明治から平成を駈けた女 第26章 

 イクは、自分の人生を振り返った。

 イクは、若い頃から好奇心は強い方だった。しかし、飽きるのも早かった。人から心惹かれる話を聞くとすぐに興味を持ち、行動するが、長続きしなかった。しかし、イクはそんな自分に対して、決して引け目を持っていない。たまたま自分にこれが合っていないんだというだけの事であったからだ。我慢する事や他人を手本にする必要もなく、自分は自分らしく、正直に生きているだけだと考えていた。だから、興味を持ったものに飽きると、それが自分にとって必要のないものだと確信し、それ以降、2度とそれに対して関心を持つ事はなかった。
 自分は自分であるという考えをイクの中で充分気に入っている事だったから、その理由で、他人の批判は、全く受け付けなかった。周囲に対して言い訳もしなければ、作り笑いをして他人の歓心を得る事もしなかった。そんな自分を毅然とした態度だと半ば自己陶酔的に浸っていた所もある。自分を誤魔化して生きていないという自負心は、イクの誇りでもあった。その結果、人が傷つこうが、角が立とうが、イクにとっては、関係なく、相手が生き方が下手なのだという位の気持ちでしかなかった。
 世間一般的にも、若い頃は、誤魔化しながら生活する必要がなかったし、世の中の人々は、若いから仕方がないと大様であった。だから、若い時のイクは、たいした問題でもなくても自分の主張を押し通しす事は出来た。しかし、年齢を重ねた現在のイクは、その考えを変えなかった。相変わらず自分の意見を主張した。
 世間はなぜか、このイクの我儘を通してしまう。イクの考えが、男性的であった事も考えられるかもしれない。イクの意識には、何とか自分で働いて、自由な生活をしたいと思っていた。当時の女性とは、考えられない程の自立した考えが強かったと思われる。
 イクは、家事だけこなして、夫に食べさせてもらう等とのんびりした生活は、我慢が出来なかった。自分も働いて、自立していたかった。その結果、夫がイクの生活に合わせていくうちに家事に興味を持ち、次第に当時の男として仕事への情熱が失せて、自分を誤魔化している様子にも気がつかなかった。
 そのような夫の矢助が、晩年、息子の嫁に自分の人生はつまらない、無駄な生活であったとこぼす事になろうとは、イクには思いもよらなかったのである。

 さて、すっかり生活も落ち着いてきたある夏の始まりの頃である。珍しく、仕事が予定よりも早く終わったので、何となく家に帰りたくなり、明るい内に役場を出た。
 夕刻の風は、イクの頬を撫でていた。夏の太陽は、いつまでも空一杯に明るさを残していた。田植えの時は、細々としていた苗が、大きく伸びて、田んぼはきれいに背丈をそろえた大きな草原のように目の前に広がっていた。手入れの行き届いた緑の濃い草原は、風に揺れて、爽やかな風となってイクの体を癒してくれた。遠くには立山連峰、近くには呉羽の山が見える。
 イクは、少しずつ太陽が西へ傾いていく田園風景を見ながら、この日本の穏やかな風景をいつも寂しいと思っていた。若い頃には、都会生活に憧れ、その生活の経験もあるイクであったので、今も、尚、このような風景には馴染めなかった。左右の緑濃い草原を抜けると、ぽつぽつと家が並んでいる。イクは、今日一日の仕事を振り返りながら、長い家路を歩いていた。我が家に近づくにつれて、顔見知りに出会った。その人々に軽く会釈しながら、家に到着し、玄関の戸を開けた。
 家に帰ると、珍しく矢助が帰っていた。
「仕事は、どんながやけ?」イクは、深い意味もなく聞いた。
「う〜ん、特に大きな問題もなく、なんとかやっとっちゃ。心配しられんな。」矢助は、なるべく触れられたくないような感じで、ぼやかすように言った。
「自信がないみたやね。なんかあったが。」イクも、又、深い意味もなく聞いた。
「な〜ん、大丈夫や……」矢助は、自分の返事の軽薄さを意識しながら、しかし、何とか話題を変えようと考えながら、言葉の引き出しをかき回しながら、戸惑っていた。ふと、先日、鹿児島から同窓会開催の葉書が来ていることを思い出した。「久しぶりに、鹿児島に帰ってみたいと思っとるが…」
「そうやね…。もう、何年も帰っていないから、偶には、故郷に帰ってみるのも、良いがやないけ。」暗い昔には触れないのが良い。触れなくても良い時は、懐かしい子供の頃である。イクは、優しい気持ちになっていた。「おっかさんもどうなってるか、気になっているから見てこられ。」
「ほんとに良いが。」矢助は、心の奥にわだかまっていた問題をイクが事も無げに言ってくれた事に、胸の底に緩やかに水が流れだした。「夏休みに入るし…。それじゃ、鹿児島に行ってくるかな。手紙だけでは分らんから、見てくるちゃ。」
「何年ぶりやろかね。ゆっくり行ってこられ。」イクは指で折りながら、なんと長い間、鹿児島の母親の顔を見ていない事に気がついた。親孝行な矢助が、今まで良く黙っていたと感心しながら、気持ち良く鹿児島に行かせてやりたいと思った。
 今まで、必死になって生きてきた。懐かしがるような過去は、イクには全くない。過去を思い出して、浸るほどの物もなかった。しかし、それはイクの事であった。矢助には矢助の事情があるはずだった。

