明治から平成を駈けた女 第25章 

 イクは、昆布を非常に好んで食していた。

 日本人は、世界でも最も海藻を好む民族である。そんな日本人の中でも、特に富山県人の昆布の消費量は、日本一である。富山には、お菓子にしろ、お惣菜にしろ、色んな形で昆布を使った食品が多い。。
 富山駅から電車に乗る前に、駅の売店で、昆布のおむすびを買うのを決まりにしている。昆布のおむすびも色々あるが、黒とろろ昆布のおむすびが一番美味しい。白とろろ昆布のおむすびは、富山以外でも食することが出来る。しかし、この黒とろろ昆布は県外ではなかなか手に入らない。東京に住む姉は、富山に行く事があると、必ず、この黒とろろ昆布と黒ふりかけ昆布を買って帰る。売っていない商品はないといわれる東京のデパートでも、これだけはなかなか買えない。だから、買う事の出来る貴重な機会は、富山に行った時しかない。イクと同様に、私も昆布好きで、昆布のお菓子に、ふりかけに、料理に、友人があきれるほど多くの昆布を使用する。

 富山の昆布には、歴史がある。昔、越中富山の商人は、北海道の昆布を北前船で富山や大阪へ運んだ。最も遠い日本国内では、薩摩だと言う。そのため、この道を昆布ロードと言われた。日本国内だけでなく、琉球や中国にも昆布や日本の特産物を届け、その帰りには薬の原料を手に入れた。富山の薬は、“越中富山のハンゴンタン”とも言われるように、日本全国に名を馳せている。当時としては、実に、インターナショナルな富山県人であった。昆布は、konbuと言う言葉で英語辞書にもある位、国際的な言葉になっている。

 富山には、美味な食品が多い。その中でも、昆布を使った食べ物を紹介したい。
 昆布料理で、昆布が主役と言えば、昆布巻きだが、これは、全国どこにでもある食品である。確かに富山の昆布巻きは、全国の昆布巻きと大きな違いはない。しかし、贔屓目のためか、美味しい昆布を使っているためか、富山の昆布巻きは、特別のように感じられる。
 又、昆布を巻いた蒲鉾は、富山を代表する食品だと思っている。小さい時から食していたためか、若くして、富山を離れたためか、富山を代表する特産物だと思う。しかし、なぜか、友人や近所の人には、お土産に持って帰る事は少ない。理由は、東京や埼玉でも時々手に入ることが出来るからだ。
 昆布〆は、新鮮な海の魚を刺身にして昆布に〆て巻いた物であるが、これまた、上品で美味しい。昔は、鱈のような安価な白身の魚であったが、今では、平目等の高級な魚もある。
 白や黒のおぼろ昆布は、おむすびやお吸い物に最適である。米どころの越中富山は、コシヒカリと言うお米の産地である。美味しい米菓も特筆する必要があろう。その米菓の中でも、昆布入りのおかきは、これまた、美味しい。昆布には、日本人特有の味覚の旨味が凝縮されているからだろう。昆布を中心とした食生活の中に、富山越中人の味の知恵と技の基本が見えてくる。
 さて、横道はこれくらいにして、イクの事に戻りたい。


 イクは、生活に多少ゆとりが出ると、良く昆布屋に昆布を買いに行った。昆布屋には、店先のガラス戸から中の昆布職人が昆布を削っている様子が見えるようにしてあった。職人が大きな広い昆布を足袋を履いた足の指ではさんで、包丁で上手に削っている。その名人技を学校帰りの子供達がじっと見ていた。初めは昆布の表面を削って黒とろろを作り、段々と、中の方の白いとろろ昆布を器用に削っていく。それを時間を忘れて子供達は眺めていた。その眺めている子供の横を通って店に入る。
 色々な種類の昆布があったが、イクはその昆布の中でも、削ってない黒いままの羅臼昆布を一枚買った。昆布が大好きなイクは、店を出る時には、もう、昆布の端を切って、口に放り込んでいた。
 家に帰って料理する時に、炭火で炙って食する。炙る昆布の香りで心が豊かになり、口に入れて噛むとパリパリと音がして昆布が溶けていく。その時、イクは、限りなく心が豊かで幸せな気持ちになる。この瞬間がイクの至福の時であった。どのような辛い事も、この瞬間には、すべて忘れられた。

