明治から平成を駈けた女 第27章 


 家の近くの芝川縁にある細い幹の桜が、散りはじめた。

 埼玉は、花と緑の多い所である。色々な花が咲き始めると、この土地は、一気に明るくなる。その花々も咲き終えると、見沼の田んぼには青々とした緑があふれる。遠くには小さな富士の山も眺められる。また、柔らかい緑に被われる見沼の田んぼは人々の心の原風景である。のびのびと広がっている背の高い木々や潅木の緑の中で、薫風に身をゆだねながら散歩していると、ここが故郷でなくとも、頑なな心になっている人々も、いつの間にか優しい気持ちにさせてくれる。芝川沿いでは、名も分らない鳥が、時々、初夏の歌を歌って飛び交っている。
 このような芳しい緑の香りの中の散歩は、イクに豊かな心にさせ、遠い故郷の幼い頃を思い出させる。樹木に囲まれた昔の集落、整然と造成された宅地、細長い建物が並んだ団地も緑の向こう見えているが、それすらなぜか趣を与えてくれる。その団地や宅地の間に雑木林や竹林等がどこまでも広がっている。工場もあれば、畑もある。
 見沼の田んぼの中心は、庭木が多く栽培されているのだが、植物なら何でもあるように思われる。だから、見沼に水田は、多くはない。
 この見沼の田んぼは、イクの家からの散歩には、最適な場所にある。イクの新しい家の前には、その少ない田んぼがあった。夏には、目の前に田んぼから、多くのカエルの鳴く声が夜中に響き、夜陰をいつまでも破っていた。

 このような自然が多い環境にあっても、イクは、あまり散歩を好まなかった。その代わり、時々、イクは北浦和駅の繁華街までバスで出かけた。これといった用事は無くても、又、家でじっとしている時間が苦痛になった時等、バスに乗って北浦和に出かけた。大宮駅までのバスもあったが、大宮駅は、大きすぎて、イクには落ち着かなかった。その代わり、こじんまりした北浦和駅は、イクにとって、まだ親しみやすかったのかもしれない。
 駅からバスに乗って帰る時、家が近づくとバスから降りる事を忘れて、どこまでも乗っている事があった。うっとりとイクはバスに揺られながら、夢うつつに幸せな時間に浸っているのであった。終着駅で、起こされて、慌てて、又、バスに乗って帰ると言う事が次第に多くなった。暇なので、それも面白いとイクは気にしないでそんな生活を楽しんでいた。
 イクは、心のびやかにこの平和を楽しんでいた。新しい家は息子の太郎がローンでやっと手に入れたものだが、親子3代6人が住むには狭かった。が、イクは、家は狭いく、矢助と二人で6畳間に住んでいた。狭い部屋ではあったが、今は、何もしない、のんびりできる身分を楽しんで、時折、これも幸せなのかもしれないと考えていた。しかし、その幸せな気持ちを微塵にも家族には知られたくなかった。だから、毎日、イクは、家族の前で難しい顔をして、不機嫌そうな顔をしていた。幸せだと言う事を決して言わなかない事で、自分の誇りを保っている積りであった。今の生活が幸せだと認めるのは、今までの自分の苦労を否定されそうな気持ちになっていたからだ。勿論、それはイクの屈折した考えである事は、イク自身、感じていなかった。