 イクは、矢助の顔には、疲れが滲み出ているのが見えた。矢助に対して優しい気持ちになった。部屋の中が暗くなっていることに気がついたイクは、窓の外を見た。太陽も山に入り、辺りが暗くなっていた。電灯を点けた。その光は、矢助の疲れをより一層深めていた。その様子で、イクは、矢助が歳をとった事に気がついた。
 という事は、自分も年齢を重ねたという事だ。数えてみれば、自分は、50を超え60に近くなっていた。イクは、小さく咳払いをした。そして、黙り込んだ。ゆっくりした時が、柱時計の大きな音を立ててイクの心に殴り込みをかけるようであった。その音は、イクに時間を止め、思考を止め、動きを止めた。イクは、立ちすくんでいた。
 昔の子供の頃が、髣髴と湧き出てきた。
 暫くすると、髪をふり乱した仕事一筋の自分の姿があった。
 生きる事は、何だろう。こんなに一生懸命に走り回って、頑張って、自分をすり減らして、楽しみもなく、苦しむばかりの人生って何だろう。私の生き方は、無駄な人生だったのだろうか。
 しかし、イクは、自分が愚かだとは、気づくと言うより認める事を許さなかった。大人になっても、それは変わらなかった。少しずつでも、日常生活の中でも、経験を積み重ねながら、視野を広げながら、昨日の自分より今日の自分は成長したと考えたかった。
 イクは、体は、確かに女性である。しかし、考え方等が男性的であった。自分の力でお金を稼ぎ、家族を養う事も喜びであった。家族を路頭に迷わせず、養っているという自負、そこにイクは、今、生きているという目的を見出していたのかもしれない。
 一生懸命歩んできた道程の中で、自分が、自分を一番理解してきた。そんなイクだから、いつも自分にご褒美を与えていた。自分が稼いだお金で、贅沢品を買うのに喜びを感じていたので、次はどんなご褒美が良いかと考えるながら、いつも頑張っていた。
 イクは、暗い昔に触れたくない。意志の強いイクは、昔の、強烈で厳しい体験は、小さな棘となって残っていたが、角を真珠が丸くするように、少しずつ、涙で角を丸くしていった。思い出しても、昔のように、心を痛みの海に漂うことはなくなってきた。
 黙り込んでいたイクの様子を見ていた矢助が、イクの茶碗にご飯を盛りながらそっと遠慮深そうに差し出した。
「ほんと、夏休みに入ったら、鹿児島に行ってこられ。」イクは、穏やかな顔になり、矢助からご飯の入った茶碗を受け取りながら言った。
「そやね。行ってこかな。」イクの言葉に、矢助もほっとした表情を浮かべた。
「そうしられ。随分、顔を見せてないから、心配しとると思うとるよ。」イクは、同じことを繰り返しながら、ささやかな愛情をこの男に感じながら応えた。
 

 イクは、昭和26年国家試験を受けた。

 改正された看護制度第2回看護婦国家試験が実施された。
 新しい制度での資格を得た人達と共に働き、共に研究する、そのような中に古い者が居ては、追いついていけないのではないだろうか。と、考えたイクは、金沢の試験場で、2日間の国家試験を受ける事にした。
 イクの矜持は、この看護婦と言う仕事への情熱にあった。他人にこの事についてだけは、文句を言わせないという気概を持っていた。新しい時代と共に、感覚の古さを指摘されては駄目だと言う考えから、それなりの勉強をした。46歳と言う年齢は、若い人達よりも多くの努力を必要とした。しかし、矢助の家事一般を引き受けてくれると言う大きな協力もあって、イクは多くの時間を勉学に当てることが出来た。若い人達の中でイクは負けじと試験に打ち込んだ。イクの他人とは違って最も素晴らしい事の一つは、自分が納得したら、どんな事があってもやり抜くという力であった。特に看護と言う勉強には、矢助が感心する程、熱の入れようであった。
 その甲斐もあって、合格証を手にした時は、素直に嬉しかった。夫の矢助も、イクの合格を祝って、赤飯を炊いてくれた。娘の登美子も短大から帰ってくると、その試験の結果を知り、一緒に祝ってくれた。息子の太郎も、高校から帰ってくると母親の頑張りを褒め称えた。イクは、得意の絶頂にあった。やはり家族は良いと感じていた。
 翌日、役場の結城助役に意気揚々と合格証を見せた。
「合格しましたか。」助役は、ニコリともせずに言っただけであったが、イクは、それでも嬉しかった。
「これから、もっと頑張ります。」弾んだ声で、理想の保健業務に向かうことを誓った。
「無理をしないで、今まで通りに仕事に励んでください。」助役は、はしゃいでいるイクに素っ気なく言った。

  小杉町での勤務は息苦しいものであった。

 イクは、どうでもいい問題でも、自分の主張を押し通そうとする。後になって少しは反省する事はある。だが、人々との軋轢が起こると、何となく最後まで頑張って言い通す。そのような性格のためか、時々、この閉鎖的な地域がいやになることが多かった。
 しかし、イクは保健婦という仕事に大きな誇りを持っていた。独創的に考えて仕事に精を出すイクの行動は、時に上司の叱責を受けた。上司の目には、イクの行動が単に組織を乱す跳ね返りにしか写ってなかった。特に臨機応変的に緊急な家庭訪問にも、国民保険課の課長の許可なしでは動けなかった。行き先の突然の変更に課長の許可なく行動したイクに多くのペナルティが課せられた。仕事を始めた頃は、自由な行動が許されていたイクにとって、世の中が落ち着いてくるにしたがって、勤務状況の規制が増えて、息苦しく思われるようになっていた。
 それでも、イクが小杉町の環境衛生整備を担当して、10年間になろうとしていた。この頃になると、保健婦としての意識が満足させられるものではなくなっていた。だが、理想の保健婦業務を胸に、イクの心は割り切れないものを持ったまま仕事を続けていた。

 理想の保健婦としての夢を遠くに追いやって、イクのさしあたっての仕事は、今流行している伝染病対策や、蔓延している寄生虫駆除に重点が置かれていた。町村のこのような状況を目の前に見て、予算や方法問題との折衝も多く、上司との攻めぎ合い等でイクは疲れていた。理想的な保健婦としての知識は全く関係がないような現状であった。集団衛生教育の強化ぐらいが保健婦らしい仕事であった。
 戦後、小学校では、検便などを通じて寄生虫を発見し、駆除薬を学童に飲ませた。今でも、幼稚園や小学校では寄生虫の検査は行なわれているという。
 土壌から感染する寄生虫のうち、子どもたちに最もよく見られるのは回虫だった。寄生虫の卵がついている土のついた食べ物をよく洗わずに食べて感染する。寄生虫病はしばしば深刻な健康上の問題を引き起こし、子ども達の健康や学習能力に影響を及ぼす。寄生虫は、子ども達が食べた物から栄養を吸い取り、食物の吸収にも影響を及ぼしながら、成長に重要な栄養素を奪い取ってしまう。特に鉄分などが奪われることで、貧血や栄養不良、成長不良の原因となる。慢性の感染症は、精神的、肉体的な発達を長期的に妨害する可能性もある。最も深刻な場合には、死亡する事もある。
 積極的な衛生習慣を心がける事が、寄生虫病の予防にとって欠かせない。寄生虫の卵は、感染した人の排泄物を介して広がっていく。人の排泄物が戸外の溝に流されている時代であったため、土壌や水の中で寄生虫が成長ていた。便器やトイレの使用、食事前の手洗い、トイレの後の手洗い、適正な排泄物の処理、果物や野菜を清潔な水で洗う事などが、この感染の悪循環を断つために欠かせない指導であった。下水は完備していない時代でもあった。
 イクは、定期的な寄生虫駆除によって小学校の出席率の増加や学校での子どもたちの学習能力が大きく改善する事を説得して回った。処置は簡単であり、費用効率もきわめて高い事を保健婦の立場から上司や学校の管理者に話していた。

