございます。ありがとうございます。」他人から優しい行為を受けたことがない疎開してきた罹災者の母親は、いつも、何度もお礼を言いながら、涙を流した。「このご恩は、忘れんです。」
「お子さんの火傷の跡が、残らんと良いがやけどね。」イクは、母親に労いの言葉をかけた。
 時間はかかった。イクの処置が良かったのであろう。子供の火傷の跡は、想像以上に綺麗になった。イクは、最後の包帯交換を終えた時、母親と手をとって、涙の中で喜んだ。私の治療は間違っていなかった。イクの心は、自信と誇りで満たされていた。

 イクは、頼まれれば、何処にでも出かけて、患者の世話をした。
 いつの間にか、イクの存在は、村の人々の中で知られるようになってきた。健康相談や治療指導の帰り等、時々、声を掛けられるようになった。
 いつものように、隣の村の介護訪問の帰り、坪田という人の農家の前を通った。坪田太作には子供が4人居た。食べ盛りの子供達であった。
 夏の終わりであったが、夕方に近く、イクは、暑さと空腹を感じていた。
「あれ、高井さんじゃないけ。お疲れさんです。」坪田太作の妻が声を掛けた。
「あ、坪田さん。ありがと。毎日、暑いね。」イクは、元気良く答えた。
「あわてんがやったら、ちょっと、休んでいかれんけ。」優しい声がかかった。
「ああ、嬉しい。なんちゅう、嬉しい事、言うてくれんが。」暑さで、冷たいお茶が欲しかったイクは、本当に嬉しそうに、言った。
 火のない囲炉裏の前に、イクを案内して、坪田太作の女房が、井戸で冷やしていたお茶を出してくれた。
「なんちゅう、美味しいお茶ながね。本当に冷たくて、生き返るみたいだがね。」イクの声は、坪田太作の女房を喜ばした。もっとイクの喜ぶ声を聞きたいと思ったようだ。
「梨でも、食べてたはれ。丁度、甘くて、美味しいがや。」仏壇から、半分に割った梨をイクに差し出した。子供にやるつもりであった梨を他人のイクにご馳走しようと思っている事に、イクは、言い知れぬ感動を覚えた。このような待遇に、イクは、梨を手にとって食べる気持ちになれなかった。ただ見つめて、言葉も出なかった。
 思い出すのが、2年前の羽呉町での出来事であった。買出しに行った帰り、空腹を抱えて梨畑に手を出した。そして、怒鳴られた事、拝み倒して、梨を一個売って欲しいと頼んでも、売ってくれなかった事等、思い出していた。
 それにひかえ、坪田太作の女房のような人も居ると思って、イクは、感無量であった。
 この梨半分の縁から、イクと坪田太作の女房との交際が、始まった。


 看護技術を高く評価されたイクは、感動していた。

 村役場に、従兄が勤めていた。仕事柄、何かと村役場に行く事が多く、従兄と親しくしていた。出来るなら、夫の弥助の仕事の世話をしてもらいたいと考えていたが、なかなか言い出せないで居た。そんな事を頼んだら、従兄に馬鹿にされるかもしれないという心配と、親戚に弱みを見せたくないというイクのプライドがあった。しかし、その事がなければ、従兄との付き合いは、可もなく不可もなかった。

 中森村長が急性肺炎になり、自宅療養する事になった。
 毎日、主治医は往診していたが、従兄を通して、付き添い看護婦をイクに依頼してきた。聞く所によると、中森村長は、役場で面識があり、イクの印象に心惹かれていた言う。
 主治医は、自分の所属の看護婦を連れて行きたかったが、村長のたっての依頼であったため、イクに決まったという。イクは、昔、金沢等で外勤勤務の経験があったので自信を持って承諾した。イクは、非常に張り切っていた。すぐ、村長宅に向かった。明日と言わず、今すぐ始めるためだった。
 この頃の肺炎の処置は、胸部全体を湿布する療法であった。
「温湿布のための材料が必要なので、整えてください。」と、挨拶もそこそこに村長の奥様にお願いした。
「すぐにも、材料を調えます。」と、早速、材料が集まった。こんなに早く集まるとは考えていなかったので、イクは、驚いた。
「今すぐに、これを使って治療するには、問題がありますので、明日まで待ってください。」とイクは、医者の意見と命令を貰っていなかったため、一応材料を調えて貰うだけにして、翌日の医師の往診を待つように話した。
「いいえ、明日まで、待てません。あなたが、良いと考えたことを今すぐ、実行してください。私が、責任を持ちますので、高井看護婦の思うように処置をお願いします。」イクは、少し悩んだが、家族と患者の思いを考えてすぐに始めた。村の若い保健婦が、そばに居て、イクの処置に異議をとなえたが、それを無視して、イクは始めた。しかし、イクの処置を見ている内に、黙ってしまった。納得したのだろう。

 10日あまりで、肺炎は全快した。
 イクの処置は、正しかった事が証明された。医師も、イクの看護が良かったと感謝の言葉を言った。それを聞いた時、イクは、それまでの苦労が癒された気がした。不足がちな医療状況で、いかに看護技術が重要かが、理解された事であった。
 イクの看護技術の高さに医師も村長も感心したので、それからイクは、保健婦としても働くようになった。尚、当時の保健婦の資格は、県令によって不統一であった。
 村長の看護を済ませ、その後、イクは、村の保健相談も担当するようになった。



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