 或る気だるい昼下がりのひと時であった。
 いつもの様に、北浦和駅前をぶらぶら歩いて、2〜3、お菓子を買ってから、バスに乗って家に帰る事にした。心も軽く家路に向かった。心地良いバスの振動と太陽の暖かさで、イクは夢心地になった。見沼の田んぼに入ると、すぐ、イクの降りるバス停であったが、その時は、夢の中にあった。
 見沼の田んぼを通り過ぎて、街中を通り過ぎ、終点のバス停に着いた時、イクは頭の中は薔薇色に包まれていた。バスの運転手に声をかけられても、中々起きれなかった。
「お客さん、終点ですよ。降りてください。」苛々した運転手の声もイクには穏やかな音楽のように聞こえてしまっていた。
「……。」イクは、運転手に声を掛けられても、起きようとしなかった。
「お客さん。起きて。もう、終点なんだからね。」運転手は、乱暴にイクの体を揺すった。
「……。」空気のぬるま湯の中のイクは、ぼんやりと目を開けた。
「お客さん、困りますねえ。とっくに終点に着いているんですよ。皆さん、降りて、今は誰も居ませんよ。これから、又、北浦和に行くので、降りてください。」運転手は、言葉こそ丁寧だが、つっけんどんに言った。
「はいはい、すいませんねぇ。どっこらしょっと……。」イクは、わざと時間をかけて、立ち上がると、手を後ろに回しながら、よたよたと歩いて出口に向かった。
「急いで降りてくださいよ。バス出発の時間が来てるんですからね。」苛々した運転手の声を後ろに、やっとこバスから降りた。バス停には、客は居なかった。バスは、乗客なしの空のまま出発した。イクの横を過ぎるバスは、思いっきり排気ガスを吐いて行った。そのバスに向かって、イクは、力一杯、べぇっとした。
 空は、どこまでも澄んでいた。空を眺めながら、イクは、自分が、今、ここに居る事にふと不思議な気分に襲われた。忘れ物をしたような気分であった。何を忘れているのだろう。イクは、一生懸命思い出そうとしたが、それは言葉にも形にもならなかった。
 ゆっくりと、周りを見渡した。バスが一回りして、ユーターンできるくらいの広さの小さな広場の隅には、桜の花が、申し訳なさそうに咲いていた。その桜を見て、イクは、何か思い出した。暫くじっとしていた。


 仕事を辞めたイクは、息子の結婚と共に矢助と共に息子の社宅に入った。

 戦争中、多くのものが破壊されつくし、多くの日本人が殺された代償に、敗戦後、GHQによって男女同権、男女平等という女性解放を、日本の女性達は、手に入れた。女性達は、その自由を享受していたが、権利は主張するが義務を怠るという有様であった。日本の女性達は、男女平等を、女性が自由に我が侭を言えるのだと勘違いしてしまったようだ。(最近の若い者は…)と、イクは、心の底から怒りがこみ上げる事が多かった。
 思えば、今日の嫁の態度はむかつく。と、イクは、思い出した。いくら戦後になって女性解放が言われても、嫁は嫁だと思う。嫁の癖に、なんだ、あの態度は…と、イクは、又、怒りがこみ上げてきた。
 姑と嫁との戦いは、一般的に陰湿な関係を想像するが、イクは絶対そんなものを認めたくなかった。私は世間で言われるような、訳の分からない姑ではない。嫁には理解を示す事が出来る進歩的な姑だと自負していたはずであった。

「息子を愛しているなら、どうして、その大切な息子のお嫁さんを大切にできないのですか。姑嫁の争いは、深層心理学的には、一人の男をめぐる二人の女の争いなのです。それに加えて母子の病的な癒着とか、マザーコンプレックスとか、日本的な封建制度がからんでいます。」と、イクは、いつも保健婦時代、講演で姑や嫁に話していた。だから、自分はそんな嫁姑の争いとは関係ないと考えていた。講演の後で、必ず、次のような事を言ったものである。「お互いに相手を、もっと温かい目で見てあげてもください。」
 イクは、自分は賢いため、嫁との軋轢はないと考えていた。普通、女二人をいたら、必ず争いになると、昔の人は言ったものだ。他人事では、格好良い話をし、人を導く事も出来る。しかし、イクは、自分の話になると、自分が講演で良く話したように相手を暖かく見るなぞといった事が出来ない事に、最近、気が付いた。いかに自分が絵空事を講演で言ったもんだと今になって脇の下に冷や汗が出る思いであった。