 イクは、イクなりに町役場を舞台に精一杯、悔いのないように仕事に専念する事だとして割り切ろうとした。しかし、町村の保健婦は、県と職場の板挟みの状態に置かれた。県は町村の実態を分らず、一方的に命令を押し付ける。職場では、その命令をただ受け取り、実行するように現場に押し付ける。イク達のような、下っ端は、ただおろおろするばかりであった。
 この様子に堪らなくなったイクは、県の医務課の亀谷課長を直接訪問して、町村の健康実態を訴えた。
「私達は、職場で上司と毎日顔を合わせております。町村の保健婦となっていて、所属の町村長の命令は実施しなければなりません。保健婦だから、保健婦だけの仕事をしているという訳には参りません。保健婦ごときが県に文句を言う等とは生意気だとお考えかもしれませんが、私達保健婦は精一杯頑張っています。もし、県が一介の保健ごときが何をくだらない世迷言を言っていうるのかと申され、もっと良い方法があるとお考え、指導されるのでしたら、私は、このまま引き下がります。しかし、保健婦という身分の一本化をお願いします。保健婦は、単なる、看護婦の延長ではありません。保健業務補助員でもありません。保健課長の下っ端の事務員でもない事をここに宣言したいと考えています。よろしくお願いします。」イクは、必死になって、現場の実情を訴えた。胸に問題を抱えながら上役を忖度して、黙って言う通りに仕事をするのは我慢できなかったからだった。

 この事ばかりではなかった。
 氷見保健所での保健婦の研究会があり、保健婦の教育について、幅広い話し合いがあった。その時、長年、氷見地区に居て、働いているひとりの成田と言う保健婦の発言があった。
「私達に、時々、非常に高度な保健婦業務を要求されるが、子供を抱えている、一家の主婦である私達は、現在の教育程度で結構やっていけます。この上、より一層の保健婦としての高い知識の勉強は重荷であります。」
 この発言は、県の指導保健婦である岩佐美江保健婦からの発言についての反発であった。岩佐保健婦の求める保健婦の姿は、高い理想のものであったため、氷見保健所長も成田保健婦の意見に同調した。県の保健主事として、常に理想を求めて勉強に励む岩佐保健婦は、ひどくショックを受けた。
「戦後、日本全土が、焦土と化し、人々の生活は焼け野原から、現在まで必死になって日本と言う国を立て直そうと頑張ってきました。これからの日本を背負ってたつ子供達に立派な体と衛生的な生活を考える上で、保健婦の仕事は、非常に大きなものがあります。皆さんが、仕事が大変だと言う気持ちは分りますが、ぜひ、日本と言う国の将来を見据えて、努力を重ねていただきたいのです。例えば、看護婦と言う職業を考えると、看護婦は目の前の病気と戦う仕事であります。しかし、保健婦は、看護婦よりもずっと重要な、国の将来に関わるものであります。是非、皆さんの努力を期待したいのです。ご協力が必要なのです。」岩佐保健婦の言葉は、イクの心を捉えた。
「皆さんは、主婦と言う重要な立場も立派にこなさなければなりませんが、料理の傍ら、洗濯をしながら、少しでも勉強をしてほしいのです。」岩佐保健婦の言葉は、熱を帯びてきた。
「……」会場の保健婦達は、黙って話を聞いていたが、不満そうな溜息が漏れていた。
「今、ここで、これで知識が十分だと思ってしまったら、日本の多くの子供達の健康の未来が心配です。確かに、終戦直後の不衛生な状況は、脱しました。しかし、それは、初期段階です。これからの保健婦の仕事は、大変重要になると考えられます。特に地域と密着した保健婦は、疾病の予防活動や健康の増進、在宅で病人を抱えている家族への家庭看護方法の教育、保健情報の提供等とともに、訪問看護などの役割も重視されているのです。私達保健婦が考えなければならない対象となる人々は、その地域に住むすべての住民が含まれていて、多くのその地域全ての人々の健康と命を預かっているのです。すなわち、私達、保健婦は、乳幼児や妊婦、成人、高齢者など幅広い年齢層を対象としている事を忘れてはならないのです。保健婦は、精神的、或いは身体的障害者、又、難病患者を対象としたり、危機管理に関わることもある事を忘れてはならないのです。私達の仕事は多く、内容も非常によいものを求められているのです。」長い岩佐保健婦の演説が続いた。
 イクは、岩佐保健婦の言葉に感銘を受けていた。
「保健婦は、日本の人々の命に責任を持って支えていかなくてはならないのです。」少し岩佐保健婦は言葉を切って、会場を見渡した。「貴女達、保健婦が、日本国の命を預かっていると言う気概がなければ、この仕事を全うできないと考えていただきたいと思っています。」
 小さなどよめきがあった。イクは、心地よかった。(私は、このような素晴らしい仕事に参加しているんだ。)この思いに喜びを感じ、少し興奮気味であった。しかし、イクのような高揚した気持ちを持っている保健婦ばかりではなかった。
「私は、そんな大袈裟な事考えた事もないちゃ。」隣に座っていた顔見知りの山田保健婦がイクに向かって囁いた。
「保健婦の仕事は、他の仕事と違って、とても重要な仕事だと言う事が分って、嬉しいねか。」イクは、山田保健婦に小さな声で言った。もっと岩佐保健婦の話が聞きたいので、山田保健婦の言葉をさえぎりたかった。
「そんなが言ったって、わし、お金さえ貰えれば良いと思っとるがや。難しい事、な〜ん覚える気にもならんけど…。」少し口を尖らせ気味に、もっと言いたそうにイクを見つめた。イクは、そんな山田保健婦を無視して、顔を岩佐保健婦の立つ演壇に目を移した。
「皆さん、貴女方は、保健婦の誇りを持って、保健衛生の実情を自分の目で見て、頭で考え、自分の足で確認し、人々の健康的な生活のために、より一層努力していかなければならないのです。確かに、一家の主婦としても多忙な立場にあるかもしれませんが、少しでも時間を見つけては、勉強して頂きたいのです。」熱を帯びた岩佐保健婦の言葉は、本人も当然だが、イクも心の底からより一層の努力をすることを誓っていた。しかし、会場に居るほとんどの保健婦は違った。あちこちから小さな不満が、淀んだ淵の底から泡沫が一つ、又、一つ、というように浮かんでは消えていた。
 暫く、岩佐保健婦の熱心な講義が続いた。泡沫が、一つであったものが、この講義が進み、内容もかなり高度な話になってくと、二つ、三つと増えてきた。
 次第に、いくつかの泡沫は、少しずつ耳に障るようなざわめきに変化してきた。
「何か、皆さんは、言いたいことがあるのですか。」ざわめきと共に人の顔が自分に向けられていないことに気がついた岩佐保健婦は、少し苛立った声を上げて、会場を見渡しながら言った。
「あのう…。」一番前に座っている保健婦が、遠慮深そうな、小さな声で言った。成田支部長の良く知る川田看護婦だった。真面目で努力家の保健婦であった。
「先ほどの、保健婦さんと同じ考えですが…。」成田保健婦の言葉をイクは思い出した。「今、私たちは現状を把握することで精一杯です。支部長さんのおっしゃることは十分分っているつもりです。私達も、精一杯努力しているのです。しかし、これ以上の勉強は、とても無理です。」
「……。」一瞬、岩佐保健婦は、息を飲んだ。一人位の怠け者は仕方がないと考えていた。しかし、この保健婦は、優秀で、努力家である事を知っていた岩佐保健婦は、(まさか、川田保健婦まで、このような事を言うとは…)と思ったのだった。
「貴女方の、家庭における事情は、分っているつもりです。」岩佐保健婦は、そう言いながら、独身である自分の立場が弱いことに気がついた。岩佐支部長の母親が家事の全てをやっているので、岩佐保健婦は、十分、仕事に打ち込めた。とにかくこのようなやる気のない空気を変えようと考えた。「他の人たちの意見も聞いてみましょう。どなたか、意見がある人はいませんか。」
「はい!」威勢よく手を上げた保健婦が居た。イクも、手を上げたが威勢の良い手の上げ方ではなかったので、多くの手の中から選ばれることはなかった。
「岩佐支部長の意見は非常に重要だとは思いますけれど、私達の現状では無理です。看護婦的な仕事か、県からの指示に従って、上司の命令を実行するだけで、精一杯です。支部長のような立場にある人は、色んな事を考えて、理想を追求することは可能かもしれませんが、家庭の主婦である我々としては、理想的な保健婦になる事は、時間的にも能力的にも無理です。」多くの拍手が起こった。同じような考えを持った保健婦が多い事に、イクは驚いた。しかし、この状況には、イク以上に岩佐保健婦は、言葉をなくしていた。
「……」暫く会場にも沈黙が支配していた。イクは、何か意見を言いたかったが、このような中では意見を述べることは出来なかった。全体の多くの考えに反対する意見を言うには大きな勇気がいった。
 岩佐保健婦は、大きな溜息をついた。その後、暫く微動だにしないで考え込んでいた。それから、身繕いをして、直立不動の姿勢できっぱりと言った。
「自分が描いている保健婦の姿とはこんなものではない。看護婦協会富山県保健婦支部長を辞任するから、あなた方でよろしくやってください。」席を蹴って、岩佐保健婦は、帰っていった。
 イクは、それを見て、岩佐保健婦の潔さに感銘を受けた。
 言葉を濁すことが嫌いだといつも言っていた岩佐保健婦の言葉が、イクの心に残った。
「どんな時でも、言葉は濁してはならない。断言することが最上である。仕事でも、健康や命に関わることは、決して曖昧な言葉で誤魔化してはならない。」これが岩佐保健婦の信条であった。自信がなければ自信を持つだけの勉強と努力をするべきだというのである。イクは、この事によって、死ぬまで努力、死ぬまで勉強をしていこうと決心した。
 暫くして、新しい支部長が、決まった。イク達の新しい仕事の指令が出た。当時は十分なシステムが決まっていないので、保健婦の仕事は十分に理解されていなかった。忙殺される中、保健婦達は、ただ仕事に追われる毎日で、研修の機会どころか、その日その日を何とか送ることで精一杯であった。