 矢助は、相変わらず、働く気持ちになれないようだ。

 イクは、保健婦の資格を持っていたので、中森村長の働きで、役場に勤めていた。だから、看護婦のように夜勤等なかった。夜は、家を留守にする事はなく、子供や矢助と一緒に夕食をとる事が出来た。
 イクが役場で、矢助の仕事を探している事を上司に願い出て、探してもらった。だが、矢助の仕事は、なかなか見つからなかった。


 イクは、自分のペースで生活できるようになって、ほっとしていた。

 昭和26年の春だった。
 登美子が、金沢の短期大学に入学した。金沢までの通学には、それまでのお寺の間借り生活では、不自由であった。少しでも駅に近い場所に引越ししたかった。イクの仕事柄、お願いする人には困らない。色んな人に話しているうちに、駅に近い尼寺の二階なら、という事になった。

 村の生活から町の生活になった。

 小さな尼寺の生活は、イクの心に大きな変化を与えた。
 尼僧の優しさは、乾いた砂が水を吸い込むように、無宗教のイクの心に浸み込んでいった。時折の仏教談話も素直にイクの胸に響いていた。心休まる日々であった。矢助の事だけは頭を悩ましていたが、今の生活に大きな影響はなかった。
 物質的な面、経済的な面、大きな不安は少しずつ薄れていった。その上、食料の問題や交通の点等、町に移住した事で、村に居た時よりも心休まる日々であった。
 お寺の住職は、京都に居て、時折、帰ってくるだけで、3人の尼僧が留守を守っていた。3人の尼僧の名前は、教巖、教道、宏海と言った。3人の尼僧が、朝早くからお勤めに清掃に庭の手入れにと、良く動いていた。小さいお寺でありながら、庭も広く、部屋も多くあった。イク達は、二階の4部屋、3畳と6畳各2室ずつと、一階の板の間を一部屋を借り受けた。バス・トイレ付で、台所だけは、尼僧達との共用であった。この時代のバスは、五右衛門風呂であったので、一人しか入れなかった。今のような便利なものではなかったが、いつでも自由に入れる風呂は、当時としては、非常に贅沢であった。
 ゆったりとした部屋に緑溢れる庭、掃除が行き届いた広い尼寺の爽やかな空気と静寂な緑は、傷ついてささくれだっていたイクの心に、少しずつ染みた。イクの心は、優しい穏やかな緑色に染まっていった。

「奥の広いお風呂がわいていますよ。一風呂、どうですか。」ある日、仕事から帰ったイクに教道尼が言った。「お疲れでしょう。いつもの小さな風呂でなく、偶には、ゆったりとお風呂を楽しんでください。」
「勿体ない事です。今の風呂で十分です。」イクは、恐縮して言った。毎日、風呂に入る事はしなかったが、それでも、イクは十分であると思っていた。「どうか、気ぃつかんで下さい。」
「遠慮は、要りませんから・・・。」と、再びイクに奥の風呂を勧めてくれた。「皆様で、ゆっくりお風呂を楽しんで下さい。」
「なーん。そんな勿体ない事、できんです。」イクは、益々恐縮して、断った。今まで、親ですら優しい言葉が少なかったので、この尼僧の言葉には少々戸惑っていた事もあったのだろう。
「遠慮は、本当に要らないのですよ。」尼僧は、そんなイクの様子を見て、優しい声で言った。「このお寺のものは、皆さんのものなのですから。」
 イクは、素直に奥の広い、と言っても、温泉のような風呂ではないのだが、信者が数人は入れるほどのお風呂を戴いた。小さな五右衛門風呂のようにしゃがんで一杯のお風呂と違って、ゆったりと手足を伸ばして、心も広げて、大きく息を吸い、吐いた。やはり広い風呂は天国だと思った。実家の風呂は、ここまで広くなかったが、五右衛門風呂よりも広く、親子で入る事が出来た。しかし、多くの人間が入った後に、遠慮がちに風呂を戴くため、いつも濁っていた。
 透き通ったお湯の広い風呂にイクの心は、益々和んでいた。