 息子が結婚すると共に、息子の新婚家庭に矢助と共に一緒に入った。息子は、社宅住まいであった。6畳と2畳の社宅に二夫婦が一緒に住まう事は無理であったが、イクは、そんな事は構わなかった。長男が結婚すれば、そこに一緒に住むのが当然だとの考えであったからだ。自分が建てた家はそのまま空き家にして、息子の小さな社宅に住んだ。6畳には、矢助と共に息子も加えて3人の布団を敷いてで休んだ。嫁は朝早くから食事の支度などのため、流し台のすぐ横の2畳で寝かせた。風呂は、薪で沸かすため、流しと2畳の部屋は、いつも煙で充満していた。6畳の横は、縁側があり、日当たりも良かったので、イクの生活は、快適であった。狭いのを我慢すれば、そんな問題は気にならなかった。食事は、嫁が勤めに出る前に、朝は勿論、昼の分も用意して出かけてくれるし、夜は、どんなに遅くても、急いで帰ってきて嫁が用意してくれた。イクは、食事の支度が嫌いで、ろくな食事を作れなかったので、料理好きな嫁を希望していて、その願いも叶って、心底から幸せを感じていた。嫁は、イクの眼鏡にかなって、本当に良くクルクルと働いた。
 イクの言いつけを良く守り、近所の井戸端会議も参加せず、掃除も言われるまま障子の桟まで綺麗に拭き取っていたので、家の中は、小さすぎる家は、嫁が勤めに出る前にはすっかり清潔に保たれていた。
「かあちゃんは、良く、嫁にそんなに厳しく掃除をさせるなあ。」矢助は、嫁が勤めに出けた後、イクに言った。
「ふん。」イクは、言った。「嫁の躾は、最初が肝心ながや。」
「自分が、少しでも掃除をやっていたなら、わしだって、何にもいわんがや。だけど、掃除らしい事、今までやった事がないくせに、わしに押し付けて、よく言うわ。」矢助は、嫌みを言った。それほど、矢助もイクも暇を持て余していたのであった。
「でも、私のお陰で、家の中が清潔で気持ち良いのだから、文句は言わんれんな。」イクは、矢助を一喝して、読書に励んだ。
 二人は、暇で、矢助は散歩に、イクは好きな読書をして一日を過ごしていた。小さな家には、嫁の居場所が無かったので、嫁も仕事に精を出した。
「わしは、こんな生活がしたかった。」日曜日など、嫁と二人になると、矢助はつくづく述懐するのであった。「こんな楽隠居がしたかったんじゃ。」
「そうですか…」嫁は絶句した。男が仕事をしたくない、楽隠居をしたいという考えを持つと言う事が考えられなかったからだ。
「わしは、今まで、少しも楽しくなかったから、これから楽しませてもらいますよ。」矢助は、生き生きとした顔で言った。
「さてと、今日は、何処に出かけようかな。」矢助は、嫁に、その日の行き先を告げて、朝早くから車を出させた。
 イクと矢助は、生活費は出さず、太郎と嫁の給料で贅沢三昧の毎日であった。特に、肉食が好きであったイクは、大きなハンバーグやスキヤキ料理を要求し、嫁はその希望に応えて、上手に家計のやりくりをしながら、イクや矢助の好みの食材を求めて、食事を作っていた。
 矢助は、美味しい料理と自分の好きな酒で毎日が極楽であった。イクの目を盗んでは、朝からでも酒を飲んでいた。好きな酒の量が、少しずつ増えてきている事にも気にならなかった。息子が小遣いをくれる。その小遣いは、全て酒に変わった。酒の美味しさが、人生を豊かにしてくれていた。矢助は、初めて人生の幸せを感じたと思っていた。

 仕事が不規則な息子は、親には小遣いをくれるが、相手をしてくれない。しかし、公務員である嫁はきちんと日曜は休みである為、イクと矢助を色んな所へ車で連れて行ってくれた。嫁は、その時代では珍しく、車の免許を持っていたからだ。中古のパブリカを買って、イクの友人の所やかっての仕事場に連れて行ってくれた。矢助も、勤めていた昔の学校や、その同僚の家に送って貰って、旧交を温めるのに役立っていた。時には、車で観光見物にも二人は楽しんだ。
 イクや矢助は、これが、当然の生活のように、息子夫婦には、自分達の要求を求めていた。その結果、少しずつ、息子夫婦の負担になっている事には、気づいていなかった。嫁の体の不調が、精神的なものからきている事には、専門家のイクですら気づかなかった。