 保健婦の仕事について具体的に言うと、現在では、ほとんど定まっている。赤ん坊の健診・家庭訪問・予防接種、成人の健診や健康づくりの教室・健康相談や、年寄りの健康管理・家庭訪問といったような仕事である。この保健婦業務の種類は、@健康診査、A個別訪問、B個人相談、C予防管理能力教室、D組織、Eその他等、さまざまな活動の中で住民や地域の実態や課題を自治体行政に伝え、反映させること等、多い。

 イクは、多くの問題を抱えながらも、時を経て、昭和28年となった。

 この頃になると、終戦後の環境衛生面も落ち着きを得て、イクは、イクなりの保健婦活動に専念できる状態であった。

 看護相談や家庭訪問で、農村の医療状況はイクに多くの問題の解決と共に、大きく成長させてくれた。その知識を頭に入れての町の行政機関で本格的に仕事として取り組む自信も十分ついていた。考えさせられる事の大きな問題は、町と農村のバランスの取れた事業計画であった。幾度も戸惑いながら、繰り返し繰り返し、イクは懸命に取り組んだ。
 新年度の予算を手にして、イクは、新しい情熱に駆られながら、保健業務に取り組んでいた。
「私がやらなければ、誰がやるのだろう。私しか、やる人間はいないのだ。」という気概で、張り切った。時折、課長の叱責に心が萎えたが、それでも心を奮い立たせながら、頑張った。

 イクの仕事の中でも、大きな問題に環境衛生があった。イクは、この地区を環境衛生モデル地区の一つにしたかった。そのために、計画表を考えた。
 一、衛生教育の強化であり、村全体の大きな課題とする。
 一、そのための個々の家庭内外の清掃をはじめとして、村々の内外の汚染場所の清掃。下水の清掃は、村全体の作業として定例的に実施すること。
 一、鼠の集団一斉駆除実施について。春・冬の2回は、県からの指導もあり、役場では、小麦粉に原料の薬剤を混入し、親指大の団子を手で練り上げ、作る作業。
 この清掃と鼠の問題の解決方法は、組織、すなわち、団体力が問題である。婦人会や青年団の指導者が重点的な問題の鍵であるとイクは考えた。彼らの協力を要請しながら、村全体、町全体の衛生や環境整備に奔走した。
 今は、すっかり見かけなくなった鼠だが、昔は、鼠の被害に悩まされていた。そのため、鼠退治のための団子を作ったのである。その団子作成の中心は、婦人会の仕事であった。婦人会の会長はじめ、会員の婦人達が、座布団を持って集まって、団子作りの奉仕作業をした。2日間であったが、みな黙々と、イクの指導どおりに、鼠取り団子に精を出した。
 この問題の重要なところは、鼠の生態や家の内外の駆除薬の配置方法であり、伝染病予防に使用する防疫薬品についての知識の伝授であった。イクは、もともと、話す事が好きだが、纏まった大事な話を上手に伝えることは苦手であった。しかし、仕事となれば、何とか多くの人々に伝えなければならない。
 イクは昼の勤務で疲れていた。しかし、夜に婦人会や青年団の人々との話し合いを持った。拙いイクの話は彼らにとっては、かなりの努力を要したかもしれない。だが、イクの話の内容は、命にかかわる問題を含んでいたため、居眠りする人もなく夜更けてまで、話し込んだ。