 住職は、京都の尼衆学校の教頭も兼任していたので、この尼寺を留守にしている事が多かった。しかし、富山に戻ってきて、留守の尼僧達と京都の話や留守の間の問題を話し合っていた。その話が台所に居るイクの耳に入ってくる。京都での話が多いのだが、人生の教訓も多かった。イクは、洗っていた茶碗の手を止めて、話の中の広い社会を見ていた。その時間がイクを少しずつ人間らしさを取り戻していった。まろやかな住職の京言葉にも、優しさを感じさせた。
 イクは夕食後、親子4人での団欒を大事にした。時には、寺の住職が帰ってきていると、イク達の団欒に参加して賑やかな話になった事もイクの心を素直なものにしていった。

 ある朝、いつもの様に出勤しようとした時、久しぶりに京都から帰っていた住職に出会った。
「お早うございます。いつも感謝してます。」イクは、自然に感謝の言葉を口にして、玄関を出ようとした。
「あ、高井さん。ちょっと待って下さい。」いつもと変わらず、住職は、やさしい穏やかな態度でイクを引き止めた。
「何か、ご用ですか。」イクは、いぶかしげに聞いた。部屋代は、きちんと入れている。息子の太郎が悪さをしたのだろうか。何か、他に不都合な事でもあったのだろうか。何となく不安になった。
「時間を少し、私に戴けますやろか。」相変わらず、爽やかに言った。
「ええ、少しなら・・・」イクは、いつも時間に十分な余裕を持って家を出ていたので、時間の心配はなかった。
「私の部屋にきてください。」住職の声は、悪戯っぽく、微笑みながら言った。
 不安げなイクが部屋に入ると、住職は、座布団を勧めた。そして、住職は、イクに何も言わず、京都のお菓子をイクの前に置いた。
「さあ、一服・・・」手早く、お茶を立てた。そして、京都弁で言った。「この京都のお菓子はね、よう手に入らへんのや。」
「美味しおす。」イクは、拍子抜けしたものの、住職に合わせて京都弁で答えた。そして、微笑んだ。そして、丁寧な言葉で続けた。「こんな美味しいお菓子は、めったに戴くことができませんから、ほっぺたが落ちそうです。」
「珍しくお土産に持って来れたので、頑張ってはる高井さんに召し上がってもらいとうてね・・・。」お茶を立てた住職は、イクの前にお薄を入れた茶碗を置きながら、柔和な目で言った。「おひとつ、どうぞ。」
「お手前、頂戴します。」イクは、住職の心遣いに目頭が潤んだ。その心のゆとりに人間らしさを取り戻した朝のひと時であった。
 その時のお菓子の美味しかった事とお薄の味は、イクの一生の味となって残った。忙しい時こそ、このような一瞬の心のゆとりがうれしいと思った。

 イクは、このような住職のもてなしを受けてから、多くの人々にも優しい心を配るように心がけた。頑ななイクの心が少しずつほぐれてくるにつれて、多くの心の闇も蠢いてきた。平和な時間がイクの周りに出現すると、イクには過去の事が走馬灯のように動き始めた。