 ある夏の夕暮れであった為、まだ空は明るい時間であった。仕事を終え、買い物を済ませた嫁は、家には足が向かなかった。何処をどのように彷徨っていたのか、後で考えても思い出せなかったが、夕食の食材を抱えて街中を歩き回っていた。目は虚ろで、足だけは忙しなく心急くように動いていた。頭の中は、空っぽで、何も考えられなかった。体が、家に向かなかったのであった。
「あら、高井さん、どうしたの。」偶然、仕事の同僚が通りかかって、嫁に声を掛けた。
「え…」言葉が出なかったが、嫁は気が付いて、目が覚めた様であった。
「なんだか、変だよ。本当に、どうしたがや?」心配そうに、顔を覗き込んだ。
「な〜ん。大丈夫…。」嫁はやっと返事をすると、恥ずかしそうに頭を下げて、同僚の前を通り過ぎていった。
「気ぃ、つけて帰られや。」同僚が優しい声で、嫁の背中に向かって言った。嫁は、暫く経って涙が流れた。
 こんな優しい声を聞くのは、久しぶりであった。私は、こんな優しい声に飢えていたのか…と、嫁は、思った。結婚してから、1年にもなるが、夫からも、勿論、夫の両親からも、このような優しい言葉や感謝の思いを告げられた事はなかった事に気が付いた。好きで一緒になったと言うよりも、一方的な話の展開で、気が付いたら一緒に生活が始まっていた。そんな慌しい結婚生活であった。まだ自分は結婚よりもやりたい事があったはずであったが、世の中は、そんな若い女の我侭を許すには、まだまだ封建的であった。また、それ以上に、性格の従順な嫁には、イクのような自己確立を持っていなかった。全てを受け入れて、何とか、皆に認めてもらうように、精一杯自分の持っている以上の努力をする嫁であったからだ。
 気が付いて、家に辿り着いたのは、9時に近かった。いつもは、7時には夕食が出来ているのに、この日は、食事がいつもより、かなり遅かったので、イクや矢助は機嫌が悪かった。
「仕事と家庭とどちらが大事なんだ。」イクは、嫁をなじった。
「すみません。すぐに食事の支度をします。」小さな声で、嫁は謝り、手早く食事の支度にかかった。 「風呂も沸いとらん、早く沸かせよ。」矢助は、大きな声で、命令した。
「すぐに沸かします。」朝、出かける時、水を風呂桶に張っておいたので、食事の支度をしながら、風呂を沸かした。薪を燃やしながら、涙が出た。何をやっているのか、自分の生活は…、自分の将来は…、考えると情けなかった。夫の太郎は、まだ、帰っていない。今夜も遅いだろう。
 遅い夕食を終えると、イクも矢助も風呂に入って、就寝した。嫁は、遅い夫の帰りを待った。風呂は、夫が入ってから出ないとは入れない。これもイクの命令であったので、どんなに夫が遅くても、風呂は入る事が出来なかった。


 暑い夏の夜は、蚊帳を吊って布団に横になっても、イクは眠れなかった。遅く帰った、今日の嫁の態度は、許せないと考えた。心は嫁への怒りがまだ残っていたため、寝付かれ無かった。夏の暑い空気が漂っている中、戸を開け放っている縁側に出た。空を見上げて、月の明るさを見つめていた。近頃は、良く空を見る様になっている事にイクは気が付かなかった。夜の空は、昼と違ってイクの心を清めてくれるようであった。
 イクの顔は、月の光を受けて、青白かったが、嫁に対する心はもっと青白かった。何のため、帰りが遅かったかを嫁は言わなかったのが気に入らなかった。もっとキチンと躾けなければならないと考えていた。嫁の表情から何も読めなかったのも、イクの心を苛々させていた。何が不服なんだろう。何か、気に入らない事でもあるのだろうか。月の光は、イクの心をいつまでもきつく締め付けているようであった。
 真夜中過ぎに、太郎が帰ってきたのをイクは、気が付かなかった。
 翌朝、仕事に出る嫁に、今日は、話があるから早く帰るようにと、イクは命令した。一瞬、嫁の顔が硬ばったようであったが、イクは気が付かなかった。