 第二次大戦末期のユダヤ人収容所では、衛生状態の悪化から発疹チフスが大流行し、多くのユダヤ人の命を奪ったと言われる。終戦後の日本でも復員兵の増加とともに、この病気は猛威をふるい、1946年には3万人以上の患者が発生している。また、中国やシベリアに抑留された日本人の収容所でも、発疹チフスは数多くの人命を奪ったという。
 そればかりか、当時、水道が完備されていない場所も多く、そのため、赤痢のような伝染病の発生率は、高かった。

 この赤痢の事件でイクには非常につらい事件があった。
 それは、ある暑い夏の日であった。いつものように、イクは患者発生を知ると、すぐさま、上司の課長に発生の状況を報告しようとして、書類作成や状況の分析をしていた。

  「赤痢の集団発生に対する対策」
   標記については、従来より衛生対策の万全を期していたが、小学校敷地内の飲用井戸が感染源であると疑われる赤痢の集団発生が起こった。
  今後、特に下記の事項に十分留意し、このような事例の発生を防止されたい。
  それとともに、赤痢等の集団発生に対する対策を一層強化されるよう格段の御配慮を願いたい。
   飲用井戸及び受水槽について
   飲用井戸等衛生対策要領の実施について、
   飲用井戸及び受水槽の衛生確保について、
   消毒その他の衛生確保に万全を期されたい。
   防疫対策について
   集団感染の発生時においては、県と村役場の緊密な連携のもとに原因究明に努めるとともに、
   家族間及び発生小学校における二次感染防止の徹底を図ること。
   食中毒発生防止について
   5月に入り、有症者数の増加傾向がみられ、また、集団食中毒が多発している状況にあることから、
  食品関係営業施設で使用される水の点検等、管理運営基準等に基づく関係施設の監視指導を徹底し、
  食中毒の発生防止に万全を期すこと。

 熱心に書類を作成している時に、後ろの方で、人の気配がした。イクは気に留めずに、尚も、熱心に時間を惜しんで書いていた。
「ほう〜、赤痢の集団発生ですか。」小さな男の声が、イクの後ろから聞こえてきた。
 イクは、驚いて、後ろを振り返った。見た事のない男が、イクの書類を覗き込んでいた。
「貴方は、何者ですか。そして、なぜ無断で、ここに入ってきたのですか。」イクは、書類を隠しながら大声で怒鳴った。
「私は、許可をもらって、取材しに来ているのですよ。何の疚しい事はしておりません。」その男はけろりとして答えた。
「でも、何のために、ここに居るのですか。」イクは、言葉と胸が詰まりそうになりながら聞いた。
「貴女が、非常に忙しそうに走り回っているから、何かあるな、と、思ったのですよ。案の定でしたね。」男は、自分の考えが図星だった事に上機嫌で言った。「誰だって、何か問題が起こったと思われる程の、貴女の慌てようでしたよ。」
「……。」イクは何も言えなかった。ただ何と言ってごまかそうかと考えていた。
「高井さん。これは、問題ですよ。」男は新聞記者の身分を示す名刺を差し出しながら、イクを追い詰めていた。「状況を詳しく話して頂きたいもんですね。集団赤痢発生という問題は、少しでも多くの人々に知らせて、その対策を考えるのが、貴女方の重要な仕事でしょう。」
「いえ、私は、何も話せません。」イクは、しどろもどろに答えながら、この状況をどのようにしたら良いか、分らなかった。「何も聞かんといて……。勘弁してたはれ。」
「堪忍するとか、聞くなとか、言う問題ではないでしょう。こんな重要な問題を隠そうとするとは、問題ですなあ。」男は、ねちっこくイクを攻め立てた。「状況を少しでも早く発表しなければ、どんどん広がっていきますよ。そんな事になったら、貴女一人の責任で終わらないでしょう。この役場の人ばかりか、富山県の問題として、いや、下手すると、日本中の問題になるかもしれないですぞ。」
「……」イクは、頭の動きが止まり、何も考えられなくなり、何も話せなくなった。
 他の新聞記者もイクとのやり取りを聞いていて、2〜3人集まってきた。
「お、大変な事になってますなあ。発表が1分でも遅れたら、1,000人の患者の発生を見るのですよ。」一人の記者が、又、イクを攻めた。
「地元の新聞社の支局が黙っていても、もうすぐ正午です。NHKのニュースに入りますよ。」また、別の新聞記者がイクを脅した。
「……。」強く脅かされたが、しかし、「何と申されても上司の報告前に皆さん達にお報らせする事は出来ません。上司の報告後に……。」とやっと言った。何とか、頑張って上司の所に逃げていった。その後を数人の記者達が、追っかけて課長の所で押し問答をしていた。

「高井くん、迂闊だったね。重要な問題をそんなゴロツキ記者に読まれるような書類の書き方をしているとは、とんでもない事だよ。」この問題が落ち着いた夕方、イクは課長に呼ばれた。課長は、イクに例の如く叱責した。「こんな問題を起こすようでは、今後、君の進退も含め、考えなければならないね。」
「……」イクは、ただ、ひたすら頭を下げるだけしかなかった。
 開いた窓から夏の湿った熱を持った空気が流れていた。にび色に見える窓の空気を横に見ながら、イクは、次第に暗くなっていく部屋の中で、頭を下げたままの姿で課長の怒声の嵐を受けていた。
「ま、終わった事は仕方がないがいね。これから気をつけられや。」課長は、いつまでも愚図愚図文句を言っているうちに心を落ち着いたのか、最後には、仏頂面をしながら、いつもの富山弁に戻って、言った。
 イクは、ほっとした。この言葉を聞いて、課長がイクに対して怒りが収まったのだろうと考えると、もうこんな事は起こすまいと強く思った。
 長い時間、課長の叱責を受けていたためか、役場から出た時は、外は暗かった。仰ぎ見た夜空に無数の星があった。星座とか、天の川とか、イクは詳しくなかったが、暗闇の夜空に浮かぶ星の数の多さに、暫し、辛らかった嵐を忘れた。流れ星も見ると、あ、と声を上げた。その瞬間には、嫌な事がすっかり消えていた。
 いつもより、かなり遅い帰宅に矢助は、何も言わなかった。
「今日は、課長に叱られて、遅くなったがや。」イクは、いつになく声の調子を低めて言った。イクの不安な気持ちは崩れなかったが、それでも、矢助には何も言う事をしなかった。