 昭和26年、対日講和条約、安保条約を締結し、日本は国際社会に復帰した。

「この条約は、極東での新しい戦争を準備するものだ。」として、ソ連のグロムイコ全権は、激しく非難した。対日講和条約草案審議中の事である。そして、調印式にソ連は欠席した。
 前年の昭和25年に勃発した朝鮮戦争で、ソウルが北朝鮮側に落ちた。北朝鮮側の南下で、国連側との反撃と膠着状態でマッカーサーは、戦域を中国本土に広げる作戦を主張した。トルーマンはマッカーサーを説得したが、応じなかった為、連合軍最高司令官を解任した。昭和20年8月30日、厚木基地に登場したマッカーサーは、5年半以上天皇に代わり、日本の帝王として君臨した。
 そのマッカーサーは、アメリカに帰国後、上院の外交・軍事合同委員会に出席して、以下のように証言した。
「科学、文化等の発展の上から見ると、アングロサクソンは45歳の壮年に達している。ドイツも同年齢だ。しかし、日本は、まだ12歳の少年である。」


 人間は、無限に自分を誤魔化せるものなのだろうか。

 過去の地獄を忘れそうになると、満州で死んでいった兵隊や友人がイクの夢の中に現れた。以前のように、絶えず現れる事はないが、それはイクの心を悩ました。彼らを忘れたわけではない。自分は彼らに何をすれば良いか分からなかった。遺族を一人ひとり尋ねて行けば良いのだろうか。悩んだ。イクは、お寺の中で生活をしていたため、夢を見た時、又、彼らを思い出した時、誰も居ない頃を見計らって本堂で静かに合掌した。そして、出来る限り、彼等の顔を思い出して冥福を祈った。時折、それに気付いた尼僧達がイクの祈る姿を影から慈愛をこめて見守った。復員してきたイクの過去を人伝てに聞いていたからだ。一言も過去の事や自分の思いを口にしないイクを尼僧達は思い遣っていた。

 イクは、彼らの死を考える度、見捨てざるをえなかった自分の心を振り返った。そして、自分は、彼等の死を思うと、自分の生き方はこれで良いのか、と疑問に思った。もっと自分を厳しく攻めたてる必要があるのではないか。そうしなければ、自分が見てきた地獄の中で死んでいった多くの人々に対して申し訳ないのではないか。
 生活が厳しく、口を養うのも覚束ない時には、彼等の死は、全く気にならなかったし、思い出す事もなかったが、生活に少なからず、ゆとりが出てきた時、そして、他人から優しくされた時、心に引っかかりを感じた。そのような時、厳しく自分を制し、彼等の死を謙虚に思い出して自分を責めるべきだろうと思った。
 この気持ちは、時間と共に薄れていく現実も感じていた。人間とは、過去を忘れて、自分に甘くなるものなのか。イクの心は、いつも揺れていた。
 彼らが現れると、イクは、自分の心に聞いてみる。そして、過去の罪すら正当化しようとして、自分の心を守る方法を考えた。そして、多くの悩みを胸の奥底に押し込めようとした。我が身可愛さに、多くの友人や患者であった兵隊達、彼らを見捨ててきた。その自分は悪くなかった。初めは、その心を嫌悪した。そのうち、時間が経つと、自己防御が身についていくものらしい。
 彼らを思いだした時等は、住職の優しさに触れると、イクの心は痛み、この暖かい空気が苦痛になる事もあった。しかし、時間が経つにつれて、その痛みは、どんどん小さくなっていった。しかし、それは、どれだけ時を経ても消えることはなかった。小さな小さな棘は、時折、イクの心を思い出すように現れては、イクの気持ちを乱していた。