「高井家の家風は、…。」から始まったイクの話は長かった。「嫁は、こうあるべきだ…。」「洗濯の仕方は、家族の衣類と嫁の衣類は、一緒に洗ってはならないし、干す竿も同じものを使わず、嫁専用の竿を使い、家族の乾し竿は、太陽に当てて乾し、嫁の洗濯物は太陽に当てては駄目で、日陰に干しなさい…」「嫁は洗い物を水で洗う、お湯を使ってはいけない…」一言の言葉も挟まず、黙って嫁は聞いていた。少しでも、口を挟んだり、言葉を発すると、その後の話が、際限なく広がり、ますますイクの心を苛立たせる事をこの一年の内で、理解していたからだ。
「かあちゃん、もうその辺で止めとかれ…。」イクの話が、あまり長いので、矢助は、食事の準備が始まらない事に気が付いて、イクに注意をした。
「何、言うとるが。大事な話をしとるがや。あんたは、黙っとられ。」怒鳴り返しながら、イクもお腹が空いている事に気が付いた。「今日は、ここまでにしとるから、明日、又、話さんまいけ。」
 黙って、嫁は立ち上がりながら、食事の支度にかかった。嫁は、今日も夫の太郎の帰りが遅い事を呪った。私がこんな目にあっている事等、夢にも思っていないだろう。少しでも、この状況を分かって欲しいと、思ったが、そこはそこ、イクは、利口だから、息子の太郎が居る時には、決してそんな素振りは見せない事を、嫁は十分すぎるくらい知っていた。しかし、突然、こんな状況の時に戻ってきて欲しいと願っていた。一度位、夫の太郎に姑の愚痴を話そうと考えたが、止めにした。夫の太郎が、もし少しでも自分に対して心を掛ける事があったら、こんな事は、随分前に分かっている事だと知っていたからだ。話すだけ無理であったし、言った所で、改善される気配は無く、それ以上に悪化する可能性が高い事を理解できたし、恐れていた。

 翌朝、同じ毎日が始まった。嫁は、毎日同じ事が続くと覚悟しながら、仕事に出た。

 夕方、いつもより早く仕事を切り上げさせて貰って、家に着いた嫁がイクの前に殊勝に座っていた。イクは、高井家の家訓について長々と述べた。家訓といってもイクは、直接、矢助に聞いたことも無かったし、又、矢助の実家で聞いた話でもなかった。ただイクの考え方を高井家の家訓と言う事にして話しているだけであったので、良く聞いていると、話が、多少矛盾している事もあった。イクは、そんな事は気にしないで、心のままに、思いつくままに、嫁に真面目に話した。
 イクは、自分がして貰いたい希望を嫁に話している事に気がつかなかった。横で聞いていた矢助は、イクの話に苦笑いをしながらも、決して口を出さなかった。とにかくイクの好きなように話をさせておこうと考えていたからだった。イクがやって欲しいと考えていた事は、実は自分もやってもらいたいと考えている事が多かったからだ。
「子供は、親のために頑張るのが重要なんですぞ。親が、何をして欲しがっているか、いつも考えてい無ければなりませんぞ。」イクは、これが重要な中心思想だと、嫁に何度も念を押した。
「……。」嫁は、無言で頷いていた。
「分かればよろしい。これからも、しっかり、親のために頑張ってくださいよ。」多く話したので、イクは、少々くたびれていたので、最後に、「さあ、これから晩御飯を作ってくださいよ。スキヤキは、牛肉一人500gで、高井家の嫁は、肉を食べたら駄目やから、その分を除いて1k500gの牛肉を買ってきたやろね。肉が残ったら、それを食べても良いよ。」と、イクは、自分が優しい所を嫁に示して、言った。
「有難うございます。」嫁は、そんな残りものの肉を食べたいとは思わなかったが、一応、感謝の言葉を口にして言った。
「さあさ、これで話は、終わりだよ。さっさと、風呂も沸かしてくださいよ。」イクは上機嫌で言った。