 イクは、このような伝染病の発生を見るにつけて、個人の衛生教育向上が先決であると、その都度、痛感させられていた。

 赤痢の問題の翌年、イクは、大きな問題を気にしていた。寄生虫の問題であった。これは、純農村部落などが多い点などであったが、その陽性率は、また、驚くべきものであり、78%から85%であった。そればかりか、一人の患者から3種類もの寄生虫が発見された事もあった。
 農村部落でなく、町の住んでいる人の中でも、入院治療中に寄生虫が発見されることは珍しくなかった。何はともあれ、この問題は、町の予算で検便の提出方法や駆除薬の配分等、全てが婦人会の全面的協力が必要だとイクは考え、実施する事を提案した。
 検査方法も、当時は、一つ一つの村々を回り、顕微鏡を持った保険所の検査技師である西田技師と中村技師が出張検査した。徹底的な検査であり、夜遅くまで続けられた。イクの提案で実施された検査なので、イクは、夜遅くても彼ら検査員と婦人会のまとめ役として活躍した。

 頃は、花見の時になっていた。
 イクは、役場全体の夜桜見物の日であったにもかかわらず、二人の検査技師の助手の仕事があり、その夜桜見物に参加できなかった。桜は、イクの好きな花であった。だから、花見に行けないイクは、この時ばかりは非常に悔しく思っていた。しかし、その夜桜見物で、一人の職員が事故死した。それを聞いた時、イクは仕事があったため、花見に行けなくて良かったのかもしれないと心の底で安堵していた。


 昭和30年頃、保健婦業務の新しい仕事に、家族計画の指導が加わった。

 昭和に入り、軍国主義勢力が力を増す中で、政府の出生増強政策が推し進められていた。子供を埋めよ増やせよの社会の中で、イクは子供を二人しかもって居なかったので肩身の狭い思いをしていた。しかし、時代は、変わった。その後、昭和20年、終戦、第1回の衆議院選で女性として加藤シズエが初当選した。昭和27年にインドのボンベイで行われた国際家族計画連盟(IPPF、初代会長サンガー)の発会に参加した加藤シヅエは、帰国後IPPFに加盟するための組織づくりにに着手した。
 加藤シズエは、昭和30年10月にIPPF主催の「第5回国際家族計画大会」を東京に招致し、前年に実践運動団体として発足していた日本家族計画普及会(現在の日本家族計画協会)国井長次郎代表理事の協力を得ながら、大会準備委員長として活躍した。戦後、日本で始めての国際会議を大成功裡に終了させた。
 この国際会議は、日本の家族計画運動にも多くの影響を与え、以降の国内運動に大きな弾みをつけた。日本家族計画協会の活動が今日あるのも、これがきっかけになったといわれる。
 加藤シヅエの女性の幸せの扉を開く鍵としての産児調節運動に感動したイクは、早速、家族計画を推進するように努力した。この頃、イクは、少しずつ責任のある仕事を任されるようになって事から、この運動を進めようと考えた。
 まず、イクは、講演を通してこの運動を啓蒙する計画を立てた。大きな団体婦人会対象の講演は、富山市民病院婦人医科長の平井先生に依頼した。その一方、小さな集まりには、イクが話をした。婦人の疾患、家族計画についての話である。個人個人徹底した知識が重要と思われるようになり、20名単位で座談会形式を取った。内容も、模型を使用して器具や薬品の使用方法を具体的に、膝を突き合わせて話し合いを持ち、その会場は、婦人会役員の家を利用した。時間も夜8時から10時半まで、2時間以上にもなった。話に気をつけたことは、科学的な用語を使わないように、あくまで誠実に現実的な事例を挙げる事に気をつけ、心を配った。この長期間の指導によって、この町の人達との心の触れ合いが深まっていった。
 話の内容も人々に少しずつ理解されてくると、保健婦会の会員全員で、実態調査をする事になった。
 イクは、自分の所属する直接の最高上司の田町町長に、その調査結果の報告をするとともに、家族計画の理念等を話し理解を求めた。
「私は、この町の人口の増加を願っているのですよ。」イクの調査説明した結果の町長の最初の言葉であった。イクは、町長が、人間の身体的な問題よりも政治的な面に重きを持っている発言に、少なからず腹を立てた。
「現在、わが町には、中絶等で、いかに多くの女性達の体を傷つけているか、正しい家族計画の指導が必要であるか。町長はご存じないんですね。」イクは、熱く説いた。町長の理解と認識のために、保健婦との対話が必要だという事を強く痛感した。
 イクは、日本の社会では、まだ女性が虐げられている事に憤りを感じていた。女性は産む機械だと考えているのに違いないと思えば思う程、町長ばかりでなく、世の中の男性にも腹立たしさを感じていた。

 家族計画指導も一応、落ち着いた状態になった時、小杉保健所長から、射水郡の妊婦の精神衛生講座の担当を依頼された。
「子どもを生み、そして育てるということは、大変な事ですからね。」所長は、優しい目をしながらイクにいった。
 イクは、生まれてくる小さな命に必要なもの、生きるにふさわしい心遣いと余裕を、妊婦達に話す事にした。
「星空の世界からの声に耳を傾ける心のゆとりと落ち着きが大切です。」イクは、何人も集まった母親達に優しい声で話した。「芽生えつつあるその芽を育て上げるための努力して頂きたい。お母さん達の優しい必死の努力をお願いしたいのです。」等、話した。
「……。」母親達は、素直にイクの言葉に耳を傾けていた。
「そんな大変な思いをしながらでも、出産の苦労以上に、喜びや感動を赤ちゃんは運んできてくれます。」イクは、遠い目をしながら、昔の自分の出産を思い出して言った。「これから初めて出産する人や、育児をする人は、精神的な不安や体調の変化に戸惑うことも多いと思います。」
「……。」私語を発する人は、一人も居なかった。イクは、一人ひとりの顔を見回しながら、話を続けた。
「そうやって親は、悩みながら親になるのですよ。」イクは、頷いた。「親の心、子知らずと言いますが、……。」イクは、そう言ってから、ふっと口をつぐんだ。
「親は、子どもの成長に合わせて、のんびり親になるように考えて行けば良いと思っています。」イクは、自分の過去を辿りながら、自分は気が付いたら親になっていたと思った。

 この事を最初に、イクの活躍が始まった。

 町立保健所は、4ヶ所あった。
 その中で、寺院の経営である西部保育所をモデルとした。4月に年間計画書を作成し、それにより、検診や予防接種、そのほか、母と子の保健について季節ごとに話し合いの場を作る事にした。その計画には、主任保母の村田寿子の協力を仰いだ。
 内容については、@ 時期的な幼児の疾病の予防、A 年齢別の精神発達の段階をキャッチする。B 栄養の養護上の欠陥。(不潔な環境。日光不足。運動不足)C 集団生活に対しての躾。D 3才児の心の育て方。家庭内との統一された躾に心がける。
 3歳児のこの年齢は、社会性の発達と共に、友達の出来る年齢であり、子供に対する正しい知識を持って一人ひとりの幼児の身の上にあてはめて考え正しい導き方の必要が大切であり、母はいつも子供と共にあってほしい。
 4歳児頃から、母より離れ、他人に愛される努力をする。しかし、それは母の愛情を知った子供でなければ魅力はなく、また、そのような社会性も養われない。子供の教育は言葉だけではなく、また、そのような社会性も養われない。子供の教育は言葉だけでなく、行動の伴った指導であたる事である。また、子ども自身の体験から成長していくように等、と、母親を前にイクは熱弁をふるった。子供、親、家族の人間関係を良くし、人間と物的の関係が良くなり、良い環境の中で育まれる子供でなるよう、夜のふけるのも忘れて話した。