 このようなイクの心の痛みのある生活でも、住職達や住居環境が恵まれていたため、イク達一家は、外目には、穏やかな生活を送っていた。相変わらず、矢助の仕事はなかった。

「わしは、商売しに大阪に行きたいと考えているのだが・・・」突然、矢助が思い詰めた様に言った。「何とか、仕事をしなくてはな。大阪に野菜なんか売りに行ってみようかと思ったんだがな。」
「何、言うがかと思ったら・・・」イクは、言葉に詰まった。「あんたに商売なんか、出来るがかいね。」
「やってみんと、分からんやろ。」矢助は、大きな声で言い返した。最近の矢助は、すぐ大きな声で怒鳴るようになっていた。
「無理や、無理。あんたなんかに、難しい商売なんか、出来っこないねか。」イクは、矢助の言葉に全く耳を貸さず、問題にしなかった。
「今は、治安も大分収まったから、大阪までの運賃と商売をする物を用意してくれたら、行商しに行ってみたいのや。」矢助の言葉は、真剣だった。「わしも、仕事をしたいのや。」
「一体、いくらかかると思うとるがや。」イクの言葉は、厳しかった。「大阪までの運賃700円も簡単には出せんわ。野菜だって簡単に手に入らないし・・・。何を考えとるがや。止めとかれ。」イクは行商している矢助の様子を想像して、ぞっとした。親や妹達にどんな目で見られるか。行商の経験のない矢助が失敗したらどうなるか。銀行員の妹の夫が嘲笑っている姿を考えただけでも、辛かった。
「そんな事、言わんと・・・」今は、イクの3,000円にも満たない月給で食べている立場から、最後は弱々しく呟いた。
「わし、あんたの仕事探してあげるから、もう少し待っとられ。」イクは、これ程まで矢助が考えていた事に驚いていた。矢助が自分から仕事を探さないから、やる気がないのかと思っていたからだ。矢助の仕事を少しでも早く、何としてでも探さなければならないと思った。

 イクは、真剣に矢助の仕事を探した。恥も外聞も捨てて、多くの人に頭を下げた。
 考えてみると、矢助は仕事を嫌っていたのではなかった。戦時中、飛行機の設計と組み立てをしていたため、戦争終結と共に、自分の仕事に対して大きなショックを受けていた。永い時間、何をして良いか分からなかった。イクに寄りかかった時間は、あまりにも永い間であった。しかし、無為に過ごしたこの間、何とか自分を取り戻す事が出来た。何かをしなければ、その気持ちが、最近、特に蠢いていた。

「工業高校の臨時教員をしてみる気はないか。」という話が中森村長からあったので、イクは、急いで家に帰った。その事を矢助に話した。
「高校の先生か。」すぐに返事は、なかった。しばらく、矢助は考えた。自分の専門は、工業である。どのような内容を教えるのかは、分からなかったが、遊んでいる事も出来ない。とにかく行動を起こしてみる事にした。
 工業高校に初めて出勤した。矢助の担当教科は、1年生の機械系工業科目であった。教科書はなく、自分で考えての手作り授業である。初めての事で、矢助は悩んだ。とにかく、出来る事から始めよう。
 矢助は、器用な男ではなかった。純朴で無口でカリスマ性もなかった。その上、生徒達への必要な授業テクニックもなかった。だから、挫折した。3日目に、授業は出来ないと音を上げた。
 イクは、矢助の高校教師適性に欠ける事を知り、大層、落胆した。この失敗で矢助は、仕事への情熱を再び失った。今、矢助が、仕事に対してやる気を失っては、又、いつ、仕事をする気になるか分からない。イクは、将来に不安を感じた。何とかしなければ、と考えた。イクの行動は早かった。

「高井は、設計と組み立てを専門にやっていました。教えると言うより事務関係の仕事に向いていると思います。どうか、事務関係に雇っていただけませんか。」矢助が3日で辞めた次の日に、イクは工業高校に走った。そして、事務長に頭を下げた。イクは必死であった。
「今、我が校では事務職員は充分間に合っているからなあ。」事務長は、腕組みをしながら考え込んでいた。「他の高校でなら、あるかもしれないな。」
「何処でも良いです。何とか、お願いします。」ここを断られたら、もう先はないかもしれないと、イクは感じた。この事務長に賭けてみようと思った。中森村長の友人である事務長は、イクを無下に断る事はしないかもしれない。「細かな計算や事務関係の仕事は得意ですし、ちょっとした大工仕事や植木等にも興味がありますので、必ず役に立ちますので・・・。」
「分かった。何とかしてみよう。」事務長は、イクの目の前でいくつか電話をした。
 長い時間がたった。
 校舎の外は、夕暮れが近づいていた。北陸独特の新緑の風は、生暖かかった。明日は、雨になるのかもしれない。イクが窓から見える空を眺めていた。どんよりした空が見えた。不安げに雲が走っていた。
「ああ、何とか、見つかった。良かった、良かった。」事務長は、ほっとしたようにイクの顔を見ながら大きな声で言った。「少し遠いが、商業高校で事務職員の空きがあるそうだ。近いうちに結婚すると言う事務員が居て、やめたいと言っているので・・・。丁度、人を探そうと思っていたそうだ。明日早く、本人を商業高校に出勤させて下さいよ。」
「ありがとうございます。有難う御座います。」イクは深く深く頭を下げた。