 太郎が、まだ帰ってきていなかったが、二人は、争うようにスキヤキの肉を啄ばんでいた。食事が始まる時には、矢助も酒を終えていたので、ご飯をお代わりしながら、スキヤキの肉に舌鼓を打っていた。
「お、スキヤキですか。」太郎が珍しく早めの帰宅で、二人の食卓に割り込んで箸を取った。
「やっぱり、スキヤキは、美味しいもんだ。」矢助も、牛肉を鍋に入れてから、生煮えの肉を自分の器に入れながら言った。
「お前は、食べないのか。」と、太郎が、嫁に言うと、イクが横から口を出した。
「彼女は、食事を済ませたから、良いんだよ。」嘘であったが、太郎は深く考えずに頷きながらせっせと箸を運んでいた。


 それから数日後の事である。昼食後、嫁は、隣の藤村さよに声を掛けられた。藤村さよは、50歳を超えた超ベテランで、仕事もてきぱきとこなし、明るい性格で、多くの人に好かれていた。嫁も、この藤村さよが好きで、時々、声を上げながらお喋りに夢中になる事があった。
「最近の高井さん、どうしたがや?変やぜ。元気もないし…。」嫁は、力なく笑って返事をしなかった。さよは、心得ていた。この1年間の変化は、仕事ではなく、家庭に在ると目星をした。「高井さん、あんた、舅さんや姑さんと一緒なら、色んな事をやって貰えて、良いよね。」
「……。」嫁は、その言葉には、反発したが、やはり、黙っていた。
「私もね、姑と一緒ながや。子供が生まれてから、姑が、家庭の事を全部やってくれるから、仕事に打ち込めるながや。本当に有難いと思っとるながや。」さよは、笑みを浮かべながら、嫁に続けた。「息子二人、育てたのは、私というより、姑だと思う程、感謝しとるながや。」
「……。」羨ましい話だと嫁は思ったが、言葉には出さなかった。
「だからね、今、姑が寝たきりになったから、これから私がその恩返しをする積りでおるがや。」さらりと、さよは言った。「だから、高井さんもいつかこんな事になるかもしれないから、今の内に、舅姑を大事にしといたら良いと思うとるよ。」
「……。」この話を聞いて、嫁は言葉には出せないと思った。このさよには、決して理解してもらえないだろう。言うだけ、無駄と思った。世の中には色んな考えの人が居るのだから、今の自分の生活は、少なくとも藤村さんには理解してもらえず、下手すると、説教されておしまいだろうという事は、容易に想像できた。
「ま、無理をしないで、頑張ってたはれ。」と、返事をしない嫁の様子に業を煮やしたのか、さよはそれ以上言う事を止めた。
 嫁は、憂鬱であった。さよの家の姑のように、少しでも家の事をやってくれる姑であったら、どんなにか楽だろうか。嫁は、結婚するまで、母親が食事や弁当を作ってくれていたから、親は、そういうものと思っていた所があった。その上、給料は、すべて母親に渡していた嫁であった。

 その習慣で、嫁は、結婚と共に給料を渡して、家事全般の事をイクにお願いしますと言われた時、目を剥いて驚き、非常に腹を立てた。イクは、息子の結婚によって、自分が家事全てから解放されることを楽しみにしていたので、そんな嫁の気持ちを理解できなかったのである。
「あんた、わしに家の事をやれと言うがかね。」と、イクは少し怒気を含んで嫁に言った。
「いえ、家の財布は、親が持っているものと聞いているので、私の給料をお渡ししたのですが…。」当惑気味に嫁が言った。嫁姑の争いの最初は、財布を誰が持つかにあると、藤村さよから聞いていたからだった。だから、最初に、自分の給料を全て、姑に渡しておけば、争いは無いよ、とのさよからの助言に従っただけであった。
「とんでもないこっちゃ。わしが、何で財布を持って家の遣り繰りをしなくちゃ、ならんのかねぇ。」イクが世の中の常識的な姑ではなかった事が、嫁には不幸の始まりだった。「もう、2度とわしに財布を渡したりして、家の事をやれなんて、命令しられんな。」
「すみませんでした。」嫁は、謝るだけであった。それからのイクは、何かにつけて、嫁たるものは…と、説教が始まったのであった。

 

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