 何度かの指導をしていた夜の事であった。話と質問が終わってから、そっとイクに近づいてきた母親が居た。
「赤ちゃんを育てるのに、夫の母親が注文が多くて…、どのように育てたら良いがやろ。」朴訥とした農家の主婦がイクに相談した。
「赤ちゃんを育てる時、持って生まれた赤ちゃんの力を母親が上手に伸ばす事が大事だと思うがや。一番赤ちゃんの力を知っているのは、母親だがいね。その力は、子供が大きくなるのにつれ変わってくるがや。育てた人の考えや環境によって、その子が決まるながや。親の感情が、大事ながや。色々な人が、色々言ったら赤ちゃんも困るやろ。だから、あんたが気持ちをぐらぐらせんと、しっかり育てんと良い子にならんがや。性格もうまく対応していかんがよ。」イクは、農村の嫁の立場をよく理解できていなかった。だから、その農家の主婦の気持ちが良く見えず、黙ってしまった主婦を理解してくれたと考えた。
「……。」悲しそうな顔をイクに向けたが、その主婦はそのまま下を向いた。
「母親が赤ちゃんの要求を無視したりすると、赤ちゃんは不信感を抱いてしまうがや。だから、乳児期に経験した事は、その後の一生に大きく影響を与えるから、注意しられ。この時期をどうやって過ごすかがとっても大事ながや。時々、育児でイライラしたり、よくない感情が出たりしたら、周りの人に助けてもらうのが良いがや。だから、夫の母親に助けて貰うと良いねか。自分ひとりで解決する必要はないがや。父親も赤ちゃんだけではなく、貴女の体調や、精神的な面も相談してもらうように頼むのが良いがや。」
「あのう……。」そっと声を出したが、イクの耳に入らなかったようだ。
「今回は、母親になったばかりの人に起こりやすいうつ病の症状を説明したから、これを参考にして、みんなの協力をして貰うと良いと思うがや。体内に新しい生命が宿り、母性本能に目覚めるこの時期は、一見、うつ病とは無関係であると思われがちだけど、妊娠・出産という女にとっての大きな出来事は、うつ病の引き金となるケースは少なくないから、特に、夫ばかりでなく家中の人の協力をお願いしられ。初めての出産の場合、特に月経前不快気分障害や月経前症候群などを経験した人、やや神経質なタイプの女性などに起こりやすい事もあると言われるがや。でも、多くの場合このようなうつ状態は1〜2週間程度でおさまると言われてるから、何も心配する事ないがや。でも、症状が重かったり長引くようなときには、家事への夫の協力、分担などを頼み、必要なら実家などでの休養を考えるのも良いかも知れんね。」イクは、いつまでも、滔滔と話を続けた。書物にあった知識の記憶をそのまま話している事に気も付いていなかった。

 毎年5月中旬、小学校や中学校の定期健診が終わる。
 その結果の発表が出るのだが、イクの担当した農村部の小学校約400名、中学校の生徒数は、約1,000名であったが、要注意の生徒数は、10名に満たなかった。しかし、他の小・中学校の要注意生徒は、多いところでは20名も居た。このままでは、問題もあるとして、イクはこの20名の生徒の住宅環境衛生の調査を実施した。住宅の周りは多くの木々で覆われていて、採光は悪い、下水路の整備も不完全であった。その上、生徒の栄養状態も良くないと判断した。偏食者が多い事を知り、校長の依頼もあってイクは、食事の大切さを生徒達に話す事になった。偏食をしないようにとの指導をした。親への指導も必要だとして、PTA総会などにも、イクは話をする事になった。
 この頃は、栄養士も居ないし、養護教諭も居なくて、保健婦のイク達に幅広い保健活動を要求されていた時代であった。
 イクは、与えられた時間内で、@ 健康管理委員会の設置、A 栄養問題、学校給食について、B 食品と栄養含有の関係、C 集団給食における注意、D 夏期伝染病予防、という点について語り合いを重ねて、戦後の保健衛生面に力を注いだ。学校側のどのような質問にも素直に聞き、答えはざっくばらんに話した。
 専門的な仕事の研究と向上は、その専門的な知識により、自分の仕事に自信を持たせてくれる大切な要素である。しかし、人間的な幅と言う面を考えた場合、何かそれだけでは寂しいと、イクは考えていた。都市生活に比べて、町や村に住んでいる者にとって、外部に出て知識を得る事の大切さは、分っていても、そうした機会もほとんどなく、狭い世界に閉じこもる思いをたびたび味わう事になっていた。仕事を通じた人々ばかりでなく、もっと色々な人達と交わりたいと言う考えを友人の助産婦の庄治ふみに話した。ふみも同じ考えを持っていたため、話は、とんとん拍に進み、それぞれの知人達に呼びかけてみて、同じ思いを持っている人が居る事に驚きと心強さを感じた。そのような思いの人々が集まって、小さなグループが出来た。このグループの人々は、紫色を好む人が多かったので、紫葉会と名づけられた。
 メンバーは、医師、保母、小・中学校の教師、公務員夫人、商家の主婦という約20名であった。月に1回、集まっての会合を持った。講師を迎えての講演、座談、討論会など、社会的、文化的なものが多かった。
 日常生活についての座談は、特に有名人の人柄の評価、その人の態度と言葉がポイントとなって、話し方や考え方を参考に批評・参考にした。みんなの意見は生活に直結していて、イクには大いに参考になった。大切なものは、言葉ではないだろうか。と、繰り返し、話し合う事を重ねたものであった。
 足りない言葉、多い言葉のため災いとなる事の何と多いことか。温かい人、冷たい人、筋を通す人、標準語を使って話す人、土地の方言等で話す人、生活に深い関わりのある、デリケートなものは言葉である等、話題の中心であった。話し合うと言うことの楽しさ、難しさを語り合った。
 イクは、初めて生きる意味を感じ始めていた。生きる事は、人との触れ合いの仲で育まれるものなのであろう。言葉一つで喜び、その人となりを理解したり、言葉足らずで心痛め、その人を恨んでみたりする中で、イクは、人生の面白さと共に深みを感じていた。多くの人々は、イクに大きな知識と共に人との付き合い方も教えてくれた。