 駅の近くに自宅があるため、矢助は、4つ先にある駅まで汽車に乗り、又、30分市電に乗って商業高校に向かった。イクは、朝、早く出勤する矢助に弁当を作り、送り出した。矢助は、気が進まないためか、緩慢な態度で出勤していった。イクは、矢助が帰るまで不安であったが、仕事があるため家を出た。夕方、いつもより早目に帰宅した。矢助の様子を知りたかったからだ。
 家に着いた時、矢助は家に居なかった。
 イクは、ほっとした。何とか、勤まってくれる事を願った。
 矢助は、夜遅く、帰宅した。想像以上に遅い帰宅に、イクは不安を覚えた。矢助は酒を飲んで帰ってきた。イクは、矢助が就職に失敗したと思った。自棄酒だと思ったからだ。
「心配しとったがに、酒なんか、飲んできて・・・」言葉が詰まった。
「これが、飲まずにおられるか。」矢助は上機嫌であった。「明日から、頑張るからな。今までお前に苦労かけたから・・・」
「え?仕事、大丈夫だったがけ。」イクは、思いがけない言葉に一瞬、なんと言って良いか、分からなかった。
「そんながよ。仕事は、明日も行くから。今度は、大丈夫だ。心配せんといて。」矢助は、力強く言った。「先生と違って、仕事は、楽だし・・・」
「本当に、仕事出来るがやね。もう、心配せんでも良いがやね。」イクは喜んだ。目が少し潤んできた。「飲んできたから、自棄酒かと思ったがや。」
「何、言うのや。事務長が、祝い酒をご馳走してくれて、飲んできたのや。」矢助は、ご機嫌であった。「事務長は、気の良い人でのう。色んな事を話してくれたよ。」
「本当に、良かったちゃ。本当に、良かった。」イクは、嬉しさに矢助の手を握って喜んだ。イクは、心底喜んだ。「これで、わし、みんなに大きい顔できるわ。」
「これから、頑張って働くから・・・」矢助の顔は希望に燃えていた。「仕事も難しくないし、一緒に働く人達も良い人ばっかりだちゃ・・・」
 イクは、これで、又、ひとつ心配事が減ったと思い、安堵した。子供の心配より、夫の矢助のやる気の無さに心痛めている事の方が辛かったからだ。

 イクは、以前にまして仕事に没頭していた。その上、説教じみていない住職の含蓄のある人生訓話は、イクに益々人生の深遠を感じさせた。
 イクの保健婦としての仕事も油に乗ってきていた。上司や同僚、又、仕事に関係する人々とも上手くいっていた。順風満帆とは、この事なのかも知れない。
 二人の子供達も、良い子に育った。登美子は短大生、太郎は中学・高校とも学級委員や生徒会長等を引き受けていた。二人ともイクの自慢の子供になっていた。
 その上、矢助は公務員として正式に採用されて、イクの気持ちは、晴れやかであった。

 二人で働いたため、貯金も少しずつであったが、確実に増えていた。イクには、夢があった。間借りでなく、自分の家を持つ事であった。
 後に、イクは、尼寺の生活を思って、ホテルのような恵まれた環境の中で7年近く生活した事を懐かしく思い出す事が多かった。