 黄金色の季節がやってきた。
 昭和28年9月、周辺の田んぼは、あたり一面黄金色に染まり、秋祭りの準備が始まった。秋の夜長をのんびり祭りの準備をするのは楽しいものである。秋の味覚の柿を軒先に吊るし、その柿の玉簾に秋の日差しが爽やかに注いでいる。穏やかな、静かな心休まる日々である。
 多くの人々が、集まって仕事とは全く異なった話を聞いたり、意見を述べたりする事は、イクの心に多くの肥やしとなって、広い知識を増やしてくれた。そればかりか、豊かな心の糧にもなった。
 良い事ばかりでもなかったが、イクは、この会は成功であると考えていた。
 悲しい事としては、会員の医師であった霧沢たずの死であった。暑さから逃れ、そよ風を体いっぱいに受けた初秋の一日、病で十数日間で、亡くなられた。悲しいたずを偲んだその人の夫からの手紙を手にして、秋の世の虫の音を聞きながら、みなで冥福を祈った。在りし日のたずを語り合い、その日を心に刻んだ。

 こぞめでし 水引草の 咲きにけるに

 たずの夫の手向けの俳句が皆の心をより一層悲しみを誘った。
 ささやかな紫葉会が回を重ねるに従って、人々に知られるようになった。NHK放送局の稲垣アナウンサーが訪問して、この会の運営や目的等を話す事になった。川越かおり、杉本とし、イクの3人が、30分のテレビ放送に出演することになった。
 社会的視野を広く持ち、学び会のグループで、多くの色々な人との触れ合いは、イクに充実した生活を与えてくれた。
 40代から50代にかけて、人間的に幅広く勉強が出来た時代であったとイクは、後に振り返って思い出していた。

 戦後より保健婦の活動は、大きく伸び、人々にその重要性が認識されてきた。

 昭和30年代は、経済安定を中心にした時代であった。

 昭和30年の国民生活白書の名文句「もはや戦後ではない」という言葉に象徴されるように、昭和30年代は新しい「成長」の時代であった。華々しい成長を続け、不景気の時代はあったものの、昭和31年神武景気、昭和34〜36年の岩戸景気を中心に、めざましい発展を遂げていた。30年代前半はプロレスの力道山が活躍し、街頭テレビに人々が群がった。町には、豊かさが求め、その豊かさの象徴が家電製品である時代であった。人々は、テレビや家具を買うために、毎日働いた時代であった。三種の神器と言われた、白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫に心を奪われていた。一般消費者にとっては、魅力ある商品が溢れる30年代でもあった。

 当時、人づくりという言葉が流行していて、教育面のみ強調されて、健康面はなおざりされがちになっていた。
 そこで、イクは、研修会によく出席して、勉強した。多くの研修会の中で、思い出深い研修会は多くあった。多くの講師の話は、イクの興味を引き付けた。特に、保健婦は技術面だけでなく、衛生問題にアンテナの役割をするように、一般教養面の視野を広くしてほしい。厚生行政の中心は環境衛生である、という事を強調していた。
 結核検診は、幼児問題は、三歳児訪問は、青少年は、成人病は、癌は、ボーダーライン層の指導は、どうであろうか。多くの問題を抱えていた。地域差において、どのように指導されているのであろうか。
 イクは、勉強が足りないので、もっともっと勉強しなければならないと考えていた。
 保健婦の仕事は、本当に数限りなくあった。看護婦の時と違って、イクは忙しく、多くの物を吸収しなければならないと考えていた。看護婦は医師の言いつけを守り、出しゃばってはならない。しかし、保健婦は、自分で考え、行動し、自分が判断しなければならなかった。
 
 昭和37年に、イクは、定年退職を迎えたが、衛生係長事務嘱託を続けるように強く要望された。イクは、同じ場所での仕事に心は弾まなかった。
 仕事なので、我侭を言うことも出来ず、気分を新たにして、仕事に集中することにした。仕事は忙しいので、家に持ち帰って続きをやったりした。
 役場での職員同士の対話が非常に少なかった。又、心を開いて語り合う業務研究の場もなかった。勿論、他の課の人との対話などは全く考えられなかった。
 イクは、自分の社会的な教養の未熟さや知らない事が多い事を感じて、多くの質問を多くの人々に投げかけた。だが、その返事は、端的な一言で詳しい説明はなく、再度質問しても一言の言葉で跳ね返されるのが落ちであった。
 新しく職場が変わり、その職場の緊張感もあり、また、国保事業の休止のため、保健婦も2人から1人になり、イクが2人分の仕事を受け持った理由で、仕事への情熱が失われてきた。保健衛生係兼保健婦業務の2本立ての仕事は、きつかった。仕事への情熱が失われると、イクは、辞める決心も早い。そして、その土地に対する愛着も一気に薄れていく。
 4年間の役場での嘱託という身分の中で、人間関係がぎすぎすしたものであった事が、イクの故郷に対する失望を深めた大きな原因になった。

 昭和42年4月、この町での仕事に確実に終止符を打つ事にした。20年以上の村役場の仕事は終了した。しかし、それまでの20年間の農村医療の経験はイクに大きな自信となっていた事は、確かであった。



 イクは、富山を離れる決心をした。

 イクは、どうしても富山という土地が自分に合わないと考えていた。生活の土台はできていたが、それでも富山で老後を送ろうとは思えなかった。

 昔、富山は、加賀藩によって支配されていた。この地に平和をもたらした佐々成政によって、その300年の間に富山売薬などの地場産業が花開いた。そうした成政の業績と人格は、後の加賀藩によって意図的に歪められたとされるが、成政を慕う民衆の心は、今も史跡や伝承などからうかがい知る事ができる。
 とりわけ、富山藩二代藩主、前田正甫を祖とする富山売薬は、藩の保護政策を受けて、他国へ行商に出かけるようになり、「越中富山の薬売り」は、全国に市場を拡大していく。
「先用後利」(何種類もの薬を得意先に預けておき、使ってもらった薬の代金を後で受け取る)という独特の配置販売システムは、万一のために種類の揃った薬箱を常備しておきたい庶民に大変重宝がられた。江戸末期には、全国各地を行商に回る売薬商人は約2,000人を超えるほどの活況を呈したそうだ。
 当時、領外からの現金収入がある藩はほとんどなかった。だが、富山藩では、幕末ごろには売薬商人が毎年約20万両の「外貨」を、わずか十万石の藩内に持ち帰っていたといわれる。このように蓄積された富山売薬業者たちの資本が基となり、明治になって富山の近代産業を育てる事になった。
 売薬業の発展は、製薬そのものだけでなく、薬の包装や行商用の道具、「おまけ」(売薬進物)、包装材などのさまざまな関連産業を派生させて裾野を広げ、「薬都富山」を形成していったのである。

 

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