 イクは、初めて自分の家を持てた喜びで感動していた。

 昭和33年11月3日、イク達の家が建築された。
 6畳3部屋、2畳1部屋、小さいけれどもゆったりした風呂と広い玄関の一戸建てであった。庭もあるので、矢助は趣味の庭弄りも出来る。イクは、その家を全額を借金なしで支払った。

 終戦後、この地に夫や子供と一緒に家族として、住みついてから10年になる。ただ仕事のみの毎日でもあった。
 イクは、都市生活で、借家住まいに慣らされていた関係か、貯蓄さえあれば、いつでも、好みの場所で家が持てるという、考えがあった。
 しかし、親しくしていた渋谷医師の「少しでも早く、家を建てた方が良いよ。何処かに行きたいと思ったら、売って行ったら良いだろう。」と言う。「富山という所は家がなかったら、馬鹿にされるよ。」とも話した。
 富山に住み、富山の気風を新たに体一杯に受け止めたイクは、深く考え込んだ。
 昭和33年5月には、娘の登美子が結婚していた。東京で住んでいたが、家がないのでは、実家に里帰りも出来ない。
 この機会に、家を建築すべきなのかもしれないと考えた。45坪の土地に、建坪13坪のささやかな家を完成させた。出来上がった小さな家を見て、家族4人が丸裸で、疎開してきてから、13年間の事を夢の中のようにぼんやりと偲んでいた。
 本当に、家族4人、元気で、良くここまでやってきたものだと、胸一杯の思いになった。感無量になっていたイクの様子を見た大工が、広大な農家の家と比較してあまりに小さい家なので、イクが悲しんでいると勘違いしたのであろう。
「裏には、残された土地があるねか。後からでも、どんだけでも増築、出来るねか。」と暖かい慰めの言葉をかけた。
「・・・・・・」考えと反対の慰めの言葉だったので、イクは返す言葉に戸惑った。
 息子の太郎は、東京の学校に行っていて、夫婦二人の生活では、少しも狭いとは感じなかった。都市生活を送ってきたイクは、合理的な生活を目的にしてきたためか、日常利用しない座敷の必要性を感じなかった。勿論、そのような立派な座敷を作るような経済力もなかったのも事実であった。

 大学生の太郎が、冬休みに帰宅し、小さいけれども楽しい我が家、そして、新しい家を眺めて、裏庭に出て、元気な声で歌を歌っていた。
「この小さな家は、父さんと母さんの二人で十分ですよ。でも、貴方が、将来、富山に住む事にでもなったら、裏に地面があるから、好みの建築をしてね。」と、イクは、太郎に言った。
「はい、僕は、三階建てを作りますから。」と、太郎は、元気に答えた。
 この言葉は、イクの心を暖めてくれた。

 その後、3年後には、書斎兼応接室の8畳と台所を増設した。今までの台所を洗面所つきのお風呂場に改築し、少しは、家らしい広さとゆとりを感じられるようになった。


 昭和33年には、11月には、現在の天皇が皇太子であった時、美智子さんとの婚約が発表された。

 第4次日中貿易協定が調印されたが、長崎国旗事件で日中貿易は途絶した。文部省は、道徳教育を実施する方針を決め、愛国心を復活させた。日米安保改定交渉も始まり、政治的にも多くの問題が山積していた。又、この年の総選挙から自民党は派閥闘争が徹底したものになっていった。

 昭和33年6月を底に、なべ底不況は回復した。岩戸景気により日本は高度成長を遂げた。スーパー・マーケットの登場で、大衆の消費ブームが現れ、1,000円のワイシャツが500円で売られた。
 景気は昭和36年末まで上昇の一途を辿り続けた。特に耐久消費財の普及が目立ち、ライフスタイルの変革が始まった。一億総白痴化の批判をよそにテレビが順調に伸び、翌年の皇太子の成婚中継を期に、爆発的に普及した。テレビが街頭から家庭に入り、子供たちもテレビに釘付けになっていった。テレビばかりでなく、映画人口も延べ12億人以上となり、最高を記録した。しかし、失業者は700万人から800万人だといわれていたのもこの時の日本の現状であった。



私のホームページへ